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南方第七区赤衣隊隊長日誌  作者: アラック
“隻眼”の人狼
8/22

1話:今朝の騒動

 秋も半ばを過ぎ冬の足音が近づく頃。雪こそまだ降らないが、寒さは次第に手元足元へと忍び寄ってくる。寒い日の朝方、シーツからはみ出てしまった手足の感覚が薄れてしまうなんて経験は、実をいうとここ近年で初めてのもので、目覚めるたびに新鮮な気持ちになるものだった。というのも、子供の頃は毎日毎晩体を折るような苦痛が体の内側を駆け巡っていたわけで、シーツから手足が出るどころか、赤子の入るゆりかご程のスペースがあれば充分睡眠をとれるようになってしまっていたのだ。

 今ではそれほど苦しい思いをすることもほとんどなくなっていて、大の字やうつ伏せでベッドの広さを感じるように眠れる至福を毎晩のように感じている。最近ではベッドにクラリッサが潜り込んでくる事が度々あるので、彼女の熱量と重量とを朝方に追加で感じる事が多くなった。腕枕というものが腕の感覚をずいぶん長い間消失させうるものだとは、実際にそうなってみて初めてわかった事だった。

 しかし、腕枕というものは片方の腕だけが感覚を失うもののはずだ。ぬるい微睡みから浮上しつつある俺の感覚では、両腕がしびれて感触を失っている。これではまるで、両方の腕を枕にされているようではないか。


「……そういう事だったのか」


 薄く目を開いて左右を確認した俺は、いまいち働かない頭で状況を理解した。クラリッサがふたりいて、俺の左右の腕を枕の代わりにしていたというわけではない。クラリッサは俺の左腕を枕に静かな寝息を立てていた。少し前にハンナとリーゼロッテが俺の部屋に対クラリッサ専用トラップを設置しようと提案してきた事があったが、あれはまだ実装には至っていない。

 では俺の右腕を枕にしているのは誰だろうか。その答えは、鼻孔に霞をかけるような芳香を纏う人物だという事。獣性5度の“狂犬”フランツィスカが、俺の右腕をかき抱くように拘束して静かな寝息を立てていたのだ。


「フランツィスカ、なんだってキミまで」

「……嫌だったか? ハインツ。あと、アンジーな」


 てっきり寝ているとばかり思っていたが、フランツィスカは起きていた。ちぎれていない方の左耳を一度動かし、右目だけ薄く開けて俺に視線を合わせてくる。彼女自慢の三つ編みはほどかれておらず、それが俺の右頬をくすぐっていた。


「嫌かどうかよりも、どうして? かな」

「気に入った、じゃあだめか?」

「だめという事はないけど……」


 なんというか、困る。クラリッサの時は動物や子供の行いとして受け取る事が出来たけど、フランツィスカの場合は完全に女性としてのものだ。以前、食堂にて妻となる女性以外は抱かないと宣言していたが、その時フランツィスカはその場にいなかった。マルグリット経由でそういった話を耳にしてるとは思ったが、フランツィスカならそういった事情を無視して行動するかもしれない。しかし、気に入ったからといってすぐそういう事になるだろうか。


「まあ。ハインツが察してる通り、俺はそーゆー目的で隣に入ったわけだが。まあ安心しなよ、昨晩は先客がいたから預けといた」

「そうか。アリスに感謝、かな」

「ああ、まったく。……ところでハインツ。今あんたの右手、俺のいい感じのところにあるんだが、わかるか?」

「残念ながら、右手は二の腕から先が麻痺していて、感触どころか温度すらわからないよ」

「おっと。そいつは残念だ。ちと強く抱き過ぎたか。だが、俺の匂いはしっかり着いただろ?」


 怪しげな笑みを浮かべてそう言うフランツィスカは、シーツの中でうんと背を伸ばす。そのまま起床するのかと思いきや、もぞもぞと俺の右腕を抱きなおした。匂いが着くとは、クラリッサと同様マーキングのつもりだろうか。

 だとすれば、それはもう充分なはずだ。「ほれほれ」と小さく呟きながら感触の失せた右腕を抱いて、シーツの中でもぞもぞと動くのはやめていただきたいところだ。


「気に入った人には、誰にでもこういうことを? その、俺にするはずだった事を……」

「いや。誰でもってわけじゃないぜ。実際、俺はまだそーゆーのした事ねえし。赤衣を纏って戦えるうちは身重になるのは避けてえしな。俺の立場からすると、軍のお偉いさんが黙ってるとも思えねえ」

「じゃあ、なぜ?」


 その問いに、フランツィスカは真面目な表情を見せた。焦燥感が胸に渦巻く。


「ハインツ、あんたがいついなくなるかわからねえからだよ」


 やはり、そういう理由か。フランツィスカは完全に俺の体の事を見抜いている。それで、俺がこうしていられるうちに、という事か。


「俺は小さい頃から病気がちで、物心付いたころから薬のお世話になっていた身だよ? それでもいいのかい?」

「構わねえな。そんな事。ちゃんと朝から元気なんだから問題ないだろう?」

「下腹の方を見るのをやめようか、アンジー。……それに俺、自分の妻になる女性以外は抱かないつもりなんだけど、前にマルグリットから聞いてなかったかい?」

「ああ。聞いてはいたが、そんなの俺の知った事じゃないね。やりたいと思ったらから勝手にやるだけさ」


 なんという強引さだろう。彼女に気に入られる事がこういう状況につながるとは、さすがに考えの範疇外だ。予測できようものではない。いや、獣性の高いクラリッサの行動を鑑みるに、こうなる可能性を予測できたかもしれない。昨晩は大丈夫であったが、この様子では今夜以降が怖い。

 しかし、仮にそうなってしまったとして、その後は?


「……もしそうして、子供ができてしまったら? 女の子ならいいとして、男の子だった場合は……」


 母方が半人狼ならば、その子供もほぼ確実に半人狼として生まれてくる。これは人と人狼、そして半人狼とを取り巻く長い歴史の中で打ち出された答えだ。人狼と人、そして半人狼と人とが交配を続ければ、やがて純粋な人間は滅びてしまうだろうというのが、この世間での常識となっている。人々は常に、その未来の光景に怯えを抱いているのだ。

 それ故に軍は、半人狼と人との婚姻は認めても、その夫婦の間に子供を儲ける事を禁じている。禁じてはいるのだが、貴族階級や軍上層部に名を連ねる名家には、半人狼の女児が生を受ける事が多い。リーゼロッテやハンナもそういった子のひとりなのだろう。もし彼女たちが男として生を受けていれば、この最前線で俺と出会う事もなかったのだろう。今くらいの歳まで生き延びている確率の方がはるかに低い。

 人と半人狼とが婚姻するというのは、そういう事だ。互いにとっての不幸が約束されている事に彼女たちを巻き込むのは躊躇われる。そんな俺の考えを見透かしたかのように、フランツィスカは鼻で笑った。


「なんだよ、度胸がねえなハインツ。俺がそんな事で怖気づくとでも思ってるのか? 生まれてきたガキが男だったとしても、全力で守るに決まってるだろ」


 責めるような響きではない。むしろ誇るような表情と声色に、俺は呆気に取られてしまう。


「おい、あんたの子供でもあるんだぞ? わかってんのか、そこんとこ?」

「……なんて事ですの?」


 その声は突然聞こえてきた。俺の知っている声質と語尾、そして震え。今まで気付かなかったのだが、俺のベッドの前にはクラリッサを探しに来ていたリーゼロッテが、真っ赤になった頬に両手を添えて固まっていたのだ。隣にいたフランツィスカの匂いに当てられて完全に意識の範疇から外れていた。リーゼロッテにとっては非常に失礼なのだが、今まで部屋の内装の一部として認識していたのだ。

 以前クラリッサが潜り込んできたときは大丈夫だったが、今回は無理があるだろう。フランツィスカが挑発的な表情でリーゼロッテを見ているのも、誤解に拍車をかける。


「……ハインリヒ隊長。妻となる女性以外は抱かないと言っておられましたけれど、あれは嘘でしたの?」


 リーゼロッテが動揺しているのは目にも明らかで、俺が弁明したところで理解してくれるとは思えない。さて、どうしたものか。いや、何をおいても弁明するべきだろう。


「リーゼロッテ、落ち着いて良く聞いてくれ。俺はアンジーとは……」

「聞きたくありませんの!」


 頼むから聞いてほしい。俺に弁明させてくれ。


「信じられませんの。信じられませんの。妻となる女性以外抱かないとおっしゃっていたのに……。それが、婚前で? しかも、もう子供まで……!」

「リーゼロッテ、頼むから話を……」

「聞きたくありませんの!」


 聞いてくれ。頼むから。


「おいリゼ、ハインツをあんまり責めるな。襲いに来たのは俺の方だし、それに昨晩はアリスが居たせいでお預け食らってたんだぜ?」

「……え?」


 意外な事に、助け舟はフランツィスカが出してくれるようだ。相変わらずシーツの下でもぞもぞとしていたが、その動きを止めてリーゼロッテに視線を向ける。


「嘘じゃねえよ。第一お前、自分の妹みたいなのが隣で気持ちよく寝てるってのに、そんな事できると思ってるのか?」

「……そ、それは、……その通りですの」


 リーゼロッテは落ち着きを取り戻したのか声を小さくしてゆき、再び赤くなった頬を両手で覆った。しかし、フランツィスカがすぐに「ま、それでもしたい時は構わずにするけどな」などと言うものだから、リーゼロッテの体温が再び上昇の兆しを見せ始める。


「そ、それよりアンジー! あなたはいつまでそうしていますの!? 早くベッドから出て服を着なさいな!」

「わかったよ。朝っぱらからそう大声でわめくな」


 フランツィスカは軽く伸びをしながら身をひねって、滑るような動きで上半身をシーツから抜き出す。露わになった彼女の体に、俺はしばらく目を奪われる事となる。

 彼女の上半身は傷だらけだったのだ。といっても、最近付いたような治りかけの赤黒いかさぶたなどではなく、治りきって白く跡として残った傷跡だ。体の前面や背中、特に肩から腕にかけてが多いのは、それが人狼との戦闘で負傷したものだからだろう。切り傷よりも肉ごとえぐられたような跡が目立つのがその証拠だ。

 彼女のそばかすは鼻先だけでなく胸の上や鎖骨のあたりにも見られた。前に垂らした三つ編みで胸元は隠れているが、小柄な彼女からは考えられないような大きさと形の良さまでは隠せない。背中や腹回りは発達した筋肉が浮き出ていて、シーツからわずかに見える腰回りは上半身と対称的に丸みを帯びたものだった。


「傷だらけで引いちまったかい? ハインツ」

「いいや。きれいだと思うよ。逞しい、戦士の体だ」

「抱きたい女かどうかを聞いたつもりだったんだが……。まあ、嫌でも力ずくで組み伏せるがな」


 ほんとうに今夜以降が恐ろしい。だがもっと恐ろしいのはこの状況だ。リーゼロッテの次の反応がまったく読めない。いや、きっとこういう反応をするだろうという候補はあるものの、そのうちのどれがくるのかという部分がわからない、というのが正しい。

 しかし、俺が予想していた反応はどれひとつとして見る事が出来なかった。


「……傷だったら、わたくしにだってありますのよ?」


 呟くようにリーゼロッテは言って、自分の眼帯に手をかけた。しかしそれを外す事はなく、しばらくその場に立ち尽くしてしまう。頬からは赤みが消え失せ、険しさが浮き上がってくる。その眼帯を着ける原因となった出来事を思い出しているかのように……。

 リーゼロッテが眼帯に触れる動きを見せた時、フランツィスカが身を固くしたのがわかった。彼女は何事かを思案したのち、俺とクラリッサからシーツを奪い取り全身に纏うと、ため息交じりにリーゼロッテを睨み付けた。


「ハインツに話すか? お前自身の事を」

「……いいえ。それは」

「おはようですのー」


 リーゼロッテが口を開きかけたとき、シーツを奪われ肌寒さを感じたのか、クラリッサが目を覚ました。生まれたての赤子のように目を開けぬまますんすんと鼻を鳴らして周囲の匂いを嗅いでいる。目を開かずとも、匂いでそこに誰がいるかを把握できているらしい。


「リゼ、悲しいですのー?」


 そこにいる者がどういった感情を抱いているかまで匂いで把握してしまうのは、さすが半人狼といったところか。心中を言い当てられたリーゼロッテは平静を装った顔でベッドに近づくと、目を覚ましてまぶたをこすっていたクラリッサの手を引いて部屋を出て行こうとする。


「隊長がアンジーとそういうご関係になりたいのならば、わたくしは止めませんんし、何も言いませんの。わたくしには、そういった事を咎める資格がありませんの」


 扉が静かにしまる音を耳に、俺は全身から力が抜けていくのを感じていた。体が冷たく感じるのは、寝ている間にかいた汗で体が冷え始めているからだ。

 脱力感を得たのは隣のフランツィスカも同じだったようで、盛大なため息とともにシーツにくるまったまま再びベッドに倒れこむ。半目で天井を見つめる表情からは、何を考えているのか伺えなかった。だが、ふいに微笑みと共に俺に身を寄せてくる。


「どうする? アリスも連れてかれたし、リゼからお墨付きも頂いた。今日は隊の活動もないし、今から晩まで子作りに励むってのは?」

「キミはそういう気分なのかい? アンジー」

「出来なくはないが、気分じゃあねえな。今回はどうにも間が悪かったよ」

「そうか。それより、彼女の話とは?」

「……いい女には秘密があるってことじゃねえの? リゼに直接聞けばいいさ」


 フランツィスカは意地悪げな表情を浮かべてベッドから転がり出た。彼女が何らかの事情を知っているのは明らかだが、それを俺に話す気はないらしい。シーツを纏ったまま裸足でぺたぺたと歩いて部屋を出て行こうとする。だが、扉を開けたところで立ち止まり、言い忘れていたとばかりに俺の方を見た。


「気が向いたらまた来るぜ。心と体の準備をしておきな」


 艶やかな笑みと共にそう言い残して、フランツィスカは今度こそ部屋を出た。直後、廊下でハンナが悲鳴のような声を張り上げた音が聞こえて来て、一難去ってまた一難かと俺まで嘆息をこぼしてしまう。一方的に大声を張り上げてる主は、もうしばらくして俺の部屋に入ってくるだろう。

 それよりも俺は、リーゼロッテの事が気になっていた。彼女の眼帯と傷の事、クラリッサが「悲しい」と感じ取ったものの正体はなんなのか。知るべき事、やるべき事がまたひとつ、重ねられた気がした。




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