7話:しゅーるすとれみんぐ
「のおおおおおおおおおおおおー!?」
正午になろうかという時間帯。可愛らしい悲鳴が聞こえてきて、俺は浅い眠りから目覚めた。自室の机の上で居眠りの最中だったわけで、ありがたいと言えば非常にありがたい。今の悲鳴が無ければ俺はあのまま眠り続け、抜き打ちで俺の作業を見回りに来るハンナに怒られるところだった。お説教されていたかもしれない。
さて、それよりも今は悲鳴の主だ。声からクラリッサだというのはわかるのだが、彼女があんな風に悲鳴を上げるような事があるものかと疑問が生ずる。以前、入浴を固く拒否するクラリッサが、リーゼロッテから逃げ回っていた事を思い出す。その時はなぜかフランツィスカが加担して逃げ切ってしまったのだが、今回もそういった類の騒動なのだろうか。
たいして仕事は進んでいないものの、休憩だと自分を甘やかして席を立つ。ひとつ伸びをして部屋を出ると、俺と同じく悲鳴を聞き付けたのだろう、ハンナと鉢合わせるところだった。その顔は急ぎ焦っているというよりは、また面倒な事が起こったなという呆れの混じったものだった。
「ハンナ、今の悲鳴は? アリスのものだと思うのだけど」
「はい、隊長。それを今から確認しに行くところです。後ほど顛末をご報告致しますので、隊長は安心して業務に戻られて……」
「いいや、俺も行くよ。食堂の方かな?」
事務仕事に押し戻されそうになるので、ハンナの言葉を遮って無理やり先に進む。俺の後ろを同じ速度で付いてくるハンナの白い目が背中に突き刺さるのを感じた。俺の魂胆を完全に見抜いている視線だ。ちくちくと背中が痛む。
「……事の確認が終わり次第、自分も隊長とご一緒に作業させて頂きますので、そのおつもりで」
しまった。これでは部屋に籠って作業を続けていた方が良かったかもしれない。しかし、事の顛末も気になる。自分の目で確かめたくもあるのだ。
ハンナを連れ立って階段を下りると、向こうから走ってきた小柄な陰が俺の下腹部に衝突してきた。クラリッサだ。衝突した反動で体がくの字に折れ曲がるが、後ろのハンナに支えられて何とか耐える。体の芯を揺さぶる強力な衝撃に意識まで遠退きそうになったものの、ハンナの「隊長! 隊長、しっかりして下さい!」と叫ぶ声に、何とか意識をつなぎとめた。
「あ、アリス? 大丈夫かい? いったい何があったんだい?」
下腹部の痛みに声が上ずるが、何とかそう問いかける事は出来た。しかし、クラリッサは俺の問いに言葉で答える事は出来なかった。俺を下から見上げてくる顔は涙ぐんでいる。口元はあわあわと歪み、とても言葉を離せる様子ではない。
しばらく俺を見上げながら、ぴょんぴょんと跳ねて何かを伝えようとしていたクラリッサだが、やがて離れて、走り去って行ってしまった。その後ろ姿を見守る俺とハンナは、クラリッサの姿が消えると顔を見合わせた。
「どう思う? ハンナ」
「あれは、以前のように風呂から逃げているものではありませんね。今のようなクラリッサは、以前一度だけ見た事があります。大よその検討は付きました。行きましょう隊長」
クラリッサの悲鳴とあの様子に思い当たる事があったのか、ハンナは俺の前に出てどんどん先に進んで行ってしまう。慌てて彼女の背中を追いかけた俺は、やはりというか、食堂に辿り着いた。
中にいたのは昼食の用意をしていたアグネスさんと、その手伝いをしていたマルグリット、そしてリーゼロッテだった。みな一様にどうしたものか、そう困った表情を浮かべていた。
「あらあ、ハインツぼっちゃんにハンナ。今アリスがそっちに走って行きませんでしたかい?」
困ったような顔のアグネスさんに聞かれ、たった今起こった出来事を伝える。すると、彼女の困った表情は苦笑いに変わった。
「隊長、原因はこれです」
マルグリットやリーゼロッテと合流していたハンナが、クラリッサをあそこまで怯えさせていた元凶を俺に向けて掲げてみせる。それは缶詰だった。しかし、決してただの缶詰ではない。形状は内側からものすごい力がかかったかのように変形して、円柱状というよりは球体に近いものになってしまっていた。この形状と、そしてラベルを見て、俺は缶詰の正体に合点がいった。同時に、クラリッサが何故あれほど怯えていたのかも。
「それは、シュールストレミングだね?」
シュールストレミングは塩漬けにしたニシンの缶詰だ。密閉した缶の中で発酵したニシンは、缶を開けた瞬間ものすごい臭いを発する事で有名だ。検証例こそ挙げられてはいないが、一説には人狼に対しても有効な兵器となるらしい。何でも、人狼の嗅覚を長時間に渡って完全に麻痺させてしまうというのだ。たいへん眉唾な話ではあるが、クラリッサの一連の行動を見る限りでは、一笑に伏す事は出来ない。
「しかし、何でこんなものが? 軍の配給の中に含まれているようなものではないだろうに」
昨今シュールストレミングなど、美食家の貴族くらいしか手を出そうとはしない代物だ。どう考えても自然に配給に紛れ込むとは考えにくい。見たところ件の缶詰はひとつだけのようだが、何かの拍子に破裂しないとも限らない危険な状態だ。それを他の缶詰と一緒くたにするなど、正気の沙汰とは思えない。
「それはですね、ハインリヒ隊長。単なる嫌がらせですのよ」
何となく考えていた可能性をリーゼロッテが肯定してくれた。どうやら、このシュールストレミングは意図的に、しかも悪意を持って配給に混入されていたものらしい。リーゼロッテはため息とともに説明してくれる。
「……まったく手の込んだ悪戯ですの。こんな値の張るゲテ物、わざわざ配給に入れてくるのですから」
「いつも、こんなものを?」
「たまにですのよ、ハインリヒ隊長。わたくしが七区に着任してからは、二度しかございませんの。……そうですのね。マルグリットはどうですの? 七区は一番長いですのよね?」
話を振られたマルグリットはしかし、しばらくの間固まっていた。まるで彼女だけ時間が止まってしまったかのような停滞だ。食堂に集った皆が心配そうに見守る中、しばらくして何事もなかったかのように動き出した。これはマルグリット当人も、自分がしばらくの間微動だにしていなかったなどと思わないだろう。
「ええ。私も七区に来てだいぶ経ちますが、せいぜい半年に一度、といった頻度でしょうか?」
何とも、非常に定期的な嫌がらせだった。という事は、これまでも定期的にシュールストレミングは七区に送られ続け、クラリッサのように被害にあった者たちもいるのだろう。今のマルグリットの様子を見るに、彼女もその被害者と見て間違えない。
何とも言えない空気に包まれた食堂に、赤衣をフードまですっぽりと被ったフランツィスカが入ってきた。彼女がこの格好の時は、下は概ね裸か下着だけだ。その格好を問題視するハンナやリーゼロッテによくお説教されているからか、食堂にふたりの姿を見つけたフランツィスカが「げ」と小さく呟き、動きを止めた。またお説教が始まると思ったのだろう。
「あん? どうしたよ、みんなして変な顔して……」
皆のいつもと違いう反応に怪訝な表情を浮かべたフランツィスカは、ハンナの手にした缶詰を見た瞬間、今度はその表情を凍り付かせた。
「わ、わかった……」
フランツィスカは、なぜか右手を俺たちの方へ向け、そう言い放った。向けられた右手の意はおそらく「待て」だ。待て、早まるな、と言いたいのだろう。
「わかった。服を着てくる。なんなら風呂にだって入ってくる。だから、それだけはやめろ? 開けるなよ? 別に開けてもいいが、せめて俺のいないところで美味しくやってくれ……!」
一言ずつに、かざした右手に力を籠め直しながら告げるフランツィスカの顔は、急速に流れ出した汗でぐっしょりと濡れていた。そうして一歩、また一歩と後ずさりしたフランツィスカは、食堂を出た瞬間全力でどこかへ走り去ってしまった。遠ざかる足音に混じって壁にぶつかる音も聞こえてきたので、余程動揺していたのだろう。
「……アンジーがここまで動揺するとはね。正直驚いたよ」
「それもそうですのよ、ハインリヒ隊長。あの狂犬、以前シュールストレミングの缶をあろうことかトマホークで思い切りかち割って大惨事引き起こしていますの。アリスはその時巻き込まれて以来、缶詰を見るのも嫌になってしまって……」
「そんな事があったのか。……いや、ちょっと待ってくれ。俺が七区に来た時に持ってきたチョコレートの缶詰は? あれも缶詰には変わりないだろう?」
俺の問いに対する答えはハンナが引き継いだ。彼女は膨張した缶詰をそっと……、慎重にテーブルに置いて、一安心とばかりにため息を吐き出したところだった。
「あの時は、隊長がここへ来る道中食べていたチョコレートの匂いと缶詰とを結びつけたので、缶詰も危険なものばかりではないと認識したのでしょう。実を言うと、あの一件がなければ、アリスは今でも缶詰全般が己の鼻を害する危険なものであると認識していたかもしれません」
意外なところで彼女のトラウマを緩和していたらしい。おそらくこれは、俺が七区で上げた最大の功績に違いない。
「それで、これの処遇だけど。いつもどうしているんだい?」
俺がそう問いかけると、食堂に集った赤衣の少女たちは一斉にアグネスさんの方を向いた。缶詰の処遇はアグネスさんに一任されているという事だろうか。少女たちの視線を受けるアグネスさんは、腕組みして顔を曇らせている。
「いえねえ? あたしとしちゃあ、このまま食べても全然美味しくって問題ないんですけどねえ? どうにかこうにか、娘っ子らが食べられるようにしてやりたいと思うんですよう」
なるほど、そういう事情だったのか。しかし、少女たちの表情は硬いままだ。アグネスさんといえど、娘たちにこの珍味を食べさせる事には難儀しているようだ。
「味はいいのかもしれませんけれど、まず匂いが……」
「口に入れた以上吐くわけにはいかない故、自分は最初から食べないようにしています」
「わたくしは平気ですのよ? でも、これ食べると、しばらくアリスが寄って来なくなりますの……」
各々シュールストレミングを避ける言い訳を開始して、顔があさっての方向を向きはじめる。
「そもそも、無理して食べずに送り返してしまえば良かったのではないかな?」
素朴な疑問を挟むも、少女たちの表情は芳しくない。ううんと唸りを上げたのはマルグリットだ。普段の彼女からすると、こんな歯切れの悪い様子は珍しく感じる。
「私たちも、送り返してしまおうとしていた事があったのです。けれど、こんな危険なもの、輸送の途中で破裂してしまわないとも限りませんし……。もしそうなって、向こうの機嫌を損ねてしまっては元も子もありません。配給が途絶えてしまうかも」
頬に手を当てて困ったように言うマルグリット。七区での生活が長い彼女の事だ、この缶詰にまつわる様々な葛藤があったのだろう。そこで、アグネスさんが一計を案じる事にしたというわけだ。
「さあて、それじゃあ取り掛かるかねえ。今回はねえ、勝算があるんだよう?」
アグネスさんは意気揚々と服の袖をまくって見せる。自信ありげな彼女の様子に、しかし赤衣の少女たちの表情は心配に染まっている。リーゼロッテがひそかに耳打ちする事によれば、
「……今まで、三回試してみて、三回とも失敗してますの。それでも、だんだんわたくしたちが食べられそうなものにはなってきているのですが、アリスは毎回逃げてますの」
そういう事らしい。アグネスさんの四度目の試みがうまくいくのかどうか、まだ少女たちも確信が持てずにいるのだろう。だが、積極的に止めようするものはいない。七区の胃袋を握っている彼女に逆らおうという猛者など、赤衣隊や伐採班には存在しないのだ。またそれとは別に、彼女に対する期待の方が若干勝っているという事でもあるのだろう。
「まあ、娘っこらがダメなときは、伐採班やあたしが責任を持って食べるので心配ご無用ですよう。ハインツ坊ちゃんなら、何の問題もなく食べられるはずですからあ」
「……それでも、最初の試みでは班長が倒れましたの」
意気揚々と言うアグネスさんに、リーゼロッテがぼそりと小さく呟く。ジト目で睨むアグネスさんから顔を逸らすリーゼロッテの顔は、耳を伏せ汗まみれだ。いつもならこんな失言しないはずの彼女が、なぜか今日は一言多い。他の半人狼の少女とは違い、食べる事に問題はないと言っていただけに、この失言の意味がよくわからない。
気になってリーゼロッテの事を注視していると、俺の視線に気付いた彼女は頬に手を当てて背中を向けてしまった。それだというのに、赤衣の上からでもよくわかる程尻尾が振られているのは、なぜだろう。
「しかし、問題がひとつ」
よく通る声でそう告げたのはハンナだ。
「調理するには、当然この缶詰を開封しなければなりません。しかし、これを開封するには、失うものがあまりにも大きすぎます」
それはと問うと、ハンナは神妙な顔つきになってこう答えた。
「アリスが寄ってこなくなります」
それは先ほどリーゼロッテも言っていた。確かにクラリッサに嫌われてしまうのはひどく悲しい事だが、一時的なものであるはずだ。それにも関わらずハンナがこう言うからには、なにか事情があるのだろう。
「まず、自分たち半人狼が開封するのは完全に下策です。匂いの移った者が近くにいるだけで、アンジーやアリスの嗅覚を狂わせてしまうのです。嗅覚情報に重きを置いているふたりがこうなっては、編隊行動に支障が出てしまいます。護衛対象の伐採班が開けたとしても同様。近くにいるだけで嗅覚を狂わせてしまいますから。……まあ、人狼が本当に寄ってこなくなるのか、たいへん興味深いところではありますが」
事態は想像していた以上に深刻だったようだ。そうなると、これまではアグネスさん自身がこれを開封していたという事だろう。アグネスさんの方を改めて見やると、悲しそうな笑みを浮かべていた。仕方ないと、諦めてしまった笑みだ。
アグネスさんの得意分野であるはずの料理で、三度もクラリッサに逃げられているのだ。無謀な試みであるとは言え、その事実は辛かったに違いない。しかも、その度に「クラリッサが寄り付かなくなる」という追い打ちをかけられるのだ。アグネスさんは決してクラリッサを甘やかしてばかりではなかったが、それを差し引いても孫娘のように溺愛しているのだ。そのクラリッサに避けられるという事は、どれほどの失意を招いた事だろう。
せっかく勝算があるというのだから、今回は是非ともクラリッサと食卓を共にしてもらいたい。そのためには、これを開封する役目がアグネスさんであってはならない。それに、この缶詰を開封する役割ならば、この南方第七区において最も適役といえる人物が他にいるではないか。俺だ。
「俺が開けよう」
食堂中の視線が俺に集まる。表情はみな驚きのものだ。
「隊長、ご自身の決断がどういう事か、お判りですか?」
ハンナがややきつめな口調で問うてくるが、こちらを心配してそう言ってくれているのだとわかる。
「わかっているよ、ハンナ。これは俺の、隊長の役目だ」
途端にハンナが白々しい目付きになったので咳払いして誤魔化す。
「俺は事務仕事が残っているし、現場に出ると返って邪魔になってしまうかもしれないからね」
「いえ、隊長。隊長はご自身の戦術的価値を過小評価しています。隊長が現場に出ると、アリスやリゼが喜びます。赤衣隊全体の士気が上がるのですよ」
なんと。俺にそんな効果があったとは。何気なくリーゼロッテを見やると、食堂から急いで逃げ出そうとしていたところをマルグリットに捕まり羽交い絞めにされていた。何をやっているんだ、キミたちは。
「おや、という事は、ハンナも喜んでくれるのかな?」
こちらも何気なく言ったのだが、どうやら失言だったらしい。ハンナが、ものすごい目付きで俺をにらんで来るのだ。
「自分が? 喜ぶ? ええ、もちろんですとも。隊長御身がわざわざ現場監督をなさる事で、隊員との意思疎通を行い、士気を保っているのですからね……!」
こうして俺が現場へ出る事への利点を上げてゆき、しかし表情と言葉とは怒っているような風なのだ。しかも顔が真っ赤で、赤衣の下の尻尾がものすごい勢いで振られている。これは、かなりの興奮状態である事が察せられる。おそらくだが、ハンナは俺とのやり取りで昔の上官の態度を思い出して、その時の怒りが蘇ってきているのだろう。これは悪い事を言ってしまった。
「隊長さん、絶対わかってないのでしょうねえ……」
「ハインリヒ隊長、絶対わかってませんの……」
ぼそりと、マルグリットとリーゼロッテとがそう呟くものだから、俺はふたりの方を見て「どういう事だい?」と顔で問うが、ふたりとも首を横に振って見せただけだった。
さて、それではと、各々が俺に防護服と称して薄汚れた貫頭衣と頭巾、皮の手袋などを手渡してくる。この缶詰を開封するには、これだけの防護が必要になるという事だろうか。
「それでは、隊長。ご武運を!」
ハンナが姿勢を正して敬礼を決めると、マルグリットやリーゼロッテ、アグネスさんまで神妙な、あるいは微妙な顔でそれに倣った。
俺は同じように敬礼して、食堂を後にした。缶詰を開けるために……。
◇
「んふー。おいひいえふもー」
口の中を幸福な味で満たしたクラリッサの笑顔が眩しい。それを見守る皆もまた笑顔だ。アグネスさんなんて、かすかに涙ぐんでいる程だ。彼女の試みは成功したのだ。
夜の食卓に並べられたのは、あの缶詰を使ったピザだ。多種類のチーズや、香草や香辛料の香りがニシンのくさみを和らげ、半人狼の鼻にも優しい香りになっているらしい。クラリッサは香辛料が、またフランツィスカは香草が体質的に駄目だと言っていたが、問題なく食べられているところを見る限り、どちらも許容量なのだろう。
クラリッサがチーズが大好物であるというのも強みだったのだろう。ハンナたちがクラリッサを呼びに行った時、彼女はなぜか俺の部屋で自分の尻尾を抱えて震えていたという。この世の終わりのような表情で、誰が近付いても首を横に振っていたとは、この笑顔を見てしまうと信じがたい話だ。
「上手くいって良かったよ。本当に……」
俺の呟きに、リーゼロッテが耳を跳ね上げて反応を示したが、すぐに申し訳なさそうに顔を背けてしまった。無理もない。シュールストレミングを開封した俺は、今現在ものすごく匂っているはずなのだから。こうして、食堂の様子を庭のテーブルから眺める事しかできないのが、非常に歯がゆく、悔しくはある。麻痺してしまった鼻のせいで、せっかくのピザの香りがよくわからないのも悲しい限りだ。
この体に染みついた匂いが取れるまでは、一切他の隊員と接触を禁じるとハンナに告げられている。現場に出る赤衣隊や伐採班、黒斧団の面々はもちろん、調理係のアグネスさんとも。
「いやっはっは! 災難でしたなあ、ハインツ坊ちゃん! あっしら黒斧団の誰かに任せてくれりゃあいいものを、自ら進んで損な役回りですなあ!」
こうして酒を持ち込んで付き合ってくれているヘルムートさんが心の救いだ。ヘルムートさんは先日腰を痛めてしまい、しばらくの間は宿舎で療養中となっていた。今日の顛末を聞いて、ならばちょうどいいとばかりに、気を使って会いに来てくれたのだ。
「やあ、しっかし。こんなうまいもん、鼻が馬鹿になっちまってたら勿体ないですぜ? 今度缶詰開けるときにゃあ、うちのもんの誰かにやらせるんで声かけて下せえよ?」
「そんな事したら、その人がせっかくの料理をおいしく食べられなくなってしまいますよ。これも立派な隊長の役目です」
ヘルムートさんは豪快に笑って、「隊長に!」とグラスを掲げてくれる。俺もグラスを合わせて、その晩は遅くまで飲み明かす事になった。
クラリッサが塩漬けニシンを食べられるようになったのは、俺が七区に来た功績にちゃんと数えられるはずだ。もっとも、この後数日の間、彼女にこれ見よがしに避けられるようになったのは、わかってはいても心が折れんばかりの苦痛だったけれど……。