終話:繭成す城と静かな森、そして“鉄枷”のハインリヒ
“隻眼”の人狼が大軍を率いてハンブルク城に攻め込んだ夜の出来事。その後日談を語るとしよう。とは言っても、まずは何から話せばいいのだろうか。やはり時系列に沿った方がいいだろう。俺とリーゼロッテとがハンブルク城へ帰還したところから、始めよう。
◇
俺たちがハンブルク城を遠目に見つける頃には、もう日は高く昇っていた。リーゼロッテを抱きかかえながらの行軍だったが、苦ではなかった。俺の腕の中のリーゼロッテは、泣き腫らして眠ってしまっていた。ヨハンの最後の言葉を聞いてしまった事と、俺が変異種に撃たれて意識を失った事。あまりに突然事態が変化を見せて、心が着いていけなくなったのだろう。目覚めてからも、彼女はしばらく胡乱な表情のままだった。
今、彼女の目に眼帯はなく、傷が露わになっている。おそらく、帰るどさくさで解けてしまったのだろう。あるいは、“隻眼”が持って行ってしまったのかもしれない。
さあ、もうすぐだと。俺がひと息ついて歩き出そうとした時の事だ。不意に、リーゼロッテが俺を呼ぶ声がした。以前の俺ならば聞き取れなかったであろう程の、小さな声で。
「……ハインリヒ、隊長?」
「目が覚めたかな、リーゼロッテ。もうすぐハンブルク城だよ? 自分で立つかい?」
リーゼロッテは応えず、再び黙り込んでしまう。今はそっとして置こう。そう考えた時だった。リーゼロッテは俺の腕の中で身じろきして、下から顔を見上げてきた。彼女は再び、言葉を紡ぐ。
「ハインリヒ隊長。わたくしは、ハインリヒ隊長を許しませんの。わたくしから復讐を奪った事を、生きる目的を奪った事を、一生恨み続けますのよ」
恨むと言いながら、その表情に憎悪の色は見られなかった。あるのは悲しそうな顔だけ。こちらの意図を察して、複雑になってしまった内心のまま、整理の着かない心のまま発せられた言葉だ。その言葉に、俺はひとまずの安心を思ってしまう。
「ああ、リーゼロッテ。そうしてくれ。俺を恨んで、生き続けてくれ。俺も、キミに長く生きてもらえるよう、何が何でも生き続けるから」
決意を口にする。洞窟で力を手に入れて、生き、生かすと誓った決意。傲慢に生き、そしてその傲慢ゆえに他者を生かすための決意だ。
「どうして、そう、辛い生き方ばかりされますの? もう、病でたくさん苦しんだでしょうに。今度は誰かに恨まれながら? わたくしのためにですの? 憐みですの?」
「俺が生きるために必要な事だからだよ、リーゼロッテ。それに、痛みに耐える事には慣れているんだ」
「ご病気で余命幾許もなかったくせに……」
「今は、殺されても死ななそうだけれどね」
俺は笑って見せるが、彼女が笑い返してくれる事はなかった。沈痛な表情で、痛ましいものを見る目。俺をこのようにしてしまったのは、他ならぬリーゼロッテ自身だと、彼女はそう思っているのだろうか。それは誤解だと、言っても聞き入れてはくれないだろう。
無理やりに復讐を止めさせ、彼女を生き長らえらせる事こそ出来た。しかし同時に、彼女の人生を俺に縛り付けてしまった。リーゼロッテの内心にあるのは良心の呵責だ。俺が彼女の復讐を奪った事。それで、彼女が俺を恨んで生きるのように仕向けてしまった事を。
俺から目を逸らしたリーゼロッテは、赤衣のフードを被り、目元を隠した。そして小さくだが、俺に問いかけてきた。今の俺の聴覚でなければ聞き取れないくらいの小声で発した問いかけ。この小声での問いかけは、彼女の甘えなのだろうか。
「……ハインリヒ隊長は、どこにも行きませんの? ずっと、わたくしと一緒に居て下さりますの?」
「ずっと、ここにいるよ」
俺の答えに満足したのか、リーゼロッテは服の襟元をきゅと握り、再び眠る体勢に入ってしまった。もうすぐハンブルク城に着くというのに……。
出迎えはハンブルク城のみなが総出だった。みな疲労の色が濃く怪我をしている者もいたが、五体満足の無事だった。重傷を負ったマルグリットも、ハンナとアンネリーゼに介添えさせて無理やり出迎えに来てくれた程だ。
「ハインリヒ隊長、よくぞお戻りになられました。南方第七区一同、人狼の強襲を退け、全員存命であります!」
マルグリットの事をアンネリーゼに預け、ひとり前に出たハンナが敬礼と共に告げる。俺はと言えば、両手でリーゼロッテを抱えているので敬礼で応える事は出来ない。深く頷いて、目でハンナに礼を告げる。するとハンナは、ふるふると震え、目に涙を溜めはじめた。
「……まったく、みながどれだけ心配したと思っているのですか」
ハンナの抱いた不安や恐怖を、俺は推し量る事しかできない。だから、礼は言葉と、行動で示さなければ。リーゼロッテを左腕に抱き直し、空いた右手でハンナの頭を撫でる。女性にしては身長が高めなハンナだが、それでも俺よりは頭ひとつ分は背が小さい。子供にするように、親しみを込めるのならば、妹にそうするかのように撫でてやれば、返る表情は口元を引き結んでの上目線のにらみだ。
「じ、自分は、子供ですか……?」
「いいや。頼りになる副隊長さ。そして、大切な家族だと思っているよ。……嫌だったかい?」
嫌ではありません。涙声で小声だったが、はっきりと答えを聞くことが出来た。そのまま顔を真っ赤にしてそっぽ向かれてしまった。まずいな、怒らせてしまったようだ。ご機嫌を取る方法を今から考えなくてはなるまい。
担架を持ってやってきた黒斧団員たちにリーゼロッテを預けたところで、いよいよ俺の身体の変化はみなに知れ渡る事となってしまった。人狼化した左腕だ。動揺のざわめきが起こる中、クラリッサが寄って来て、俺の人狼化した左腕に頬ずりを始める。どうやらこの腕をいたく気に入ってしまったらしい。
「もふもふですのー。ごわごわしますのー。元に戻らないですのー?」
「ああ、そうだね。今のところ、元に戻る兆しはないね。ずっとこのままかも」
「大丈夫ですのー。ちゃんとハインツですのよー?」
そう言って腕に頬ずりを再開するクラリッサの様子に、周囲の目からだいぶ険しさが取れたようだ。クラリッサの鼻が悪いものではないと言っているのならば、それは信用できる。そう考えてくれているのだろう。ありがたい事だ。
フランツィスカなどは目を輝かせて寄って来くると、灰色の体毛に覆われた指を握らせ開かせて、二の腕の筋肉を圧してその硬さを確かめた。しかし、目を輝かせていたかと思えば、次の瞬間には眉をひそめて悔しそうな唸り声を上げている。
「……ハインツよう、もしかして俺より強くなってるんじゃねえのか?」
「さあ、どうだろうね。俺程度では、獣性5度の“狂犬”殿には敵いますまい?」
「慇懃な口利くなよ。……くっそ、左腕治ったら絶対喧嘩してやるからな」
「ちゃんと治ったらだね。ああ、爪には触れない方がいいよ。危ないから」
「……この爪、銀だよな。……なんだよ、なんか、ずりぃな」
口を尖らせつつも人差し指を引っ張りと、かなり好き勝手な事をしてくれる。その様子に伐採班や黒斧団のみなから笑いが上がる。俺もつられて笑うと、フランツィスカは無事な右手の指をくいと曲げる。こちらに顔を寄こせという合図だ。
「……もう、手前が生きる事、諦めなくなったんだな。ハインツ」
「……おかげ様でね。どうあっても生きていかなくちゃって、そう思えるようになったからね」
「ほー? じゃあ、俺も急いでハインツとガキつくる必要はねえな」
「諦めてなかったのかい?」
「5人は欲しいところだよなー。ガキだけで赤衣隊つくれるくらいに……」
そこで、この内緒話を遮るかのように咳払いが起こる。みなの視線は担架の上で丸まっているリーゼロッテに向けられた。フランツィスカの言葉を耳ざとく聞き付けて黙っていられなくなったのだろう。しかし、リーゼロッテが俺たちの内緒話を聴く事が出来たのは、彼女の並外れた聴覚のせいだ。他のみなには、俺とフランツィスカが顔を近づけていたところを、見えていないはずのリーゼロッテが咳き込んで遮ったように見ただろう。みなの視線を一身に浴びて気まずくなったのか、リーゼロッテは担架の上で赤衣を纏い直して丸くなっってしまった。
再び笑いが起こり、全員の無事が確認されやっと一息という中で、俺はヘルムート団長にある頼み事を持ちかけていた。
「……はあ。何ですって? ハインツ坊ちゃん。……ああ、いえ、ハインリヒ隊長」
「好きな呼び方でいいよ、ヘルムートさん。頼みがあるんだ。枷を拵えてほしい。この左腕を覆い、抑えるための枷を……」
銀の爪が備わった人狼の腕は、半人狼の娘たちにとって、いや、他のみなにとっても危険なものになる。ふとしたはずみで誰かを傷付けかねない。だから、動きを制限するための枷が必要なのだ。
ヘルムートさんは枷をつくる事を、二つ返事で承諾してくれた。出来上がった枷は、黒斧団が保持していた鎧の腕部分を流用して作られた。手工や二の腕、肩と、人狼化した部分全体を覆う黒い色。関節の駆動を大きく制限し、急な動作が出来ないように。指先もまた同様で、四つの指が連結して開かない工夫がされている。
この枷のおかげで、軍本隊への言い訳に信憑性が増したのも事実だ。俺の腕の事は、本隊には「負傷」とだけ伝えていた。まさか、人狼化したなどと言って実物を見せるわけにはいかないだろう。そんな事を告げて腕を見せてしまえば、すぐに拘束され連れて行かれ、実験動物にされてしまうのが落ちだと、そう思ったからだ。だから、この枷の内側の事を深く追求されなかった事は、安堵するとともに、少々きな臭くもあった。裏で何かが動いているのではないか。そんな懸念があったのだ。
だが、懸念は別のところに現れていた。この枷に苦情を言い付ける者たちが現れたのだ。今回の“隻眼”の件を受けて、南方第七区近辺を改めて調査する事になり、このハンブルク城を訪れた本隊調査団の者たちだ。黒く刺々しい鎧部分があまりに禍々しく、ハンブルク城を訪れた客を委縮させてしまうのだと。半ば言いがかりのようなものだ。
だから仕方なく、俺は赤いマントを左肩にかける事で隠すようにした。赤衣隊の隊長であるのだから、俺が赤を纏っていても構わないだろうという屁理屈まで捏ねたが、予想に反してこちらの方は好評だった。彼らの感性が掴み切れていないが、まあ良しとしよう。
しかし、嫌味や皮肉は必ずと言っていいほど口にするのが軍の本隊というものらしい。誰が吹いたのか、俺の事を“鉄枷”のハインリヒなどと呼ぶ者が現れたのだ。その禍々しい鋼鉄の腕で、黒森の人狼を一体残らず薙ぎ払ったのだと、若干真実が混じった噂が流れ、俺の事を知らぬ人にですら「ああ、あの恐ろしい“鉄枷”の……」などと、不名誉な枕言葉を付けられるようになってしまったのだ。これでは、赤いマントを纏わずとも同じではないかと、俺自身が不平を漏らす事になったのだが……。
しかし、困った事になったと感じたのは、どうやら俺だけのようだ。伐採班や黒斧団のみなは進んで“鉄枷”のあだ名を他に吹聴する始末であり、赤衣隊でもフランツィスカやハンナなどが「箔がついていい」などと言うのだからどうしようもない。こうして俺は、“鉄枷”のハインリヒとして名を馳せる事になってしまったのだ。
◇
ハンブルク城はその後、リーゼロッテやハンナが前々から温めていた改築計画を、本格的に開始する事になった。リーゼロッテが自らが貯蓄していた資金を使って、城下町の建造物の撤去と建築とを開始したのだ。この改築にはなんと、出資を渋っていたはずの軍本隊からも増資があり、ハンブルク城のみなを驚かせた。
撤去と建築とにはヘルムートさん率いる黒斧団が名乗りを上げた。ハンブルク城に駐留していた団員に加え、都市区や他の地域に散っていた団員たちが一堂に会し、大がかりな工事が連日続けられる事になった。建築されるのは、軍の施設として貸し出す事の出来る倉庫や住居、外来の者が寝泊まりする宿舎や、兵科の訓練場など。その範囲は城下町だけにとどまらず、城壁の外に新たな城壁を構築し、広大な土地を新たに開拓する動きも始まっていた。
と言うのも、ここ南方第七区には兵科増員の話が持ち上がっていた。今回の事件の報告書を提出した後、本隊の方から調査隊が派遣されたのだが、調査隊の者たちは静かになった黒森の様子に心底驚いたのだという。人狼の姿が消えた黒森は、伐採班にとって絶好の作業環境になる。よって、冬が明けて春になる頃、一斉に伐採作業を進めるため、増員を決断したのだという。これならば、増資の話も頷けるというものだ。
増員されるのは伐採兵科だけではない。黒い樹や人狼の調査・研究を行う部署や、伐採機などの機械を試作している部署が、試験運用のために駐留する事になるのだ。伐採後の枯れた大地を再生するための研究も行われる事になるのだという。今さらながらに軍医の配属も決まり、マルグリットが呆れたように笑んでいたものだ。
そして、赤衣隊の訓練場をも、この南方第七区に設けようという話が出ていた。もう決定事項らしい。現在の南方第七区赤衣隊は、総合獣性値が大幅に下がっている状態だ。マルグリットは負傷にて療養中、リーゼロッテは改築事業に従事するために赤衣隊を退役。フランツィスカも療養こそしていないが、左腕の骨折のせいで一時的に獣性判定が下限されて3度となってしまっている。本人は“狂犬”の名に傷が付いたと喚き、ひどく荒れていた。クラリッサよりも低い獣性判定を下された事に相当ご機嫌ななめの様子だった。ふたつ名と自分の力に、多大な自信と誇りとを抱いていたゆえ、気持ちはわからなくもない。
以上を踏まえると、現在の七区の獣性合計値は8度と、最大値を大幅に下限した事になる。空きの7度分に訓練兵科を投入する事になるだという。ハンナが言うには、兵科登用の下限値は獣性2度からなので、二人から三人となるらしい。今から追加の赤外套を仕立てないとね、などと言ったら、療養しろとハンナに叱られた。
しかし、兵科登用基準が獣性2度からだとすれば、獣性1度のハンナがどうして兵科登用されたのかが疑問ではある。どうやら、最初は赤衣兵ではなかったらしいというのは、後になって知った事なのだが、この話はまた次の機会という事にしよう。
そうして、南方第七区の拠点であるハンブルク城は、その姿を変化させるべく動き出したのだ。秋に繭を拵え、春に孵化するように。
◇
赤衣を纏う娘たちにも変化は訪れていた。負傷による療養や、抱えていた問題の変化など様々だ。
マルグリットは多腕の変異種との交戦で重傷を負ったため、赤衣隊を一時除隊し、赤衣隊宿舎の自室にて療養中だ。ひと月が過ぎる頃には杖を突いて歩けるまでに回復してはいたが、まだ日常生活を送るには不便な部分が多いようだ。
杖を突き歩けるようになったマルグリットは、望む者に彼女の会得している体術や知識を教えるようになっていた。頼られる側であったものが、人を頼らなければならない側になり、心境の変化があったようだ。もし、今回の負傷で自らが命を落としていたら、他のみなに迷惑がかかると感じたのだろう。雑務に始まり、医療や戦闘まで幅広く熟す彼女だ。たいていの事をひとりでこなしてしまうため、他の者がマルグリットの担当している分野に手を付け辛かったという事もあったのだ。
今回彼女が負った重症からの回復は、マルグリットが伐採班員たちに請われて手術の基礎的な部分を事前に教授していたのが大きい。それで、自分ひとりが特定の分野を独占するのはまずいと気付いたのだろう。ちなみに、何故伐採班員がマルグリットに教えを請うようになったかというと、先日俺が負傷した事が原因だったようだ。“隻眼”との遭遇戦で負傷した俺を見て、みなもこれはいよいよまずいと感じたらしい。一応兵科であれば応急処置等は必修となるが、そこからさらに一歩踏み込んだ知識と技術は、衛生兵の分野となる。七区には衛生兵はおろか軍医すらおらず、マルグリットひとりがそれを担当していたのだから当然の事だ。今までは大した強襲もなく、あってもフランツィスカやマルグリットが難なく撃退してしまっていたため、危機感が薄かったという要因もあったのだ。
それは戦闘の面についても同じで、マルグリットが戦線を離脱した事で、フランツィスカをはじめ、伐採班や黒斧団にも多くの負傷者が出ている。クラリッサとアンネリーゼとの参戦で、ぎりぎりのところで持ちこたえはしたが、やはり赤衣隊である自分が戦線離脱したのが大きな要因だと考えているようだ。これに関しては、ハンナがしきりに「自分のせいだ」と明言するのをやんわりと受け流していた。例えその通りだとしても、自分が抜けた事で他の者が負傷したのが我慢ならなかったのだろう。
彼女が会得している体術は、その姿をかき消すような人間離れしたものもあれば、襲ってきた相手の手を捻って転ばせるといった護身術のようなものまで幅広い。仕事に空きが出来た有志を相手に、マルグリットは持てる技を、教わる当人が無理なく出来る範囲を見極めて、丁寧に教えて行った。俺やハンナも時間をつくって教えを請いに行き、俺などは何故かよくハンナに投げ飛ばされていた。
マルグリットが全快し赤衣隊に復帰するにはまだまだ多くの時間が必要だ。そのあいだ、彼女はこうしてハンブルク城における教官役を引き受ける事になったのだ。頼られる事を至上としていた彼女ではあるが、この行為はそういった欲求を満たすためのものではないと、断言できる。相変わらず、笑みを絶やず内心を見せない彼女ではあるが、己のあり方を改めた姿は以前よりも頼もしいと感じてしまうのだ。
アンネリーゼはハンブルク城の一員となった。と言っても、赤衣隊としてではなく、ハンブルク城の所有者であるリーゼロッテの親族ゆえの滞在という事になる。みなからは「エリー」という愛称で呼ばれ、各所の雑務の手伝いやリーゼロッテの輔佐をしながら、暇な時は一日中、日向で本を読んで過ごしている。昔読んだ物語に目を通しているようだ。
彼女の人狼並みであった膂力と感覚とは、ハンブルク城での迎撃戦の夜以来、すっかり衰えてしまったようだ。獣性判定は1度、ハンナに腕相撲で負ける程だという。狂乱の兆候もなく、彼女を悩ませていた情欲の獣性もすっかり消え失せてしまったのだという。俺の血による効果ではないかと言われているが、どうなのだろうか。余談だが、フランツィスカがこの件をたいへん残念がっていた。自分と並ぶ腕自慢が現れたのが相当嬉しかっただけに、落胆は大きかったのだろう。
ヨハンの事については、覚悟こそしていたが、やはり最後に顔を見て話して見たかったと、残念そうに告げていた。彼女とて、ヨハンの意図に気付きつつも、その通りにするのが互いのためだと考えていたからだ。兄妹の関係、その最後にかかわる事が出来なかった事は、相当悔しかったに違いない。黒森で彼の遺体が発見されなかったというのも、彼女の心を悩ませている事のひとつだ。調査団の話では、晩の嵐の影響で増水した川にでも落ちたのだろうというのだが、どうしてもそれを落としどころにする事は心が許さなかったようだ。もしかしたらと、不安や、あるいは希望のようなものを感じてしまっていると、俺に漏らした事もあった。
しかし、いつまでも気を落としてはいられないと、彼女は知識の詰め込みを始めていた。失われた十年間を取り戻すかのように勉学に励むようになったのだ。ハンブルク城に来た時は簡単な文字が読める程度だったものが、読み書きを完ぺきにこなし、さらには計算や金勘定といった商売に必要な分野に手を出している。リーゼロッテを補佐ができるようにとの事だが、まだまだ学ぶ事は多いようだ。
ハンナは今まで通り、南方第七区の副隊長としての役割を果たしている。強いて変化を挙げるとすれば、以前よりも伐採班や黒斧団の面々と接する機会を増やしているようにも思える。今回のハンブルク城強襲の件で、もっと綿密な打ち合わせが必要だと実感したのだろう。
以前ならば、軍規で定められている以上、赤衣隊が他の部隊と必要以上の関わりを持つ事は好ましくないと、頑固に規律を守り通していた事だろう。今では「バレなければいい」とばかりに、打ち合わせの他に、宴席などの企画も自ら率先して立案してくれている程だ。もちろん、「バレたらみな、全力で誤魔化すのを手伝ってくれ」とも他部隊に念を押す事も忘れていない。他部隊のみなからは「話のわかる人になった」と、ずる賢い笑みと共に賞賛を浴びているようだ。
それと、前述したようにマルグリットの体術指南の際には、嬉々として俺の事を投げ飛ばしたり、業務がない日は伐採班のハンナたちと一緒にいる姿が良く見られる。何でも、黒斧団にもハンナという名の娘がいて、ハンナ三人で休憩所のテーブルで情報交換など行っているそうだ。何の情報交換かは教えてくれなかった。おそらくは各隊の近況などだろう。本来なら俺が進んでやらなければならない事なのに、頭が下がる思いだ。
そうそう、これは変化といえば大きな変化なのだが、ハンナは髪を伸ばし始めた。以前は「女がてらに役職付きという事で、舐められないように」と、髪を短くしていたらしいのだ。それをやめたという事は、やはりハンブルク城のみなと打ち解けたというのが大きいのだろう。そんな話をマルグリットにすると、何故か彼女は渋い顔で唸るのだ。マルグリットが言うには、どうやらハンナは髪留めのリボンが欲しいそうなのだ。膨大量の髪を持つアンネリーゼや、手入の大変だというマルグリットに、仕立ての余り布で拵えた髪留めを渡した事があったが、まさかハンナがそれを目当てで髪を伸ばしているなど、そんな事あるわけがないではないか。
……などと話すと、また渋面をつくられてしまった。一応、ハンナの髪が肩までの長さになったらリボンを渡そうと考えている。最近など、スカートなど履くようになったりと、以前よりも格段に女性らしい服装をするようになったので、なおさら必要になるやもしれない。
クラリッサの変化は大きなものだった。とはいえ、それは内面の変化が主であり、外見上は普段とあまり相違ない。いつも通りの愛くるしい仕草と、無意識の気遣いとで、城のみなを癒している。強いて変化を挙げるとすれば、少し雰囲気が大人びいて来た事だろうか、ふとした瞬間に見せる表情が、何かを想い憂う顔に見えるのだ。人狼たちと直接戦った事や、変異種にとどめを刺した事が原因だろうか。そんな彼女の変化に気付いている者は少なくはない。みな、変な気遣いをする事無く、普段通りの生活を送りながらも、彼女の変化に気を配っている。
そんなクラリッサには、新たな日課が出来つつあった。ハンブルク城の外れ、城門の近くに馬屋があったのだが、そこは今は取り壊されて、墓標が立てられている。人狼たちを弔うためのものだ。兵士を弔うものならまだしも、敵である人狼を弔うなどと言語道断だと、本隊の兵科なら笑うだろう。俺はそうは思わないし、あの夜人狼たちを迎撃したみなも、同じ気持ちだった。人狼に家族や友を食われ、恨んでいたはずの者までが、この墓標を立てる事に反対しなかったのだ。ハンブルク城を襲った多腕の変異種、その最後を看取ったからだろうか。ヨハンの話によれば、変異種はハンブルク城の前の施設である、ハーゲンベックの檻にて捕らえられていたのだという。あの多腕の変異種はかつて、あの馬屋があった場所に居たのだろう。
その墓標には、毎朝欠かさず花が添えられていた。花を添えた者がクラリッサである事はすぐにわかった。彼女は朝早くにハンブルク城を出て、野に咲く花を摘んで墓標に添えている。あの夜から、毎日欠かさず。想い憂う表情の原因である事は確かだが、今はみな、彼女を見守る事にしている。無理をして以前の通りに振る舞っているいるわけでもなく、ただ、彼女の中にひとつ、考えるべき命題が追加されただけなのだ。クラリッサが彼女なりの答えを出すのを、見守り待とう。
さて、そんな変化がこの小さな少女に起こったのならば、もう人の寝所に潜り込むような事はしなくなったとお思いだろう。ところが、これが何とも、そんな事はなかったのだ。夜遅く、俺が寝静まった頃にそろりそろりとやって来て、シーツの中に忍び込んでは身体を擦り付け匂いを纏うと、日課を果たすために明け方早くに出て行ってしまう、といった次第だ。
お寝坊さんではなくなっただけでも偉いものだ。クラリッサが人肌恋しさから卒業するのは、まだまだ先になりそうだ。
フランツィスカも大きく変化したひとりだろう。今回の襲撃で、自分ひとりで戦線を維持できなかったどころか負傷してしまい、俺やリーゼロッテの応援に駆け付けられなかった事を相当悔しがっていた。俺としては結果的にその方が良かったとも思っている。フランツィスカがあの場に居たら、俺が制止する暇もなくヨハンの命を奪っていただろう。リーゼロッテに復讐を遂げさせないという考えのうえでは、俺とフランツィスカとの意見は合致していたのだ。
怪我のせいで獣性が一時的に下方修正された事に不満を訴えてはいたが、ならば再び“狂犬”に返り咲いてやると、息巻いてもいた。それまでは己の身体能力と直感とを武器に戦ってきたフランツィスカが、ハチェット以外の武器を扱えるかどうかと試したり、またハンナたちの開く想定戦の会議に顔を出し口を出す光景は、付き合いが長い赤衣の少女たちの目にも新鮮に映ったようだ。マルグリットの教練にも参加して、ハンナと共に俺を投げ飛ばすのだから、こちらとしては堪ったものではない。
他には、俺の“鉄枷”をいたく気に入ったらしく、自分も同じようなものが欲しいと言い出した事があった。俺の方もちょうど、赤外套や装備を新しくデザインするに当たり、モデルが欲しかった。暇をしていて戦闘経験も豊富なフランツィスカは打って付けだったと言えるだろう。ただ、お互いの仲が深まり過ぎたというか、互いに裸でいてもほとんど気にならなくなっていた部分もあり、それが災いした時もあった。
それは、フランツィスカ用の装備をつくるに当たり、彼女が傷を負った箇所を再確認していた時だった。彼女がこれまでの戦いで負った傷や、先の襲撃で受けた傷などだ。どの部分に負傷が集中しているかを確かめる事は、その部分に防護の厚みを持たせるために重要だ。フランツィスカ自身も快く了承し、俺の部屋で昼間から一糸纏わぬ格好になっていたところを、偶然通りかかったリーゼロッテに見られてしまったのだ。フランツィスカがリーゼロッテを挑発するわ、リーゼロッテが無言で剃刀を持ってくるわの大騒ぎ。
だが結局のところ、リーゼロッテの怒りの焦点は、フランツィスカが俺の部屋で裸でいた事ではなく、彼女が体毛の処理を怠っていた事だったらしい。無理やり湯場に引っ張って行こうとするリーゼロッテと、抵抗するフランツィスカと、そしてその状況を目撃して頭を抱えるハンナと、赤衣隊の宿舎は概ね平和だった。
◇
さて、もうひとつ。その後の顛末として追記しておかなければならない事がある。改築を進めるハンブルク城に、意外な人物が現れたのだ。リーゼロッテが贔屓にしていて、それなりに取引のある商人たち。彼らが談合のためにこの城を訪れた際に、なんと俺の知る者の姿が見えたのだ。
俺がこの南方第七区に着任する日、馬車の御者をしていた人物を覚えているだろうか。俺を黒森に置き去りにした人物。そう、彼が居たのだ。フードを目深に被り表情を隠した彼、こちらが話しかけても一言も返さなかった彼だ。
御者はこの城を訪れる際にも、同じ馬車の御者として現れた。商人の馬車を操る御者として。その時俺は、偶然ハンブルク城内を散歩中だった。元からあった廃屋群を取り壊して区画整理が行われる最中、まだ取り壊されていない地帯を見納めて置こうと考えたのだ。
すると、道に迷ったような素振りを見せる人影を見つけ、声を掛けようとして、件の人物であると気付いたのだ。人違いという可能性もあるのではと考え、確証を得ようと近付くと、彼は俺の姿を見るや否や、踵を返して走り出したのだ。
俺は、御者を無言で追って廃墟群を行った。ついでに確証も得られた。あの御者、俺を見て笑ったのだ。
御者を追って路地を曲がると、彼はその先で背を向けて立ち止まっていた。俺は走るのをやめて、ゆっくりと彼に歩み寄って行く。何故、彼がハンブルク城にいるのだろうか。そして、彼が本当は何者なのかを問い質す必要がある。
「キミはいったい、何者なんだい?」
御者はこちらに背を向けたまま、何の反応も示さない。俺がハンブルク城に来た時の彼とは別人だという線は、おそらくない。鋭敏になった嗅覚は、目の前の彼があの時の御者と同じ匂いだと言っている。
「何故、俺を黒森に置き去りにしたんだい? 誰の意志で?」
自らが纏った赤衣の下、“鉄枷”に覆われた左手の指に力を込めて拘束を外し、拳を握りしめる。この爪を使う事があるかもしれない、そう直感が告げている。では、この御者の正体は人狼なのだろうか。その答えを聞けそうだ。御者がこちらを向いた。
「再び生きてお目にかかる事が出来て光栄です、シュナイダー卿。いえ、ここでは“鉄枷”のハインリヒ殿とお呼びした方が宜しかったのでしょうか? ……それとも、“銀爪”の人狼、とでも?」
“鉄枷”のふたつ名はともかくとして、“銀爪”の事まで知っているというのか。本当に何者なのだ。俺の疑問に答えるかのように、御者は被っていたフードを取った。御者であったはずの人物、その顔立ちは中性的だが、声で女である事がわかった。歳は若く、まだ十代半ばのように見える。雪のような白い髪は陽光を受けて輝いているようだ。そして、彼女の頭には、髪と同じ色の、一対の狼の耳が生えていた。半人狼種なのだ。
「この姿をお見せするのは初めてですね、シュナイダー卿」
「ハインリヒで構わないよ」
「では、ハインリヒ殿と、お呼び致しましょう。私はあなた方がふたつ名で呼んでいる人狼です。私に当てられたふたつ名は“白影”。“白影”の人狼と呼ばれている者ですよ」
人狼、しかもふたつ名持ち。“白影”の人狼といえば、各区域で目撃例が上がっている神出鬼没の人狼の事ではないか。この少女がそうだというのか。
「キミが“白影”だというのかい? 自ら正体を明かしたという事は、キミの目的を話してくれる気にでもなったのかな?」
「もちろんですとも、ハインリヒ殿。あなたは試練を乗り越え力を手に入れたのですから。我々の同志となる資格を得たのです」
「同志。志を同じくするものか。その志とは?」
「救済です。この世界と、そして我々半人狼にとっての、ね」
漠然とした答えに自分の眉が寄るのがわかる。
「詳しい話を?」
「もちろんですとも、ハインリヒ殿。その前に、まずはあなたに行った仕打ちをお詫びさせて下さい。何の説明もせず黒森に置き去りにした事を」
「キミたちにとってそれは必要な事だったのだろう? 俺がこの銀の爪と、半人狼に匹敵する身体を、そして人狼たちを統べる力を持つための布石だった。違うかい?」
「仰せの通りです。我らが同志となるに値する人物か否か、それを見極める必要がありましたゆえ」
「お眼鏡に適ったようで何よりだよ」
“白影”と相対してはいるが、俺は死の気配を感じ取れていない。殺意はないという事だろうか。いや、それは違う。人や獣が放つ殺意の有無が最大の知覚材料ではあるが、どこからともなく飛んできた石や、倒壊して降ってきそうな屋根ですら、俺を殺そうとするものなら無機物でも知覚できるようになっていた。半ば不死身となってしまった身体に関わらず、まだそういった感覚が残っているというのは、何というか不自然な気がする。この身体がすでに不自然の塊なので、何を言っているのかという話になってしまうが……。
「我々はあなたのような存在を生み出すために、長い年月をかけていました。黒森の侵攻によって滅びゆく人類を救い、半人狼種族の救済と発展とを願う。ハインリヒ殿、貴方さまの力は、そのためのものなのですよ」
「人類を救う、か。確かに、人狼を黒森の深くに追いやれば、安全に伐採作業を進める事が出来るだろうね」
俺は黒森で、人狼たちに「去れ」という意思を込めた咆哮を放っている。黒森の奥深くへ帰り、二度とこの第七区に現れるなと。その効果は絶大だったらしく、あれからひと月経った今でも、この近隣で人狼の姿が確認されたという報告はない。もしや、他の区にしわ寄せが行ってしまったのではないかと焦りもしたが、その影響が他の区に現れているという報告も、今のところない。
「それだけではありませんよ、ハインリヒ殿。貴方さまの力はそれだけではない。貴方さまの血には、狂乱して人狼化した娘を元に戻す力がある。それがどういう事か、理解を?」
「少しはね。俺の血で血清でも拵えれば、獣性が高まりすぎた娘たちを鎮めて、狂乱を抑える事も出来るだろう。それに、獣性を下げられるのならば、半人狼の男児の命を奪う必要もなくなるね。そして……」
そして、もうひとつ。
「この血の力を用いれば、半人狼たちを無力化する事も可能だろうね。赤衣隊に登用されるような、高い獣性を秘めた娘たちも……」
“白影”は俺の答えに笑む。そこまでわかっているのならば嬉しい限りだと言わんばかりに。
「その通りです、ハインリヒ殿。そして、残念な事に、志を違えた者たちがいるのです。彼らは、あなたの血を用いて半人狼を抑えつけようとするでしょう」
「俺が、その志を違えた者たちに、命を狙われるとでも?」
「その可能性もございますね。この城に出入りする人員が増えるに従って、そういう輩も増えてゆくでしょう。私のような力を持った間者が紛れ込むかも」
「出来れば、そういった者たちすべてを抱き込んで、穏便に行きたいものだけれどね……」
命の奪い合いは、もうたくさんだ。相手が人狼でも人であっても、例え怪物であってもだ。
「お優しい事です。あるいは、とても残酷な事とも」
「我々が貴方さまの味方である証をお渡ししましょう。そちらの木箱の上をご覧ください」
“白影”が告げて、その方を掌で差す。俺の傍らの木箱の上、そこには、軍の紋章が入った箱が置いてあった。先ほどまでは、木箱の上には何も置いていなかったはずなのに。
「空けて、中をご確認ください。……それとも、私が開けた方が?」
「いいや。俺が開けるよ」
この箱からは死の気配を感じない。罠の類ではないだろう。それに、俺はこの箱に見覚えがある。右手で鍵を回し開くと、やはりと思い、自分の顔が険しくなるのがわかった。
箱の中身は、拳銃が一丁と、銀の弾丸が五発。この箱は、赤衣隊の隊長、もしくは赤衣隊を保有する区画責任者に貸与されるものだ。俺が持っていた拳銃は、あの夜黒森で破損させ紛失しているし、銀の弾丸はハンナに渡したものも含めてすべて使い果たしている。この件をどう誤魔化そうかと相談した時、襲撃時にすべて使い果たし、拳銃をも喪失した事にしましょうと、そう口裏を合わせている。実際、事実と大差ない。
しかし、何故“白影”がこの箱を、という疑問は尽きない。この箱を渡す事の出来る人物は限られている。都市区本隊の最高司令部の人間。俺など、顔も見た事のないであろう上官だ。
「念のため申し上げますが、盗品ではございませんよ。許可証等、きちんと貴方さま宛に発行されたものです」
付属の許可書に目を通すと、なんと、件の最高司令部の重鎮たちの名前が列挙されているではないか。
「……“白影”の。ここに名前が載っている人物こそ、キミの言う同志諸兄らである、という認識でいいのかな?」
「左様でございますとも。そこに名を連ねている方々は、貴方さまのお味方です。何か緊急の際には“白影”の名を告げて頂ければ、貴方さまの力になる事でしょう」
「そうか……。では、キミは彼ら最高司令部と、現地の同志諸兄等とを繋ぐ役割を帯びているという事だね?」
「左様でございますとも、ハインリヒ殿。ご理解が早くて嬉しゅうございます」
「この同志諸兄等は、俺に何をさせたいんだい? 具体的な話さ」
「はい。現状は、このままを続ける事を。南方第七区がこれから行おうとしている動きを、全面的に推奨するものでございます。もしも我々の側で不満や問題が起こった場合は、私を通してそれをハインリヒ殿にお伝えするでしょう」
「俺が、その不満や訴えを拒んだ場合は? そもそも、まだ俺はキミたちの同志になった覚えはないよ」
「説得致しますとも。同志に加わって頂く件は、後々ご決断頂いても構いません。少なくとも、ハインリヒ殿。貴方さまご自身の志は、我々と道を同じくするものであります故」
「なるほど。道は同じでも、行き先は途中で別れるかもしれないという事だね」
いつ手が切れるかはわからないという事か。こういう場合、どうするべきだろう。現状は様子見で合っているとは思う。敵味方の区別を早々に宣言する必要はない。それに、同志諸兄らが目的のために動くとなれば、こちらに何事かを要求してくる事は間違いない。それがいつになるかは概ねあたりが付けられる。ハンブルク城の拡大が落ち着きを見せた段階や、新規参入者との間で問題が起こった時。あるいは、先程“白影”が言ったように、あちら側に問題が発生した時だろう。
その時になるまで、事前にどれくらいの判断材料を集められるだろうか。出来るだけ多くを掴んでおきたい。
「我々をお疑いでしょうか、ハインリヒ殿」
「ああ、とても疑わしいものだね。だから即決は避けるよ。諸兄等の列に並ぶのか否か。うちの副隊長にも判断を仰がないといけない。相談しないと、怖いんだ」
「存分にご熟考下さいませ。お返事を頂くのは今日でなくとも構いませんのですから……。そうですね、我々の希望としては、なるべく多くの賛同者が得られるよう、この城中の人員に御触れを出して頂きたいものです」
「それは出来ないな。キミたちの試みに、もしかしたら危険かもしれない事業に、みなを巻き込みたくはない。引き入れたいのならば、ひとりひとりに説明と判断とを委ねるのだね」
「手厳しい事です。……それでは、私はこの辺でお暇したいと思います。いずれまた、近いうちにお会いしましょう」
「待ちたまえ」
踵を返す“白影”を呼び止める。笑みを浮かべたまま振り向いた“白影”は、次の瞬間表情を驚きのものに変えていた。俺はちょうど懐に入れていたリボンをひと房抜き取り、“白影”の白い髪に当てゆるく結だ。ハンナに渡そうと思っていくつか選んで来たものだ。
“白影”の髪は、さらりとして艶のあるものだった。同じような艶やかさを、マルグリットの黒髪をつい思い出してしまうのは、目の前の“白影”に対して失礼だろうか。
「白い髪には、と思って赤を選んだのだが……。気に入ってもらえただろうか?」
果たして、“白影”は固まっていた。俺の行動が理解できないという表情。さすがに不躾すぎだっただろうか。いや、以前など自己紹介も会話もなく黒森に置き去りにされたのだ。これくらいの仕返しはあって然るべきではないだろうか。……そうでもないのだろうか。
「これは俺の習慣なのだけれど、初めて会った人や世話になった人には衣類を送る事にしているんだ。キミはどうやら急ぎの様子だし、こちらも手持ちは少なかったんだ。これで勘弁してほしい」
「……いえ。ありがとう、ございます……」
歯切れが悪い、というか、呆けて心ここに有らずといった風になってしまっている。どうした事だろう。先ほどまで泰然自若としてこちらとやり取りをしていた者とは思えない。これではまるで、男に慣れていない乙女ではないか。
「赤は嫌いだったかな? それとも、俺の勘違いで、キミは男だったとか?」
「……いえ。私は正真正銘の女でございます。ただ……」
「ただ?」
「殿方から贈り物など、初めての事で……。姉妹たちにどう説明すればよいか。それに、同志等にどう報告したものかも……」
当人は混乱の極みにあるようで気付いていないらしいが、今、相当漏らしてはいけない事を口走っていた気がする。姉妹たちという事は、“白影”には複数の半人狼の姉妹がいる事になる。もしかすると、“白影”というのは人狼につけられるふたつ名ではなく、複数の半人狼の少女、……それも、各地で同志諸兄等の連絡役として活動している者たちの総称なのではないだろうか。
軍の内部が二分以上の派閥に分かれて互いを牽制し合っているのだとすれば、彼女たちを討つべき人狼として見ている派があるとしても不思議はない。連絡役がこんな事でどうするのだろう。もしかしたら、目の前の彼女が特別に間が抜けているのか、それとも俺が舐められているのだろうか。どちらにせよ、目の前の“白影”がリボンを気に入ってくれたので良しとしよう。
「……なるほど。ハインリヒ殿、貴方さまがどうして赤衣の娘たちから好かれているのか、わかったような気がします」
「ええ? 本当かい?」
そんな馬鹿な。これくらいの事、女性慣れしている男ならば、誰でもやるものではないだろうか。いや、そういえばと思い出す。俺がハンブルク城に来た日の事だ。あの日、俺が半人狼の娘たちをちゃんとした女性だと告げた時の反応が、まさにこんな感じではなかったろうか。久しく忘れている感覚だったが、都市区界隈では半人狼は人間ではないという意見が根強い所もある。目の前の彼女も、そういった環境に居たのだろうか。
だとすれば、俺は同志諸兄等に憤りを禁じ得ない。人類の救済はともかくとして、半人狼の発展を願う者たちにしては、彼女のような半人狼たちに対する接し方がなっていない。これでは悪い男に騙されてしまうのではないだろうか。何故か娘を持つ父親のような気分でいたところを、不安そうな表情の“白影”が俺の顔を下から覗き込んできた事で、やっと我に返った。
気まずそうに咳払いした“白影”は、その表情を元の怪しげな笑みに戻す。演技ではなく、この顔も彼女の持つ表情のひとつなのだろう。同志諸兄等の連絡役として、各区画を暗躍する“白影”としての表情。
「それでは、また近いうちにお会いしたいものです。ハインリヒ殿、どうか息災で……」
“白影”がマントをを翻すと、果たしてそこに彼女の姿はなかった。人狼並みになった俺の感覚でも察知できないとなると、マルグリットが使う術のようなものを、“白影”も会得しているのだろう。また近いうちに……。その近いうちがいつになるかはわからないが、それまでにこちらの出方を見直しておいた方が良さそうだ。こちらの考えや方針こそ変わりはしないが、互いに手を貸し借りする部分も出てくると思う。
果たして次に会いまみえる時に、彼女にどういった衣を送ろうかと、そう考えはじめた時だった。俺の背中に声がかかった。
◇
「ハインリヒ隊長? そんなところで何を?」
背後からの声。振り向いてみると、そこには片眼鏡を掛けたリーゼロッテの姿があった。久しぶりに見る彼女の姿は、先日仕立て上げたばかりの黒い服を着てくれていて、目元の傷は新しい眼帯で隠され、首元には赤いスカーフ、そして手には麻袋を抱えていた。軍からの配給品のおすそ分けだろうか。
軍を退役した彼女は現在、ハンブルク城改築の指揮取りを行っている。元々軍から資金が出なかったため改築を進める事が出来なかったのだが、今回の件で本隊の調査団が帰ったのち、急遽特別予算が組まれたのだという。人狼の消失に伴う増員に付随してのものだろうが、先程の“白影”とのやり取りで確信が持てた。資金提供者は同志諸兄等で間違えないだろう。経理を司る部署にも同志諸兄等の手は回っているという事か。
ハンブルク城に戻ってからここまで、リーゼロッテと話す機会はほとんどなかった。帰還した次の日には、彼女は赤衣隊を抜けて、ハンブルク城の改築計画を始動させていた。まるで、“隻眼”の一件を振り払おうとするかのように。アンネリーゼをはじめ、ハンブルク城のみなが心配する中、リーゼロッテは以前のように明るく振る舞っていた。それは、人によっては過去の因縁を断ち切り吹っ切れたように見えたかもしれない。しかし、俺や一部の者は知っている。彼女は因縁を断ち切るどころか、より深く縛られてしまっている事に。
こちら歩み寄って来て、身体に触れ、下から俺を見上げてくるリーゼロッテを見返す。その目を、片方だけの目を見る。出会った頃、そして“隻眼”との戦いの前ならば、彼女が俺に向ける瞳の色は、何色だったろう。淡い恋心か、あるいは失った兄に対する代わりを求めるものだったかもしれない。
だが、今はもう、それだけではない。復讐を奪った事に対する憎しみや、俺にそうさせてしまった事への申し訳なさや……。もう純粋なままの感情ではなくなってしまったのかもしれない。しかし、リーゼロッテは確かに俺を生きる理由に、そのひとつにしてくれた。
彼女はこれからハンブルク城の主として、この城を変えてゆく。軍の拠点として、あるいは居住地としての変化。あるいは、半人狼への価値観への変化、人狼への考え方の変化。様々なものへの変化に彼女は関わってゆく。その時、リーゼロッテが「あの時死なずにいて良かった」と、少しでも感じてくれるのならば、それでいい。
「ああ、そうですの。ハインリヒ隊長、チョコレートがありますのよ? 最近は配給の量が増えて、兵科を退いたわたくしたちにまで余剰分が回ってくる程ですの」
「豊かになったものだよね。でも、以前だってキミがやり繰りして、食糧などの確保は対策していたのだろう?」
「それはそうですけれど、毎日間食を口にできるまでには、力が及びませんでしたもの」
リーゼロッテは麻袋の中からチョコレートの缶を取り出す。缶を開けてチョコレートをひと欠け摘まみ、俺に向けて差し出してきた。手に取らず、そのまま口で食めという事だ。それにしては、差し出した手の位置が低い。身を屈めなければ届かないではないか。
「……あ。そういう事、なのかな」
背中を折って、彼女の差し出した甘みを歯で捉える。すると、チョコレートをつまんでいた手と、荷を持っていた手と、冷たさのある両手が俺の頬と顎とを捕まえる。リーゼロッテは引き寄せた俺の口に、自分の唇を重ねてきた。彼女の手を離れた荷が、地に落ちて転がる。
軍の配給である耐熱性のチョコレートではあるが、互いの唇の間で甘みを溶かすには大した時間はいらなかった。溶けて流れた甘さを互いで分け合って嚥下する。身を引こうとする俺を、リーゼロッテは顔をおさえた手に微力を込めて「待って」と合図。姿勢をそのままにすれば、彼女は俺の唇に残った甘さの残りを舐め取り、ハンカチで俺の口元を拭った。
「……今のハインリヒ隊長の味覚なら、このチョコレートでも甘く感じてしまうのでしょうね」
自分の口元をハンカチで拭うリーゼロッテは目を伏せて告げた。彼女はもう頬を赤く染める事はない。自らの顔に上がって来た熱を手で覆って冷ます事も。今のような行為に及びはするが、羞恥や歓喜よりも、苛立ちや罪悪感が勝ってしまっているのだ。しかし、行為自体を望んでいないわけではない。求めていないわけではないのだ。ただ、彼女の中には葛藤がある。幸せを噛みしめても良いのか、否か。
その葛藤は、俺の中にも確かに存在するものだ。怪物の呪いは確かに効力を発揮している。これから先、俺は心から幸せを噛みしめる事が出来ないだろう。だが、それでも、ほんの一瞬だけでも、すべてを忘れて幸福に浸れるような瞬間があるとしたら……。俺はその瞬間をずっと覚えてよう。長い人生になるのだから。
リーゼロッテは歩き出す。荷を抱え直し、空いた左手は俺の右手を引いて。触れている彼女の手は冷たい。色々な事が変わってしまう中、変わらなかったもののひとつだ。
「そうだ。いい加減俺も、キミの事をリーゼロッテではなく、リゼと愛称で呼ぶべきかな?」
「いいえ。ハインリヒ隊長。今まで通りに、リーゼロッテのままでお呼びください」
何故かなと、聞いていいものか逡巡すると、リーゼロッテは無事な目の方で俺に振り向き、こう告げた。
「わたくしが憎み、そして愛する方が、一秒でも長く、一文字でも多く、わたくしの名前を口にするように……」
リーゼロッテは笑ってそう告げた。彼女の言葉に、この笑みにどういった思いが込められているのか。それを推し量る事は出来るが、俺はそのままに意味で受け取る事にした。
◇
さて、この辺で話を終えるとしよう。“隻眼”の人狼がハンブルク城に対して仕掛けた攻撃と、南方第七区の兵科たちの迎撃の話。もしくは、人にも獣にも成れなかったものたちの生き様か。あるいは、死を受け入れて余生を過ごそうとしていた俺が、生きようと思い直したきっかけとなる出来事の話かもしれない。
紙面はまだ余りあるが、キリの良いところで終わらせた方が良いのだとはハンナ談。すでに新しい日記帳まで用意してもらっているところ申し訳ないが、これからの業務で忙殺される上に、元々日記など細目に記する習慣はあまりないのだ。
それでも、再び紙面をインクで埋める事があるのならば、それはハンブルク城の変化についてが主になると思う。これから、この場所は変わってゆく。人もそうだ。
だが、俺はもう、当分このままだろう。ずっとこのままかもしれない。もしも、心の有り様が身体に引っ張られるものならば、おそらく俺はもう変わる事がない。破壊されても再生する肉体となってしまった今では、受け入れていたはずの死すら難しいものになってしまっている。次に俺の心が変化する事があるとすれば、それは身体が変化した時、完全な人狼に成ってしまった時だろう。
もしも俺が人狼に成ってしまった場合、その時の俺に自我は残っているのだろうか。人狼の天敵ともいえる銀の爪を生やすこの身体は銀で滅ぶだろうか。わからない。わからないが、いずれその時が来るのだとしても、対処してくれる頼もしい人員は、このハンブルク城に大勢いる。そうなった時に、できればその人たちを傷付けないかが不安ではある。まあ、俺は死ぬ気も、人狼化する気も毛頭ないのだが。
黒森が人の生活圏を覆い、その浸食が取り返しのつかない状況に陥るまで、あと百年もないのだという。現状の、人力での伐採速度では、黒森の侵攻にに到底追い付けないらしいのだ。専門家の話を少し耳に挟んだ程度、専門書を少し齧った程度の曖昧な知識の上での話ではあるのだが。
だが、俺の力があれば、そしてみんなの協力がもらえれば、この世界を変えられるのではないかと考えてしまう。驕りだろうか。過信だろうか。それを、これから確かめて行く。この南方第七区の地から……。




