3話:南方第七区赤衣隊
この世界を黒森が覆い始めたのは、俺が生まれるよりずっと昔の事だった。歴史書の記録が神話と大差なかったような頃から黒森は存在し、人々の生活圏を徐々に侵略してきたのだ。
黒森を構成しているのは黒い樹と呼ばれる特殊な植物だ。元は宿り木の一種だったのではないかという説もある植物で、その樹皮は黒い樹の名の通り緑がかった黒色をして、堅牢な樹皮と幹は斧の刃を容易に跳ね返す。大の大人が数人がかりで伐採に取りかかったとしても、成木を倒すのに一日かかる。さらに幹を切り倒した後でも切り株は大地深くに根を張り巡らせており、取り払わなければ再び幼木が芽吹いてしまう。無論、切り株の状態でも根は大地から養分を摂取し続けるので、付近の土壌は作物を育てるだけの養分を確保することができないのだ。
伐り倒された成木も加工が難しい。生木自体は他の木々とは異なりほんの数週間で水分が抜けてしまうのだが、そうなってしまうとすぐに腐敗が進み、建材としては使えない。
よって、黒い樹の主な加工先は薪や炭といった燃料となる。これを建材や日用品、もしくは武器などに加工する場合は、同じく黒い樹から採取した樹液に様々な材料を調合して出来た特殊な薬品を塗布する事になる。
そして、この黒い樹が人間以外の動植物に対しても有害であるとされる最大の特性が、空を覆う天蓋状の枝葉である。黒い樹は他の黒い樹と分布する間隔が非常に狭く、中には何本も隣接して直立しているものすらあるほどだ。そうして他の黒い樹が近くにあると、互いの枝葉が触れ合い絡み合って、枝葉の直下に降り注ぐはずの陽光を完全に遮ってしまう。
この絡み合った枝葉が天蓋と呼ばれるもので、黒い樹はどんどん他の黒い樹と枝葉を絡み合わせていき、森の中を真夜中のような暗さと寒さに変えてしまう。また降り注ぐ雨も天蓋が受け止め、直下の地面に降り注ぐことはなく、天蓋の枝葉を伝って幹へと落ち、最終的には黒い樹の根本へと蓄積される。黒森の中において、黒い樹以外の動植物は水源と陽光とを奪われることとなる。
とはいえ、水源は泉や沼、川といった黒い樹の取りこぼしに手を伸ばせば確保できるし、陽光とて天蓋の上か、天蓋にわずかな隙間を開けることのできる動物ならば、その恩恵にありつくことができるだろう。
黒い樹に依存する、または利用する形で進化を遂げてきた動植物も少なくはない。大よその動植物にとって有害ではあるが、その害を逃れる形で生存してきた生き物もいるのだ。眉唾な話だが、黒森の中で生活を営んでいる人間の部族もいるのだという。
そう、人間にとっての脅威が黒森だけならば、共生してゆく道もあったのかもしれない。だが、実際はそうはならなかった。人間にとって第二の天敵、人狼の存在がそれを許さなかったのだ。
人狼の発生は黒森とほぼ同時期か、それよりも後だという説が唱えられている。というのも、人狼は陽光を嫌い、その生活圏は黒森の中に限定されるからだ。この特性から人狼は、太古の昔に黒森に適応した最初の種なのではないかとも、学者たちの間では騒がれている。
その体長は成体で二メートルを超え、大きなものでは三メートルに匹敵する個体も数多く確認されている。全身は針金のような堅牢な体毛で覆われており、手は中途半端に人間と狼との中間にあり、ものを掴むことができない。二足歩行も可能ではあるが、足の関節が人間のものとは異なり狼のそれに近しいため、威嚇や仲間同士コミュニケーションをとるために立ち上がる場合を除いては基本的に四足歩行であるのだという。
しかし、胴体部分の構造は人間に近いものがあり、同じような消化器官を備えているのではないかとも考えられている。これが本当ならば、人狼は人間と同じように雑食性という事になり、動物の肉が得られないときは植物から栄養を摂取している事になる。頭部はまるで狼をそのまま模したような形をしており、鋭い嗅覚と聴覚を持つ。その目は陽の光が届かない黒森の中でも見通す事ができるが、逆に陽の光の元では全く役に立たないのである。
そして驚くべきはその身体能力だ。最高速度は有蹄類を凌駕し、特殊な手足の機構のため樹から樹へと飛び移って移動する事も可能とする。持久力も相当なもので、最高速度ならば数時間、速度を押さえれば数日の間走り続けることができるのだという。数日食べずとも平常に体を動かし続ける事ができる点においても、人間をはるかに凌駕していると言えるだろう。
一体だけでもやっかいな生き物なのだが、人狼は基本群れを成して活動する。群れの構成はつがいとその子供たちである事がほとんどで、群れではなく一家といった言い方をする場合もある。一家を構成する数は最低でも十体以上であり、二、三体ばかりの人狼たちに出くわした場合は斥候である可能性が高いというのが通説だ。
稀に一体で活動している個体も見られるが、これはファミリーを追放されたか、子供が独り立ちしたものか、または獣性の高い半人狼が完全に人狼化してしまったものであるともされている。
この人狼の存在が、人類の黒森伐採を長い間妨げてきた。群れを成す生き物であれば当然自分たちの縄張りを持つ。人狼社会においては、より強い一家が黒森の中心をはじめとした広大な領土を占有し、争いに敗れた種は黒森の外側、人間たちが住む世界の側へと追いやられるのだ。
そうして自分たちの縄張りを破壊する人間たちと出会ってしまった場合、何が起こるかは言うまでもない。人狼の脅威にさらされ黒い樹の伐採は思うように進まず、その間にも黒森は着々とその領域を広げてゆくので、人間の生活圏は徐々に狭まって来ていた。
人間側も対抗策を打ち出してはいるが、結局のところ人海戦術による黒森伐採が現状もっとも有効とされている。黒い木を伐採するための機械や薬品などの研究は行われているが、依然として成果を挙げられるようなものは登場していない。人狼に対しては銀が弱点になり得ると判明しているもの、貴重な銀鉱石を加工した銃弾は末端の兵士に行き渡る事はなく、前線に登用されることのありえない士官クラスの人間が拳銃に込めている有様だ。
そうして黒森は着々と領域を広げ、人間たちはいよいよ追い込まれる事となった。半人狼兵士である赤衣兵、赤衣隊が登用されるようになったのは、そんな進退窮まった頃……。
◇
目覚めは爽やかとは言い難いものだった。全身に汗をかき、ひどくのどが渇いている。わずかに開けられた小窓から爽やかな風が吹き込んできている事がせめてもの救いだろうか。早朝の小鳥たちの声も。着任早々あんな事があり夢見が悪かったのかとも思ったが、残念ながら見た夢の内容は覚えていなかった。
そもそも死にかけるような体験など、幼少期においては日常茶飯事であった。初めて人狼を目の当たりにして死の気配を濃厚に感じ取った事は事実だが、自分の内側から響いてくる直接的な死の恐怖に比べれば、昨日の遭遇などは恐怖にも値しない。
それでも人狼を前に焦燥感に駆られた事も確かであり、そのときの心境を思い出すと今でも胸を締め付けられるような心地だ。実際、この大量の寝汗も胸の苦しさも、そのときの事を夢に見ていたから、と言われれば腑に落ちるものだ。
「……おはよう、お嬢さん。早いお目覚めだね?」
だが、実際は違っていた。シーツをわずかにめくると、俺の左脇の下あたりに幼い少女の顔があった。ゆるいクセのついた金髪と、体毛と同じ色をした一対の耳。目を細めて俺の胸に頬ずりをしている少女、名前はクラリッサ。昨日俺を助けてくれた赤衣の少女のひとり。この南方第七区赤衣隊の最年少の娘だ。昨日もあれから頬ずりや甘噛みをされ続けたが、さすがに自室に入ってからはリーゼロッテに引きずられてご就寝となったはずだ。
俺が寝るまではこの部屋には俺ひとりだったはずなので、真夜中から早朝にかけて忍び込んできたのだろう。彼女が暗殺者であったのならば、俺はこの爽やかな風を心地よいと感じる事無く一生を終えていただろう。ならば、この胸に渦巻く焦燥も頷けるというものだ。
暗殺者顔負けの侵入を果たしたクラリッサはというと、俺が起きた事に気付くと「おはようですのー」と挨拶して、何事もなかったかのように頬ずりを再開した。さて、この子をどうしたものだろう。娘の行いが女性を思わせるような行為ではなく、動物のそれに近かったせいか、下半身に集中した血液は解散している。
だが、こんなところを人に見られでもしたら、俺のこれからの活動に大きく支障をきたしかねない。新天地は生死の境目そのものである黒森伐採の最前線、加えて初めて隊長という肩書を与えられての任務となる。その時、俺に割り当てられた部屋の扉がノックされた。三回のノックに続いて聞こえてきたのは、やや緊張を帯びたリーゼロッテの声だった。
「失礼します、リーゼロッテですの。申し訳ありませんが、隊長のところにアリスがお邪魔しては……」
言いながら扉が開かれる。こちらの返答を待たずに行動に移ってしまうのはいかがなものかと思うが、事態を説明するより実際に見てもらった方が話が早いので、今回の場合はこれで正解のような気もする。部屋に入ってきたリーゼロッテはクリーム色の寝間着姿だった。右目を覆う眼帯は昨日見た黒いものではなく、寝間着の色に合わせた薄い色で、やや生地が薄い素材で作られているようにも見える。彼女も相当量の汗をかいていたのか、髪の毛や服の布地が体に張り付いていて、華奢な体の線がはっきりと表れている。
リーゼロッテはおそらく、昨晩はクラリッサと一緒にベッドに入っていたのだろう。クラリッサの体温の高さは俺も今この身を持って知っている。朝起きたらクラリッサの姿がなく、昨日の様子を思い出して俺を訪ねてきた、というところだろうか。
「おはようリーゼロッテ。ご察しの通りさ、ほら」
俺はわずかに身じろきして上体を起こし、シーツをめくってクラリッサの姿をリーゼロッテに見せた。「破廉恥ですのよ!」などと罵られるのかとも思ったがそんな事はなく、リーゼロッテはため息と共に「申し訳ありませんですの」と謝罪の言葉を述べた。こういった事に慣れているとでも言いたげな、あきらめの表情が見て取れる。
「アリスの獣性は嗅覚が特に鋭敏となるものでして。そのせいかはわかりませんが、常に誰かの匂いがないと安心して眠ることができないようですの」
なるほど。そういう事情があったのか。それならば仕方ないというか、この状況を見られてもこの部隊ならば御咎めはなしという事か。真夏ならばともかく、冬はクラリッサを巡って争奪戦が起きそうな気がするな。「……ただ」と、リーゼロッテが難しい顔で言葉を付け加えたのはその時だ。
「その、嫁入り前の娘が殿方と同衾など、あまりよろしいものではありませんの。できればこれから同じような事があれば、わたくしか誰かの部屋まで連れてきてほしいですの」
「構わないよ。その時は、クラリッサが素直に離れてくれればいいのだけど」
「ほんとうに、そうですの。アリスが初対面の方、それも殿方にこんなに懐くのは初めての事で、わたくしも何がどうなっているのか……」
言って、リーゼロッテの視線はベッドの方へ向けられ、ある部分で止まった。それはシーツのある箇所がせわしなく動いている光景。クラリッサの尻尾がシーツの下でちぎれんばかりに振りたくられている。その光景にリーゼロッテは何故か頬を赤く染める。これは、俺にも意味がよくわからない。
「その、半人狼について隊長がどれだけの知識を有しているのか存じていないので、あらかじめこちらからお教えしておく事がありますの。よろしいですの?」
もったいぶるようにこほんとひとつ咳払いし、そして目を伏せて俺を見ないようにして、あらためて口を開いた。
「半人狼にとって尻尾は、その、……せ、性的な部分である、ありますので、その、そのように理解して頂きたいですの……」
初耳だった。確かに、今まで出会った半人狼の女性たちはみな、耳は出していても尻尾を服の外に出していることはなかったはずだ。なるほど、そういう事情があったのか。ならば、リーゼロッテには恥ずかしい役回りをさせてしまった事になる。非常に申し訳ない事をしてしまった。
そして、非常に申し訳ないことがもうひとつあるのだが、これは今ここでいうべきことではない。彼女の名誉にも関わる事だ、決して気付かれてはならない。そう考え意識してから、彼女のその部分からすっと目をそらしてしまったのがいけなかった。大失態だ。
俺の挙動に不審を抱いたリーゼロッテは、すぐに自分の失態に気付いたようだ。急いで自分の尻のあたりを押さえ、肌が見る見るうちに赤みを増してゆく。リーゼロッテは震える声で俺の名を呼び、潤んだ目で俺を見る。
「た、隊長。ハインリヒ隊長、い、いつからですの? わたくし、いったい、いつからですの……?」
答えねばなるまい。嘘をついてもそれが嘘だとわかりきっている、見ていないといってもそんなわけがないと、すでに彼女はわかっているのだから。
「リーゼロッテ。残念ながら、この部屋に入って来た時にはすでに……」
俺は、リーゼロッテが大粒の涙を湛えた左目をゆがませ、後ろ向きに歩いて部屋を出ていくまで、彼女の方を見ることができなかった。彼女の心中を察して胸が痛む。あれだけ恥ずかしい思いをしてまで忠告しておきながら、彼女は亜麻色の毛並みの美しい尻尾を丸出しにしていたのだから……。
◇
その日の朝食と昼食時にリーゼロッテの姿はなく、やっと姿を現したのは夕食の時。隊宿舎の食堂に、彼女は赤い外套を纏い耳フードを目深に被って席に着いていた。誰とも言葉を交わさず、自分に配分された夕食を細々と口に運んでいる。どうしてこうなったのか、その理由はすでに他の隊員に知れ渡っている。俺が話したわけではなく、マルグリットが朝の内に聞き出したのだという。ハンナからの隊長業務引き継ぎで、一日中部屋に缶詰にされていた俺のところにもやってきて、差し入れの珈琲を置き際にリーゼロッテは自分の方で慰めておいたから心配ないとも。
とはいえ、俺の方も気まずくてリーゼロッテに言葉をかける事ができない。それに今座っている席の位置が問題だ。リーゼロッテは食堂の奥、俺は入り口側。今日はこの後、何事もなく眠ってしまった方が良さそうだ。
「そういえばマルグリット。頼んでいたものは?」
「ええ、隊長。すでに用意してありますとも」
俺の隣に座っていたマルグリットに、昼のうちに頼んでいおいた仕事の成果を聞いてみる。首尾は上場だったようで、マルグリットは笑顔で四つ折りにした紙片を手渡してきた。俺はお礼と共にその紙片を受け取ったのだが、紙片を取った手をマルグリットに優しくつかまれ、握られる。マルグリットはそのまま顔を寄せてきて、耳元で俺に囁きかける。
「リーゼロッテの事で辛抱たまらなくなったら、わたしの部屋へおいで下さいな」
「……何故だい?」
「わたし、家が娼館を営んでいるものでして……」
マルグリットはそこで言葉を止めて身を引く。俺はからかわれているのだろうか、それとも彼女は真面目に営業しているつもりのなのだろうか。マルグリットの笑顔からは彼女の本心がうかがえない。それに、マルグリットは小声で耳打ちしたつもりなのだろうが、食堂奥のリーゼロッテがフードを突き破らんばかりに耳を立ててこちらを見ているのだ。表情は見えないがどことなく威圧的な雰囲気が漂っている気すらする。これは自分の意思をはっきりさせておいた方がよいかもしれない。
「マルグリット、気持ちはありがたく受け取っておくよ。しかしだね」
まあ、聞こえてもよいだろうか。隊のみなに俺の考えを聞いておいてもらえれば、後々こういう事があった時に改めてこう言う事ができるから。
「俺は自分の妻になる女性以外を抱く気はないからね。もしも俺がキミを抱く事があるとすれば、それは俺がキミと夫婦になった時だ。覚えておいて」
言われたマルグリットは一瞬素の顔に戻ったかと思うと、口元を軽く押さえて横目で俺の方を見てくる。にやにやと意地の悪い笑みだ。
「隊長さん、気を付けてくださいね? 今の言葉、言われた方はプロポーズだと勘違いしてしまう事も御座いますよ?」
「おっと。これは痛み入る」
そこで俺とマルグリットとのやり取りは一応決着したのだが、今のやり取りに大きな反応を示した人物がひとり。テーブル中ほどの席で静かに珈琲を飲んでいたハンナだ。口いっぱいに含んでいた珈琲を飲み損ねて思いきり咽て、テーブルを叩いて席から立ち上がった。そして俺やマルグリットの方へ体を向けると、赤い顔、震える声と共に指を差し、酸欠のように口をぱくぱくとさせながら、何とか言葉を押し出そうとしているようだ。
今日一日中ハンナと付きっ切りで引き継ぎを行っていたので、彼女がこういった話にどういう反応をするかはだいたい察しが付く。リーゼロッテの件もあった事だし、やはり軽率だったろうか。
「な、何の話をしているのかと思えば、抱くだの抱かれるだの! 破廉恥です! 朝だってリゼの尻尾を……!」
そこまで言って、ハンナは自分の口元を両手で押さえた。顔には「しまったー」と深い後悔の色が見える。ハンナは恐る恐るといった動きでリーゼロッテの方を見ると、彼女のフードの端から見える鼻先は真っ赤に染まっていた。
クラリッサが農夫パンを食む音が静かに響く食堂。リーゼロッテもハンナも黙って俯いてしまい、マルグリットはこの状況に笑いをかみ殺している。たいへんいい性格だ。俺はというと、この状況をいったいどうしたものかと、フォークをくわえたまま考え込んでいた。
そこでふと脳裏をよぎったのは、なんというか懐かしさだった。このような状況にではなく、朝昼夕と出された簡素ではあるが美味な料理の事だ。以前どこかで食べた覚えがあるのだ。軍の宿舎ではない、俺がベッドから起きることができなかった幼少期、ある一時だけ、こんな味の料理を食べたことがある気がする。
「みんなに聞きたい事があるんだが、昨日話に聞いた料理番の方は、今日もこちらに来ていないのかい?」
訪れてしまった静寂の中、俺が声を上げたことでハンナとリーゼロッテが驚いて肩ひくつかせる。その時、なんともちょうどよく新たな人物が食堂に入って来たのだ。その人物を見た俺は、あまりの懐かしさに思わず立ち上がってしまった。
「あらあ、やっぱりハインツぼっちゃんでしたかあ。こんなにご立派になられましてえ」
「アグネスさん! ああ、お懐かしい、今はここでお仕事を? ……そうか、この味、アグネスさんだったのか」
小柄だが恰幅の良い赤毛の女性はアグネスさん。俺が幼い頃、少しの間だが屋敷で料理長をしていた方だ。当時病床から離れることができなかった俺のために、家の者に内緒でお菓子など差し入れてくれた事は、昨日の事のように思い出せる。しかし、屋敷で出す食事について父に意見したところ、気に障ってしまい解雇されてしまったのだ。屋敷を離れた後の行き先を誰も知らなかったので、ありがとうと一言お礼を告げることも出来ず、ほんとうに胸が痛かった。
感動のあまり俺は席から立ち上がって、アグネスさんの元に駆け寄って抱きしめていた。昔よりも彼女が小さく感じるのは、それだけ俺の背が伸びたからだろう。アグネスさんの目元にはしわが増えてはいたが、昔のままの笑顔で俺の背中を優しく叩いてくれた。
「御屋敷を離れてからいろんなところを転々としましてねえ。今はここで娘っ子たちのお食事番でございますよう。まさかぼっちゃんがここに来るとは思いませんで」
「アグネスさん、ぼっちゃんはやめておくれよ。俺はもうそんな歳じゃあないよ?」
俺が腰を落としてアグネスさんと同じ目線になると、アグネスさんは懐かしそうに俺の頬をぺたぺたと触ってくる。そのうち食事を終えたクラリッサが寄ってきてアグネスさんにべったりと張り付くと、今度はクラリッサを抱え上げて高い高いと持ち上げる。どうやら半人狼の娘たちとの仲は良好のようだ。……と思いきや、俺とアグネスさんのやり取りを見て呆気にとられていたリーゼロッテとハンナに向かって鋭い声を上げる。
「これ! リゼは何を被って食卓に着いていんだい、脱ぎな! ハンナも、珈琲零したとこちゃんと吹いときな! 中途半端に拭いたのが丸わかりだよ!」
「い、イエス! マダム!」
名指しされたふたりは起立、敬礼して、それぞれ言われた通りの行動に移る。「イエス・マダム」なんて初めて聞いた。でも、うちで料理長をしていた時も、しっかり部下に激を飛ばしていた姿は確かにあった。軍関係の料理番となってさらに磨きがかかってしまったのだろう。ただ、ふたりが叱られたのは半ば俺のせいでもあるので非常に申し訳ない。後で詫びておこう。
「それで? アンジーのやつはやっぱりいないねえ。あの子ったら、肉の日しか一緒に食卓に着かないんだから」
「アンジーはお野菜嫌いですのー」
「おお、そうだねえ。アリスは好き嫌いしちゃだめだよう?」
「はいですのー」
アグネスさんのぼやく通り、朝昼晩と食堂でフランツィスカの姿を見ていない。小声で耳打ちしてくるマルグリットの言う事には、いつも他の隊員と食卓を囲む事はせず、月に一度の肉の日にだけちゃんと席に着くのだという。今まで隊長を務めてきたハンナが何度忠告しても聞く耳を持たなかったのだとか。これからは俺が隊長になるわけだから、そういった面での忠告も俺がしていかなきゃならない。苦手な分野だがしょうがない、俺なりの方法でやらせてもらおう。
「そういえば、ぼっちゃん。坊っちゃんのあの習慣はお続けになっているのですか?」
「ああ、アグネスさん。昔からずっと続けているよ。ここでも、ね」
「あらまあ。それでは今日は徹夜でございますかね? 後でお夜食お持ちいたしますよう」
俺とアグネスさんが笑いながらそう語るのを、リーゼロッテとハンナは不安そうな表情で見守っていた。俺がアグネスさんと旧知だった事に驚き、加えて「習慣」という単語を何か不穏なものとして捉えているようだ。仕事を依頼していたマルグリットは俺の習慣がなんであるかに察しが付いているのか、くすくす笑っているだけだった。
◇
翌朝。本日も昨日に引き続き、ハンナとふたりきりで隊長業務の引き継ぎだ。本来ならば士官クラスが行うべき仕事なので、どんな業務があるのか等は士官学校時代に一通り学んでいる。幸いにも事務作業は苦手な方ではないので、通常業務だけなら何とかこなせそうだ。ただ、部隊の訓練成果報告やら、伐採班の成果報告までこちらが行わなければならないので、それを考えると少し気が重くはある。
「何も、隊長ひとりで業務をこなして頂く事はありません。手に余るようでしたら自分やリゼにも振り分けてください。自分たちは去年一年間、隊長と副隊長を行っておりますので、そういった書類仕事の方はお力になれるかと」
ハンナという少女は何とも真面目なもので、やっと隊長業務から解放されるというのに面倒な仕事を振り分けてくれとまで言う。上司に自分を良く見せたいとか、社交辞令で言っているわけではない、仕事をきちんとこなしたいという思いがあるのだろう。
「あの、申し訳ございません。出過ぎた真似を」
「助かるよ。俺も隊長職なんて初めてだし、ハンナにもリーゼロッテにも、これからたくさん助けてもらう事になると思う。よろしく頼むよ」
不要な謝罪をしてきたハンナにそう告げるが、かえって表情は沈んだものになってしまった。着任初日も俺に何か言いたげな素振りを見せていたので、ここでひとつ聞いておきたいところではある。
「何か不満かい? ハンナ・ヴルフ」
「い、いえ。何も」
「よし、正直に言ってみようか。俺からキミに対して下す初めての命令だ。俺に対する不満等があれば、ここで思いつくだけ述べるといい」
「し、しかし隊長……!」
俺がにこやかに告げると、ハンナは血相を変えて耳を伏せた。我ながらひどいやつだと思う。着任して彼女に初めて下す命令が、上司に対する不満を述べよ、なのだから。付き合いが長く気心の知れた上下ならば、それを冗談と受け取ったりする事も出来るだろう。
会ったばかりの人間に、しかも直属の上官に対して不満を述べよなど、いじめもいいところだ。だが、このハンナという少女は正直に答えるだろう。不満が口の端に上る事がなくても、その表情にしっかりと出ているのだから。
彼女の血筋も確信を得る要因だ。ヴルフ家といえば代々軍人の系譜であり、その昔には最高司令官を幾人も輩出した名家として知られている。彼女が軍属としてここにいる以上、捨てる事ができない誇りを携えているはずなのだから。
「さあ、珈琲だ。砂糖はいくつ?」
珈琲は保温水筒に入れてもらったものを、あらかじめマルグリットに持ってきてもらっている。いい仕事だ。彼女のカップに珈琲を注ぎ、答えを待たずに砂糖をひとつ入れる。彼女に発言させるための行動だ。ストップと言わなければどんどん砂糖を追加して珈琲を甘くしてしまう。昨日の食堂でのハンナを見た限り、彼女は珈琲に砂糖は入れない。ストップと言わざるを得ないのだ。
「あ、隊長。結構です、砂糖はもうそれで結構です!」
砂糖はふたつ目を入れたところでストップがかかった。俺はそれを彼女の方へ差し出す。砂糖はもういらないと自分の意思を示し、差し出されたカップを受け取り、彼女は発言しなければいけない状況を自ら作り出してしまったと感じているのかもしれない。
ここまでお膳立てしておいてなんだが、別段この時点で彼女の本心を聞き出せなくとも構わない。もしも彼女が正直に語ってくれるのならば、それはおまけというか、ご褒美のようなものだ。この命令の本来の意図は、俺がこういう命令を下す事がある人物であると、彼女に知っておいてもらう事なのだから。こういった胃が痛くなるような無茶な命令を下すことのできる人物だと認識してもらえれば、それが彼女の俺に対する判断材料のひとつとなる。
そうすれば、平時はもちろん、緊急の際に彼女が動きやすくなるかもしれない。もし、何かの作戦中に俺が命令を下す事が出来なくなったとしても、彼女が代わりにそれを行ってくれるかもしれないというのは、淡い期待だろうか。
「……では、お言葉に甘えまして。は、発言させていただきます!」
あ、ご褒美だ。ハンナの顔には緊張と恐れと、それに敗けないくらいの意思が込められていた。上官気取りの俺に反抗しようとするいい顔だ。耳もピンと立っている。俺は自分のコーヒーをひと口含み、飲み下して彼女の言葉を待った。
「まず、あなたはこの半人狼部隊、赤衣隊の隊長であらせられます。それは実質伐採班をも指揮し、この南方第七区の総隊長であるという事に他なりません。ならば、助かるだの、頼りにしているだの、そういった軟弱な言葉は不要です。もっと毅然として、上下の差をはっきりさせてください!」
「うん。続けて?」
「それに、昨夜の食堂での出来事です!」
「あのときは珈琲ごめんね?」
「いえ、あれは自分の不注意でして……。待ってください、珈琲の事は関係ありません! リゼやマルグリットとの事です! 半人狼を人として、女として扱って下さるのは光栄ですが、隊内の風紀が乱れぬよう、隊長に率先して頂かなければ困ります!」
「ああ、確かにそれはごもっともだね。以後気を付けるようにするよ」
「それにですね? 珈琲に砂糖は必要ありません!」
はやくも珈琲再び。風紀云々の時点で若干顔が赤かったが、ここに来てさらに赤みを増したような気がする。これは、断りなしに砂糖を入れたのがよっぽど気に食わなかったという事だろうか。
ちなみにだが、この世界には珈琲というものが大まかに分けて二種類存在する。黒森の黒い樹から取れる木の実を炒って挽いたものと、それ以外だ。黒森の侵攻によって植物はその種を減らし、それは珈琲豆の原料となる木々も例外ではなかった。黒い樹由来ではない珈琲豆の値段は年々高騰し、上流階級しか口にすることを許されないような高級品となっている。俺たちが今飲んでいるのは黒い樹の実を長時間炒って挽いたものだ。
最初に黒い樹の実を珈琲のようにして口にしたのは、目の前にいるハンナのご先祖という話もあるくらいだから、彼女が珈琲にこだわりを持っていてもなんら不思議ではない。
「自分が珈琲に砂糖を入れないのを見て、自分が甘いものが苦手だとお考えかと思いますが、その逆です! せっかく甘いものを我慢しているのに砂糖など入れられては! 歯止めが利かなくなってしまうではありませんか!」
おっと。それはすまない事をしてしまった。それが一番の不満であったとばかりに珈琲を飲み干したハンナは、テーブルにカップを叩き付けるように置いた。荒い息が整っていくうちに顔の赤みも引いていき、今度は血の気を失って蒼白に変わろうかといった具合だ。冷や汗も頬を伝っている。表情は「言ってしまったー」という焦りと後悔を帯びたもので、先ほどまでぴんと立っていた耳も今は垂れて伏せている。
おそらくというか当然というか、彼女にとって上官に反抗するというのは初めての事だったのだろう。大人びいた顔つきをしているもの、歳は17だと言っていた。一般兵の登用年齢の下限が15歳、ハンナは士官学校には行っていないという事なので、軍隊生活の約半分をこの最前線で送っている事になる。ここに来る以前の彼女の軍歴にはまだ目を通していないが、これまではあまり待遇の良い現場にはいなかったと見える。
それでも、彼女は成果を出そうとして、ずっと気を張って来たのだろう。家柄の事もあるだろうし、彼女自身の気質がそうさせているのかもしれない。そんなところに俺がやってきて降格と相成ったわけだ。よく考えれば、俺がよく思われていない事くらいはっきりと理解できる。
「そうか。他には?」
「……いえ。もう、ありません」
俯いて黙ってしまったハンナ。俺は自分の珈琲を飲み干して、テーブルに置く。
「ああ、そうだ。ハンナに聞いておきたい事があったんだ。いいかい?」
「はい、なんでしょう?」
「クラリッサってこの隊最年少だよね。今何歳?」
「はい、12歳であります。……はい?」
唐突な質問だったと思う。前の話と何も関連性がないようにハンナには聞こえているだろうが、俺にとってはこれも先程の話の続きのようなものだ。
「……兵士登用年齢の事でありましょうか?」
「うん。いや、獣性の高い半人狼が、登用年齢を下回っていても特例で登用されるというのは、俺も知っているよ」
「では何故……」
「それをどう考えてる?」
「軍紀で定められている以上、アリスも立派な兵士であります。そこに私情を挟むのは……」
ハンナの耳が立った。何かを思いついたようだ。
「……いえ、この際ですから私情を挟ませて下さい。先程の命令はそのためでもあるのですよね?」
「驚いた。察してもらえるとは思わなかったよ」
予想以上、期待以上の反応だ。聡明なハンナは、俺が下した命令の意図を察してくれていた。
「正直に申しますと、自分はアリスのような幼い子を前線に置く事には反対です。反対ですが、彼女の獣性判定は現在4度。彼女には狂乱の前科があり、都市区への立入禁止はもちろん、この隊宿舎、およびハンブルク城以外の施設への立ち入りをも禁じられております。それに、再び狂乱状態となった場合、彼女には射殺命令が出ております。執行権限を持っているのは、……自分です」
ハンナは腰のホルスターから拳銃を抜いてテーブルに置いた。それがどんなものかは誰に説明されずとも理解できた。士官クラスに貸与される、銀の弾丸が入った拳銃だ。これを携行するという事は、もし隊の半人狼が狂乱状態となった時、射殺して被害を食い止めねばならないという事に他ならない。テーブルに置かれた拳銃を手に取り、薬室を解放する。薬室に装填されている弾丸は五発。この隊の半人狼の人数と等しい。
「アリスにはこの隊宿舎しか帰る場所がありません。特例で編隊行動を許可されているアンジーも同じです。ふたりはこの場所でしか生きることを許されていないのです。彼女たちが生きるためには、人狼と戦うしかない……」
「そうだったのか。よく話してくれたね」
俺は拳銃の薬室から銀の弾丸を抜き取った。今まで悔しさを滲ませていた顔が、銀の弾丸を目にして緊張に変わる。身を固くするハンナの前で、俺は自分の拳銃を取出して弾丸を入れ替えてゆく。そして両方の弾丸の装填を確認すると、ハンナに拳銃を彼女に返した。
ハンナは恐る恐る、返された拳銃の薬室を開き、弾丸を確認した。そして、一瞬きょとんとした表情になるハンナに向けて、俺は拳銃をホルスターにしまいつつ言葉をかける。
「元々銀の弾丸は隊長である俺に引き継がれる予定だったが、ちょっと早めさせてもらったよ」
「……どういうおつもりですか、隊長。なぜ、自分の拳銃に一発だけ、銀の弾丸を残したのですか?」
「その意図はハンナの好きなように解釈してくれていい。聡明なキミなら、俺の考えなんてお見通しのはずだよ」
半人狼のハンナに、銀の弾丸を一発だけ。彼女なら、それが自害するためのものでも、仲間を撃つためのものでもないと、わかってくれるはずだ。
拳銃をホルスターに戻したハンナは複雑そうな表情を俺に見せ、そして目と耳を伏せた。
「自分は、……隊長のような人は、苦手です。嫌い、かもしれません」
「うん。正直でよろしい」
その時のハンナの表情を見て、この子は褒められる事に慣れていないのだろうなと、なんとなくそう思った。軍人の家の出となれば士官となる道もあったろう。それが最前線で小規模の部隊を率いているという事は、出世の道が閉ざされているという事に他ならない。
加えて、仲間を撃つための武器と権限を一年もの間、ひとりで抱え続けていたのだ。彼女にとっては負荷が大きすぎるし、かといってその身にかかる負荷のすべてを取り去ってしまう事も、彼女のためになるとは言えない。ハンナの今までの頑張りを、すべてなかった事にしてしまうなど、俺にはできない。
「では、引き継ぎに戻ろうか。ハンナが不満に思った点は俺もなるべく改めて行こうと思う。今すぐには難しい事ばかりだけど」
「風紀の件もですか? あれは隊長が気を付けてくだされば何も問題は……」
ハンナの言葉が止まり、表情が渋いものに変わる。どうやら俺が気を付けていたところでどうにかなるものでもないらしい。言葉に詰まったハンナをじっと見ていると、彼女は赤い頬に険しい目つきで俺をにらんでくる。何か開き直ったようだ。
「そもそも、尻尾の問題は自分たち半人狼の責任ではありません! 半人狼に合う服などそもそもないのですから! 支給された制服も赤外套がないと丸見えで、多くの半人狼が日々恥ずかしい思いをしているのです!」
「ああ、その問題なら早急に解決する算段が付いているよ」
「……ええ?」
そして本日分の引き継ぎ終了時、新たにふたつの命令をハンナに下した。ひとつは、新しい制服を隊員に支給するので試着するようにと。もうひとつは、今だけ砂糖を好きなだけ入れて珈琲を飲んでいいというもの。珈琲に関しては保温水筒に残っていた最後の一杯分だったが、ハンナは角砂糖を五つ入れ、少し迷ってからもうひとつ入れてスプーンで浅く混ぜた。「命令ですから仕方ありません」と、俺の意図した通り、命令を口実にして自分の行いを正当化してくれたようだ。普段は凛々しいはずの表情が満面の笑みに変わっているのを見て、彼女にはこれくらいのご褒美は必要不可欠なのだと改めて認識した瞬間だった。
◇
さて、引き継ぎを終えてすぐ、夕食の席での事だ。俺はひとりで食堂のテーブルに着いていた。というのも、隊員の少女たちがまだ食堂に現れていないからだ。アグネスさんはその理由をすでに知っているので何も言わずに笑顔で食器類を並べている。
やがて食堂の扉が開いて、クラリッサが顔をのぞかせた。俺を見つけるとぱたぱたと走り寄って来る。
「新しい制服ですのー」
「ああ、似合っているよ。クラリッサ」
クラリッサが着ていたのは新しい制服と赤外套だ。といっても、備品として倉庫に置かれていた制服を、彼女たちの体格に合わせて仕立て直しただけの代物だ。精彩の乏しい黒い軍服も、笑顔のまぶしい彼女が着れば、違ったものに見えてくるから興味深い。
制服を仕立て直すに当たって少女たちの採寸をマルグリットに頼んでいたのが、一番心配していたクラリッサのサイズが正確で助かった。丈合わせだけならば他の隊員でもできるかもしれないが、それでも肩幅や股下などの部分までは難しいところだろう。12歳の、しかも同年齢の少女よりも遥かに小柄であるクラリッサの体格に合う制服など、オーダーメイドでなければそもそも存在しないのだ。
着任した日の事。人狼との遭遇戦の際、クラリッサが缶詰に足を取られて転んだのは、軍靴のサイズが合わなかったからだろう。赤外套を羽織っていたのですぐには気付かなかったが、そもそも登用年齢以下の兵士用に軍靴を仕立てる仕立て屋など聞いた事がない。それが半人狼用となれば、先ほどのハンナの言葉を聞いてもわかるとおりだ。これからの任務において致命的となり得る要因は取り除いておきたいところだったのだ。
そういった点を除いても、俺はこの作業に意欲を持って取り組んでいた。世話になった人に、またこれから世話になる人へ衣類を送る事は、俺に取って大事な「習慣」なのだ。病床に伏していた頃は自分がいつ死ぬかもわからない恐怖と、何も成し得ず生涯を終えてしまうのではないかという恐怖と常に戦い続け、その結果生まれたのがこの習慣だった。アグネスさんと再会した時に、彼女が俺の送ったエプロンをいまだに使い続けていくれていた事に、双眸が熱くなる思いだった。
ただし、新しい制服を仕立てるに当たって婦女子の身体を採寸した数値を知ってしまったため、聡明な子は、ほら。食堂に入って来たリーゼロッテとハンナが赤い顔でこちらを睨んでいる。
「……昨日に引き続き、最悪ですの」
「……こういう事だったのですね、隊長。最低です」
このように恨みを買う事は承知の上だったのだが、いざこうして軽蔑の眼差しに晒されてみると、心に突き刺さるものがある。自業自得なので甘んじて受けようとも。リーゼロッテとハンナは「それに……」と消え入りそうな呟きを残し、ふたりとも尻のあたりを押さえて黙り込んでしまう。
言わんとしている事はわかる。ただ、「それ」の調子がどうかと聞くのは躊躇われる。箇所が箇所だけに非常にデリケートな問題なのだ。そこを察してくれたのは、やはり最年長のマルグリットだった。
「隊長さん、新しく仕立てて下さいました尻尾専用の下着ですが、着心地が少々いまいちといった具合です」
「言うなー!」
尻のあたりを押さえていたふたりが同時にマルグリットの口を塞がんと飛び掛かったが、マルグリットはそれらをひらりとかわして俺の方へ寄ってくると、赤外套をたくし上げて下着着用済みの尻尾を見せてくれた。
尻尾専用の下着、というよりは専用の衣装といった方が正しいだろう。スラックスの構造上、どうしてもその中に尻尾をしまう事は出来ないため、今まで彼女たちは自分の尾を外に晒し、その上から赤外套を纏う事で隠していたのだ。だがそれでは、走ったり跳んだり激しい動きをした際に尻尾が見える事になってしまう。それを改善するための覆いをどうしたものかと考え、試行錯誤して今日の朝方やっと形にする事が出来たのだ。
サイズは体毛まで含めた余白を考慮して正解だったが、やはり素材の肌触りが良くなかったらしい。だが、尻尾専用の衣装というのは初めての経験だったので、非常に勉強になった。
「なるほど。では、これの内側に薄手のものをもう一枚履いてもらって、二層構造にするのはどうだろう?」
「それは良いかもしれません。ただ、これからの季節は寒くなるので申し分ないのですが、夏場は蒸れてしまいそうですね」
「そうか。そこも考慮しないといけないね」
マルグリットの口封じに失敗したふたりは食堂の隅に膝を抱えて座り、「考慮しなくていいですの」などと涙ぐんでいじけている。不幸な事故を防ぐための考慮だったのだが、どうやら逆効果だったのかもしれない。
「おい。そこのキノコみてえにうずくまってるのはなんだ? キノコだって食用は貴重品だろ?」
その声は俺が初めて聞くものだった。ハスキーな少女の声。一番最後に食堂に入って来た人物、フランツィスカとの一日ぶりの再会だった。俺は今日初めてフランツィスカの顔を見る事になったのだが、彼女は長い金髪を二股の三つ編みにして胸元に垂らしていた。鋭い目つきは“狂犬”と呼ばれるのも頷けるもので、鼻や頬周辺のそばかす、そしてちぎれて半分になってしまった右耳が印象的だった。
フランツィスカも俺の仕立て直した制服を着てくれていた。彼女の場合はいくつか特殊な部分があるという事を聞かされていたのだが、その部分も気に入ってもらえたようだ。フランツィスカは手袋をはめた右手を俺の方に突き出して、握って開いて見せる。彼女の両手にはめられた手袋には爪の部分にスリットを入れてある。
獣性5度のフランツィスカは両手の爪を鋭く伸ばす事ができ、人狼との近接戦において度々自慢の爪を武器として用いているのだそうだ。だが、その度に支給品の手袋には穴を開けてしまっていたので、今まではその穴あき手袋をそのまま使うか、素手のどちらかだったという。
「余計な気遣いだと思っていたが、案外いい仕事で驚いてるぜ。新隊長」
男勝りな言葉遣いに圧倒されてしまうが、近付いてきた彼女の背丈は俺の胸あたりまでしかない。クラリッサよりも頭ひとつ背が高いくらいなのだ。そしてフランツィスカが近づいて来たことで初めて、彼女が纏っている芳香に気付く。その香りにもっとも相応しい名前を付けるのならば、「腐りかけの果実のような甘ったるさ」といったところだろうか。
獣性5度の半人狼が隔離、もしくは処刑される要因は、何も狂乱状態となり周囲に危害をもたらすという理由がすべてではない。フランツィスカが纏っている香りは一種のフェロモンのようなもで、人狼を呼び寄せるものでもあるのだ。この匂いが対人狼戦において発揮する効果は凄まじいものがあり、なんと人狼の嗅覚を完全に駄目にしてしまうというのだから驚きだ。
彼女が隊のみなと食卓に着かないのは何も協調性がないからというわけではなく、自分の匂いで料理を損ねてしまわないかと気遣ってのものだったのだ。アグネスさんもその事は承知していたようで、今までは仕方ないと大目に見てきたようだ。しかし、後々風呂に入れば一時的に匂いは抑えられる事をフランツィスカが黙っていたのが発覚し、俺たちはフランツィスカがアグネスさんにこっぴどく叱られる様を拝む事となる。
「着心地はどうだい? フランツィスカ」
「肩周りがきつめだ。動いて壊すかもな」
「そうか。動きづらいときは言ってくれ。すぐに仕立て直すよ」
「構うな。俺としては、全裸に赤外套だけでも全然気にしやしないんだから」
食堂隅のキノコ2本が「いけませんのよ!」「それはいかん!」と声を上げるが、アグネスさんに摘み取られておとなしく席に座らされる。その様子を見たマルグリットがクラリッサを伴い、自分たちも席に着く。では俺もと、そう思ったところで、フランツィスカに服の裾を引っ張られた。
何事かと思いきや、素早い動きで制服の襟をつかまれ、彼女の顔の近くへと引き寄せられる。ちょうど互いの耳元に囁けるくらいの距離だ。食卓の方に緊張が走るが、フランツィスカはそんな事は承知とばかりに俺の耳元で囁いた。
「まあ、ハンナみたいに軍紀軍紀って堅苦しくないのは俺としてはありがたいし、他の連中と仲良くやってくれてるのも感謝してるとこなんだが……」
「……なんだい?」
「あんたには、お針子仕事以外は期待してねえ。指揮官としてもハンナの方が俺たちの事を良く知ってやがるからな」
「何が言いたい?」
「あんまりでしゃばって前線に出てくるな。流れ弾に当たって死んでも知らないぜ?」
「痛み入るよ。心配してくれてありがとう」
フランツィスカはしばらくを俺を横目でにらんでいたが、急に力を抜いて俺を解放してくれた。その表情は何ともやりにくいと言いたげなもので、彼女が普段見せるような表情ではないと感じ、ちょっと興味をそそられた。
「やりにくいわ。隊長さんよ、あんた自分の死に慣れ過ぎてるぜ」
「え?」
それだけ言い残すとフランツィスカは耳をかきながら空いている席に着く。俺の方も何事もなかった風を装って席に着いたが、心臓が早鐘を打つのがわかる程に動揺していた。ここに来て三日目、しかもフランツィスカに至っては初日と今日と合わせて数分程しか顔を合わせていないのだが、こんなにも早く俺の抱えているものに気付かれてしまうとは、思ってもみなかったのだ。