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南方第七区赤衣隊隊長日誌  作者: アラック
“隻眼”の人狼
18/22

11話:迎撃 前

 時刻は、リーゼロッテとクラリッサとがハンブルク城を出発する時まで遡る。クラリッサが人の姿に戻ったリーゼロッテの姉、アンネリーゼを連れて戻るまで、ハンブルク城で何があったのか。それをこれから話す事にしよう。語り手は自分事、ハンナ・ヴルフだ。


 ◇


 最初の遠吠えが黒森を通じてハンブルク城にまで伝わって来たのは、日没後すぐの事だった。開戦の合図だ。程なくして人狼の第一波が、黒森からこのハンブルク城に向けて出発するだろう。第一波が到達するまでは、十分弱といったところだろうか。恐ろしく短い時間だ。

 本来、人狼という種は、夜であろうと黒森から遠く離れた場所に出没する事はほとんどない。その原因が諸説ある事はさて置き、実際こうして侵攻の遠吠えが上がると、やはり身に緊張が走る。いつ人狼に攻め入られてもおかしくない場所で、今まで平然と生活していた事。心の片隅にあった恐怖が本物になった事。そして、これから有史以来誰も成し得なかった事を成そうとしている事。

 対人狼を想定した市街戦。準備は有り合わせのもので、現状の最高のものを用意できた。来るがいい、人狼よ。ハンブルク城はすでに迎撃態勢だ。

「迎撃、態勢、だというのに……!」

 自分はため息をついて、頭痛の種に視線をやる。そこには、フランツィスカとクラリッサのふたりが、未だパンを口いっぱいに頬張りながら、目元だけ戦意を浮かべて鼻息を荒くしていた。ふたりとも大真面目に戦闘態勢だと言いたいらしいが、それは口の端に付いたパンくずを何とかしてからにしてほしいところだ。

「アンジー、アリス、口の中のものをさっさと胃の中に落とせ。もうすぐ第一波が来る」

 自分がそう告げると、ふたりはもごもごと、言葉にならない抗議の声を上げて眉根を寄せる。どうせ「アグネスさんの料理だから味わって食べないともったいない」辺りだろう。それは重々承知、同感の極みだが、今はそれどころではない。

 ハンブルク城内に警鐘が響き渡る。この警鐘は伐採班のハンスによるものだろう。伐採班の宿舎屋根から望遠鏡で城外の様子を監視していたところ、人狼の第一波を捕捉したようだ。

「それでは、人狼たちを城内で御お持て成し致しましょうか。アンジー、参りますよ?」

「お。がってん」

 傍らに長柄の斧を携えたマルグリットが赤衣のフードを被り立ち上がると、フランツィスカもハチェットをベルトに差して、同じようにフードを被って立ち上がった。

「では、行って参ります。リゼ、アリス、隊長さんの事、お願い致しますね?」

 マルグリットが、駆け寄ってたクラリッサとリーゼロッテとを抱きしめて、別れを惜しむように言葉を交わす。

「……必ず、ハインリヒ隊長を探し出しますの。だから、マルグリットも……」

「マルグリットー。無茶しちゃダメですのよー?」

 いつものように笑みを浮かべたマルグリットは、ふたりの頭を優しく撫でると、赤衣の裾を翻して宿舎を後にする。

「ま。心配しなさんなよ、ハンナ。悔しいが、ハンブルク城で一番強いのはマルグリットだ。戦いの最中に油断も動揺もしないような化け物染みた精神持ってるやつが、そうそう危険な目に会う事あねえよ」

 自分に対してそう告げるのはフランツィスカだ。自身やマルグリットが危険な目に会う事など微塵も考えていないような態度に憤慨するが、それもいつもの事だと、息を整えて自分自身を諌める。

「ああ、確かにな。ふたりの強さを疑ってはいないさ。それに、いざという時の事を考えるのは自分の役割だ。懸念や不安、その他、頭を使う事はここに置いていけ。アンジーは頭を空っぽにして戦いに挑んでいけ」

「はあ? 失礼だな。俺がなーんにも考えていないみたいな言いぐさ」

「ほう? では、獣性5度の“狂犬”殿は、なにか高尚な事でも考えていると?」

「ああ、もちろんだぜ? 城の中に入り込んだ人狼をぶっ倒して、戻ってきたアリスと交代で出撃して、ハインツ助けて“隻眼”倒して万々歳だ。あと、その帰りにしばらくハインツを独り占めにするからな」

 にやりと笑んだフランツィスカに向けて、「は?」と眉をひそめたリーゼロッテが睨みを利かせる。つかつかとフランツィスカに詰め寄って、真正面からその瞳を見据える。

「ハインリヒ隊長を独り占めして、何をなさるおつもりですの?」

「言わせんな。恥ずかしい」

 まったく恥ずかしげもなく言うフランツィスカに、額に青筋を立てて怒りをあらわにするリーゼロッテだが、ふっとその表情は和らいでゆく。

「ハインリヒ隊長がアンジーを求めるのならわたくしは止めませんの。でも、無理やりでしたら承知しませんのよ?」

「無理やりするつもりだったんだがなー。ちなみに、承知しないって、何すんのさ?」

「スラッグ弾込めて撃ち殺しますの」

「まともに狙いが付けられるんならそうしな。今のリゼじゃ、絶対俺に当てられねえぜ?」

 互いに冗談を言って笑い合ったふたりは、やがて力強く抱擁を交わした。フランツィスカが宿舎から駆けて出てゆくのを見送ったリーゼロッテは、困ったようにため息を吐いて装備の最終確認を始める。

「リゼ、出撃の直前になってすまないが、渡すものがある」

 きょとんと、いまさら何があるのだろうかと不思議そうな表情を浮かべるリーゼロッテに、自分はヘルムートさんから預かっていた木箱を差し出す。伐採班の選抜狙撃隊と打ち合わせていた時に偶然見つけたものだ。

「……これは、拳銃ですのね。でも、この形は……。わたくし、初めて見ますの。サイズも随分おおきい……」

「それもそうだ。軍で正式採用されたものではないからな。ヘルムート団長の知人が個人で製作したものとの事だ。グリップの前に弾倉を装填するようになっているだろう? これは専用の弾丸を撃つための構造らしい」

「かなり不格好ですのね。あ、グリップは小さくて握りやすいですの。ちょっと重いですが、これくらいなら片手で振り回せますのよ」

 弾倉をセットした拳銃を軽々と振り回すリーゼロッテを、居合わせた伐採班や黒斧団のみなが呆然として見る。それもそのはずだ。今リーゼロッテが軽々と振り回している拳銃は、いわば失敗作。奇怪な構造と片手で持つ事の出来ない重量のため、とても扱えない代物だと言われていたのだ。

 リーゼロッテの動きに問題がない事を確認して、まあこれなら大丈夫だろうとひとりで頷いていると、渋い顔をしたヘルムート団長が隣にやってきた。この拳銃の木箱を見つけた時も、ヘルムート団長は同じように渋い顔をしていた事を思い出す。黒斧団の力自慢たちでも扱えなかった拳銃を、まさかリーゼロッテが軽々と振り回してしまうとは思わなかったのだろう。

「……あのよ? ハンナ嬢ちゃん。俺あ、リゼ嬢ちゃんならそいつを扱えるって聞いて、まっさかあって思ってたんだわ。だが、実際目の当たりにするとよう。……なんだ、言葉が出ねえな」

「しっかり話せていますよ、ヘルムート団長。リーゼロッテは、膂力だけなら獣性3度に判定されるのでしょうが、片方の視力を失くしているので数字を大幅に減点されているのです。むしろ、判定基準を洗えばマルグリットと獣性が逆でもおかしくありません」

「そっかあ、マルグリット嬢ちゃんの方は人間離れした人間業であの判定だもんな。俺も詳しい事あよくわからんが……」

「しかし、ああして軽々と扱っているのを見ると、失敗作だとは到底思えませんがね?」

 自分とヘルムート団長は、リーゼロッテが腰にホルスターを装着して片手で抜き撃ちの動作を繰り返すのを眺めつつ、雑談を始めていた。

「いやな? うちのもんでも片手で構える事あ、できんのよ? だが、撃った反動で姿勢がぶれて、あっちこっち弾飛んでったりで、使えねえ使えねえ。元々は、ちょいと大きめの弾を撃つために考案したらしいんだ。それがよ、これをつくったじじいは何を思ったのか、同じ構造のまま弾倉と薬室とをでっかくして、ライフル弾撃てるようにしちまいやがったのよな」

「……半人狼の膂力ならではの武器になってしまった、という事ですね」

「だあな。もう何丁かあれば、アンジー嬢ちゃんたちにも持たせてやれたんだがな」

「いえ、その必要はないと思いますよ、ヘルムート団長。アンジーの場合、ハチェットの軌道は曲げられるが弾丸の軌道は曲げられねえからな、とか、狙いつけて撃つよりもの投げた方が早え、とか言い出すでしょう。マルグリットも扱う事は出来るでしょうが、実戦で用いるかどうかは状況次第でしょうね」

「ほんっと、頼もしい嬢ちゃんたちだよ」

 一通り動作を確認したリーゼロッテは拳銃をホルスターに戻して、他の者が自分を見ている事に気付いて、耳を引くつかせてびっくりしている。渋い顔をしていたヘルムート団長は、今はたいへん満足気な顔に変わっている。

「んなっはっは! そんなに軽々と振り回してくれちゃあ、マウザーのじじいも満足だろうなあ」

「マウザー翁とおっしゃいますの? この拳銃をお造りになったお方は」

「ああ、とっても偏屈なじい様だよ。偉大なるマウザーじじい。その最高傑作、グロースマウザーとか名前付けてやろうか」

 リーゼロッテはグロースマウザーという名前を頭に焼き付けるように何度か呟く。その隣では、装備の確認を終えて手袋を嵌めたクラリッサが、アグネスさんと額をくっつけ合って何事か囁き合っていた。おそらくはアグネスさんの出身地方に伝わるおまじないだろう。アグネスさんがこうして、赤衣隊の出撃前にそのおまじないをかけてくれる光景は、良く見られるものだ。しかし、今日は少しばかり長いような気がする。

「ハインツの分も、おまじないですのー」

「そうよう? ハインツ坊ちゃんの事、お願いねえ。あとこれ、お弁当も。お腹が空いたらお食べ」

「はいですのー!」

 準備を終えたふたりは、フードを被って裏口へと回る。

「それでは行ってきますの。ハインリヒ隊長は、必ず!」

「見つけますのよー!」

 人狼が城内へと侵入した事を知らせる警鐘が鳴り響き、リーゼロッテとクラリッサは裏口から出撃した。その背中を敬礼で見送った自分は、式典の時にしか被る機会のない軍帽を持ち出し、それを目深に被った。これから、城内迎撃戦を指揮するのだ。誰ひとり、亡くさないための采配を。

「それでは、迎撃開始だ」


 ◇


 もっとも、自分がそう告げる頃には、すでに迎撃行動は開始されていた。風の強い夜空の下、人狼の第一波がハンブルク城に到達する。その数は四体。どれも成熟しきっていない幼体ではあるが、それでも二メートルに届かんばかりの体躯を誇る。

 ハンブルク城に到達した人狼たちは、城壁を登る事はせず、開け放たれたままの城門を潜って城内へ侵入した。人狼の侵入を知らせる二度目の警鐘に、一瞬人狼たちの足は止まるが、すぐに鼻を鳴らして走り出す。その双眸をは濁りきり、わずかな知性をも感じさせないように見える。“隻眼”から与えられた命令を果たそうとするかのように、人間の匂いを探して石畳の上を駆け回る。

 だが、そう簡単には人間のところまではたどり着けないだろう。鼻ではすでに自分たちの居場所を割り出しているのかもしれないが、そこに至るまでの経路はこちらで制限させてもらっている。城門を潜ってすぐに、人狼たちは大通りに出たはずだ。普段のハンブルク城ならば、王城まで一直線に大通りが伸びているはずだが、そこは今、木材とワイヤーとで簡易的に作ったバリケードで塞がれていた。その高さは建物の一階分の高さに匹敵する。

 積み上げられた材木を前にした人狼たちは、幾度か鼻を鳴らした後、それに前足をかけて登ろうとする動きを見せた。材木のバリケードを、意図的に積み上げられた障害物だと認識したのだ。建造物と障害物との差異がわかるというのは大変興味深いが、考察は後回しだ。第一波の人狼たちは、すぐに自分たちに迫る来る存在に気が付くだろう。人間以外の生き物の匂い。半人狼の匂い。人狼たちが好む、甘い雌の香りだ。

「つーことで、一番槍もらうぜ。マルグリット」

 城壁の内側に沿うようにして、人狼たちの群れに向けて疾走して行くのはフランツィスカ。その左右の手には、長さ一メートル半程の黒い樹で作られた槍が握られている。材木用に加工していたものを急増で尖らせ槍としたものだ。材料は山ほどあるが、加工に割ける人員がいなかったためにそれほど数をそろえる事は出来なかった。しかし、使い手がフランツィスカしかいなので、たいした問題ではない。

 フランツィスカの存在に気付いた人狼たちが、身を翻して彼女へと殺到しようとする。その動きに入る瞬間、フランツィスカは攻撃を開始した。バリケードに登り掛けた人狼たちが前足を地に着ける前に、そのうちの一体に向けて、手にした槍を投げ放ったのだ。

 ハチェット投げとは異なる弾丸のような回転と軌道とを得た槍が、一番手前にいた一体の口から入り、頭部を貫通する。槍に頭部を貫かれた人狼は全身を痙攣させながら、後ろの二足でわずかばかり歩いて、前のめりに倒れる。その頃には、残りの三体の人狼は姿勢を四足に戻してフランツィスカへ向けて駆け出すのだが、彼女はすでに人狼たちへ接敵していた。

 至近距離に迫った一体へ、フランツィスカはもう一本持っていた槍を突きだす。人狼の右肩を易々と貫いてその動きを止めると、すぐに槍を引き抜いて、後続の人狼へ向けて鋭く投擲した。至近距離から放たれた槍は人狼の頭部に命中、先端が右目から脳を貫き、即死に至らしめる。

「あと一体、……いや二体か」

 右肩を負傷した人狼がまだ存命だ。攻撃の意志を緩めない獣の首元に、フランツィスカは右手の爪で止めを刺すと、左手の爪をも伸ばして相対する構えを取る。

「いいえ。残り一体で合っていましたよ?」

 しかし、最後に残った一体は、すでにマルグリットの手によって屠られた後だった。見れば、人狼の首は恐ろしいほどきれいに胴体と切り離されていた。マルグリットの得意とする、姿を消した状態からの刀による両断だ。荒業を行ったマルグリット本人は、いつものように笑顔を湛えて、一番最初に貫かれた人狼の口から槍を引き抜くところだった。

「これが第一陣か? 少なくねえか?」

「まだまだ後続が来るのでしょうね。夜はまだ、始まったばかりですから……」

 不満げに呟くフランツィスカに、嗜めるように言ったマルグリット。ふたりが城門の方を見やると、視界にはすでに第二波の影があった。今度は七体だ。

「ふふ。“隻眼”の作戦は、こうして徐々に数を増やして行くつもりでしょうか?」

「なあ、競おうぜ、マルグリット。どっちが多く倒せるか」

「おやめなさいな、アンジー。命を奪う事に競いなど」

「そういうとこ、お堅いのな……」

 不満げに口をとがらせたフランツィスカは、マルグリットと並んで新たな槍を投擲の姿勢に構える。城門を通過してきた第二派に向けて、ふたりは同時に槍を放った。マルグリットの放った槍は人狼の目を浅く抉った程度だが、フランツイスカの放った分は別の個体の頭部を容易く貫通した。

「伐採班や黒斧団たちの出番には、全然まだ速えよな? 半分以上、受け持つぜ」

「お願い致しますね。それでは……」

 ふたり赤衣は外套の裾を翻すように身を回し、弾かれたように左右に分かれ、城壁の内側に沿うようにして疾走する。城内に侵入した第二波も分かれた赤衣を追って二手に分かれる。フランツィスカの方へ向かう数が多いのは、彼女の持つ人狼寄せの芳香のせいだろう。

 こうして第三派、第四派と、攻め入るたびに人狼はその数を増やしたが、その悉くを赤衣のふたりは討ち果たした。日没してからの数時間程は、侵入した人狼のほとんどが城壁沿いの区画で討ち果たされている。フランツィスカとマルグリットのふたりが持つ並外れた交戦能力には、同じ半人狼の自分としても驚嘆せざるを得ない。自分やリーゼロッテならば、数時間のあいだ休みなく人狼と戦い続ける事などできないだろう。

 よって、自分たち内部に残った勢力、伐採班や黒斧団が人狼の姿を間近で目にする事になったのは、日付が変わり明日の時間を刻み始めた頃だった。


 ◇


 懐中時計を開くと、ちょうど午前零時を過ぎたところだった。予想通り。我ながら正確な体内時計を持ったものだと呆れてしまう。自分を含む伐採班と黒斧団との混成部隊は宿舎を離れ、普段倉庫に使っている建物にて待機していた。この倉庫はハンブルク城の城下町、その真ん中あたりに位置しおり、保存食や弾薬の保管場所となっている。

 倉庫の一階部分には、ヘルムート団長含む完全装備の黒斧団数名と、ライフルで武装した伐採班の銃撃隊。自分を含む選抜狙撃隊は二階で待機中だ。開け放たれた窓からは強さを増した風が入り込むが、望遠鏡にて人狼たちや赤衣隊の動向を観察するために、閉められる事はない。

 こうして強い風が吹き込んでいれば、体に纏った香辛料の匂いも気にならなくなる。倉庫にて待機中の兵科はみな、粉末状にした香辛料の袋を服の内側に入れている。昼間に作っていた案山子にも、同じような仕掛けを施してある。人狼に、人と案山子とが同じものだと関連付けさせるための策だ。成功するかどうか確証はない。フランツィスカなど、まるで今から食われに行くみたいだな、などと縁起でもない事を言っていたものだ。香辛料をふんだんに使った肉料理が好きなのはお前だけだろうに。香辛料や香草など、匂いの強い草類は人狼が嫌うものだ。言ってしまえば気休めでもある。気休めや、あるいは緊張をほぐす材料は多い方がいい。

 とは言え、倉庫二階で出番を待つ選抜狙撃隊の面々には、さほど緊張した様子は見られない。古参兵のウルじいは思い出したように大昔の戦場の話をしてくれるし、観察役を買って出たハンスはマルグリットたちの動向を逐一報告してくれる。ハンスの報告を聞きながら、班長は床に広げたハンブルク城の見取り図に印をつけていゆく。現状どこまで人狼の侵入を許したのか、それを正確に把握するためだ。

 班長の記録を横目に見ながら、ふと、隣から静かな寝息が聞こえてくる事に気付いた。伐採班のハンナだ。隣を見やれば、この非常事態に堂々と居眠りしているではないか。呆れて声も出ない自分を諌めるように、ウルじいが小さく笑う。

「肝が据わっていて良い事じゃあ、ありませんかのう? もしくは、逆に緊張しすぎているのかも」

 ウルじいの白い髭を撫でながらの言葉に首を傾げると、望遠鏡から視線を外したハンスが「やっぱり」という表情で苦笑した。

「うちの姉貴、緊張すると眠くなっちまうんですよ。伐採班の入隊試験の時も、大勢の前で居眠りかましちまって、それで試験官にどやされましたからねー」

 そんな事があったのか。損な体質ではないだろうかとも思うが、まさにその通りだ。だからこそ、この七区に配属される事になり、人狼と直接交戦する事になってしまったのだから。それでなくとも、この姉弟は上官には不平不満言いたい放題だったと聞いている。今日この場所で共に戦う運命であったとでも思っておこう。

 無防備な寝顔を見せる伐採班のハンナに悪戯心が湧いた自分は、懐から練り飴の包みを取り出す。一口大に切られた琥珀色の飴をひとつ摘まむと、半開きになっている彼女の口に優しく押し込んだ。口は静かに閉じられ、幾度かもごもごと動いた後、小さく「あま……、すっぱ、にがい」と呟く声が聞こえてきた。直後、伐採班のハンナは急激に意識を覚醒させて、何事もなかったかのように居住まいを正した。失笑が起こる中、眠り姫は早くなった動悸を抑えるように胸に手を当てていた。顔は真っ赤で汗びっしょりだ。

「みんなも食べてくれ。アグネスさんお手製の練り飴だ。甘いものを食べると落ち着くし、頭の回転も速くなる」

 選抜狙撃隊のみなに練り飴を配る。こういった糖分過多のものを、平常時に取る事はほとんどない。あくまで非常食、そういう扱いだからだ。それだけに、一口ごとに感じる甘みに気分が高揚する。今日だけは特別なのだと自分に言い訳して、もうひとつ、もうひとつと口に運ぶ様を、みなは不思議そうに見ていた。

「……今日だけは、特別なんだ。食べてもいいのだ」

 言い訳して、もうひとつ。暖かな失笑も、口の中に広がる甘みには敵わない。耳も尻尾もはしたなく動いているが、ここにいる者たちには目をつぶっていてもらおう。

「へい。状況どうですかい?」

 一階で待機していた黒斧団の大男が二階に上がって来た。城内での交戦状況がわからずに焦れてしまっているのだろう。大男の方を見やれば、階段の方から黒斧団や伐採班たちの頭が見え隠れしている。自分たちは苦笑して、みなに上がって来いと手招きする。

「さて、というわけでハンス。状況報告を頼む」

 ハンスは短く返事して、現在のハンブルク城の状況を報告してくれる。人狼がハンブルク城へ侵攻を開始して七時間程が経過、交戦地点は城門や城壁の内側から、元城下町だった廃墟群へと場所を移していた。廃墟群にも各所にバリケードとワイヤーとで簡易的な迷路をつくりあげ、人狼たちを狭い路地に誘い込んで交戦する手はずになっている。

「……それだというのに、あの“狂犬”ときたら」

 幾人かに望遠鏡を渡すと、各々が驚きの声を上げた。目に見たものをすぐには理解できなかったのだろう。赤い影が突如、廃墟の屋根に現れたのだ。


 ◇


 フランツィスカは背後に複数体の人狼を連れて、狭い路地を疾走する。速度はフランツィスカに分があるが、わざと引き離さずに後ろにつけられたままにしている。そして角を曲がった瞬間、フランツィスカは強靭な脚力を発揮して、廃屋の屋根へと飛び上がった。二階の屋根に軽やかに着地したフランツィスカはベルトに差していたハチェットを抜き放ち、追いすがって廃屋の壁を駆け上がってきた人狼の頭に力強く振り下ろした。頭を割られた人狼はわずかな時間滞空すると、登ってきた後続を巻き込んで石畳の地面に落下した。

 続々と廃屋の下に集まった人狼たちを見下ろし、フランツィスカは挑発するように、轡を噛みしめ歯を見せた笑みを浮かべる。そしてベルトからもう一本のハチェットを抜いて、両手の刃を数度鳴らすように合わせると、廃屋の壁を登ってくる人狼たちを屋根の上で迎撃する。ハチェットの刃の方ではなく、反対側のハンマーの部分で、登ってくる人狼たちを片っ端から叩き落とし始めたのだ。ハチェットで人狼の頭を割る音は、この風が強いなか、だいぶ離れた場所にあるはずの倉庫まで響いてくる。その軽快な不気味さをはらんだ音に、みなが生唾を呑み込んだ。

 人狼の頭蓋骨など、力任せにかち割れるようなものではない。同じ種の人狼の手をもってしても、それは困難な事だろう。だが、フランツィスカの膂力はそれを可能とする。その気になれば素手でも人狼を絞め殺す事の出来る程の力に、都市区の本隊は獣性5度の判定を下した。独房に封じられるか処刑されるかという判定結果だが、本隊はフランツィスカに赤外套を着せて人狼と戦わせる事を選んだ。それは、フランツィスカの情緒が驚くほど安定していて、狂乱の心配がないと判断されたからだ。

 獣性が高く人狼に近い身体能力を有する半人狼は、狂乱して人狼化する危険性が高い。身体能力が人狼に近ければ近いほど、心も獣の側に引き寄せられてしまうからだ。しかし、フランツィスカは高い身体能力を有しながらも、その情緒は安定している。これまで人狼化した経歴もない。

 しかし、いったい何故この安定した状態を保っているかと聞かれると、これがさっぱりわからない。しっかりとした根拠がないのだ。過去、フランツィスカ並みの身体能力を有する赤衣兵科は、数名在籍していたという記録はある。今は居ない。全員、人狼との交戦中に狂乱して人狼化、あるいはそうなる前に、部隊長の権限で射殺されているのだ。

 半人狼が人狼化するのは過度な精神的負荷、ストレスが原因だ。ならば、幾たびも人狼と交戦しているフランツィスカが何故人狼化しないのかも、大よそ見当が付いてくる。単純に、ストレスを感じていないのだろう。フランツィスカ自身、人狼と戦う事を己に課せられた使命だと捕らえている節があり、まったく苦にしていない。そう、情緒が安定している一番大きな要因は、フランツィスカ自身が細かい事をまったく気にしない性質だからではないだろうか。人の目も陰口も意に介さない、繊細とは程遠い強靭な精神力が、彼女を狂乱の危険から遠ざけているのだ。

「要するに、馬鹿なのだな。あいつは」

 口に出してそう言うと、倉庫の二階に集まった面々から苦笑いが漏れる。何故人狼化しないのか問われて、馬鹿だからだと返すなど、それこそ馬鹿みたいな話ではないか。すると、ハンスをはじめ望遠鏡で戦況を見守っていた数名がうっと唸り、笑みを消した。

「あの、アンジーさんこっち睨んでいるんですけど……。もしかして聞こえているんですかね?」

 ハンスの顔をひきつらせた問いに、自分は肩をすくめて見せる。確かに、フランツィスカは身体能力だけではなく、五感の方も鋭い。だが、嗅覚ではクラリッサに及ばず、聴覚はリーゼロッテに及ばない。こちらとの距離は大きく空いているし、かつ風も強い。こちらの内輪話を聞き取ったというよりは、直感が働いたのだろう。直感の鋭さならば、赤衣隊の中ではフランツィスカが一番だ。目下捜索中のハインリヒ隊長も時折鋭い直感を発揮する事もあるが、あれはまた別のものだろう。

 フランツィスカは屋根の上で、登ってくる人狼たちを一撃の元に葬り続ける。確かに、遠間からハチェットを投擲するよりも、下から登ってくる敵を上から筋力とハチェットの重さとで叩く方が、疲労が少なく数を捌ける。クラリッサの帰還と同時に黒森に出撃するために、体力を温存しておこうという考えなのだろう。そうしてもらった方がこちらとしても安心だ。

 だが、その方法も長くは続かない。人狼の意識が屋根の上のフランツィスカにばかり向くとは限らない。彼女がいくら人狼寄せの芳香を振りまこうとも、すべての人狼がそれに食いついていくわけではない。現に、建物の下に集結した人狼の内何体かは鼻を鳴らして方々へと顔を向けている。他に獲物がいないか探っているのだ。フランツィスカと、別の場所で交戦中のマルグリットと、その他に誰かいないかと。

 ハンブルク城は人の生活の匂いが染みついた場所だ。人狼たちがひとたび意識を赤衣隊以外に向けてしまえば、倉庫の二階で待機している自分たちや、黒斧団の宿舎で待機中の人員の場所を探り当てるのも時間の問題となる。バリケードで退路を制限しているため、人狼たちはまず、この倉庫前を通過する事になる。そうなれば、いよいよ自分たちの出番だ。

「は? どこに行こうってんだよ?」

 そうして他の人間の匂いを嗅ぎ取って集団を離れようとする人狼たちを、フランツィスカは高みから目ざとく見つけ、笑みを浮かべた。フランツィスカは赤衣の裾をなびかせ、屋根の頂点上へ身を回しながら移動する。反時計回りに翻り、身を沈めて、ハチェットの遠投体勢に移ったのだ。弾丸並みか、時にそれ以上の速度を得るハチェット遠投は、フランツィスカの筋力と、体を捻り回転させる遠心力を持って行われる。直立したまま、または走りながらでもそれなりの速度と威力とを発揮する事は出来るが、より遠くに強力な一撃を放つためには、それなりの手順を踏む必要がある。

 屋根の上で身を沈め体を引き絞ったフランツィスカは、今度は体を時計回りに回しながら、傾斜を滑るようにして降りてゆく。途中、屋根を上り迫って来た人狼数体をついでに巻き込んで葬りながら、軒で足を止めて、さらにその場で力強く一回転を加える。そして、屋根の軒が潰れ砕けるほどの鋭い踏み込みから、右手のハチェットを宙に放った。

 倉庫の二階で状況を見守っていた自分たちは、フランツィスカが放ったハチェットを見失う。だが、消えたハチェットすぐに見つかった。経路をこちらに向かって進んでいた人狼、その先頭を行く個体の背中が爆ぜるという現象を持って現れたのだ。爆発でも起こったのかと思えるほどの破裂音は、倉庫の二階にいる自分たちの耳にもしっかりと届いていた。実際にハチェットが直撃した人狼の肉体は、爆発でもしたのか言わんばかりの破壊具合で、当然即死だった。

 先頭を進んでいた人狼が変わり果てた姿になってしまった事で、後続の人狼の足が一瞬止まる。そうして足を止めた集団を目指して、フランツィスカは屋根の上を疾走してゆく。フランツィスカを標的にしていた人狼たちは、屋根の上に登るものと経路沿い行くものとに分かれて、彼女の背中を追って行く。後続が自らを追ってきている事を確認してほくそ笑んだフランツィスカは、疾走の勢いをそのままに屋根の上から跳躍した。着地点は足を止めた人狼たち、そのうちの一体上だ。

 建物の二階の高さから百キロに届く重量が勢い良く落下して、天を仰いだ人狼の体を押し潰した。人狼の上に綺麗に着地を決めたフランツィスカは再び宙に舞い、石畳の上に着地して、経路を塞ぐように人狼たちに相対する。今の投擲と跳躍との際に噛み砕いてしまった轡の破片を唾とともに路傍に吐き捨て、腰のポーチから新しいものを取り出して咥える。

 そして、唸りを上げて身を低くする人狼たちの方へ、腰から予備のハチェットを抜きつつ、余裕に満ちた表情を浮かべて歩み寄って行く。まだ足りないと、獲物を求める獣のように。


 ◇


 また、もう一方の路地では空気をひっぱたいたかのような破裂音が上がった。マルグリットのいる方角だ。彼女は作戦通り、狭い路地に人狼を誘い込み迎撃を行っていた。響いた音の正体は、マルグリットが取り出した鞭によるものだ。左右の手に二本ずつ、左手の鞭が長く、右手の鞭はそれよりも短めにつくられている。長い方の鞭で人狼たちを牽制して、短い方の鞭で迎撃するためだ。

 鋭く風を切り、空気を破裂させる音に対して、マルグリット自身の動きはとてもゆるやかなものだ。先端の速度が音速を超える鞭は、熟練者が扱えば人狼に致命傷を負わせる事も可能だ。しかし、それには特別性の鞭を用い、あくまで一対一状況を作り出し、そして黒森のような乱雑に入り組んだ空間でなく、人間が用意した戦闘領域であればという前提が必要になる。

 人狼たちは鋭い音にしばし身を伏せるようにして構えていたが、やがて群れのうちの一体が素早く石畳を蹴って跳躍した。鞭の軌道から外れるため、廃屋の壁を駆け上がり、上から飛び掛かろうとしたのだ。廃墟の壁から壁へ、素早く移動した人狼は、マルグリットの真上を取って飛び掛かる。だが、こちらも素早く身を翻したマルグリットが右手を振るうと、空中にいた人狼の下顎が、乾いた音と共に消失した。

 倉庫の二階から状況を見守っていたみなの間にどよめきが起こる。銃弾でも皮膚を貫く事が難しいというのに、鞭の一振りで人狼の体を破壊してしまうマルグリットの手腕に感嘆するものだが、どうも腑に落ちないという顔をする者もいた。いくら鞭の一撃が素早く鋭いからといって、人狼の肉体を破壊するだけの力が秘められているのだろうか、という疑問だろう。

「あの鞭は、少々特別なんだ」

 告げると、自分に注目が集まった。マルグリットが用いている鞭の材質は、何を隠そう人狼の皮を加工したものなのだ。材質的にはもっとも頑丈だと言っても過言ではないだろう。だが、それだけではただの人間が使っても同じような結果が出せるという事になってしまう。

「それに、マルグリットが狙った部分は、人狼の下顎だ。顎関節というのは意外と外れやすいもので、人狼のそれも例外ではないからな。鞭の一撃で下顎に衝撃を与えて関節を外し、その勢いで下顎の骨が肉を突き破ったのだろう」

 今の一撃の種明かしをすると、若干名が「うわあ……」と渋い顔をした。その間にも、マルグリットの迎撃は続く。しかし迎撃とは言っても、人狼たちは隙のない鞭の応酬に攻め込めずにいるので、こう着状態と言うべきだろうか。人狼たちの動きが止まり低いうなり声が重なるなか、彼女は唐突に両手の鞭を地面に放って、廃墟の壁に立てかけていた長柄の斧を手に取った。彼女にとっての「休憩時間」が終わったのだ。

 ひゅるひゅると、ゆるい風切り音を立てて斧をまわし、マルグリットは人狼たちに近付いてゆく。鞭の脅威がなくなった事で、人狼たちの動きに鋭さが戻る。一体、二体とマルグリットに飛び掛かってゆく人狼たちは、彼女の体に噛みつき、もしくは組みついたと思った瞬間、石畳の地面に自ら突っ伏していた。人狼たちからすれば、何が起こったのかわからないだろう。

 それは、倉庫の二階から見ている自分たちとて同じだった。自分たちの目には、人狼たちが何もない場所に飛び掛かり、自分から地面に突っ伏したように見えたからだ。自然と、説明を求めて自分の方に視線が集まる。

「マルグリットが姿を消す術を会得しているのは、みなが知っていると思う。これは、その逆なんだ」

 マルグリットの使う姿を消す術が人狼に対して有効な事は、これまでの黒森における交戦に置いて実証されている。彼女の用いる術は、人間の視覚を欺くと同時に、人狼の主要な器官である鼻と耳とを騙している事になる。マルグリットが姿を消す時、彼女の体臭や音も同時に消してしまっているのだ。どうやっているのか、原理はわからない。以前聞いた時も笑顔ではぐらかされて、結局教えてはくれなかった。

 今の人狼がひとりでに地面に突っ伏した現象は、姿を消す術の逆を行ったもの。簡単に言えば、マルグリット自身の匂いを、彼女自身の形でその場に残したのだ。人狼が飛び掛かったのは、マルグリットの残り香が作り出した虚像という事になる。これも原理はよくわからないが、クラリッサがたまにマルグリットに飛び掛かかり抱き着き損ねるという異常事態が発生するので、匂いを操っているという事で間違えないだろう。

 さて、対象を見失い石畳に強かに突っ込んだ人狼は、態勢を立て直す間もなく、斧の一撃によって首元を切りつけられる。遠心力をふんだんに載せて首の動脈を狙った鋭い一撃だ。人狼の動悸に合わせて流血が吹き、数歩動いただけでその命を奪ってしまう。

 何体かの人狼は虚像の方にはかからず、本体を探り当てる事に成功するが、マルグリット本体に飛び掛かる頃には、彼女はすでに迎撃準備を整えている。赤衣の裾を翻し、大きく身を回して遠心力を乗せた斧の刃が、迎え撃つように人狼の下顎をかち上げ叩き割る。マルグリットは下顎を割られて脱力する人狼を自らの方に引き寄せて、盾にするようにして迫り来る人狼たちから身を隠す。

 マルグリットは動きを止めない。背後に回り込んでいた一体に向かって、腰のシースから抜き放ったナイフを素早く投じる。飛び掛かる動きに入る前だった人狼は跳び退りナイフを簡単に躱すが、着地して体勢を立て直した瞬間、頭部の前面に至近距離から散弾を浴びた。マルグリットの手には銃身とグリップとを短く切り詰めたライフルが握られ、銃口からは硝煙を立ち上らせていた。ナイフを抜いて投げ放った後すぐに、腰からライフルを抜き放ち、人狼の回避する先へ銃口を向けて引き金を引いたのだ。

 散弾を頭部に受けて一瞬動きを止めた人狼は、その口にライフルの銃口がねじ込まれるのを感じた直後、意識を絶たれた。即死した人狼の口からライフルの銃口を引き抜いたマルグリットは、片手でレバーを操作して次弾を装填すると、ライフルを廃墟の中に放り投げてしまう。そして、人狼の下顎に刺さっていた斧の柄を両手で持ち直し、足で人狼の体を蹴って刃を引き抜いた。

 そうして引き抜いた斧をゆるく回して、マルグリットは人狼に迫りゆく。その表情は終始笑顔だ。いつも彼女が浮かべている、誰にでも見せる笑顔。気を抜いた状態で今の彼女を見れば、ハンブルク城の置かれている状況を一瞬忘れてしまうだろう。城内に人狼の侵入を許しているというのに。それだけ、マルグリットの浮かべている表情はいつも通りだった。日常生活を送る顔のままで人狼と戦っている。これまでもそうだったと言われれば確かにそうなのだが、この状況はわけが違う。

 先ほど感じた胸騒ぎは消えない。どうか、彼女がこの表情のまま朝を迎えん事をと、祈らずにはいられない。


 ◇


 そうして続く赤衣隊の攻防に見入っていた自分たちにも、ついにその時が訪れる。フランツィスカの方に引き寄せられていた人狼の一部が、鼻を鳴らして移動を開始したのだ。迷路のような路地から廃屋の壁を登って屋根に上がり、別の経路を探し始めたのだ。フランツィスカも離れた人狼を追おうとするが、自分が今塞いでいる経路を開けてしまうわけにはいかないため、表情を歪めて留まる。屋根の上から別経路に降り立った人狼たちが向かう先は、この倉庫だ。いよいよ、自分たちが人狼の相手をしなければならない時間が来たのだ。

「総員配置に着け! 人狼を迎撃する!」

 自分が一声発すると、二階に集まっていた人員たちが素早く持ち場に戻ってゆく。二階に残った自分たち選抜狙撃隊は、ライフルに弾丸を装填して窓から外の様子を伺う。倉庫周辺の路地には材木を置いただけの簡素なバリケードと、伐採班のみなが作ったカボチャ頭の案山子が黒い鎧を着せられ設置してある。案山子が着ている鎧の下は、使い古した衣類が巻きつけてある。人狼に案山子を人間だと勘違いさせるための措置だ。まさか、ハインリヒ隊長の道楽用にと、廃棄せずに取って置いた古着がこんなところで役に立つとは……。目下捜索中のハインリヒ隊長自身も思っても見ない事だろう。

 倉庫二階の狙撃体勢が整うのと同時、鎧を纏った黒斧団の屈強な男たちと伐採班の銃撃部隊とが続々と通りに出て、バリケードに身を隠した。万が一の場合に退避できるようにと、倉庫の大扉は片側だけ開け放たれて、黒斧団、伐採班ともに数名が交代員として待機している。

「人狼来ます! 数は三! あと、路地をふたつ曲がれば……!」

「ハンスは後続の監視を頼む。自分たちは、黒斧団の援護だ」

 程なくして、人狼たちが倉庫前の通りに到達する。角を曲がった人狼たちが目にしたのは、建物の二階から吊るされたカボチャランタンが煌々と点す灯りと、通りの脇に積み組まれた材木のバリケード。そして、人間の匂いのするカボチャ頭の案山子だ。

 人狼たちの動きが止まる。喉と鼻とを鳴らして、目の前の存在が人間なのか、そうでないのかを判別しているのだろう。人狼たちはすぐ、案山子が人間であると判断したようだ。三体とも勢いよく案山子に飛び掛かって行く。案山子に飛びつき、引き倒し、牙を立てるのは喉元。生き物にとっての急所、そして、火薬と香辛料とが満載されたカボチャのすぐ近くだ。

「目標ジャック、発砲許可する」

 狙撃隊に、ジャック……案山子への発砲を許可した。カボチャ頭の爆破はもっと人狼を引き付けた状況に取って置きたかったのだが、どうも空模様が芳しくない。空気も湿ってきていて、間もなく雨になるかもしれないのだ。カボチャの防水対策は完ぺきとは言えず、雨が降ってしまえば火薬が駄目になる可能性が高い。ならば、速めにカードを切って行き、少しでも敵の数を減らそう。

 狙撃隊がライフルの引き金を引く。放たれた銃弾は正確にカボチャ頭に吸い込まれて、小規模な範囲を巻き込んで爆発する。破裂音、火と黒煙と、そして香辛料の香りが立ち上る。強い風はすぐに黒煙を晴らして、月が照らし出すのは顔に大やけどを負ってのたうつ人狼たちの姿だ。

「野郎ども! 行くぞ!」

 ヘルムート団長の掛け声で、バリケードに身を隠していた黒斧団数名が通りに飛び出してゆく。人狼一体に付き三人で取り囲み、爆破で負った火傷に苦しむ人狼の喉元に斧を振り下ろしてゆく。その手際は鮮やかで、黒い樹の伐採時見せる連携と掛け声で、一体ずつ確実に仕留めていった。その間、大盾を構えた黒斧団が通りの向こうを警戒する。倉庫二階のハンスと声を掛けあい、人狼の接近があるかどうかを常に確認している。そうして、人狼の視認からわずか一分足らずで三体を仕留めてしまった。

「いようし! 三体! まぁずは三体だあ!!」

 現場のヘルムート団長が大声を上げて、勝利を叫ぶ。同調して大声と拳とを振り上げる黒斧団員たち。援護に回っている伐採班の銃撃部隊は、その様子を呆然として見ていた。仕掛けを講じたとは言え、赤衣隊に頼らず人間だけで人狼を倒してしまった事に、まだ現実味が持てていないのだろう。

 対して、ここ倉庫二階の反応は様々だ。興奮気味に胸に手を当て息を整えている伐採班のハンナに、いつものように優しく笑みながらも、油断なくボルトを操作し次弾を装填しているウルじい。ハンスは通りの黒斧団に同調して歓声と拳とを上げて、班長に索敵を続けろと窘められる。

 自分は誰にも気づかれぬように小さく安堵の息を吐き、ふと思い立って望遠鏡で赤衣隊の状況を確認する。今の爆発は彼女たちの耳にも届いているはずだ。万が一にもこちらに気を取られていはいないだろうかと、少し不安になったのだ。

 マルグリットの方は、大丈夫だ。柄の長い斧のピックの部分を人狼の足にひっかけ転倒させ、迫りくる後続から距離を取ったところだった。余裕の笑顔でちらりと、こちらの方角を見た気がする。一瞬だったので偶然だったのかもしれないが、彼女ならばそれくらいの余裕はあるだろう。

 ではフランツィスカの方は? そちらを見れば、なんと人狼を素手で殴り飛ばしながら、こちらの方角を見てにやにやと笑っていたのだ。轡をしての笑みなので、本当に人狼のような笑い方になってしまっている。まあ、そんな事、本人はまったく気にもしていないだろう。双方こちらの勝利を祝福してくれているようで何よりだ。

「人狼! 後続来ます! 数は二! 警戒!」

 ハンスが人狼の接近を叫び、通りで浮かれていた黒斧団たちがすぐさま持ち場に戻ってゆく。現時点ではしっかり対応できている。案山子の数もまだ予備がある。これから人狼と接触する頻度は増してゆくだろうが、このペースならば安全を確保しつつ捌ききれる。余程想定外な事がない限りは……。

「……想定外、か」

 では、その想定外とは、どんな事か。考え付く限りの事は、作戦開始前までに洗い出しておいた。“隻眼”本体がハンブルク城に乗り込んでくる事や、ハインリヒ隊長を人質として連れてきた場合の策も考えてある。それ以外、自分の考えの範疇外の事を洗えというのも無理がある。あらかじめ他の者に精査してもらったが、これ以上の最悪な事態は想定できていない。赤衣隊が負傷するという、最悪な事態以外は。

 そう高を括っていた自分は直後、背筋が凍るような感触を味わう事になる。まるで風の音を吸い込むような、人狼の遠吠えを耳にしたのだ。ハンブルク城で動くもの、人も人狼も、等しくその動きを止めた。風以外の音が消えて、遠吠えはさらに明瞭さを増す。

 まさか“隻眼”が? その考えが一瞬脳裏を過るが、すぐに違うと断ずる。根拠はない、これは直感だ。自分の直感など、普段からもっとも信頼していないというのに。この遠吠えの主に関しては、はっきりと断ずる事が出来る。完全に想定外のものが、ハンブルク城に向かって来ている。




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