12話:迎撃 中
遠吠えの主がハンブルク城に到着した事は、すぐに自分たち兵科に知れ渡った。人狼たちが大人しくなったのだ。人間に、兵士に例えて言えば、指揮官が前線に現れたので判断を仰ごうとしている、といったところだろうか。
人狼を統べる何かの到着。ではやはり“隻眼”なのかとも思うのだが、当てにしていない直感がしきりに「違う!」と、その考えを否定し続けている。“隻眼”は、己が配下にしている人狼の中に、人間のように指揮が取れる個体を囲っていたという事だろうか。
わからないが、このまま迎撃を続行するべきではない。前戦に出ているフランツィスカとマルグリットとを一度呼び戻そう。そう思って懐から笛を取り出した時だった。望遠鏡で情報収集を続けていたハンスが「あ」と声を上げた。
「ふたりとも、こっちに来ます! 戻ってきます!」
こちらが支持を出す前に、ふたりとも撤退行動に入っていたようだ。ハンスの報告から間もなく、マルグリットが通りの向こうから現れた。背後に迫りくる敵はいないが、それでも後方をしきりに気にしている。黒森で人狼たちと戦う際にも、マルグリットが殿を務める事はあった。だが、今のような極端な警戒行動は見た事がない。あの遠吠えの主はそれほどに危険な相手だという事だろうか。
待機していた面々がマルグリットを出迎える中、倉庫の屋根にどんと衝撃が落ちた。とっさにライフルを構える面々だったが、窓からフランツィスカが飛び込んできた姿を確認すると銃口を下ろした。倉庫の二階が甘い香りに包まれる中、フランツィスカは片膝を付き、息を切らせていた。遠吠えが聞こえる直前まで、こんなに疲労しているような様子はなかったはずだ。遠吠えの主をその目で見てきたせいだと見て間違えないだろう。
「なんだありゃ……。見た事ねえ、化け物が出てきやがったぞ?」
自分が水筒を差し出すと、フランツィスカは乱暴にそれ受け取り、中身を一気に喉奥に流し込んだ。笑みの形のまま固まっている口元を腕で拭う。体が震えていた。恐怖によるものではなく、興奮から生ずる震えだろう。こんな状態のフランツィスカを見るのは初めてだ。
「化け物だと? アンジー、お前はいったい何を見たんだ?」
自分の問いにフランツィスカが答える前に、誰かが階段を速足で上がって来た。マルグリットだ。彼女を一目見て、これはいよいよまずいのではないかという思いに駆られる。先ほどまで浮かべていた笑みは消えて、目元と口元を鋭く引き結んだ表情を浮かべていたのだ。自分が見た事のないマルグリットの表情。フランツィスカの見た化け物とは、それ程のものなのか。
「ハンナ、まずい事になりましたよ。変異種が来ています」
変異種。その名前を聞いた自分は、しばらくの間固まってのだと思う。二階のみなが注目している視線を感じて、ようやく我に返る事が出来た。変異種など、存在するかどうかすら怪しいと言われている人狼が、このハンブルク城に来ているというのか。マルグリットやフランツィスカが嘘を付いている様子もなく、冗談を言えるような局面でもない。
想定外の事態だ。頭を働かせろ、ハンナ。まずは情報収集だ。フランツィスカとマルグリットとのふたりから目視情報を聞き出すのだ。水筒を傾けているフランツィスカは放って置いて、マルグリットの方へ向き直る。
「マルグリット、確認するぞ。目視した対象は、確かに変異種なのだな?」
「ええ、確かに」
「変異種の特徴は?」
「はい。全長は四メートル半程。一般的な成体の人狼よりもかなり大きい個体です。複製部位は腕で、背中の肩甲骨下の辺りから一対、腹部に一対を確認。背中の一対の腕は、個体の全長に対してやや大きめで、稼働している事を目視で確認済みです」
「なるほど、多腕の変異種という事か。しかも、複製部位稼働のうえ、人狼たちを統率する動きも見せていると?」
「その通りです」
「厄介な相手だな。変異種が来るなど、完全に想定の範囲外じゃないか……」
続々と倉庫二階に集まりだした人員の間に、緊張が伝播してゆく。今まで準備通りに、作戦通りに進んでいた迎撃だが、ここにきて想定外の事態だ。変異種が現れた時の対策など立案してはいないし、想定訓練も行っていない。
だが、完全に想定外とは言え、これから対応できないわけではない。
「マルグリット、確認をもう少し。変異種の走る速さと、背中側から生えている腕の有効範囲は?」
「はい。走りは、他の人狼と比べてもだいぶ遅いですね。走り出してしまえば速度は出るのでしょうが、初動は鈍重でしょう。腕の有効範囲は支点から半径一メートル弱、前面に伸ばした場合、前足を伸ばしたのと同じ程度の長さです」
「……そうなると、正面や側面からの近接戦は危険だな。ある程度の距離から攻撃しても、背中の腕が邪魔だ。後方、背後からの奇襲は有効か?」
顎に手を当てつつ呟き、マルグリットの方を見る。彼女の奇襲は有効だろうかという確認だ。しかし、マルグリットはすぐに首を振らなかった。即座に肯定も否定もしない。何か懸念する事があるのだ。
「変異種の周囲を人狼たちが取り巻いているので、接近するのは容易ではないかもしれませんね。それに私、だいぶ汗をかいてしまったので、完全に姿を消すのは少し難しいところでしょうか」
長時間の交戦で披露してきているから、ではなく、汗をかいてしまったからだという辺りに、彼女の凄まじさを見た気がする。状態が万全でないのなら、姿を消してからの奇襲は使うべきではないだろう。マルグリットに別の提案をしようと顔を上げると、彼女はいつもの笑顔に戻っていた。自分が口を開く前に「ですが」と続ける。
「ですが、人狼を幻惑する術ならば、まだまだございますよ。変異種の守りを引きはがすくらいなら、造作もございません」
事もなげに笑顔で言って見せる姿は頼もしいのだが、その頼もしさこそが今は危うく感じられる。どういう事だろう。変異種が現れるときにも感じたが、今宵はやたらと直感が煩い。普段なら気にも留めずに流して捨ててしまう可能性を、今日は重視しなければならない気がしている。
「なら、決まりだな」
嬉しそうな声色でそう言うのはフランツィスカだ。いつの間にか窓枠に腰かけていた彼女は、手近にあった保存食の包装を破いて中身をむさぼり始めていた。……まあ、補給のためにいくつか渡すつもりだったので、今回だけは大目に見よう。
「陽動は任せるぜ、マルグリット。その間に俺が、ヤツつの尾をちょん切ってやるよ」
自信満々に言うものだなと呆れかえるが、他の兵科にとっては心強い限りだろう。人狼を圧倒する赤衣のふたりが、想定外の変異種を倒す算段を付けてしまったのだ。片方はもう勝った気でいる始末だ。
さて、どうするべきか。この策は確かに悪くはない。マルグリットの陽動も、フランツィスカの打撃も、変異種攻略に対して効果的だろう。だが、不安は残る。変異種の実際の動きを、自分自身この目で見ていないのが大きい。マルグリットから聞いた情報を疑うわけではないが、まだ未知数の部分が多いのだ。
「わかった。ならば、その動きで行こう。迎撃地点はこの倉庫前を使う。必要な人員以外は宿舎の方へ退避して……」
そう、指示を下そうとした時だ。フランツィスカとマルグリットとが、同じタイミングで窓の方を向いた。各言う自分も、言葉を止めて、ふたりと同じように咄嗟に窓の外に目を向けていた。これも直感によるものだ。何かが来る、そう感じたのだ。
「み、みんな伏せろ!」
窓の外を望遠鏡で監視していたハンスが、悲鳴のような声を上げた。直後、窓に何かが衝突して、その衝撃が倉庫全体を大きく揺らした。突然の事に皆が床に伏せる中、衝撃が来る前に身を屈めていたフランツィスカは素早く動いていた。窓枠に身を隠すようにして片膝を付き、外の様子を伺う。
「……おいおい。あいつ本当に人狼なのかよ? 手前の同胞をぶん投げてきやがったぞ?」
喜色を、あるいは戦意に満ちた笑みを浮かべて、フランツィスカは呟く。こいつは今なんと言った? 変異種が、同胞をぶん投げただと?
「おい、窓から離れた方がいいぜ? もういっちょ投げてきやがる……」
フランツィスカの言った通り、今度は窓を突き破って人狼が入って来た。いや、入って来たというのは正しくない。何故なら、その人狼はもう息も絶え絶えの状態で、着地もままならず床を転がり、壁にぶつかって動かなくなったのだから。
自分もようやく身を起こして、フランツィスカの反対側窓際に身を寄せる。床に伏せっているハンスからもぎ取った望遠鏡を外に向けて覗くと、遠く廃屋の屋根に変異種の姿を見つけた。先程、フランツィスカが登って来る人狼たちを叩き落としていた廃屋の屋根だ。
変異種は背中から生えた腕を伸ばして、傍らの人狼の首根っこをむんずと掴んだところだった。捕まれた人狼は少しの抵抗も見せず、そのまま力任せに脛骨を握りつぶされて絶命する。変異種の複製部位である両腕の形は、狼や人狼のものよりは人間の手腕の構造に近い。あの手指ならばものを掴む事も出来るし、人間と同じように道具を使う事もできるかもしれない。
人狼の首を締め上げながら腕を持ち上げた変異種は、自らも後ろ足で立ち上がった。いったい何を? すでに答えが出ているというのに、つい自問してしまう。後ろ足で立ち上がった体勢から、その手に握りつぶした命を投げつけるつもりなのだ。
屋根の上、変異種は上半身を捻って、手にした人狼を投擲する体勢に入る。驚いた事に、その姿勢は人間が物を遠投する体勢に酷似していた。人間の遠投と異なる点は、背中の右腕で人狼を投げるために上半身を捻り、同時に両方の前足をも体の左側へ振って、反時計回りに回転しはじめたのだ。
「回転からの遠投だと!? これではまるで……!」
「そう思うよなあ? どーこで覚えたんだ? あんな馬鹿みたいな投げ方」
工程や細部の違いはあれど、変異種の見せた遠投はフランツィスカが行うハチェット遠投と酷似していた。いや、酷似しているのではなく、本質が同じなのだ。フランツィスカは彼女自身の肉体で、変異種も自身の肉体で、もっと力が乗る投げ方をしている。だが、黒森に生きる変異種が何故そんな方法を取れるのか。まさか、人並みの知能を持ち合わせているとでも言うのだろうか。
「……符合はあるな。可能性も」
望遠鏡の向こう、今や四足を使って体ごと回転を加える変異種を見て、対応策を決めた。倉庫二階で指示を待っているみなへ向き直り、言葉を発する。
「伐採班及び黒斧団は次の迎撃準備地点まで退避。マルグリット、みなの援護を頼む。アンジーは自分と情報収集だ。遠間から仕掛けて変異種の出方を見る。以上だ、各自行動……」
言い掛けたところで、フランツィスカが窓から身を乗り出し、ハチェットを投げ放った。変異種が投じた人狼の亡骸を空中で撃ち落としたのだ。フランツィスカは窓から身を乗り出したまま新たな轡を咥えると、窓枠を踏み越えて外へ飛び出して行った。
「か、各自行動開始!」
語尾を強めて締めると、みなすぐに行動に移ってくれた。伐採班と黒斧団と、そして選抜狙撃隊は、急いで一階に降りて通りへ躍り出る。次の迎撃地点まで後退するのだ。現状、あの変異種が人狼たちを指揮していて、こちらに侵攻してくる気配はない。撤退行動中のみなが襲われる心配は今のところないが、念のためマルグリットを護衛に割いた。自分とフランツィスカとは今から情報収集だ。先に跳び立って行ったフランツィスカの姿を追うと、廃屋の屋根を渡って変異種の注意を引き付けているところだった。充分距離を計った後、遠間からの攻撃で様子を伺う算段だ。
各員が行動に移った事を確認して、自分も倉庫の二階から動き出す。自分のライフルを肩にかけると、腰のシースからトマホークを抜いて、柄のリングにフックの付いたワイヤーをひっかける。クラリッサがよく使うトマホーク付きワイヤーの完成だ。窓から身を乗り出して周囲の安全を確認すると、倉庫の屋根にトマホークを放る。ワイヤーを引いて手応えを確認して、一息に窓から身を投げ出した。振り子のように動いてブーツの先を軒にひっかけると、全身の力を使って、やっとの事で屋根に上る。
「まったく……。同じ半人狼だというのに、この身体能力の差はなんだ……」
荒い息を整えながら呟く。この南方第七区の赤衣隊の中では、自分が一番身体的に劣っている。建物の上までひとっ跳びする事も、人狼に並ぶ速度で走る事も出来ない。こうして二階の窓から屋根へ上がるのすら一苦労だ。半人狼で赤衣隊などと呼ばれてはいるが、獣性1度のこの体は人間とたいして変わりない。耳と尾が付いているだけだ。
だから、自分は頭を使わなければならない。体で劣る分を思考で取り戻さなければならない。名のある家に連なる者ならば、赤衣を纏って人狼と戦うのならば、何よりこの城に住まう仲間たちと共にあるのならば、秀でた能力を持った者でなければならない。
「……ダメだな、今日は。余計な事ばかり考えている気がするぞ」
吐き捨てて、屋根伝いに走って何棟か先の廃屋に移動する。元は教会だったのだろう建物は、今は朽ち果て、鐘楼棟には鐘がない。あらかじめこの場所から狙撃を行う事も視野に入れていたので、鐘楼棟には板を張って即席の足場をつくってある。
交戦の舞台が屋根の上になった事でだいぶ見通しが良くなった。ライフルを構えつつ、廃屋の屋根を飛び回るフランツィスカの姿を捉える。指示通り、変異種には近付き過ぎず、遠間から割れた煉瓦や廃材を投じて様子を見ている。彼女が投げる物なら、この廃屋群の至る所に転がっている。
遠間からフランツィスカが投じる飛来物を、変異種は身を捩っただけで躱している。飛来する対象を正確に目視して、最低限の動きでの回避だ。大きく飛び跳ねて滞空する時間をつくらない。隙をつくらない。それを確認したフランツィスカが動きを変えた。
「じゃあ、これならどうよ!」
変異種のいる棟から二棟離れた屋根の上で身を回して、ハチェット遠投の体勢に入る。弾丸並みの速度とそれ以上の破壊力をぶつけて、あわよくば倒してしまおうと考えているのだろう。確かに強力な攻撃だが大きな隙が出来る。この位置から自分が補助するしかないだろう。変異種の注意は遠投体勢に入ったフランツィスカに向けられている。まだこちらに警戒を向けてはいない。
狙撃ライフルの銃口を変異種に向けて照準を合わせる。発砲のタイミングはフランツィスカがハチェットを投じる直前。飛来するハチェットに対して変異種が何らかの対応を行おうとする直前に、注意を逸らして隙をつくる。
フランツィスカと自分とが変異種に狙いを定める中、かの獣の動きは、傍らに呼び寄せた人狼を複腕で持ち上げて盾にするというものだった。フランツィスカの投ずるハチェットに対する防御だろう。自分が狙撃ライフルを構えてる側の防御はない。これならば、急所を穿つ事は難しくとも、頭部に着弾させて注意を逸らす事は出来るはずだ。風が強さを増して来ているのが不安材料だが、弾道の修正が出来ないほどでは……。
「……風? しまった……!」
失念していた。今、風下はどの方角だ。赤衣の裾は前の方へたなびいている。いつの間にか風向きが変わっている。自分は今、変異種の風上に陣取ってしまっているのだ。
ふと顔を上げれば、変異種がこちらを向いていた。目が合う。彼我の距離はかなり開いていたが、自分にはかの獣の瞳がどんなものか、はっきりと見る事が出来た気がする。深淵のような、底の知れない暗い色をした瞳。確信する、この獣は知性を有している……!
「ハンナ! 避けろ!」
風に逆らってフランツィスカの声が届いた。自分に逃げろと叫ぶ声だ。変異種と目を合わせてしまい、周囲への注意を完全に怠っていた。何が来るのかと身構えようとした瞬間、変異種が投げ放った人狼が鐘楼棟に激突した。
建物を揺るがす衝撃と、崩壊。鐘楼棟は容易くその形を失った。自分は息絶えた人狼とともに、下階の教会へと落下していった。
◇
幸い、落下して即死などという事にはならなかった。鐘楼棟が崩落する際に、ワイヤーを付けたままにしていたトマホークが腰のシースから転がり出て、偶然にも建造物の亀裂に引っかかったのだ。礼拝堂の床に激突する数メートル前で一度ブレーキが掛けられ、その時にワイヤーは切れてしまったが、運よく人狼の亡骸の上に落ちる事が出来た。奇妙な幸運続きで逆にうすら寒ささえ覚えるが、まだ動きを止めていい段階ではない。
変異種が次の人狼を投げ込んでくるかもしれない。老朽化していたとはいえ鐘楼棟を破壊する程の威力だ。同じ事を何度も続けられたら、この教会も崩落してしまうかもしれない。先の人狼を投じてから少し時間が空いたが、人狼の第二弾は投げ込まれていない。フランツィスカがうまく足止めしてくれているのか、それとも、変異種が戦い方を変えて来たのか。外に出て確認したいところだが、ここを出て他の廃屋の屋根に上るには時間がかかりすぎる。情報収集を続行するにしてもマルグリットが合流するのを待った方が得策か。
緩衝材にしてしまった人狼の亡骸から身を起こす。瓦礫に潰されなかった事はもちろん、怪我ひとつ負わなかったのは運が良すぎるというものだ。狙撃ライフルは近くに転がっている。咳き込むのを手で抑え、努めて静かに立ち上がって、埃を被ったライフルを取り上げる。一見して壊れている箇所はない。ボルトを操作して弾丸を取り出し、引き金を引いて空撃ちする。動作も良好だ。
「さて……」
礼拝堂に落下して、それほど時間は経っていない。変異種の移動速度を鑑みるに、ここまで来ると仮定しても、もう少し時間がかかるだろう。だが、配下に置いた人狼を先行されるとなれば話は別だ。フランツィスカが侵攻を食い止めてくれている事は疑わないが、それでも限界はある。今は外界の情報が必要だ。扉まで移動し、半身をぴたりと付けて外界の音に耳を澄ませる。こういう状況、リーゼロッテなら造作もなく外の音を拾えるのだろうな、などと雑念が入るのを努めて無視。勢いを増して扉を叩く風の音しか聞き取る事が出来ない。
歯がゆく思い、いっそ外へ出てしまおうかとも考えるが、そんな事をすれば非力な自分は瞬く間に人狼の餌食になってしまう。自分を諌め、焦燥感を燻らせていると、向こうの方からやってきてくれた。扉に、風とは明らかに違う衝撃が与えられたのだ。人狼が扉を破ろうとしているのだ。二度、三度と扉を打つ音が聞こえ、四度目で閂がへし折れる。自分は急いで扉から飛び退き、礼拝堂の奥、壁際へ。椅子の陰に身を隠しつつ、狙撃ライフルの銃口を扉に向けた。
七度目で扉は閂ごと破壊された。木片と化した扉を踏み越えて、一体の人狼が礼拝堂に入ってくる。侵入こそ素早かった人狼だが、礼拝堂の中ほどで動きを止めた。鼻を鳴らして状況を確認しているのだろう。わずかにだが、後ろ足での二足立ちになっている。自分は動きを止めた人狼の頭部に狙いを定め、引き金を引いた。
放たれた銃弾は左の眼球を貫き、人狼は一度痙攣を見せてうつ伏せに倒れる。素早くボルトを操作して次弾を装填、扉が破壊されてしまった入り口に銃口を向ける。危機は去ったがあくまで一時的にだ。今の銃声を聞きつけて後続の人狼がなだれ込んでくるだろう。いつまでもこの教会に留まっては居られない。退路を確保しなければ……。
ふと気を緩めた隙に、礼拝堂には新たな影があった。焦りに息を詰めて銃口を向け、その姿が赤を纏った者である事を知って、緊張を解いた。
「……マルグリット、か」
礼拝堂に突如として現れたのは、銃剣付きのライフルを携えたマルグリットだった。こちらに向けてくる笑顔に思わず気を緩めてしまうが、そんな暇はない。他の人員を退避させてわざわざ自分の援護に駆けつけてくれたのだ。
「ハンナ、無事で良かった。しかも、あなたひとりで対応してしまうなんて」
「侮るな、マルグリット。自分も赤を纏って戦う者のひとりだ。最善を尽くすさ。それよりも……」
これからどう立ち回るか。今まではフランツィスカの人狼寄せと城下町の迷路を使って人狼の動きを封じてきたが、知性のある変異種の登場によってその策が瓦解した。この城に攻め入った人狼たちは、黒森の時点で“隻眼”によって与えられた命令に従って動いていると自分は推測していた。実際にハンブルク城へ侵入してからの動きも概ね事前の予測通りで、対策も朝まで間に合うだけのものを用意していた。
だが、知性ある個体が群れを支配し命令できるとなれば、こちらの準備を確認した上で動きを変えてくる可能性もあり得る。先程変異種と目があった時に確信した。あの変異種にはそれが出来るだけの知性がある。こちらの動きを見て、人狼たちの動きを変えてくる事もするだろう。
だからまずは変異種を叩く。想定外の要因を排除して、元の作戦に修正する。自分とマルグリットと、そしてフランツィスカでそれを成すのだ。そのための情報収集はほとんど行えていないが、時間を掛ければかけただけこちらが不利になる。現状で可能な対応を、最速で用意する。
「変異種をここで迎え撃とう」
マルグリットは頷いてくれた。自分の意図を即座に理解してくれたようだ。
「狭い場所に誘い込んで、相手の動きを制限するのですね? しかし、そう簡単に入ってきてくれるでしょうか? もしかしたら、人狼たちを差し向けるかも」
「確かに、その可能性はあるが、なにか問題があるか?」
例え人狼が司令塔の命令により組織立って動いたとして、こちらを素通りして他の隊員の所に向かわなければ問題はない。フランツィスカが足止めをしている以上、しばらくは大丈夫だ。それに、変異種はまずこちらを潰しに来るだろう。それも確実だ。
「変異種が、まずこちらを襲うと? 一応、その根拠を聞いておきましょうか」
「人狼は群れを成す生き物だ。縄張りで生きる生き物。普通ならば群れ同士で抗争して縄張りを広げるはずの所を、あの変異種は魅了が使えるために、それをしてこなかった。争う必要がなかったからな……」
マルグリットと一緒に破壊された扉の近くまで歩いていき、外の様子を伺う。人狼の斥候はまだ来ない。
「同族と争う事がなかった人狼が、どうしてあんな攻撃的ともいえる投擲が出来るのか、少し考えていたんだ……。黒森の中で同族に脅かされる心配がなく、それでも攻撃的な動きを取る必要があるのだとすれば、それはどんな理由なのか」
耳を澄ませば、遠くに人狼たちの短く吠える音と、骨肉を潰し断つ音が聞こえてくる。ハチェットが風を切り、人狼や建物を破壊する音も。
「変異種も戦う必要があったんだ。己を脅かす敵と」
「敵ですか。それは……」
「あの変異種と同じく“魅了”を使える個体。同じ人狼の変異種か、もしくは“隻眼”のようなふたつ名持ちの人狼、と考えるのが今のところ妥当な線だろうな……」
同じ支配の力を持つ個体がふたつ、雌雄を決するために戦う必要があったのだろう。争いを避けて細々と生きるような個体もいるのかもしれないが、先天的か後天的かはわからないにしろ、支配する側になる力を持った獣がそんな生き方をするとはどうしても思えない。知性を持つとはいえ、あれは人狼という名の獣なのだ。
魅了を使える人狼同士は、自分の配下を戦わせて雌雄を決する事はないだろう。黒森で“隻眼”から受けた命令が、現地の変異種によって書き換わっているとすれば、魅了の効果はもっとも近くにいる個体から発せられるものが最優先という事になる。ならば、黒森で魅了を使える個体同士が鉢合わせたならば、その個体同士の力を持って優劣を決めるしかなくなる。
「変異種が自ら赴くならば、その理由は配下での侵攻が思うように行かないからだ。現状がそれだろう。人狼が人の領域に踏み込むなど前代未聞、いつもの縄張り争いとは勝手が違う。状況をこの目で見ようと、進めようとして、変異種はハンブルク城に乗り込んできたのだろう。それが、“隻眼”の命によるものか、変異種自身の判断によるものかはわからないがな」
そして、配下の動きがダメとなれば、いよいよ変異種本体が動き出すはずだ。狙いはもちろん、人狼たちを迎撃している自分たち赤衣隊だ。直にハンブルク城に乗り込んだ変異種はその目で見た事だろう。無数ともいえる人狼の群れをたったふたりで相手取る半人狼の少女と。そして、仕掛けと策とを用いて、本来太刀打ちできるはずのない人狼に対抗して見せる人間たちとを。
「……その中で、まずは赤衣隊を、変異種自らが潰しに来るという事でしょうか? ……そうでしょうね、私かアンジーのどちらかが倒れてしまうと、人狼の侵攻を抑える事は難しくなってきます。それで、この場所で変異種を迎え撃つ、と。この場所を迎撃地点に選んだ理由は?」
「見ての通り、この元教会は経年劣化でかなり脆くなっている。変異種を誘い込み建物を倒壊させ、生き埋めにする。人狼がいかに頑丈であろうと、建材の重量には適わないだろう。もし命をつないだとしても、人狼たちへの命令は途絶、元の作戦に修正可能だ」
「教会を倒壊させる方法は?」
「ヤツを誘い込んだ後、教会の中で交戦してくれ、マルグリット。なるべく壁際、柱の周囲などがいい」
「変異種自身の攻撃によって、建物に打撃を与え倒壊を促す、という事ですね?」
承知致しましたと、マルグリットは事もなげに言って見せる。何とも頼もしい限りだなとため息を吐いた時だ。向かいの通り、その廃屋の屋根が轟音と共に倒壊を始めた。身構え、扉の外れた入り口からその様子を見た自分は、急いで壁に背中を預け、狙撃ライフルで天井を狙う。今は空洞になってしまった、鐘楼棟へ続く天井。そこから、残っていた建材の破片を巻き込んで、多腕の変異種が落ちてきたのだ。複腕で器用に壁をひっかいて落下の勢いを殺しながら着地して、悠然と礼拝堂の真ん中へと移動する。
「何とも早いお出ましだ。では、マルグリット?」
「ええ。それでは、今言った通りに……」
マルグリットが動く。入り口を挟んで反対側の壁に背を預けていた彼女は、銃剣付きのライフルを変異種へ向けて構え、発砲と同時にかの獣へ向けて走り出した。走りながら、レバーを駆動させて排莢と装填とを繰り返す。全弾を撃ち尽くすと、ライフルを投げ槍でも投げるかのようにして構え直し、変異種に向けて投じた。
変異種は散弾をものともせず、投げ付けられたライフルも右の複腕で掴み、握りつぶしてしまう。残骸と化したライフルを放り捨てた変異種は、マルグリットが次の行動に移っているのを目にする。礼拝堂の長椅子のひとつを蹴り上げ垂直に立てて、椅子の底にワイヤーで括りつけていた長柄の斧を手にする。先ほどまで人狼たちを相手に振るっていたものではない。刃の形状が若干異なっている。
「……まさか、最初からこの場所を戦場にするつもりだったのか?」
最初からこの教会での迎撃戦をも想定していたのだろう。礼拝堂の中を良く目を凝らしてみれば、窓枠や壁の亀裂から刃や柄が覗いている。
「ええ、ハンナ。その通りですよ。しかしまさか、変異種を相手にするとは思ってもいませんでしたけれどね?」
マルグリットは長柄斧を二度、三度と振るって変異種と対峙し、距離を測りながら立ち位置を徐々に壁際の方へ移してゆく。打ち合わせ通りに変異種との交戦を開始したのだ。変異種が振るう長い腕から大きく距離取り、壁を背にして長柄を構える。このまま変異種に攻撃させて、壁面にダメージを蓄積させていくのだ。
しかし、変異種はマルグリットに複腕を伸ばす事の出来るぎりぎりの距離を保って、身動きを止めた。身をたわめ低くして、複腕は威嚇するかのように大きく広げる。こちらの意図に気付いているのか、それとも観察しているのか。解せないのは、変異種は完全に背後に気を回していない事だ。自分に背中を見せている。こちらの事を取るに足らない存在だと思って油断しているのか、それともマルグリットに背中を見せるくらいならばという事か。
好機だと思った。自分が蚊帳の外にいるというのならば、その外側から横槍を入れて倒してしまえばいい。この教会を崩落させるまでもなく、決着は一発の弾丸が決めてくれる。人狼を殺す、銀の弾丸が……。
自分が狙撃ライフルを長椅子の上に置いて腰のホルスターから拳銃を抜くと、マルグリットが一瞬こちらを見た。こちらの挙動に対して何らかの反応があるかという時、突如、変異種が短く何度も吠えた。これは威嚇ではない、他の人狼を呼んでいるのだ。複数の人狼が入り口から礼拝堂へ流れ込んでくる。すぐに狙撃ライフルを掴んで壁際に飛び退くが、人狼たちはすぐに自分の方へ飛び掛かろうとはしない。変異種の次の指示を待っているのだ。まるで躾けられた軍用犬のように……、いや、違う。これは生き物の動きではない。
「……なんだ、こいつらは」
変異種の命令を待つ人狼たちの様子に、自分は異様なものを感じた。自分とて、赤衣隊として幾度となく人狼と対峙してきている。だからこそわかる。この人狼たちは異常だ。瞳が濁り、身じろきひとつしない。呼吸すら止めているかもしれない。これが野生に生き物の取る挙動だというのか。これでは生き物どころではなく、物言わぬ人形か何かだ。次に変異種が吠えた時、この人狼たちは己が生き物であった事を思い出したかのように行動を開始するのだろう。隙をつくってしまったのがまずかっただろうか。マルグリットの注意を一瞬こちらに向けてしまった事を悔やむが、時間と状況とは元に戻らない。
さあ、変異種の次の命令はなんだ? 自分かマルグリットを襲えというものか、その両方か。それとも、呼び寄せた人狼たちは変異種自身の守りに徹するのか、先ほどのように変異種が武器として扱うのか。変異種を吠えさせてはならない。それは、変異種と対峙しているマルグリットも理解しているだろう。この膠着を守ったまま変異種を討つ。マルグリットは、すでにそのための動きを頭の中で思い描いている事だろう。ここから事を有利に運ぶには、自分はどうすればいい? 答えは決まっている。何もせずに状況が動くのを見守るのだ。
マルグリットが動く。ふっと、彼女の姿が掻き消えた。変異種が吠える前にその喉元を断つのだろう。いつもならこれで決着するはずだ。それだというのに、胸騒ぎがする。焦燥感だ。このままではいけない。だが、今の自分は動くべきではない。事が成されるまで見守るしかないのだ。
結果はすぐに表れた。マルグリットの姿がもう一度現れた時、彼女の長柄斧は変異種の顎の下で停止していた。変異種が右前脚で刃を封じたのだ。かの獣の顔には痛みによって深い皺が刻まれる。マルグリットの斧を封じた右前脚は縦に割られ、もう使い物にはならないだろう。痛みに低いうめき声を上げる変異種は、鋭い目でマルグリットを睨みつけると、すっと短く息を吸い込み、吠える体勢に入る。
変異種が吠える前兆をマルグリットは見逃さなかった。すぐに長柄から手を離し、赤衣の内側から何かを変異種に向けて放つ。月明かりに照らされ、それがワイヤーである事がわかる。トマホークの柄にワイヤーを付けたものだ。それで素早く、変異種の上下の顎を拘束して開かないように結びつけた。長柄斧で割られた右前脚も一緒にだ。これで吠える事は出来ない。
頭を振って、一緒に拘束された右前脚を滅茶苦茶に動かして、吠えるために顎を開く隙とつくろうとする。だが、もがけばもがくほどワイヤーは複雑に、より強力に絡まってゆく。人狼たちに命令を出す事が出来ないとわかった変異種は、目の前のマルグリットを排除しにかかる。体勢を低く保ったまま、両の複腕で彼女の身を薙ぎ払おうとする。
マルグリットは風を切るように振るわれる複腕をぎりぎりの距離で躱しながら、両手を懐に入れて刃の長いナイフを抜き放つ。手の中でくるりと一度ナイフを回して握り直したマルグリットは、変異種が腕を振るうのを躱し続け、何度目かの振りに合わせて身を横に回転させ、両手の刃を閃かせた。狙ったのは変異種の複腕、その指先だ。くぐもった呻きと共に大きく飛び退いた変異種。たった今マルグリットに向けて振るった手の指先から、ナイフが生えていた。マルグリットが変異種の爪の間に刃を差し込んだのだ。
新たなナイフを懐から抜いたマルグリットは、剛腕を振るう変異種の懐に幾度も飛び込んでは離脱するを繰り返す。その度に、爪を剥いだり指の間を斬り裂いたり、腕の腱を断つなど、細やかな攻撃を蓄積させてゆく。いつものように姿を消して刀で一撃というわけにはいかないようだ。それは、先ほどの長柄斧の一撃が寸でのところで止められたからでもあるのだろう。
だがこの調子なら、建物を崩して生き埋めにせずとも変異種を倒してしまえるかもしれない。そう考えてマルグリットを見るが、彼女の顔から笑顔が消えていた。余裕が消えているのだ。この状態を保つのが精いっぱい、そう告げているようにも思える。マルグリット自身、変異種にダメージを与えつつも、先の打ち合わせの通り、柱や壁に変異種の攻撃を誘導している。自分の攻撃のみで倒せるとは考えていないのだろう。
礼拝堂内を駆け巡っての交戦で、変異種はついに呼び寄せた人狼を掴んで武器として用い始めた。己の配下を殺めてしまう事に何のためらいも抱かない所業に嫌悪が湧く。マルグリットも人狼の亡骸を武器に盾にと立ち回る変異種に、やや動きづらそうにしている。生き物を武器として用いている事に対してではなく、単純に攻撃できる面積が減ってしまったからだろう。それでも、変異種が同族の体を振り回し続ける事によって、建物に蓄積されるダメージは随分と増した。壁が軋み、ぱらぱらと欠片が降り注ぐようになり、いつ倒壊してもおかしくない程の有り様となる。そろそろだ。頃合いを見て、マルグリットと共にこの教会から脱出して、変異種を生き埋めに……。
「ハンナ! 避けて!」
思考に感け、一瞬だけ交戦から目を離してしまったのがいけなかった。はっと、意識を外に向け直した時には、すぐ目の前に人狼の巨体が迫っていた。変異種が放り投げたものか、または手から抜け落ちたものか。それが自分の方へ迫って来ていたのだ。
衝撃と圧迫感とが体を襲う。潰されたカエルのような声が漏れ出るのもつかの間、今度は呼吸ができなくなる。人狼の重量に圧迫され、視界と呼吸とが断たれ、状況がどう動いているのかを知る事が出来ない。
「ハンナ! ハンナ!!」
マルグリットの切迫した声が聞こえる。体に掛かる圧はすぐに退かれて、呼吸が戻る。回復した視界には、刃が取れて柄だけになった元斧を手にしたマルグリットが、息を荒げて立っている姿が映り込んだ。斧の柄で覆いかぶさった人狼の亡骸を退かしてくれたのだろう。自分が礼の言葉を発しようとした時、マルグリットの姿が消えて、急に視界の上下があやふやになった。ぐるぐると回る視界の中で、自分が突き飛ばされて転がった事を知る。
ようやく停止して落ち着いた視界に飛び込んで来たものは、変異種の複腕で壁に押し付けられるマルグリットの姿だった。壁と変異種の腕とに挟まれて呼吸ができないマルグリットは、空気を求めるように口を開けている。その姿に危機感を覚えるべきなのだろうが、どこか現実味がなく、別の次元で起こっている出来事のように感じてしまう。
「……や、やめろ」
咳き込みながら言葉を零し、震える足で立ち上がる。体に力が入りづらくなっている。疲労のせいか、呼吸がわずかな時間止まっていた影響か。動かそうとした右腕が痛み、意識が強烈に覚醒する。この痛みは、おそらく骨が折れている。右腕は駄目だ。左手で、腰のホルスターから拳銃を抜く。撃鉄を起こして、銃口を変異種に向ける。
「やめろおぉぉ!!」
もう一度言葉を。今度はちゃんと叫びになった。変異種の注意がこちらに向く。変異種の顎と右前脚とを拘束するワイヤーは解けかかっていて、少し身じろきすれば吠える事も出来るようになってしまうだろう。
「マルグリットを、返してもらうぞ……!」
彼我の距離は五メートルもない。利き手とは逆の手だが、この距離ならば外さない。特定箇所に狙いを定める事はせず、変異種の体全体を含める余裕を持って、引き金を引いた。乾いた発砲音が響き、変異種の左わき腹に銀の弾丸が撃ち込まれる。その効力はすぐに表れた。変異種は全身の毛を逆立てて、マルグリットから手を離して飛び退いた。死を迎える前の虫のように体を痙攣させて、折り曲げ、苦しげな呻きを上げる。以前、ハインリヒ隊長が黒森にて“隻眼”に対して銀の弾丸を使用した時よりも効力が強い。
変異種が飛び退いてすぐに、自分はマルグリットの元に駆け寄り抱き起こす。意識を失ってはいるが、呼吸はわずかにあった。だが、両腕と肋骨を幾本か折っている。それに、口の端からは血の塊がこぼれ出ている。内臓が傷付いているのだ。後頭部や腹部からも流血が見られた。はやく処置しなければ大変な事になる。急いでこの場から運び出さなければ……。
そう考えてマルグリットを抱え上げようとした時、変異種がワイヤーの拘束を破り、弱々しく一度だけ吠えた。弾かれたように動き出す人狼たちを視界の端に見とめ、咄嗟にマルグリットに覆いかぶさる。しかし、数秒待っても人狼たちは襲って来なかった。それもそのはずで、人狼たちが襲い掛かった先は、自分たちではなく、変異種の方だったからだ。
変異種の命令で動き出した人狼たちは命令主の元に殺到して、その腹部に我先にと喰らい付き始めたのだ。「いったい何を?」と一瞬呆けてしまったが、人狼たちが食らいついている部位が銀の弾丸の当たった箇所だと思い至り、背筋が凍る思いがした。変異種は配下の人狼たちに、銀の弾丸によって犯された場所を食いちぎるように命令したのだ。患部に喰らい付いた人狼は、銀の弾丸をその身に受けたかのように、全身を痙攣させ折り曲げるようにして絶命する。一体息絶えれば次の一体が、二体息絶えれば次の二体が、変異種の腹を貪り食ってゆく。
自分がマルグリットを抱きかかえて教会から脱出しようとする間、変異種はずっとこちらを睨みつけていた。その瞳には、知性の他にあるものを感じ取る事が出来た。憎悪だ。憎悪の感情が、変異種の瞳を通じて発せられていた。
教会から脱出すると、それを待っていたかのように倒壊が始まった。瓦礫の山に沈んでゆく変異種の瞳は変わらず憎悪に満ちてこちらを見つめていた。この量の瓦礫に押しつぶされてなお生きているとは考えられない。普段の自分ならそう考えるはずなのだが、あの変異種に関しては、どうしてもその考え通りになるとは思えなかった。
◇
それからすぐに、伐採班や黒斧団と合流してマルグリットを宿舎まで運ぶ事が出来た。選抜狙撃班のみなが高所から教会が倒壊するのを視認して、すぐに伐採班と黒斧団とが自分たちの元へ駆け付けてくれたのだ。黒森を発った後続の人狼は依然フランツィスカが抑えてくれているが、彼女ひとりでは無数に襲い来る人狼たちを抑えきれない。マルグリットが抜けた分を、これから伐採班と黒斧団とで埋める事になる。これで、クラリッサが帰還してもフランツィスカを出撃させるわけにはいかなくなった。
自分の不注意でマルグリットが負傷してしまった。気を抜くと自責と自己嫌悪とで頭を抱えてうずくまりたくなるが、まだそうしていい状況ではない。自身の応急処置を済ませたら、すぐに前線に戻らなければならない。今すぐにでも、マルグリットに縋り付き泣いて許しを請いたい思いを抑える。泣いて許しを請うのはすべてが終わった後だ。
宿舎に戻ると、アグネスさんをはじめ待機していた人員がすぐにマルグリットの処置に当たってくれた。自分も骨折した腕に処置を添え木を当てて処置をしてもらった。すぐに前線に戻ろうと立ち上がったが、体に力が入らずエントランスの床に膝を付いてしまう。駆け寄ってくる隊員たちを手で制し、息を整える。たったあれだけの短い時間で、これほど消耗してしまうとは情けない。身体はおろか、精神も薄弱では話にならないではないか。
ようやく息が整ってきて、さあ、そろそろ前線に戻ろうというところで、裏口の扉が強引に開けられる音がした。人狼が力任せに扉を破った音ではない。人が焦りに任せて扉を開けた音、クラリッサが無事に帰ってきたのだ。彼女の帰還に安堵し、同時に申し訳なくなる。鼻の利くクラリッサは、もうこの状況を把握してしまっている。マルグリットの負傷を知っているのだ。
急ぎ駆けつけた足音が、エントランスに辿り着いたところで止まる。マルグリットの姿を見てしまったのだろう。物事の大半を嗅覚で判断出来てしまうクラリッサだからこそ、その感覚を疑いたかったに違いない。
「……アリス、よく戻った。……すまない」
クラリッサの耳に届いているかわからないが、自分はそう言葉を発していた。思っていた以上に声に力が入らず、唇が震える。
「リゼの元に増援を送る事は出来なくなった」
だが、伝えなくてはならない。自分の立てた稚拙な策の破綻を……。
「マルグリットが、重傷だ」
果たしてクラリッサの表情は動かなかった。じっと、力を秘めた瞳がマルグリットを見つめていて……。その瞳が、綺麗な空色の瞳が、徐々に橙色へと変化してゆくのを、自分は確かに見た。




