5話:伐採班と黒斧団
人類が黒森と人狼というふたつの天敵に対抗する長い歴史の中で、軍隊はいくつかの専門部隊を結成するに至っていた。そのひとつが伐採部隊。伐採班とも呼ばれるもので、主に黒い樹の伐採を行い黒森の侵攻を抑制、減退させる事を主な任務としている。現状もっとも数の多い兵科だ。
黒い樹はその強靭さから、素人が斧を取ると怪我をする可能性が非常に高い。よって一兵卒の必修技能として伐採技術の習得が欠かせないものとなっている。入隊したての新兵がまず行う訓練は、黒い樹の加工。後々の携行品となるトマホークを使っての材木加工がその基礎となるのだ。
最初の加工訓練は自分たちが相手にする敵に触れる機会を作る事が第一目標だが、ここで手先の器用さを認められたものは、対人狼の罠作成等の工作兵としての訓練を優先的に受ける事になる。通常の加工訓練を突破したものは段階を経て伐採術を習得するに至り、この技術の習得を持って初めて一人前と認められるのだ。もちろん座学も必要不可欠だが、実際の現場で作業してみない事には、その知識も活かせはしないだろう。
そうして任務中の伐採班を護衛する要員として結成されたのが護衛部隊、通称護衛班だ。伐採班も一通りの戦闘訓練は受けてはいるが、それだけに体力を裂いてしまうと人狼の襲撃に備える事が難しくなる。脅威的な身体能力を持つ人狼に対抗するには例え一兵卒が十人束になっても適うものではなく、それが伐採のために体力を消耗した兵士となれば、ただの餌だと言われても仕方がない。
だが伐採班とは違い、護衛班の編成は難航した。身体能力において人間をはるかに凌駕する人狼に対し、人類は銃火器の使用を持って対抗しようとしたが、彼らの強靭な肉体に深刻な損傷を与えることは適わなかった。現状もっとも有効な方法は「戦わない」事であるのだが、それでは黒森の伐採は立ち行かない。武装面においては先述した通り銀の弾丸が最も有効だが、銀鉱石の採掘地帯は本国には存在せず、他国からの輸入によって賄うほかない。その他国においても、採掘地帯のほとんどを黒森に封鎖されてしまっているため、銀の弾丸は貴重な武器となっている。
もしくは罠を仕掛け、人狼を陽光の元へ引きずり出すことができれば、それが一番有効な方法なのかもしれない。しかし、黒森を監視している斥候が罠の設置を許さず、もし黒森から引きずり出せたとしても、犠牲者は少なからず出てしまうだろう。人間の完全勝利どころか痛み分け、むしろ部の悪い戦いなのだ。
そこで登用される事になったのが、人狼と人との混血である半人狼の兵士である。半人狼のほとんどは人の身に人狼が備える器官である耳や尻尾を、そして人狼の習性である「獣性」が付随する形となる。獣性は1から5の段階で区別され、その数値が高いほど人狼に匹敵する身体能力を備える事になる。
だが、獣性の高さは理性の崩壊、狂乱を誘発する危険性が高い。獣性5度を超えた半人狼は拘束され独房へ継がれるか、軍隊の権限で処刑されるのがこの世界の常識となっている。稀に特例として、獣性5度の判定を下されながら編隊行動を許可されている個体もいるが、その詳細は謎に包まれている。
また、半人狼に男性は存在しない。というのも、男性の半人狼種は生まれつき高い獣性を秘めており、生まれてすぐに殺処分されるか、もし生き延びたとしても成人を迎える前に狂乱して身も心も人狼に成り果ててしまうからだ。
こうなってしまってはもはや人に戻る見込みはなく、軍に討たれるか黒森で人狼として生きて行くかのどちらかを選ぶしかない。もっとも、肉体が人狼化した時点で人としての理性や感情は完全に消え失せてしまうので、選択の余地などないのかもしれない。
よって、半人狼部隊、通称「赤衣隊」は年若き半人狼の女性のみで構成されている。中には兵士登用年齢に満たない少女までもが駆り出されているが、半人狼に対する偏見の歴史は人が黒森や人狼と戦ってきた歴史と同じくらい長いもので、彼女たちの兵士登用に異議を唱える声は少ない。あったとしても、軍に異端のレッテルを張られて粛清されてしまうだろう。
彼女たちの任務は主に伐採班に同行して、人狼の脅威から彼らを護衛するというもの。護衛といってもその方法はさまざまであり、言葉の通り伐採班の任務中に人狼の襲撃に備えて巡回するものから、緊急時に自らを囮として人狼の気を引き付け、その間に伐採班を退避させるもの。なかには隊全員で黒森に進行して、斥候をはじめとする一家を根こそぎ倒してしまうようなものも見られる。
赤衣隊の編成は人数によるものではなく、隊員の獣性の合計値で編成を管理されている。ひとつの班において、隊員の獣性の合計は15度まで。獣性検査によってこれを超過した場合、人員の削減や活動の見直し等の再審査が科せられる事となる。
彼女たちの任務は戦場においてもっとも命を落とす危険の高いものだ。人狼に匹敵するほどの身体能力を持っていれば生存の目はあるが、獣性1度程度の赤衣兵単騎で囮などさせられれば、万が一にも命はない。もしもその状況で命をつなぐことがあるとすれば、それは人狼に敵ではなく家族として迎え入れられた時だろう……。
◇
秋も中ほどとなれば暑さはすっかり遠のき、過ごしやすい日々が続いていた。風は涼しさから冷たさへと変わりゆく途中で、道沿いを歩いていると頬を撫でる風が昨日より少し冷たい気さえしてくる。
俺が南方第七区赤衣隊の隊長として着任し、早一ケ月が経とうとしていた。あれから定期哨戒や伐採班の護衛などに同行したが、やはりみなの能力の高さに助けられる事になった。黒い樹の上を飛び回る用にして移動するフランツィスカやクラリッサの身体能力に唖然として、補給や作業計画などを素早く組み上げていくハンナやリーゼロッテの手腕に手を出せなくて。以前フランツィスカに言われた通り、ほんとうに修繕以外の仕事ができないお荷物状態となっていた。わかってはいた事だが、いざこうなってみると、やはり悔しい。
お得意の修繕以外にひとつだけきちんとこなせる仕事があるとすれば、伐採班との情報交換くらいのものだ。本来ならば俺が着任して間もなく伐採班も総員交代となるはずだったのだが、交代の部隊が遅れてしまっているため、彼らはこの最前線に足止めされている状態だった。
南方第七区は都市区から続く一本道の末端に位置している。大昔の古城と城下町をそのまま拠点として改装したものであり、部隊の宿舎と倉庫の他には空き家が多く、何ともさびしい街並みとなっているという事は、先に述べた通りだ。確かに、こんな娯楽のないところに一年もいなければならないとなれば気も病んでしまうだろう。
そのせいだろうか、残った伐採班の兵士たちは、交代部隊が到着するまで待機して休養を取るようにという都市区の命令を無視して、黒森にて伐採業務を続行したいと申し出てきたのだ。ここに残ったのは、老い若いの区別なく、責任感の強い兵士たちだったのだ。
彼らの申し出を、ハンナは受け入れるつもりがなかったという。最前線での伐採はそれ自体が危険の塊であり、伐採に出れば彼らはもちろん護衛に着く赤衣隊にも危険が伴う。それに、最前線に残った伐採班の彼らはすでに成果以上の功績を上げており、これ以上は明らかに働き過ぎだ。待機命令も出ているので、ここから先は無給での行いとなってしまうのだ。そんな中、万が一怪我でもすれば、命令違反の罰則に加えて彼らの経歴に関しても後々響いていく事になるだろう。ハンナの判断はそれらを加味してのものだ。
俺はというと、結果的には伐採班の出動を許可した。軍紀に耳がついて歩いているようなハンナならば、もしかしたらその抜け道も知っているのではないかと考えたのだ。そうして探してみると、あった。待機休養中の部隊は緊急命令の発令以外では、基本的に犯罪や軍紀違反以外ならば何をしていても構わない事になっている。だいたいの兵士ならば都市区の歓楽街で遊び呆けるところなのだろうが、この最前線では娯楽というものがまったくない。
だが遊ぶだけが選択肢ではなく、この間に副業の経営も許されている。副業の中には黒森の伐採・加工業務を生業とする職種もあり、俺は待機中の伐採班を臨時の伐採業者として雇う事にしたのだ。払える給料は軍のものと比べて遥かに劣るが、この方法ならば彼らの暇つぶしや小遣い稼ぎにはなるだろう。雇い先が軍なので、当然赤衣隊の護衛も付く。彼女たちに関しては何の事はない、今まで通りの仕事よりも若干休みが多くなっただけなのだ。
そして臨時登用の期間中は伐採班が一時的に軍紀から解放されるので、赤衣隊との交流も生まれる事となったのである。軍紀に従っていたころの伐採班は半人狼の少女たちとの接触をできるだけ避けるようにしていた。それは規律で定められているものでもあり、それでなくとも半人狼の名を聞いて好きこのんで近付いてゆくものはいなかっただろう。
だが、ここに残った伐採班は一年の間、彼女たちの事を間近で見てきた者たちだ。彼女たちが自分たちの考えているような存在ではないと理解していただろう。試しに伐採班と赤衣隊との交流の場を設けてみれば、これがもう大盛り上がりというか大成功というか。驚いた事に伐採班の総勢三十余名、みな赤衣隊のファンのような存在となっていたのだ。
◇
という事で夜。俺は今、古城の大広間に設けられたテーブルの隅に座り、リンゴのワインを片手に交流会の光景を眺めていた。最初は赤衣隊のみなと一カ所に固まって座っていたのだが、ひとり、またひとりと伐採班のところに行ってしまい、そこで話が盛り上がってしまったのか、こちらの方に帰ってこない。
クラリッサは年配の方々に可愛がられているし、ハンナはその中性的な雰囲気のせいか同性に大人気。リーゼロッテとマルグリットは若い男性兵士から猛烈なアタックを受けており、マルグリットの方は飄々と受け流しているのだが、リーゼロッテの方は耳まで真っ赤にして俯いてしまっている。フランツィスカは腕自慢の男たちから崇拝されるような存在となっており、今も腕相撲で大男に敗北を与えたところだった。もちろん、赤衣隊だけでなく伐採班の食事も担当しているアグネスさんも大人気だ。なんというか、俺が入り込むような余地があまりないのが、少々寂しい。
「隊長、おひとりですか?」
そう言って俺の隣に座ったのは、伐採班の班長だ。体格のいい中年の男で、班の兵士たちから慕われているいい上官だ。真面目で、俺よりも遥かに人間ができている好人物だ。
「ええ。やっぱりみんなと過ごしてきた年月が違いますね。こういう場さえあれば、すっかり打ち解けられるのだから」
「それは隊長殿の計らいのおかげですよ。臨時登用もこの宴会も、隊長殿が段取りしてくれたおかげですよ。私らだけ、彼女たちだけなら、こんな楽しい時間は生まれなかった」
「そういって頂けると、ここに来た甲斐があります」
「私らもできれば、ずっとここで、隊長殿の元で働きたかったのですがね」
困った事に、班長がお世辞を言っている風には見えない。いくらなんでもこんな新米隊長に支持するのはおかしい、何か理由があるのだろうか。そう思っていると、班長の方から話を切り出してくれた。少し酒が入っていたという事もあるのだろう。
「ここに回されてきた伐採兵科はみんな、他の現場では爪弾きものだったんですよ。真面目だったり有能だったりして上官から煙たがられて、そういった連中の左遷先がここだった、というわけです」
「なるほど。失礼ですが、やっぱりここ左遷先だったのですね。道理で、俺のようなお荷物が飛ばされるはずです」
「ご不満でしたか?」
「いえ。むしろ気が楽です」
班長は笑って、グラスの中身をあおった。遠い目をしているのは、今までの軍生活を振り返っての事だろうか。
「ここでの一年は過酷でしたが、それに勝る程充実したものでしたよ。班のみんなも同じような境遇で気も合って……。赤衣隊の彼女たちにしたってそうです。彼女らもこれまで、辛い思いをしてきたに違いありません。私らと同じような匂いがするんですよ。もちろん、隊長殿もね」
こちらの背景も察してもらい、ほんとうに痛み入る。俺はテーブルの隅にあった酒瓶の封を開けて班長のグラスに注ぐ。彼が飲んでいたものと同じ蒸留酒なので、おそらく大丈夫だろう。
「おおっと。これは恐縮です。隊長もお飲みに?」
「あまり強い方ではないのですがね」
そこら辺に置いてあった空のグラスに自分の分を注ぎ、班長と乾杯を交わす。濃い甘さと香ばしさが深く、そして非常に度の強い酒だ。これを割らずにいける班長が羨ましくてならない。思わず咳き込む俺の背を笑ってさする班長は「お付き合いありがとうございます、隊長殿!」と言葉をかけてくれた。
この人たちとこれからも仕事ができるのならば、どんなに良かっただろう。遅れている交代部隊の到着と引き継ぎを持って、彼らは一度都市区の本体に合流し、その後はみなばらばらの班に振り分けられるのだという。もうこのメンバーで集まる事もないかもしれないのだ。
ふいに、拍手と楽器の音が聞こえてきた。喧騒が収まってゆくなか音の方を見ると、リーゼロッテがヴィオラを演奏している姿が目に入った。定期哨戒の時も彼女はヴィオラのケースを持ち歩いている。伐採班の休憩中に弾く事もあると聞くし、趣味や兵士たちへの慰労のためのものなのだろう。今の俺が着いている席からは彼女の右半身、眼帯で表情が隠れている方の姿しか見えないが、演奏している曲の調べとも相まって、どこか悲しげに見える。
演奏を聴いて感化されたのか、涙を流す兵士も出てきて、宴会の雰囲気がどこかしんみりとしたものに変わっていった。明日には交代の部隊が到着し、この生活は終わりを迎えるのかもしれない。彼らも、この生活が終わってほしくないと思ってくれているのだろうか。
俺はリーゼロッテの演奏を聴きながら、酒の入った頭で考える。どうすれば彼らを引き留める事ができるか。どうすればこの南方第七区での生活を良くしていけるのだろうか。これも隊長としての仕事のうちだろう。たとえ仕事でなくとも彼らとここにいられるのならば、何かしたい。残り少ない時間で何ができるのか、考えなければならない。
だが、そんな俺の考えは杞憂に終わる事となる。交代要員の確保が難しくなったため、伐採班には引き続き南方第七区の伐採任務に当たるよう本体より命令が下されたのだ。班長はじめ伐採班の面々は歓声を上げて喜ぶ様を、都市区からの伝令が唖然とした表情で見ていたのは非常に滑稽だった。赤衣隊の面々もどこかほっとしたような雰囲気で、その日も宴が開かれるであろう事は、この城下町に寝起きする誰もが確信していた。
そして、俺にとってうれしい知らせがもうひとつ。臨時登用のうわさをどこで聞きつけたのか、城下町には伐採業者や兵士たちを相手に商売する行商たちが少しずつ集まってきて、その中にはアグネスさん同様、俺の恩人と言える人がいたのだ。
◇
「ぼっちゃん? ああ、やっぱりハインツぼっちゃんじゃないか! 懐かしいなあ、こんなに立派に育っちまって!」
「ヘルムートさん? やっぱりヘルムートさんだ! なんて事だ、こんなに次から次へ会いたかった人に会えるなんて……!」
あくる朝、伐採班の護衛に同行していた俺は、ハンブルク城への一本道を大人数で荷車を曳きながら歩いてくる集団のひとりに、遠くから声をかけられた。体格の良い中年男性だ。浅黒い肌に白くなってしまった短髪、人の良い笑みを湛えているのは、以前俺がいた屋敷で庭師として働いていたヘルムートさんだ。
ヘルムートさんは道を外れて森の入り口まで全力疾走してきたので、俺の方も迎えるために全力で走って、そして中間地点で熱く抱擁を交わした。ちょうど休憩中だった伐採班や赤衣隊のみんなもなんだなんだと寄って来るので、俺はこの人が恩人である事を自慢する機会に恵まれた。
「臨時登用の話を聞きつけてやって来てみりゃ、なんとハインツぼっちゃんにお会いできるなんて。こんな感動的なめぐりあわせはそうありませんぜ?」
「ほんとう、俺もそう思っていたところだよ。ここにはアグネスさんもいるんだ。知っているだろう、アグネスさん」
「げえ、あの気の強い姉御ですかい? うはあ、こりゃまたどやされる事になっちまいますかねえ」
ヘルムートさんは豪快に笑っている。昔の事を思い出しているのだろう。何を隠そう、アグネスさんが父に意見した時にヘルムートさんも同行していたのだ。当時ふたりは犬猿の仲という形で屋敷の人間からは認識されているようだったが、俺から言わせればふたり以上に仲の良い夫婦はいなかったように思える。本人たちは全力で否定していたが。
「しかしまあ、ぼっちゃん。こんなに立派になっちまって……。昔はわしの腹のところまでしか背が無かったってのに、今じゃわしよりでっかくなっちまいましたね?」
「背だけ伸びてしまってね。アグネスさんと再会した時も驚かれてしまったよ」
「そうでしたかあ……。今のぼっちゃんのお姿をヒルデが見たら、さぞかし喜ぶ事でしょうなあ?」
「え。そうかな?」
やはりその名前が出て来たか。昔を思い出してちょっと頬が赤くなっているところに、すうっと忍び寄る影がひとつ。
「隊長ー。ヒルデという方は隊長とどういったご関係でしたのー?」
忍び寄ってきた人物はリーゼロッテだった。何故だろう、声色がいつもより若干低く、笑顔に少し影が差していて、携えたライフルの銃口がこちらを向いてはいないものの、俺を撃たんとしているように感じられた。他の赤衣隊や伐採班のみなが後方に下がっている。クラリッサなどは「リゼ、怖い笑顔ですのー」とにこやかに言って、すぐさまハンナに口を塞がれている。
リーゼロッテはずいと近寄って来て、俺の胸に身を寄せるようにしてじっと見詰めてくる。笑顔のままじっと見つめられているのだが、クラリッサの言う通りこれは怒っているのだろうか。それともヒルデという名前に何か嫌な思い出があるのあろうか。
「昔、俺の面倒を見てくれていた侍女だよ。どんな人か、気になるかい?」
「え? ……ああ、いいえ。そういうわけではありませんの。わたくしいったい何を……」
リーゼロッテは憑き物の落ちたような顔になると、慌てて俺に背を向け、両手を頬に当てて走り去ってしまった。どういう事かと首を傾げる俺に、ヘルムートさんは笑いながら背中を叩いてくる。
「ぼっちゃんも年頃ですからねえ。あのお嬢ちゃん、ぼっちゃんに惚れてるんじゃありませんかい?」
「ええ? まさか、そんな……」
まだここに来て一ケ月そこそこだし、書類仕事をこなすのが精いっぱいの始末だというのに、そんな俺に惚れる要素なんてあるわけがないではないか。同意を求めるようにみんなの方を見れば、困った事にヘルムートさんの言葉に概ね同意といった雰囲気だった。伐採班たちのひそひそ話に耳を傾けてみれば、最近のリーゼロッテの様子がおかしかった事について言及がなされていた。
「やっぱりかあ。リゼさん最近隊長事ばっかり見てたもんなあ……」
「隊長羨ましいぜ、このお……」
「リゼさんの乙女度が上がっていると感じたのはこういう事だったのね……」
「若いもんはいいのう……」
若干だが、俺に対するゆるやかな好戦的感情も交じっていた。それを裏付けるかのように数名の若い兵士が足早に寄って来て、整列し敬礼。何を言い出すのかと思えばと見守ってみれば、声を揃えて「リーゼロッテ嬢を嫁に下さい! 隊長!」という頭の痛くなるようなもので、俺はその言葉に対して「残念ながら、これは俺の権限の及ばないところだよ。よってこの件を軍法会議に議題として取り上げ、リーゼロッテ本人からご意見を聞かせてもらおうではないか?」と返すと、整列した兵士たちから「おお!」というどよめきと、なぜか拍手喝采が巻き起こった。冗談のつもりだったのに。
直後、真顔のハンナに、トマホークの柄底で思いきりぶん殴られた。ハンナの獣性は1度と、赤衣隊の中では一番低いが、それでも痛いものは痛い。後頭部を押さえてうずくまる俺と、それを見て一歩後ずさる兵士たち。ハンナは冷たい眼差しで俺を見下ろすと、腰を折って顔を俺のすぐ横まで近づけて、そのまま耳に囁きかけてくる。
「何を兵士の馬鹿騒ぎに付き合っておられるのですか、隊長?」
底冷えする声。ここ一ケ月でハンナともだいぶ打ち解けてきて、時折こういう遠慮のない一撃を見舞われる回数も増えてきた。上司と部下との微笑ましいスキンシップを羨ましがったのだろうか、「自分も殴ってください!」などと口にする兵士が増えて困ると、ハンナはため息交じりに言っていた。
ちなみにだが、容赦のない一撃が来た後、誰もいなくなったところで涙目のハンナが平謝りに来る、という場面もセットになっていた。部下たちに示しを付けて欲しく、あえて厳しい態度を取っているのだろう。ほんとうに痛み入る。
「貴公等も! 男たるもの正々堂々リゼ本人に交際を申し込めば良いだろうが! 腑抜けか!」
「はい! われわれは腑抜けであります! 副隊長殿!」
ハンナのお説教が始まるのを見届けた俺は、マルグリットを手招きして呼び寄せると、他の物に聞こえないよう小声で気になっていた事を聞いてみた。
「ちょっと下世話な質問になってしまうかもしれないのだが、半人狼には尻尾を見られたらその人と結婚しなければならない、というような風習でもあるのかい?」
「あらあら隊長、もしそうだったらリゼと結婚なさるおつもりですか?」
「そうだね。リーゼロッテは嫌がるかもしれないが、責任を取らねばならない」
「ふふ、隊長さんったら。ご安心ください、そんな風習はありませんよ? そう考える娘はいるかもしれませんがね。リゼが隊長さんを気にしていたというのは、おそらく隊長さんの作ってくれた眼帯の事ではないかと」
ここへ着任してすぐ、俺は最初の任務及びかねてからの習慣として、彼女たちの制服を仕立てなおしている。その折に、リーゼロッテには新しい眼帯をプレゼントしているのだ。だが、今日に至るまで彼女がその眼帯を付けているところを見たことがない。いつも付けている眼帯が気に入っているのか、それとも送った品のデザインが気に入らなかったのだろうか。
「あら。リゼはちゃんと隊長さんのお送りになった眼帯を着けておりますよ? 自分の部屋でひとりきりの時に」
「おや、そうなのかい? てっきり気に入らなかったのだとばかり……」
「ふふふ、殿方からのプレゼントを無下にできる娘ではありませんから。隊長さんにもお見せしたいものですよ? 夜な夜な贈り物の眼帯を、眺めて着けて抱きしめて、ひとりにやにやしているリゼの……」
「マルグリット!? そこまでですのよ!!」
いつの間にか戻って来ていたリーゼロッテがマルグリットを背後から羽交い絞めにしようとするが、マルグリットはするりと拘束を抜けだして逆にリーゼロッテを羽交い絞めにしてしまう。人狼に忍び寄るときも対象に気付かれずに移動していたし、なんらかの体術を会得しているのかもしれない。足運びや立ち回りも見事なものだ。
「ほーらリーゼ。あなたが夜な夜な自室で何をしているのか、ここで隊長さんに聞いてもらうとよろしいのです」
「そ、それは! それ以上は本当に冗談では済まされませんのよ!?」
冗談では済まされないような事をしているのか。非常に気になるところではあるが、詮索するのは野暮だ。リーゼロッテはマルグリットに任せて、俺はヘルムートさんと、彼が率いてきた一団に改めて向き直る。荷車を引いていたのは、老いも若きも男も女もみな筋骨隆々とした出で立ちで、伐採業務を生業としている事は一見して察することができた。臨時登用の話を聞きつけてやってきたというからには、最前線にて軍に自分たちを売り込みに来たのだろう。
「雇われてくれるのですか? ここは黒森伐採の最前線、死と隣合わせの危険な場所ですよ?」
「侮ってもらっちゃあ困りますよ。こちとら何年も草木を相手に商売して来た身。伐る対象が黒い樹であろうが同じです。我々“黒斧団”一同、軍の兵科に引けを取らぬ働きを見せて差し上げましょうぞ? あらためまして、“黒斧団”団長のヘルムートでごぜえます」
ちょっと畏まった口調でヘルムートさんが言うと、“黒斧団”という名前に反応した班長が前に出てる。「あ」と声を上げた班長とヘルムートさんが驚いた顔で互いを指差しあうと、近付いていって堅い握手を交わした。なんでも、ヘルムートさんは班長の師匠のような人で、その昔ヘルムートさんが軍属で伐採班に身を置いていた頃たいへん世話になっていたというのだ。
班長からのお墨付きを頂いてしまっては、いよいよ俺としても彼らを雇わないわけにはいかない。彼の助言がなくとも俺はヘルムートさんたちを雇う気ではいたのだが、軍の任務に一般の業者が加わって作業に当たるとなった場合、いろいろと難しい面も出てくるだろう。だが、俺や班長の知り合いという事がわかれば、伐採班のみんなも赤衣隊のみなも、そういう者たちだと思って接してくれるだろう。希望的観測かもしれないが。
俺が登用に関して了承すると、ヘルムートさんは笑顔で仲間たちの方を振り返った。そして何を言うのかと思えば、俺との昔話なぞ始めるのだからたまったものではない。
「おい、お前ら! ここにおられるハインツぼっちゃんはな? 俺等の仕事を高く評価して下さるお方だ。お貴族様と来たら、庭師なんぞどこの馬の骨でもできるような低俗な仕事だなんて言う輩も少なくはねえ。だが、ハインツぼっちゃまは違う。植木ひとつを刈り込む技術と芸術性を理解してくださるお方なんだよ」
「ヘルムートさんやめてくれ。恥ずかしいよ」
「何を恥ずかしがることがありますかい。それに……」
ヘルムートさんは少し声の調子を落とし、表情を陰らせた。出て来た言葉は、昔の俺を良く知る人の言葉だった。
「ずっと死と隣り合わせで戦ってこられた方がそばにいるんです。これほど心強い事はない」
胸に焦燥感が渦巻いた。過去の記憶を思い出してか、それとも今の言葉を誰かに聞かれはしなかったかという不安からか。フランツィスカはすでに感づいているようだが、まだ多くの者には知れてほしくはない事でもある。