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南方第七区赤衣隊隊長日誌  作者: アラック
“隻眼”の人狼
21/22

14話:怪物の呪い

 俺は……。いや、その当時はまだ、自らの事を僕と呼んでいた。僕が、俺に変わったのは、やっぱり彼との出会いがきっかけだったのだと思う。鉄仮面の老医師、俺の主治医だった人だ。久しく彼を忘れていた事に違和感が残るが、いま俺の意識の大部分を支配しているのは、彼との記憶だ。俺が老医師に、「どうしてお面を被っているの?」と、無邪気に問うたあの日の光景。

「……それはね」

 老医師は、くぐもった消え入りそうな声で言葉をつくった。その時部屋には、俺と老医師とのふたりだけだった。耳が痛いほどの無音の中で、彼の声ははっきりと聞き取る事が出来た。

「それはね。僕が、こんな顔をしているからだよ」

 老医師はゆっくりと、分厚い布の手袋に覆われていた両手を、自らの頭部を覆っていた鉄仮面に当てて。指が震えるほどに力を加え、仮面をゆっくりと脱ぎ去った。仮面の下の素顔を目にした時の俺は、やっぱりと、納得する思いだっただろう。

 老医師の鉄仮面の下の素顔は、人間のものではなかった。人と狼との中間の存在、人狼の顔だったのだ。

「僕はね、ハインツ坊や。昔々に悪い事をしてしまってね。たくさんの人に悲しい思いをさせてしまったんだ……」

 老医師の声帯は人間のものと少し異なっているのだろう、人間本来の声を出す事が難しいのだろうと感じるしゃべりだった。声をつくるのに無理をせずに、ゆっくりと、途切れ途切れに老医師は告げる。

「だから、神様が僕に罰を与えたんだ。僕はこんな姿になってしまった。だから、それ以来ね、罪を償い続けているんだ……」

 人狼の顔、その橙色の双眸がとても悲しそうだったのを覚えている。まるで、俺の病が老医師のせいだと言わんばかりの、苦しみに満ちた表情だった。

 その時俺は、老医師になんて声を掛けたのだったろうか。そう、確かこうだった気がする。

「神様はきっと、先生を許してくれると思うよ」

 橙色の双眸、尖った鼻先と耳と、口角から除く牙。群青色をした針金のような体毛を、俺は怖いと思わなかったのだ。その時の俺にとって「恐怖」とは、自らを内から蝕んでゆくものだと考えていたからだ。病による熱と苦痛と、そして死こそが、何よりも恐怖だった。だから、子供の頃の、俺の頭など丸齧りに出来てしまうような大きな口が動くのを見ても、ちっとも怖くなかったのだ。

 その日はちょうど体調が悪くなかったから、というのもあったのかもしれない。普段なら恐怖を抱くはずの死の象徴が、大きな体の白い死神が、その日はかわいそうな罪人に見えたのだ。

「……神様は、僕を許してくれると思うのかい? ハインツ坊やは、そう思うのかい?」

「うん。だって、先生は僕を助けてくれるんだよ?」

 本当に、まるで子供の物言いだったと思う。まるで何も考えていない物言い。謝ればきっと許してもらえる、そんな程度の認識で口を突いた言葉だったのだ。

 だが、そんな俺の拙い言葉に、老医師は幾許か救われたようだった。獣然とした人狼の顔が、優しい人の顔に変わった気がしたのだ。

「ありがとう、ハインツ坊や。僕は、坊やをきっと救ってみせるよ。例え……。そう、例え」

 例え、ハインツ坊やに恨まれる結果になろうとも。そう告げた言葉の意味はわからなかった。ただ、老医師の目には、決意と、新たな苦悩とが浮かんでいたように思う。

 そうして俺は、その後眠りについてしまい、老医師とのやり取りを忘れてしまった。だがその後は、あれほど怖かった老医師がちっとも怖くなくなり、病の症状もだいぶ軽いものになっていった。強くあろうと心が変わったのか、自らを呼ぶ名を僕から俺に変えて。ハインリヒ・フォン・シュナイダーが、ようやく生きるために動き出したのだ。


 果たして、忘れていたはずの出来事を、どうしてこの瞬間、夢うつつの中で思い出すのか。身体が人間のものから人狼のものへと変化している事で、壊れてしまった記憶が修復されているとでもいうのだろうか。夢うつつのままに考えが巡る中、ふと誰かの意志を感じ取った。とても懐かしい匂い。きつい薬の匂い、あの老医師の匂いだ。

 目の前に、鉄仮面の老医師がいた。白衣を纏った高い背を曲げて、俺を見下ろすようにして立っている。お久しぶりですと、気さくに挨拶したいのだが、声が出ない。

「すまない、すまないハインツ坊や……」

 老医師は、鉄仮面の中でくぐもった声で、そう告げた。何を謝っているのだろう。俺は、貴方のおかげで、こうして生き長らえる事が出来たというのに。

 俺の思考は老医師に伝わっているようだった。鉄仮面がわずかに俯きを見せる。

「……こうするしかなかった。キミが生き続けるには、いくつかの危機が必要だった。そして、最後の危機を、ハインツ坊や、君は乗り越えた。乗り越えてしまった」

 その言葉はまるで懺悔のようだった。

「君は力を手に入れた。死を跳ね除ける身体と、獣を従える事の出来る力だ。……ああ、ハインツ坊や。君はきっと、僕を許さない」


 君はもう、死ぬ事が出来なくなってしまったのだから……。



 ◇


 鋭敏になった聴覚が遠くの音を捉えた。優雅な絃の音色、リーゼロッテのヴィオラの音色だとすぐに思い当たった。心地よい音色に彼女の姿を思い浮かべ、自然と笑みがこぼれる。彼女の匂いが近くにあるから安心してしまった、というのもある。自分の感覚、嗅覚や聴覚の遠近感がだいぶ狂ってしまっている事に気付かなかったのだ。

 おかしいと気付いたのは、それからしばらく経ってからだ。遠くで奏でられる音色が耳元で響いているようだ。リーゼロッテの匂いを、自分の体と、音色が響いてくる先から感じる。遠く、音が聞こえる場所から匂いを感じるなど、まるでクラリッサのようではないかと考え、それが思考の中に違和を生んで、だんだん大きくなってゆく。

 そうして増殖していった違和感は、絃の音色が銃声に変わった事で吹き飛んだ。同時に俺自身もはっきりと覚醒して、思わず身を起こした。

「……これは」

 近くでリーゼロッテの匂いがしていた正体に気付く。彼女の纏っていた赤衣だった。リーゼロッテは眠ってしまった俺にこれをかけて、ひとりで先に行ってしまったのだ。そして、ヴィオラの音色で“隻眼”をおびき寄せて……。

「銃声が聞こえたという事は、もう戦いが始まってしまったという事かな」

 身体に力を込めるようにして立ち上がると、いよいよ自らに起きた現象に戦慄した。身体が重く感じた。疲労や空腹によって脱力したから感じるようなものではなく、全身の重量が増しているという実感だ。筋肉の繊維ひとつひとつが、まるで鋼のように強力な材質に置き換わってしまったような錯覚さえ覚える。人狼化した左腕も、人間のままの右腕と重量のバランスが取れている、取れてしまっている。自身の体が半人狼のものに変わってしまったのだと、確信する。

 そして、感覚の鋭敏化だ。遠くで銃声が生まれる音を、離れていても知覚できている。黒森の中だから音が反響して、というのもあるだろう。しかし、匂いの方はどうだろうか。リーゼロッテの赤衣の匂いの他に、遠くに彼女の匂いを感じる。この場所からどれだけ離れているかもわかってしまう。彼女が焦りを帯びている事も、なんとなくではあるが、わかってしまう。これが、クラリッサが普段感じ取っている世界なのだなと、妙に納得してしまう。

 そして、一番ひどいのは飢えだ。先ほどの食事で腹は満たされているはずなのだが、ひどく空腹を感じるのだ。この飢えは食事では満たされる事がないのだろうと直感する。では、どうやってこの飢えを満たせばいい……?


 ふと頭に浮かんだ飢えを満たすための行動、その光景は、あってはならないものだった。俺はリーゼロッテを乱暴に地面に組み伏せ、その衣服をずたずたに破り剥ぎ取って、露わになった白い肌に鋭い牙を突き立てて……。


「……いいや、違う! そんな事があっていいわけがない!」

 脳裏を過る嫌な考えを振り払おうと、背にしていた巨木を右手で打ち据えた。すると、どうだ。俺などの力では絶対にびくともしないはずの巨木が、繊維を断ち切らせるような音を響かせて傾いたのだ。自分の行いに、俺自身がびっくりしてしまう。今振るったのは人狼化している左腕ではない、人間のままの右腕だ。やはり全身が、人狼のようにつくり替わってしまったのだ。

「ふたりの所に、行かなければ……。リーゼロッテ、そしてヨハンの所へ」

 嫌な考えを、そして新たに生まれた飢えの衝動には、ある程度耐える事が出来る。これでも耐える事は得意だ。だから今は耐えて、彼女の所へ向かおう。銃声は止まない、まだ戦っているのだ。彼女ひとりに重荷を背負わせるわけにはいかない。

「それにしても……。目を覚ます前の俺は、いったい誰と話していたのだろう」

 夢うつつの中で、誰か懐かしい人物と会っていた気がする。思い出せないのが歯がゆいが、今はその歯がゆさを脇に置こう。彼女の残した赤衣を首元にかけ、俺は銃声の聞こえる方へ走り出した。視界はまったく見えないに等しい程だったが、俺は樹の根に躓く事も、枝に顔をぶつける事もなくなっていた。


 ◇


 ふと、置いてきてしまったハインリヒ隊長の事が気になり出した。いけない、これからより一層集中しなければならないというのに。わたくしは黒森の中、樹々の間隔が大きく空いた場所に辿り着き、そこにヴィオラのケースを置いた。

 視界は真っ暗で何も見えないが、音でどこに何があるのかがわかる。黒森の中は枝葉の天蓋で上側が覆われているので、音が良く反響する。天然のコンサートホールのようなものだ。森の外ならば空中に霧散してしまうはずの微かな音が、木々や天蓋に反響して良く聞こえてくるのだ。クラリッサのような人狼染みた嗅覚がなくとも、行き先を誤ったり躓いたりする事はない。

 ケースからヴィオラと弓とを取り出して、演奏の姿勢に入る。わたし自身が言い出した事とはいえ、まったく馬鹿げている。ヴィオラの演奏で“隻眼”をおびき寄せようなどと、正気とは思えない。第一、わたしの兄だった人物が幼き日の音を覚えているかどうかすら怪しいというのに。

「でも、ハインリヒ隊長は言っておりましたの……」

 “隻眼”は人狼と化す前の、幼き日々の事を覚えている。そして、人狼と化した後も自我を失う事無く、在りし日の思い出と共に生き続けていたのだと。

「……終わらせますの。すべて、ここで」

 演奏開始だ。ゆっくりと、弓を弦に当てて、引き、音を奏で始める。そういえば、調子付いている時のわたくしは演奏が速弾きになってしまうのだと聞いた事があるが、それは本当だろうか。本当だとしても、このような状況では絶対に手が急ぐ事はないだろうし、自分の癖を自覚する事も二度とないだろう。わたくしが演奏するのは今日限り、これが最後だ。

 独奏の効果はすぐに表れた。複数の気配がわたくしの周囲に表れ、取り囲むように位置を定めはじめたのだ。“隻眼”の指示で現れた人狼だろうか。それとも、話に聞く双頭の変異種が指揮するものか。

 演奏を続けるわたくしの耳は、人狼が短く吠える音を聞いた。人間の発音に近い不気味な声だった。そして包囲網が動く。遠巻きにわたくしを取り囲んでいた内の一体が、勢いよく飛び掛かってきたのだ。わたくしは飛び掛かってきた人狼を身を捻って躱し、そのままくるりと横に回転。遠心力を乗せたヴィオラを、その人狼の頭部に思い切り叩き付けた。

 勢いよく叩き付けたヴィオラは、ばらばらに砕けてしまう。さようなら、わたくしの思い出。こんなもので人狼を打撃しても倒せるわけがないのだから、そこらへんに放り捨てて置いても良かったのだ。しかし、けじめというか、過去を吹っ切るための何かが欲しかった。それが、この無意味な破壊だ。

「お味はどうですの? 名前だけ有名な職人の作品ですの。壊す時が一番良い音に聞こえますけれど、わたくしの気のせいですの!?」

 今度は本物の職人の手による武器を手にする。背中にかけた専用のホルスターに収まっているのは、グロースマウザー。とても大きな拳銃。もう拳銃と呼べる大きさではないのだが、片手で扱えてしまっているのでそう呼ぼう。片手で引き抜いた拳銃を、身を翻してこちらを向いた人狼に銃口を向けて、狙いを甘めにして引き金を引いた。

 瞬間、わたくしは後悔した。少なくとも一度くらい、ハンブルク城にて試射を行うべきだったのだ。発砲音など耳に慣れたものではあるが、これは違う。あまりの轟音に聴覚が麻痺して、まるで耳に靄がかかってしまったのように錯覚する。水中で音を聞いている感覚に近い。

 だが、威力はその不都合を帳消しにして余りあるものだった。放たれた弾丸は人狼の頭部に命中し、その上顎から上を吹き飛ばしてしまったのだ。スラッグ弾でも皮膚を抉るのがやっとだというのに、この威力はどういう事だろう。

「……これ、弾丸の口径が全然違いますの! ライフル弾じゃありませんのよ!?」

 騙された。というよりは、確認を怠った。ヘルムート団長やハンナは、この拳銃をライフル弾が撃てる強力な拳銃と認識していたようだが、撃った感触で全く違うとわかった。内包された火薬の量をとっても、他の弾丸とは段違いだ。弾倉を外して確認してみれば、口径ははるかに大きいものだった。これでは拳銃ではなく、砲だ。

「でも、結果これで良かったのかもしれませんのよね?」

 強力な武器であることに変わりはない。現に一撃で人狼を仕留めてしまったのだ。反動は少々きついが、耐えられない程ではない。聴覚の異常は治らないが、それはあちらも同じ事だろう。

 人狼は逃げない。家族を殺されてそのまま身を引く事はない。必ず一家を挙げて報復に来るのだ。だから、黒森で人狼と一戦交えるとなれば、まして、撃退出来ず一体でも殺めてしまえば、一家を皆殺しにするまで戦いは終わらないのだ。

「……変異種が指揮する場合でも、それは変わりませんの?」

 グロースマウザーを身体に寄せるようにして構え、耳を澄まして周囲の音を拾う。本来ならば、わたくしが一体を葬った直後に次の人狼が襲い掛かって来ているはずだ。それがないという事は、変異種が意図的に人狼たちを抑えているという事だろうか。周囲には変わらず複数の人狼の気配があるが、どれも動こうとしない。こちらの動きを伺っているのだろうか。

「なら、こちらから行きますの……!」

 目を閉じる。耳を立てて、身体に寄せるように構えていたグロースマウザーを真横に向けた。狙いを付けずに引き金を引くと、人狼の発する短い悲鳴が聞こえ、一体分の重量が地面に倒れる音が聞こえた。例え視界が悪かろう閉ざされていようと、聴覚が無事ならば周囲の動向を把握できる。耳に霞が掛かっている今の状態でも問題はない。人狼たちがどれだけ息を潜めようと、血や泥で匂いを誤魔化そうとも関係ない。生きて呼吸を続けている限り、その心音で居場所はわかる。

 次はわたくしの背後、その次は左手側の樹の陰、続けて撃つ。痺れを切らしたのか、真正面から襲い掛かってきた人狼を、後ろに跳んで躱す。着地する前に空中で発砲して心臓を貫いた。残りは二体、片方がもう片方を盾にするかのようにして、こちらに近付いてくる。おそらくあれが、話に聞いていた変異種。

「それでは、ただの的ですのよ?」

 グロースマウザーを両手で構え直して発砲する。盾にされていた人狼の心臓を一発で貫き、後ろの変異種に着弾させた。そのまま二体とも倒れるが、変異種の方にはまだ息がある。心音は早いが止まる気配はない。致命傷ではないのだろう。すぐに起き上がらないのは死んだふりのつもりだろうか。

 心音の方に銃口を向けたまま歩いて近付くと、変異種は飛び起きて、一目散に走り出した。逃げたのだ。足音が遠退くまで銃を下ろさず、かなりの距離が空いてから、わたくしは銃を下ろして膝を付いた。

「……完全に油断していましたの」

 人狼たちの襲撃に対して油断していたのではない。手の中の拳銃を自在に操れると過信していたのだ。ハンブルク城で受け取った時は難なく振り回す事は出来ていたので、実戦でもその通りに扱えるだろうと過信していた。これは、そういった生易しいものではない。

 先の考えを訂正しなければならない。腕力と姿勢とで発砲の反動を殺す事は出来るが、反動を殺し続けて射撃を続ける事は難しい。現に、わたくしの身体は発砲の反動から来る痺れで、だいぶ自由が効かなくなってきている。特に右腕がひどい。この重たい銃を持っているかどうかも怪しい程、手指の感覚がなくなっている。それに、聴覚もまだ完全には戻っていない。

「でも、これなら……」

 仕損じる事はない。銀の弾丸よりも直接的な破壊で結果を示してくれる。これから自分が行う事を、よりはっきりとした形にしてくれるだろう。

 グロースマウザーを背中のホルスターに戻して歩き出す。逃げた変異種は一定の距離を保ったまま、こちらに着いて来ている。襲撃を諦めたわけではないらしい。周囲に他の人狼の気配こそないが、かの獣がひと吠えすれば、黒森の奥から増援が来る事だろう。そうなる前に、決着を望みたい。

 “隻眼”の居場所はすでに補足している。ここからそう遠くはない。


 ◇


 わたくしが“隻眼”の元へとたどり着いた時、彼は大きな黒い樹を背にして力なく座り込み、息も絶え絶えという具合だった。天蓋の割れ目から差す月明かりに照らされた“隻眼”の姿は、傷だらけのぼろぼろで、わたくしがとどめを刺すまでもなく、夜が明ければ命は尽きるように思われた。それほどに、この人狼の命の火は弱っていたのだ。まるで、消えかけの蝋燭のよう。

 いったい何故、とは問うまい。先日の交戦で負った傷が、癒えきらぬ程の深手だったのだ。頸動脈と左腕とは切断、アキレス腱は断裂、足の指まで含めていいかどうかは定かではないが、先に上げたふたつは間違いなく致命傷だったはずだ。止血等の適切な処置をしたところで回復は難しいはずなのに、それ程の傷で数日のあいだ生き延びているのだから、人狼の生命力は驚嘆に値する。

 だが、そんな人狼の生命力をもってしても、限界だったのだ。高熱のせいだろうか、“隻眼”の瞳は虚ろに歪んでいる。意識も朦朧としているのだろう。放って置けば、あと数日で死に至るか。いや、夜明けまで持つかどうかも怪しい。ここでとどめを刺さずとも、すでに“隻眼”の命はない。

 しかし、だからと言って、わたくしは銃を下ろすわけにはいかない。ハンブルク城を襲った元凶を、確実に仕留めなくてはならない。“隻眼”は人狼を使ってハンブルク城のみんなを襲わせ、それ以前にも多くの人を殺し、わたくしの家族の仇でもある。撃たない理由はない。例え、わたくしの兄だったものだとしても、もう取り返しのつかない領域に踏み入ってしまっている。フランツィスカの言葉ではないが、この人狼の血縁だった者として、わたくしには討つ義務がある。この役目を、他の誰かに譲るわけにはいかない。

「……ここで、終わらせますのよ」

 背中のホルスターからグロースマウザーを引き抜き、“隻眼”に向けて構え、安全装置を外した。銃口を向けられた“隻眼”は、わたくしの姿を見とめると、喉から威嚇の声を上げ、無事な方の目で睨めつけてくる。まだ、言葉を持たない怪物のふりを続ける気らしい。本当ならば、このまま撃って終わらせるのが、彼のためなのだろう。同情の余地ない罪人として、物言わぬ怪物として振る舞ったのならば、その通りに接して、その命を終わらせてやるのだ。

 しかし、ハンブルク城にて“隻眼”を撃つと決意した時よりも銃は重く、引き金は固かった。ここに来て何を躊躇うのか。覚悟は決めたはずだ。グリップを握る手にもう片方の手を添えて、泣いてしまいそうになる顔を必死に引き締める。かの獣が物言わぬ怪物として振る舞っているのだから、わたくしもそれに応え無ければ。怪物を憎み、討ち倒す、人間でなければならないというのに……。

「……ハインリヒ隊長のせいですの」

 目の前の獣が、幼き日に別れた兄のままだった、なんて。まして、彼を救ってやりたいなどと、そんな事を言うものだから、余計な考えを生んでしまうのだ。まだ希望があるのではないかと錯覚してしまう。だから、ハインリヒ隊長を眠らせておく必要があった。揺らいだ決意を再び取り戻すために、彼が今、この場に居てはいけない。

 思わず、目の前の獣に言葉を掛けそうになるのをぐっと堪える。怪物と言葉を交わしてはならない。ハンブルク城へ向かわせた人狼たちを呼び戻せと、そう大声で叫びたくなるが、それは駄目だ。第一、“隻眼”が言われた通りにするはずがないし、一言でも口を利いてしまえば、わたくし自身に揺らぎを生む。言葉をかけた時点で、相手がまだ話の出来る対象だと認めてしまっているようなものだ。

 だから撃つ。これ以上時間をかけてはならない。わたくしの身体の中にある憎悪や後悔といった、負の感情をすべて集めて、“隻眼”にぶつけるのだ。それだというのに、何故この拳銃は、こんなに重いのだろうか……。

 ふと、耳に第三者の接近する足音を感じた。聴覚が元に戻り掛けているというのもあるのだが、揺らいだ決意を固め直すのに意識を集中しすぎて、外界の様子が疎かになっていたのだ。いったい誰だ。この足音は先ほどの変異種のものではない。変異種の心音は、この場所から少し離れた場所から動いてはいない。しかし変化はある。変異種の心音が徐々に上がっていっている。緊張しているのだろうか。この場に向かってきてるものは、かの獣の脅威となるものだというのだろうか。

 足音の主、その心音に、心がざわつく。おかしい、わたくしはこの心音の主を知っている。先ほど、確かに眠りに落ちるのを見たはずだ。彼がここに来るわけがない。

「リーゼロッテ、待つんだ」

 あり得ないと思った。この声の主は、ハインリヒ隊長は、今も安らかに眠っていなければならないのに。薬の量は夜明けまで起きないくらいに調整していたはず。グロースマウザーの銃声が如何に黒森を震わせ響こうと、彼が起きるはずがない。それ以前に、立ち上がって歩けるはずがないのだ。

「ハインリヒ隊長、どうして……。……え?」

 この場に現れ立ち止まった足音。その主の姿を見て、わたくしは自分の目を疑った。憎悪のこもった唸り声を上げていた“隻眼”も黙り込んでしまっている。わたくしの、残された方の目は、おかしくなってしまったのだろうか。

「銃を下ろして、リーゼロッテ。俺はヨハンと話がしたい」

 優しい口調でそう告げる声は、まぎれもなくハインリヒ隊長のものだった。しかし、月明かりに照らされる彼の優しそうな顔は、人間のものではなかった。灰色の毛並が輝く、狼の頭。優しそうな、しかし悲しそうでもある目元をした、獣の顔だったのだ。


「どうしたんだい、リーゼロッテ。俺の顔に何か?」

 きょとんと、呆けたように告げるハインリヒ隊長のお顔は、元の人間のものに戻っていた。わたくしは幻を見ていたのだろうか。慌てて“隻眼”の方をも見たが、その反応はわたくしと同じようなものだった。かの獣にも、ハインリ隊長が人狼に見えていたのだろう。

「どうしたと言うんだい? まるで、俺が人狼になってしまった、という顔だね?」

 困ったような顔のハインリヒ隊長は、口元や耳に手を当て「耳も口も、大きくはないよね」などと、焦ったように呟いている。わたくしたちの反応を見て、ご自分が本当に人狼になってしまったのではないかと考えたのだろう。

「それより、リーゼロッテ。銃を下ろして」

 ハインリヒ隊長は気を取り直して、先ほどの話を続ける。“隻眼”に話す事があるから、まずこの凶器を下ろせと。わたくしとしては承服しかねる。このまま“隻眼”にとどめを刺すべきだという意思は変わらない。命令に背く事になっても、こればかりはわたくし自身の手で行わなければならない。

「リーゼロッテ、もういいんだよ」

 果たしてハインリヒ隊長は、わたくしを背後から抱きしめた。普段の彼なら絶対にこんな事はしない。この状況でこんな真似、気が立っていて余裕がないわたくしならば、絶対おかしいと振り払うはずなのに、なぜかそうできない。こんな状況でこんな真似をされているというのに、嬉しくて顔が熱を噴き出してくるのを感じる。そして目に涙が溜まる感触を。こうなる事をひそかに期待して、しかし諦めてしまっていたのだ。

 あの夜。宿舎の庭で、“隻眼”を討ち、その後も生きてゆくとハインリヒ隊長に宣言した時の事。あの時わたくしは、嘘を言ってはいなかった。しかし、その直後ハインリヒ隊長が浚われ、ハンナから手渡された機密文書を読んで、わたくしは目の前が真っ暗になったのだ。過去を乗り越えて生きてゆくと決意した直後、その理由を奪われたのだ。ハインリヒ隊長の命は、もう長くはない。南方第七区に配属された時点で、持ってあと一年と宣言されていたのだという。例え“隻眼”を討って過去を乗り越えたとしても、やっと見つける事が出来た愛する人は、居なくなってしまうのだから。

 それを知ってなお生きていけるほど、わたくしは強くはなかった。赤衣隊をはじめとする仲間たちと、ハンブルク城の改築等の問題も残っている。姉さまも半人狼の姿に戻って、人の世界に帰って来た。喜ばしい事だが、それでも、それを理由に生きていくには、わたくしは擦り切れすぎていた。もう限界だったのだ。心が死に傾いてしまった。わたくし自身は死を求めている。それなのに、こんな真似されたら……。

「キミは“隻眼”を討って、その後自分も命を断つつもりだね?」

 息が止まるかと思った。何故わたくしの内心が? ハンブルク城で話した時には、わたくしが“隻眼”を倒してハインリヒ隊長と一緒に生きていくと話していた事に、納得していたのに。あのクラリッサの鼻ですら、何とか誤魔化せていたというのに。

「俺が気付かないとでも? 死に惹かれている人の事は、わかるんだよ」

 わたくしの耳元をくすぐるように告げたハインリヒ隊長。彼の目は“隻眼”を見ていた。“隻眼”も、死に惹かれているのだと、そういわんばかりに。

「リーゼロッテ、キミはおそらく、俺の寿命の事を知ってしまったんだね。今まで黙っていて、すまない。戦いを前にして、キミに不安を与えたくなかったんだ。……それが、キミの絶望を招いてしまったんだね。本当に悪い事をしたと思っているよ」

 ハインリヒ隊長はわたくしの耳元で囁き続ける。真面目な話をしているというのに、このような真似は正直やめてほしい。わたくし、耳は弱いのだ。身体の中で一番の性感帯なのだ。これから命のやり取りをするのに、あろうことか、身体が発情しかけているなど。絶望と諦めとではなく、恥ずかしくて死にたくなってくる……!

「リーゼロッテ、俺は死なないよ」

「ええ?」

 荒くなってきた息を整える間もなく、上ずった声で疑問する。左腕の人狼化と、致命傷を完治させる力の事だろうか。話を聞く限り、確かに殺しても死ななそうな身体になったのだろうが、肝心の病の方はどうなったのだろうか。

 見たところ、今のハインリヒ隊長は病から来るという発作を起こしていない。まさか、病まで完治してしまったというのか。それほど、軍の臨床実験は効果を上げたとでも言うのか。

「肉体や病の事もそうだけれど、一番は俺自身の意志が変わった事だよ。もう、死を受け入れて生を諦めたりしない。どれほど惨めに這いつくばろうと、生きていくと決めたんだ」

 生きるという意思が、ハインリヒ隊長から感じられた。以前の彼は、どこか達観して自分の生を諦めてしまっていた感があった。死を受け入れて、残りの時間で何ができるのかを探していた彼は、今にも消えてしまいそうな程曖昧な存在だった事を覚えている。誰にも告白した事はないが、ハインリヒ隊長を、身体の輪郭すら怪しい、幽霊のような存在に感じられた事すらあったのだ。心音こそ確かだが、その姿が今にも消えゆきそうな、灰色の霧のような……。

 だが、今のハインリヒ隊長はどうだろう。強い心音と力に満ちた身体と、確固たる意志に満ちた目をしていた。どんな病に掛かろうと、どんな状況に陥ろうと、生き伸びようという決意。そしてそれは、仲間を生かそうとする決意でもあったようだ。

 いつの間にか、ハインリヒ隊長の腕がわたくしの首に回る。ここにきて、ようやく何かがおかしいと意識が向いた。これは抱きしめるというよりは、首を絞め落とす体勢ではないのだろうか。発情していて完全に失念していた。ハインリヒ隊長は、わたくしを絞め落とそうとしているのだ。

「ハインリヒ隊長、何を……!」

 ゆっくりと、首に回った腕に力が込められてゆく。絞め殺すのではなく、絞め落とす動き。ここでわたくしを気絶させて、復讐を遂げさせないつもりなのだ。拳銃を捨てて、ハインリヒ隊長の腕を力ずくで引きはがそうとするが、どういうわけかそれが出来ない。膂力なら、ハインリヒ隊長などわたくしに適わないはずなのに。ひそかに、彼を力づくで押し倒そうと考えていた事があるのだが、それくらいには自分に力がある事を自覚していた。

 それが出来ないのは、わたくしの力が弱っているからだ。復讐の対象を前に気が高ぶって手先が震えているのと、ハインリヒ隊長が耳元で囁いたりなんてするから力が全く入らなくなっているのだ。それに、ハインリヒ隊長ご自身の力が増しているというのもある。初めてハインリヒ隊長とお会いした時に、彼の手を引いて立たせた事があったが、あの時は正直枯れ枝でも掴んだのかと思う程だった。今は、首に絡んだ腕が、どれだけ力を入れようとびくともしない。本当に人狼並みの膂力を手に入れてしまったのだ。

「すまない、リーゼロッテ。俺は、俺の思うとおりにやらせてもらう。キミに復讐を遂げさせない。例え、キミに恨まれ、憎まれる事になろうとも……」

 こうして締め上げられつつも、耳元での囁きは続くので、戸惑いや怒りや情欲で、もう自分の内心が何を考えているのか、わからなくなっている。ハインリヒ隊長はご自身のため、そしてわたくしのためにと思って、こうしてくれているのだろう。あるいは、目の前で驚いた表情のまま固まっている“隻眼”のために。ご自身が恨まれる事を受け入れ、それでもわがままを曲げる気がないのだろう。

「こんなの、ずるい。ずるいですの……」

 わたくしは最後にそれだけ呟いて、意識を手放した。彼の腕の中、力強い血流の音と心音とに混じって、「ごめんね」という悲しげな声を、確かに耳にした。


 ◇


「……おい貴様、どういうつもりだ。ハインリヒ」

 低い声色で、ヨハンが俺を呼ぶ。絞め落としたリーゼロッテを樹の陰に横たえ、俺はヨハンに向き直った。怪物のふりをやめて人の言葉をしゃべり始めた彼は、憎々しげな顔で俺を睨んでいる。

「どういうつもりだと思うんだい、ヨハン」

 逆に問い返す。俺がどういうつもりだと、ヨハンは考えているのか。問い返しにヨハンは答えず、牙を剥いて唸るばかりだ。俺はヨハンへと向き直り、歩み寄り、距離を置いて立ち止まる。彼と話をするために。

「ヨハン、ハンブルク城へ送った人狼を呼び戻してくれ。頼む」

「お断りだ、ハインリヒ。言っておくが、僕を殺したところで人狼たちの動きは止まらないぞ。すでに黒森に待機しているやつらにも命令は下してある。あとは、時間差で動き出すだけだ」

 こちらに人狼たちを止める手段はないのだと、ヨハンは笑って見せる。

「なんなら、今から黒森中の人狼をすべて殺して回るか? 朝までに何体葬れるかな。今の貴様の力なら、造作もない事だろう?」

 ヨハンは笑い声を上げる。その姿が、俺にはどうしても無理をしているように見えてしまう。彼の企みはもう誰にも止める事が出来ない。少なくとも、ヨハン自身はそう考えている。リーゼロッテもそう考えていただろう。止められると思っているのは、俺だけだ。

 俺は肩の力を抜いて、身体を弛緩させる。肺の中の空気をすべて出さんばかりに吐き出し、そして今度は肺を満たさんと大気を取り込む。

「……貴様、ハインリヒ。深呼吸などしてどういうつもりだ? まさか、声の限りにやめてくれとでも頼むつもりか? 見苦しい」

 ああ、確かに。俺は見苦しく頼み込むつもりだよ。しかし、相手はキミではないよ、ヨハン。空気を取り込み、肺と、肋骨や胸筋が張りつめて軋みを上げる中、俺は天を仰いだ。天蓋の裂け目から差す月明かりは穏やかで、嵐は弱まってきているように感じられる。届くだろうか。いや、届けるのだ。

 俺は、身体の中に溜めた空気を礫にするかのようにして、天に向かって咆哮した。遠吠えだ。魅了の力を持つ人狼の叫び、人狼たちを支配する叫びだ。根拠はないが、直感はあった。今の俺ならば、人狼に命令できると。咆哮は一分近く続いたと思う。黒森中に音が反響して、遠吠えを終えた後でもまだ自分の声が行って帰ってを繰り返していた。

 体力を根こそぎ奪われたような虚脱感に襲われる。吠えるのにも力がいるのだなと思い知らされた。咆哮を間近で聞いていたヨハンの顔は、もう笑っていなかった。口元を引き結び、射殺すような眼差しを向けてくる。

「貴様、どこでそれを覚えた? 人狼を操る叫びを! 貴様たち人間が“魅了”と呼んでいるものの片鱗を!」

「キミと別れた後だよ。アンネリーゼに殺されかけて、俺の身体は人狼に近付いたみたいだ。キミと同じように、人狼に命令できるみたいだ」

 結果はすぐに目に見える形になった。俺やヨハンがいる場所のすぐ近くを、人狼たちが走り抜けて行ったのだ。俺たちには、それこそ眠っているリーゼロッテに目もくれず、短い悲鳴の声を上げて、一目散に黒森の奥へと走り去って行く。黒森の人狼たちは、撤退を開始したのだ。

「恐怖による隷属か? まるで人狼たちの王だと、そう言わんばかりの力だな、ハインリヒ。僕が同じように命令しても、やつらはもう言う事を聞かないだろう。わかるよ。……くそ!」

 忌々しげに、ヨハンは背にしている巨木を拳で打った。阻止されるはずのない企てのはずだったからだ。魅了を使える人狼は、“隻眼”と変異種だけ。人の属する勢力が人狼の侵攻を止められない以上、彼らが命を落としたところで、目的は果たされるはずだったのだから。

 だが、こうして阻止は成った。ハンブルク城にまで届いているかはわからないが、もう黒森から発つ人狼はなくなった。ハンブルク城のみなが、どうか無事であるように。こちらは、こちらの決着を望む。


「ヨハン。キミに話がある」

「話だと? 黒森の奥へと逃げて行った人狼たちに続いて、僕も去れと言うつもりなのだろう? 黒森の奥深くへ去り、二度とこの南方の七区へ姿を現すなと。そう言いたいのだろう?」

「概ね、それで合っているよ。ヨハン。ただ、付け加える事がある。俺はキミを殺しに来たんだ。怪物であるキミを殺しにね」

 ははは、ヨハンが笑う。乾いた小声の笑い。形だけの笑みだ。

「結局、僕を殺すんじゃないか、ハインリヒ。なら僕は妹に殺されたかったよ。残念でならないね」

「リーゼロッテには申し訳ないが、彼女にキミを殺させるわけにはいかないんだ。復讐を遂げてしまえば、リーゼロッテは生きる気力を失くしてしまう。そうなってしまえばヨハン、キミの思うつぼだからね」

「やってくれたよ、まったく。……それで僕の命を奪うのか? その、銀色の爪で」

「いいや。この爪は使わないよ。使うのは、こっちだ」

 俺は、右掌を左手の爪で刺して血を滴らせる。怪訝な顔のヨハンは、その様子を黙って見ていた。

「俺の血には、どうやら人狼化した半人狼を元の姿に戻す力があるらしい。キミのもうひとりの妹、アンネリーゼは、俺の血で人の姿に戻ったよ。半人狼の姿にね。ヨハン、キミもそうなる事が出来る。半人狼の姿に戻る事が出来る」

 血が滴る右手を握り、ヨハンへと向ける。

「これを使って、キミを人に戻す。怪物のキミはここで死ぬ。“隻眼”の人狼も」

 果たしてヨハンの表情は、渋面をさらに歪めたものだった。今から自分を殺めようとする相手が、わざわざ人の姿に戻そうとするのかを図りかねているのだろう。だから、俺の考えを、俺が何をしようとしてるのかを、はっきりと口にする。

「ヨハン。キミは生き返るんだ。半人狼となってね」

「ふざけた事をぬかすなよ!? 今さら人に、半人狼に戻って生きろと? 貴様は、この世の常を知らないのか!? 半人狼の男は……」

「生きられないと? 黒森で十年の時を生きたキミが、これから人に紛れて生きて生き延びる事が出来ないとは思えないね。軍の目も人々の目も掻い潜って生きる事は出来るだろう。なんなら、偽造の身分証明書も用意しよう。負傷した退役兵という扱いならば、耳と尾とを隠しても見咎められないだろうね」

 それに、彼ならば半人狼に戻り、人々に紛れて生き延びる事も出来るだろうという確信がある。

「リーゼロッテのために死ぬ覚悟をしていたキミだ。彼女のために生きる事だって出来るだろう?」

「僕が、妹のために死のうとしていただと? 何をたわけた事を……」

「キミはずっとリーゼロッテを守っていた。軍の人間に利用されるのを、彼女の親族に利用されるのを。違うかい? わざわざリーゼロッテの周囲の軍人を殺して回ったのは、そのためだろう?」

「違う、いいや違うぞ。僕は憎かっただけだ。リーゼロッテに近付く人間すべてが憎かったんだよ! 貴様もそうだ、ハインリヒ。僕は貴様が憎い……!」

 憎悪を込めた眼差しを俺に向け、ヨハンは立ち上がった。

「貴様は、僕が失ったものすべてを持っている。人としての尊厳と地位と、生活と衣服と、そしてリーゼロッテが隣にいる。僕の愛した妹が、隣にいる!」


「だが、僕はどうだ? 人をやめて、獣に成れず、怪物に堕ちた。すべてを失った! 大切なものすべてを! 僕自身が壊したんだ! 哀れか? 惨めか? それとも同情するか? そうやって高みから僕を見下すか!?」

「キミを哀れに思うよ。あまりに惨めだとも。同情だってしている。けれど、俺はキミを見下すつもりはない。キミはまだ終わりじゃない。そこから這い上がれる」

「無理だ! 僕はもう終わる。もう命が尽きる」

「手当をするよ。命をつなぐ」

 ヨハンは、さらに何かを言おうとして、忌々しそうに口をつぐんだ。ぎりりと歯を鳴らして、頭を冷やすかのように息を整える。

「ハインリヒ、貴様はいったい何がしたい? リーゼロッテに復讐を遂げさせず、僕には人として生きろだと? いったい何を考えている。貴様はいったい、何を考えている……!?」

「さっきも、俺に聞いたね。どういうつもりなのか、と。俺は、キミたち兄妹に生きていてほしい。リーゼロッテには不意を打って騙したけれど、キミに対してのこれは、……脅迫だ」

 脅迫。その意図を、ヨハンは理解しているだろうか。理解しているはずだ。その証拠に、ぎりりと、獣の牙を噛みしめる音が聞こえてきた。ヨハンが歯噛みする音だ。

「……リーゼロッテが自らの手で僕を殺せなければ、邪魔をした貴様を恨むのだろうな。恨んで生きるのだろう。しかし、恨み切れず、憎み切れず、愛するのだろう。……ああ、そうだ。リーゼロッテは、……ハインリヒ、貴様を憎んで、そして愛して生きる。ずっと、貴様の隣で……!」

 どうやら俺の考えを理解してくれたようだ。リーゼロッテが復讐を遂げて空っぽになってしまわないように、彼女から復讐を取り上げる。そして、彼女の感情の矛先は、復讐を取り上げた俺へ向けられるのだ。ヨハンにとってはこれほど面白くない事はないだろう。

「僕をここで殺さず生かす理由は、こういう事なのか? ここで僕が生き延びれば、リーゼロッテの復讐は先延ばしになる。行方がわからなくなれば、探しにも出るのだろうな。貴様はそれを引き留めて、あの城に縛り付け、復讐心が薄れて風化するのを待つ気なのだろう? まったく、気の長い事だ……!」

 ヨハンの口にした事は、概ね正解だ。俺はリーゼロッテから死ぬ理由を奪い、生きる理由を押し付ける。それは同時に、ヨハンも生きねばならなくなる。その理由になる。

「ああ、確かに、これは脅迫だよ、ハインリヒ。リーゼロッテの感情すべてを独占するなど、許せるはずがない! リーゼロッテが愛し、そして憎しみをぶつけるのは、僕でなければならないのだから!」

 だから、ヨハンはここで死ぬわけにはいかない。惨めに生き延びて、再びリーゼロッテと会いまみえようとするだろう。今度こそ妹に殺されて、そして、その妹をも死に誘うために。

「ハインリヒ、貴様、最悪だよ。僕がこれまで見て来た人間の誰よりも、最悪だ! あの虫も殺せなさそうな弱々しい男が、どうしてこんな事になっている? いったい、一晩のあいだに何があった!? 何が貴様を変えたんだ!?」

「俺の事を、人畜無害な草食動物だとでも思っていたのかい? 俺なりに人を救うにはどうすればいいかを、道すがら考えていただけさ。俺の汚いエゴを押し付ける形になるけれどね。今までは力がなくて、出来なかった事を。けれど、力は手に入った。考えを実行に移すだけの力がね」

 生きるという決意は、同時に絶対に人を生かすという決意でもあった。傍若無人なやり方で、恨みつらみを一身に受けながら人を生かし、救おうと。それを糧にするように俺自身も生きようと。これで、そう簡単には死ねなくなった。リーゼロッテに恨まれ続けるためには、大前提として、俺自身が生き続けなければならないのだから。

「僕が、再び人を襲わないと、そう考えているのかい? 甘いよ。僕は人を殺め続ける。例え半人狼の姿に戻ったところで、僕の心は怪物のままだ。実の妹に欲情する、醜い怪物だ」

「違うね。キミは怪物のふりをしていただけだ。そう振る舞うしかなかっただけ。ヨハン、キミはもう、そうするだけの理由がない」

「都合の良い事を口にするなよ。僕は生き延びたのならば、人を襲い、殺め続けるぞ? 人々は口々に言うのだろうな。“隻眼”は人の姿をとりもどし、人々の中に紛れ込み、そのひとつだけの眼で次の獲物を狙っているのだと」

「ならば、キミから人を殺める力をも奪うよ。二度と人に危害を加える事がでいないようにする」

「出来もしない事を! 話にならないなあ。……なあ、ハインリヒ!」

 ヨハンは立ち上がる。身体のどこにそんな生命力が残されていたというのだろう。さっきまで虫の息だったはずの人狼は、全身に力と憎悪とを纏い、殺意を口にした。

「いよいよ、僕は死ぬわけにはいかなくなった。昨晩宣言した通りに、貴様をいたぶって、リーゼロッテの目の前で殺してやるよ……!」

 みしみしと鳴る異音が耳に届いていた。ヨハンの切断された左腕が、驚くべき速度で再生してゆくのだ。限界を超えての再生なのだろう、ヨハンの顔は苦痛に歪み、噛みしめた牙に亀裂が入るのが見て取れた。

「……余力など、残していたつもりはなかったのだがな。やはり、憎悪は力になるようだよ」

 まだ皮膚の張り切らない左手を握り、開き、ヨハンは改めて俺を睨んだ。立ち上がった彼は全長三メートルの巨体。対して人間の身である俺は、二メートルの高さもない。だが、身体に纏う膂力は人狼に匹敵するであろう自覚はある。人狼化した左腕だけでなく、全身がそうだ。ヨハンに力で対抗出来得る。

「いたぶって殺してやるよ、ハインリヒ」

「組み伏せていう事を聞かせるよ、ヨハン」

 互いが身体に力を込めていく。意志を張りつめさせて、ぶつけるように。自分のエゴを通すために。


 その時、変異種が突然この場に現れた。俺とヨハンとの間に立ちふさがり、ヨハンを背に守るかのように両手を広げた。ずっとこの状況を見守っていたのだろう。変異種は身体を震わせて怯えている。その目は俺の左腕、人狼の手から生える銀の爪に注がれていた。

「馬鹿者が。黙って見ていれば良かったものを」

 忌々しげに、あるいは呆れたようにヨハンは言う。この双頭の変異種を知っているかのような口ぶりだ。

「お察しの通りだよ、ハインリヒ。僕とこいつは長い付き合いだ。もう十年になる。僕が人狼になって、今のハンブルク城、元ハーゲンベックの檻の者を、虐殺して回った時の事だよ。こいつはそこで拾ったんだ。研究の検体にでもされていたんだろうな」

 黒森で拾われたのか、あるいは檻で生まれたのかは定かではないが、この変異種は十年前、あの場所にいたのだ。

「人間を、ほとんどが軍人と研究者とだったが、そいつらを皆殺しにした後、小さな檻に閉じ込められていたこいつらを見つけたんだ。どれも変異種の仔だったよ。檻だけぶち壊して、離してやったつもりだったんだが……。こいつらときたら、どこまでも僕に着いてきやがったよ」

 ヨハンは口調こそ忌々しげだったが、目元は昔を懐かしむように細められていた。

「だが、元々こいつら変異種は長く生きれるような身体をしていなかった。檻から出て数か月でほとんどが死にやがったよ。今も生きているのは、目の前のこいつと、ハンブルク城へ強襲しに行ったもう一体、たった二体だけだ。……哀れなやつらだよ」

 哀れ。そう言って変異種を見るヨハンの目は、おそらく自身と重ねてのものでもあるのだろう。

「こいつらは、人狼でありながら人狼ではない。……例えば、貴様。自分が他の人間を意のままに操れる力を手にしたら、どうだ? 意図せずとも、勝手に人を従え操ってしまう力だ。こいつらはそうだった。人狼でありながら人狼に命令できる上位存在だ。孤独だったんだよ。自分たちが操る人狼のように生きられない。生まれながらに群れから外れた、哀れな生き物なんだ」

 同じ姿をしていながら、同族ではなかったという事か。この獣たちにとっては、自分たちだけが、同じ変異種だけが仲間であり家族だったのだろう。そして、ヨハンの事を親のように思って居たのかもしれない。そうでなければ、目の前の変異種が、同族の人狼たちの命を駒のように使い捨てていたこの変異種が、己の身を挺して庇うはずがない。

 このふたつの姿を見て、俺はもしかしたらと、ある可能性を浮かべる。ヨハンが人を襲う理由は、リーゼロッテの他に、この変異種のためでもあったのではないかと。街道に出て人を襲うのは、かの獣たちに食料を与えるためで、あるいは存命の手段が記された情報を得たかったのではないかと。リーゼロッテの周囲を固める者を襲って悪名を得つつ、もしかしたら、変異種たちを存命させ得る何かがあるのではないかと探していたのではないだろうか。

 当人に聞いても違うと否定するだろう。だから、この考えは俺の内心に留めて置く。

「まあ、盾くらいにはなるよな。二本の足で立つ、図体のでかい盾だ」

 変異種の背後、ヨハンが四肢を地に着き、身をたわめる。これから、俺を殺そうと動くのだ。四足状態からの瞬発、速度でこちらを圧倒するつもりだ。

「いくら力が増そうとも、力を得たばかりの身体を扱えるものか?」


 ヨハンは問うて、俺の答えを求めずに、跳んだ。行先を目で追おうとするが、変異種が接近して視界を覆う。そのまま変異種は俺に掴み掛り、地面に引き倒そうとする。だが、それは出来なかった。俺の膂力は変異種と拮抗していたのだ。同等の力ならば、体格が大きい方が有利になる。変異種の全長も、ヨハンと同じく三メートルを超えている。組み合っても俺が振りになるだけなのだが、そうはならない。

 変異種は俺の左腕、銀爪を警戒して、全力を傾ける事が出来ない。ヨハンの盾となりつつも、いつでも飛び退って逃げられるような力の掛け方だ。だから、今は状態が拮抗している。変異種はその役割を十全に果たしたのだ。

「でもね、ヨハン……」

 キミが殺意を持っている限り、どこから来るのかはわかるのだ。死の直感を待つが、それは訪れなかった。おかしいと思った直後、聴覚が背後に足音を感じた。振り返ろうとする動きは間に合わず、首をヨハンは俺の首を締め上げていた。焦りに背中が粟立ち、背後で笑む彼の表情がわかる思いだった。

「死の気配がわかるそうだな、ハインリヒ。ならば、殺す気も、殺してしまうような動きもしなければ、その直感は働かないのだろうな?」

 上ずった声で告げるヨハンは、ここに来てようやく首に回した手に力を込めはじめた。じわりと、染み出すように死の気配が纏わり着いて来る。確実に殺せる位置に着くまで、殺意やそれに準じた行動を抑えていたのだろう。さすが人間の考えだ。人狼を相手にするのとは、わけが違う。

 だが、それでは不充分だ。俺は首を締め上げられながら、組み合っていた変異種の腹に前蹴りを入れた。銀爪を警戒していて組み付きが浅かった変異種は、俺の蹴りを腹に受けて後方に吹っ飛ばされる。先程ヨハンが身を預けていた巨木に背中を強かに打って、倒れ蹲る。しばらくは動けないだろう。

 両手が空いた俺は、ヨハンが背後から首に回した手を、その手首をつかむ。徐々に握力を込めて、向こうの握力を奪って行く。

「……そういう首の締め方は、普通は前からするものだよ。後ろからだと、力の掛かりが悪い。もし後ろから狙うのならば、俺がリーゼロッテにしたように、絞め落とすべきだったね……!」

 特に、ヨハンの左腕は再生したばかりだ。ろくに力が入っていない事が丸わかりだ。背後で苦痛の唸りが上がるのを耳にしながら、俺はヨハンの手を完全に首から引きはがした。続く動作で掴んだ手首を引き、投げ飛ばす。両の手首は確かに潰した感触がある。地面に倒れ、起き上がる前に組み伏せて血を与えれば、俺のするべき事は成る。

 だが、ヨハンはただ投げ飛ばされるままにはならなかった。宙で身を捻り、両足で着地すると同時に、弾かれたように走り出したのだ。自らに殺意が向けられていないせいか、俺は彼の行く先に何があるかを失念していた。ヨハンの行く先には、意識を失っているリーゼロッテが居たのだ。

 焦りと共に、俺の身体も走り出す。この重い身体で追い付けるだろうか。前を走るヨハンがかすかに俺を向く。口角を上げて笑っていた。自分の勝ちだと誇るような表情。なんとしても、その表情の通りにさせるわけにはいかない。俺は身体を前へ傾け、速度に重量を載せる。バランスが取り辛く、下手をすれば転んで追い付けなくなってしまうが、構うものかと速度を上げる。

 果たして、俺はヨハンに追い付く事が出来た。というよりは、ヨハンが急に速度を落としたのだ。こちらは自らが転ぶ事も辞さない傾斜で走っていたため、急制動が取れない。避ける事も出来ず、ヨハンと衝突し、リーゼロッテのわきを通過して転がって行った。

 衝突した勢いで組み付き、牙を剥くヨハンの口に、右手を打ち込む。掌には溜まった血は払ってしまったが、流血はまだ止まっていない。だが、この体勢になる事がヨハンの狙いだった。転がる勢いが削がれ、停止した時、ヨハンは笑っていた。俺の左手の爪、銀の爪が、ヨハンの腹に突き刺さっていたのだ。

「僕の敗けだよ。ハインリヒ」

 驚く俺にそう告げたヨハンの表情は、自らが勝利者だと言わんばかりに勝ち誇った者だった。


 ◇


「これでいい。これで、良かったんだ……」

 “隻眼”は、ヨハンは半人狼のものに戻った顔で、声で、弱々しく告げた。顔だけでなく、徐々に首から下も、人間のものに戻りつつある。俺の血を口にした事で、人狼化が解けようとしているのだ。半人狼のものに戻った彼の顔は、確かにリーゼロッテやアンネリーゼと似ているところがある。同じ血筋の顔だった。

「してやったりと、そう言いたいのか。ヨハン」

 抱き起した彼の身体は軽く、そして灼熱のような温度を帯びていた。変化に伴って発生する熱量なのか、それとも燃え尽きようとしている命の温度なのか。どちらにしろ、彼はもう長くはない。元々命尽きようとしていた身体を無理に動かして再生を果たし、そのうえで銀爪を身に受けたのだ。彼と話せるのも、これで最後だ。

「ああ、やってやったぞ? 貴様の願いは、リーゼロッテだけでなく、俺も生き続ける事だったはずだ。だが、俺は死ぬ。もう何をしても助からないさ。貴様の願いは、果たされない……!」


「せいぜいリーゼロッテに憎まれ、愛されて生き続けるがいい。僕を救えなかった事で自分を呪うといい。怪物の、死に際の呪いだよ」


 自分はやり遂げたのだと、ヨハンのそう言わんばかりの清々しい表情に、俺は悔しさを覚える。リーゼロッテと心中する事こそ叶わなかったが、俺の企みを挫く事が出来て、まあ満足だと、そう告げているのだ。

「お、俺が! 俺がこの結末を望んでいたとは、考えなかったのかい!? リーゼロッテの感情は俺が独占する! キミは忘れられるんだよ、ヨハン!」

「どうしたハインリヒ。何をそんなに動揺している? ……まあ確かに、そういう可能性もあっただろうな。貴様が内心でこの状況を望んでいたというのなら、その時は本当に、僕の完敗だよ。しかし、な……」

 口の端を持ち上げて、ヨハンは笑って見せる。

「貴様はそういう人間では、ないだろう? 貴様は誰かのために己を削る、自己犠牲を善しとする男だ。最初に遭遇した時や、洞窟での話を通じて、よく分かったよ。貴様は、吐き気がするほどの善人だ。傲慢で独善的な人間。善い事を行うためなら、平気で悪手をも用いろうとする程にな……。そんな人間が自分自身の利益のためだけに、こんな立ち回りをするわけがない」

 そんな事はないと、咄嗟に言い返せなかった。否定できなかったわけではなく、ヨハンに内心を見透かされた事で、俺自身がひどく動揺していたのだと思う。

「貴様は幸せになれない。自分の幸せを享受できない人間だ。例えリーゼロッテと愛し合う仲になろうとも、心から喜び、幸せを噛みしめる事は出来ないだろうな。それを確信できただけでも、しめたものさ」

 ヨハンは、怪物としての最後の力で俺に呪いをかけ続ける。生きている限り癒えない呪いを。嘲り笑うように、次々と呪いの言葉を口にする。

「……しかし、僕が人間の姿になってしまっては貴様が困るなあ? 僕の首を軍に差し出す事も、晒しものにする事も出来なくなるぞ? 自分で言うのもなんだが、“隻眼”の人狼を討ち取ったとなれば、それはそれは多大な功績だろうに。なあ?」

「キミの首を晒して得られる功績など、俺は欲しくないね」

「綺麗事を抜かすなよ。ハインリヒ、隊長殿。僕の死が確かめられなければ、この七区の平穏は約束されないぞ。いくら人狼を遠ざけたところで、街道を通る者の不安は消えない! 人間が人狼に対して抱く恐怖は消えない!」

「人々は俺たちが守る。赤衣隊が守るよ。人狼は、キミは最早、脅威には成り得ない」

 もう七区の黒森には、当分のあいだ人狼は現れないだろう。そういう確信がある。人々の脅威は取り払われる。“隻眼”の人狼だって、もう二度と現れる事はないのだ……。

「貴様らが人々を守ったところで、人々は貴様を受け入れるか? 人狼に成りかけの、化け物に成りかけの哀れな貴様を?」

「受け入れてもらえる場所をつくるよ。それが、俺の生きる理由になったから……」

 もし、俺の血をわける事で、半人狼の男児を救えるなら。狂乱した半人狼たちを鎮める事が出来るのなら。ここに来る途中、ずっと考えていた。今まで蔑ろにされ弄ばれてきた命を、救う事が出来るかもしれないのだ。

「すべての半人狼に、貴様の血を分け与えて回るつもりか? それでは、貴様の身体がいくつあっても足りないぞ? まるで、そう。まるで、物語の……」

「ツバメに頼み、貧しい者たちに己の金を分け与えた、王子の像の事かい?」

「ああ、それだよ。……アンネリーゼが好きな御伽噺のひとつだったなあ。貴様は全身の血を抜き取られ、身体を切り刻まれ、朽ち果てる事になるぞ? 最後は用済みに成り、王子の像同様に打ち捨てられるのだ」

「構うものか。それでもしぶとく、生きてみせるさ。王子の金は有限だったが、俺の血は、俺が生きてさえいれば、尽きる事はない」

「貴様はそれでもいいだろう、ハインリヒ。だが、リーゼロッテはどうだろうな。復讐は奪われ、僕は人として死んだ。リーゼロッテは貴様を恨み、そして愛し、だが果たして、それを糧に生き続ける事が出来るのか?」

 力なくだが、ヨハンの声は確かに嘲笑うものだった。ここで彼が死ぬ事で、リーゼロッテは確かに復讐を取り上げられた。しかし、そのやりきれなかった思いを抱え、俺にぶつけて生きる事が出来るのかと、そう言って笑っているのだ。

 俺にとって、それが最大の懸念だった。彼女から復讐を取り上げただけならば、まだ負の感情を抱いて生きる道はあっただろう。しかし、復讐の対象が、目の前で息を引き取ったのならば、どうか。それは、俺にもわからない。だが、少なくとも清々しい気分で人生を生き直す気にはなれないはずだ。だから、ヨハンには人に戻り、生きていてもらう必要があったというのに……。

「貴様は、僕も、リーゼロッテも救えない。傲慢にも人を救おうとした事を後悔して生きるといい。地獄の底で待っているよ。貴様が先か、リーゼロッテが先か。落ちてくる時を、楽しみにね」

 それにと、ヨハンは言葉を続けようとして、それが出来ずに咽せて咳き込んだ。徐々に言葉に力が入らなくなり、口元が震えて来ているのに、まだしゃべるのをやめない。死が近付いているからこそ、話すをやめてはいけないというように。

 だが、ヨハンの笑みの形が変わってきているのを、俺は見とめる事が出来た。内側にある負のものをすべて吐き出して、ひとまず満足だと言わんばかりの爽快な笑み。

「愛する妹に大切な人が出来た事を、その幸せを願う事が出来たら良かったのにな……」


 ヨハンのその言葉は、怪物の発する呪いではなく、ひとりの兄としての言葉だった。それは、発した本人すら思いがけない言葉だったのだろう。張りつめていた虚勢が薄れ、怪物として振る舞っていた衣が外れて、本心が口をついて漏れ出たのだ。

「例え姿が半人狼に戻ろうと、僕は怪物だよ、ハインリヒ。血を分けた実の妹ふたりに欲情して、自分のものにしたいと、そう思い続けていた僕だぞ? ずっと隠していた思いだ。地下の独房に閉じ込められた僕に、会いに来てくれるふたりに、あろうことか僕は……!」

 おそらく、誰にも言うつもりはなかったのだろう。死を前にして弱りきっているこの男は、今まで誰にも打ち明ける事の出来なかった本心を、ここに来て零してしまったのだ。あろうことか、呪いをかけたはずの俺の前で。

「そんな僕が、兄として顔向けできるわけないだろう……! リーゼロッテにも、アンネリーゼにも!」

「ヨハン、キミは……」

「だから、最初から貴様の行いは無駄だった。ハインリヒ、元から怪物である僕が、人間になれるわけがないのだからな……!」

 そんな事はないと言ってやりたかったが、俺は口をつぐんでしまった。足音を耳にしたのだ。この足音は変異種のものではない。だとすれば……。

「……お兄様」

 リーゼロッテの声。足音は彼女のものだったのだ。いつの間にか目を覚ましていた彼女は、俺とヨハンとの会話を聞いていたのだ。樹に身を預け、力の無い身体をやっとの事で立たせているリーゼロッテ。その目は驚きに見開かれ、口元は何か言葉を発しようと開かれたままだ。

「まさか、リーゼロッテ? ……聞いていたのか? ……ああ、やめろ、嘘だ! 今の言葉はすべて嘘だ! 僕は貴様など欲していない! 僕は貴様など、愛していない!」

 永遠の眠りに着こうとしていた身体を無理やりに働かせて、ヨハンは必死に、己の発した言葉を否定する。リーゼロッテが眠ったままで、ここに居ないものだと思い、本人には絶対に秘密にしておきたかった事までしゃべってしまったのだろう。彼の顔は後悔で歪んでしまっていた。己が発した言葉が妹にどう受け取られるか、それを知るのが怖くてたまらないのだ。

「お兄様、わたくしは……」

「言うな! 黙れ! ……頼むから、もう何も言うな。何も聞くな。何も、しゃべるな……」

 目に涙を浮かべたリーゼロッテが話そうとするのを、同じく目に涙を溢れさせたヨハンは必死に遮っている。妹と別れるその時まで、己が怪物である事を貫こうとしていたものが崩れ去ってしまう。それはリーゼロッテの方も同じで、兄を怪物だとして押し殺してきた感情が、ここにきて揺らぎ始めていたのだ。今際の、この時に。

「愛していないなんて、欲していないなんて、それこそ嘘ですの!! わたくしたちは、家族ですのよ!?」

 大声で叫び、リーゼロッテは樹から身を離して、ひとりで立つ。足元は覚束ないが、身体の内には力がこもっている。胸の内を伝えるための力が。

「兄様の考えていた事なんて、最初から全部わかっていましたのよ……!!」

 腹の底から発せられた妹の叫びに、兄は未だ獣のままの右手で目元を覆い、しかしすぐに手を口元を隠す位置にずらした。震え、嗚咽を堪えている姿は痛々しかった。

 俺はヨハンの姿を見ていられなくなり、何気なくリーゼロッテの方を向いた。その時だった。

「!? リーゼロッテ、逃げるんだ!!」

 咄嗟にそう叫んだが間に合わない。いつの間にか俺たちの元へ忍び寄っていた変異種が、リーゼロッテの背中を力任せに突き飛ばしたのだ。前のめりに倒れ、地面を転がるリーゼロッテは俺の方へ。彼女を抱きとめた時、その背中越しに、変異種があの大きな拳銃を手にしているのを目にした。

 まずい。変異種は俺たちが拳銃を撃つ姿を、今夜だけでも幾度となく観察している。かの獣が今手にしている拳銃は今、安全装置がかかっていない。たった一撃で人狼の頭を吹き飛ばす事の出来る威力だ。俺たちの命を確実に奪う事が出来るだろう。

 獣の顔を歪め人に近い唸り声を上げた変異種は、拳銃を両手で構え俺たちに向けた。人狼の手指の構造上、若干人間とは持ち方が異なるが、それでもグリップはしっかりと握られ、引き金に指はかかっている。

 今から変異種の持つ拳銃を奪い取ろうと動くには遅すぎる。だから、せめてリーゼロッテだけは守ろうと、彼女を抱きしめて、変異種に背を向けるように体勢を入れ替える。あの弾丸が俺の身体を貫いてリーゼロッテに当たらないようにと願いながら……。

 聴覚を狂わせる程の轟音が轟き、背中を強く叩かれたような衝撃が襲った。衝撃があまりに強すぎて、背中のどこに銃弾が当たったのかわからない。ひどい吐き気がこみ上げ、口の端から血が零れてきたのだから、銃弾は内臓にまで達したのだろう。二発目以降、あの轟音は聞こえなかった。聴覚が麻痺してしまったのだ。ただ、背中を打つ衝撃はあと二回程あった。その度に吐き気がこみ上げ、ついに血の塊を吐き出してしまった。

 腕の中にいるリーゼロッテが俺の顔を見て何かを言っているが、うまく聞き取れない。背後の変異種の事だろうか。首を巡らせて変異種の方を見れば、かの獣はすぐ近くまで、手で触れる事の出来る距離まで近付いて来ていた。とどめを刺すつもりだろうか、そう考えていた俺は、変異種が俺たちの傍を通過してヨハンの元へ歩み寄ってゆくのを見た。手の中の拳銃は放り捨て、上半身までが人間に戻ったヨハンを抱き上げる。どこに連れて行こうというのか。

 果たして変異種は俺たちの方を見た。その顔は多くの皺が刻まれ、息は荒い。この獣も命が尽きようとしているのだ。

「……ヨハンを、連れて行く気なのかい?」

 言葉が通じないとわかっていても、そう問う他なかった。変異種は俺の問いに一度顔を向けただけで、すぐに黒森の奥へと歩いて行ってしまった。ヨハン当人は、変異種に抱きかかえられた時にはもう、意識を手放してしまったようだ。こちらの方を向く事も、しゃべりかけてくる事もなかった。


 ◇


 深いまどろみの中にいたものが、いきなり現実に引き戻された。僕を抱きかかえていたはずのこいつが何故、同じ視線の高さにいるのだ。虚ろに成り掛けの頭で理解する。倒れたのだ。こいつは力尽きて、僕を放り出してしまったのだ。

「……おい、貴様。運ぶのならば、しっかり運べよ」

 憎々しげに言ってやれば、虫の息だったはずのこいつは舌を出して、顔を笑みの形に変えやがった。こんな時に何を笑っているのだ。まあ、いいよ。リーゼロッテとハインリヒに死に顔を見られる事はなくなったのだから。

 僕が人間して生を終えるなど、あっていいはずがない。僕は怪物として、人間に倒されたのだ。それでよかったのだ。死の間際にハインリヒに呪いを与えてやった。生きている限り消えない呪いを。リーゼロッテにもだ。

「まったく。貴様があの時ハインリヒを仕留めていれば……。いいや、アンネリーゼが洞窟に連れてきた時に食ってしまうべきだったんだ。そうすれば……」

 少なくとも、最後まで怪物のふりが出来たのだから……。何故あの時ハインリヒを殺さなかったのか。妹に絶望を与えたかったからだと思ったが、今にして思えば違ったのかもしれない。最愛の妹が見出してしまった希望を、摘み取る事が出来なかったのだ。怪物失格だ。

「まったく。人間でも獣でもなく、怪物にすらなり損ねてしまったよ。僕はいったい、何だったんだろうな。……なあ?」

 果たして、あいつは反応を示さなかった。舌を出しての息遣いも聞こえない。右目は霞んでしまって良く見えないが、おぼろげに映るあいつの姿がぴくりとも動かなくなってしまった事だけは、はっきりとわかった。

「……この、大馬鹿者が。運ぶならば、きちんと最後まで運ばないか。貴様が先に行って、どうするんだよ? この死にぞこないを残して、どこへ行きやがった!? おい!? おおい!?」

 こいつと、あとハンブルク城へ向かったやつとは、十年間一緒だった。妹たちと過ごした時間よりも長い。身体のつくりのせいで長くは生きられないだろうと見当がついていたが、こんなところで、僕を置いて先に行くなんて、ずるいじゃないか。名前すら付けていなかったんだ。情を抱かないようにしていたのに、その事に今さら後悔するなんて。

「まあ、いいよ。僕にもお迎えが来たみたいだ。待っていろよ、すぐそっちに行くからさ。……ほら、見えるぞ」

 死が向こうからやってくる。人の姿をして。ただ、目の前に現れた死神は、僕の抱いていた死のイメージとは、だいぶ異なっていた。大樹のような巨体な身で、来ているのは忌々しい医者か研究者かの白衣だろうか。僕の鈍い鼻でもわかるほどの薬の匂い。そして、死神は面をしていた。狼の頭を模った、鉄の仮面を被っていたのだ。




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