10話:暗闇月夜 後
「アンネリーゼの方は……?」
乱れる呼吸を整えながら、変異種が向かった方、アンネリーゼがいる方を見やる。状況は、一難去ってまた一難とい言わざるを得ないものだった。口を笑みの形に歪めた変異種が俺の方へ歩いて来る。先ほどのような小走りではない。余裕を感じさせるその足取りには理由があった。変異種はその右手に、アンネリーゼの長い髪を掴んでいたのだ。
アンネリーゼは変異種に髪を捕まれ引きずられていた。頭皮に掛かる激痛を緩和するために、自分の髪の中ほどを、縄を持つようにして耐えているの様子は、何とも痛ましい限りだ。ふつふつと胸に怒りがわいてくる。だが、アンネリーゼ当人が抱いた怒りは、俺の比ではなかったようだ。
「ハインリヒ! 鋏ぃ! 速くぅ!!」
目にも明らかな怒りの形相。髪の毛を掴まれ乱雑に扱われている事が余程頭に来たようだ。俺は言われるままに、ヨハンから返された鋏を右手でシースから抜き、アンネリーゼに投げようとする。だが、変異種がその動作を見逃すだろうか。いくら高い知能があるとはいえ、抜き去った刃物が武器ではないという判断を変異種が下すとは思えない。
どうしたものかと固まっていると、なんと変異種の方から好都合な状況を作り出してくれた。変異種はアンネリーゼを自らの盾とするように持ち上げ、俺の方へ差し出してきたのだ。俺がシースから鋏を抜いたの見て、それを使って攻撃してくると考えたのだろう。そこに、自分の仲間を盾にされたらどうだと、そう言わんばかりのこの行いだ。
俺は、言う事を聞かなくなってきた体を引きずるようにして、変異種の方へ這って行く。この場に留まり変異種を待ち受けるという選択もあるのだろうが、そうなればこの獣はアンネリーゼに危害を加えはじめるかもしれない。俺が、もう身動きが取れない、あるいは自ら動かないと見て、そういった行動に移る可能性も捨てきれないのだ。だから、なるべく変異種の注意を俺の方に向け続ける必要がある。
満身創痍の俺に対して、変異種は無傷。かの獣の足取りは遠足に行くかのように軽やかで陽気だ。これから俺やアンネリーゼを好きなだけいたぶってやろうという考えが、その不気味な笑みから感じられる。そして、その考えは変異種の喉を鳴らすような唸り声となって発せられる。人の声に似た不気味な唸り声だ。
その唸り声に呼応するように、この場にもう一体人狼が姿を現した。ここに来ての敵増援に、目の前が暗くなる思いだ。アンネリーゼも怒りの表情が凍り付いている。こちらにはもう銀の弾丸はない。アンネリーゼも、ああして捕まっていては自慢の膂力を発揮できないだろう。一応携行しているトマホークは、人狼相手の武器としてはあまりにも頼りない。頼みの綱は人狼化した左腕だけとなったが、怪我や疲労の影響か、重くて持ち上げられない。血もだいぶ流れ出てしまったせいで、本当に目の前が暗くなってきた気もする。
現れた人狼は変異種を伺うようにじっと見た後、四足の歩みで俺の方へ駆け寄ってきた。速度はないが、確実に獲物を仕留めようという油断の無さがある。駄目で元々とばかりに左腕を持ち上げて盾にしようとするが、かえって体勢を崩してしまうので断念する。これでは腕を振るっての打撃も繰り出せない。残された手段は爪だ。鈍い銀色に輝く、金属のような鋭利さを持った角質。先の人狼の牙と爪は、こちらの左腕を容易く斬り裂いた。ならば、この爪が同じような結果を生まない道理はない。 向こうもこの左腕をまだ警戒しているだろう。だから、攻撃は俺の右側面から来る。変異種が知性を有しているのならば、そうするはずだ。今の俺では体勢を入れ替えるのも、左腕を振るうのも間に合わない。武器を失った人間を確実に仕留めようとするだろう。
だが俺は、迫る人狼の撃退よりも、アンネリーゼの解放、そして変異種の撃退を優先する。変異種が人狼たちを魅了で操っているのならば、かの獣を退けなければ人狼は何度でもこの場に現れる。アンネリーゼに髪を切るという選択をさせてしまう事が心苦しいが、今はそれしかないだろう。 俺はアンネリーゼに視線を送る。掛け声などの合図は変異種に悟られる可能性があるので、無言のうちに行わなければなるまい。視線を向けるだけでこちらの胸の内が伝わるとは思っていないが、俺が何かするのだという事は察してもらえるだろう。彼女は疑問の表情と曖昧な頷きとを返したので良しとする。
人狼が四足の姿勢で周囲を旋回し始めたのを確認すると、俺は鋏に左腕から流れ出た血をわずかに付着させた。銀の匂いを察知した彼女ならば、金属の匂いを嗅ぎ取る事は出来るだろう。だが、そこら中に血の匂いが充満した状況で、嗅ぎなれない匂いを察知する事は出来るかどうか定かではない。だから、この血は保険だ。昨晩あれだけ俺の血や肉を噛み砕いてくれたのだから、匂いは覚えていてくれると信じている。
それに、今いる空間は黒森の天蓋が取り払われて、夜空に月が煌めいている。これは幸いな事だ。アンネリーゼは嗅覚だけでなく視覚でも鋏の存在を確認する事が出来る。例え鼻が利かなくなっていても、月光を反射する鋏を見つける事は出来るだろう。
死の気配は、やはり右側からやってきた。背後から襲うのが確実か思われるが、人狼化した左腕の振りが間に合うかもしれないという危惧があったのだろう。まったく、変異種とは思慮深いものだ。俺は人狼が襲い来るぎりぎりのところで、右手に持った鋏をアンネリーゼの方へと放った。高く弧を描く軌道ではなく、地面を滑り転がるように。月光を反射し回転を付けて地面を転がった鋏は、黒い樹の残骸に引っ掛かって跳ね上がり、ちょうどアンネリーゼが伸ばした手に収まった。
彼女が鋏を手にしたのを視界の端に収めた瞬間、首筋に人狼の牙の感触が来た。肉を裂き骨を歪める感触、致命傷だ。息が詰まる、呼吸ができない。傷口から呼気が逃げて力が入らない。余力を、左腕に込めて、人狼の腹に爪を突き立てた。
すると、どうした事だろう。人狼はすぐに俺の首筋から牙を抜き、怯えるように身を離してしまった。そして次に見た光景は、本来ならばあり得ないものだった。人狼は腹に受けた爪の跡を掻き毟り、口の端から血と泡とを吐き出し始めたのだ。銀の弾丸を身に受けた時と同じ症状だ。
別の場所ではかなぎり声のような悲鳴が上がった。アンネリーゼと変異種がいる方だ。そちらの状況もわずかな時間で一変していた。悲鳴を上げているのは、己の右手を押さえて悶える変異種だったのだ。アンネリーゼは俺が投げ渡した鋏を手に、唖然としてその様子を見守っていた。彼女の髪は長いまま、切られていない。という事は、髪を切ろうとする動きで、勢い余って変異種の手を傷付けでもしたのだろうか。だが、わずかに鋏が掠めた程度であの恐慌状態はどういう事だ。 不可解な挙動を見せた変異種は、不気味なかなぎり声を上げながら俺たちに背を向け、よたよたと二足で走り、黒森の奥へと消えて行った。すると、それに続くように、人狼の亡骸の山や黒い樹の残骸の下から人狼たちが幾体か現れ、変異種を追うように走り去っていたのだ。変異種はまだまだ配下を隠していたのだ。
あとに残された物は多くはない。新たな人狼の亡骸が数体と、今にも命尽きそうな俺だけだ。
「ハインリヒ! 怪我は!? 大丈夫なの!?」
鋏を手に駆け寄って来たアンネリーゼは、途中で立ち止まり口元を両手で覆った。俺の様子を一目見て、もう助からないとわかってしまったのだろう。それほどの致命傷だ。首の重要な動脈が断たれ、今から止血したところで到底間に合わない。
だが、どうした事だろう。いよいよ死の淵に立たされたというのに、心は異様な穏やかを保っていた。焦燥感がわいて来ないのだ。死を前にして思考が冷静さを取り戻したように。あるいは、この程度ではまだ死ぬ事はないと告げられているようで……。
「ハインリヒ? あなた、傷が……」
アンネリーゼの言葉に疑問を覚える。傷が、なんだというのだろう。それは未だ流血の止まらない首筋に触れてみて、初めて気付いた。手で触れた箇所の感触は、まるで傷口がうごめいているような不気味なものだった。
「傷が、治っているのかい……?」 言葉にしてみると、治癒の速度が心なしか上がった気がした。いや、治癒速度は徐々に増している。目に見えて肉がうごめき始めるまでになると、怖気に身をすくめる思いだ。見守っているアンネリーゼも口元を手で押さえ後ずさりしている。
体の再生は数分間に及んだと思う。昨晩の左腕の変異とは違い途中で意識を失う事がなかったため、俺はその始終を目に焼き付ける事が出来た。流血は止まり、傷は塞がり、患部は傷を負う前よりも強固になった気さえする。
変異した左腕も傷ひとつない状態に戻ってたが、その大きさは人間の腕とほぼ同じくらいにまで縮小していた。体全体の傷を癒すために左腕の質量を割いたというのだろうか。それとも、変異した左腕の方が俺の体に合わせて大きさを変えたとでも……。
「……左腕だけじゃなくて、体全体が人狼化しているという事かな? 確かに致命傷だと思ったのに、恐ろしい再生能力だよ」
酷い倦怠感に襲われ体を起こす事さえままならない俺は、機能を回復した左膝を座ったまま屈伸させながら、事態を共に見守っていたアンネリーゼに笑いかける。アンネリーゼの表情は複雑そうなものだった。何か言いにくそうにしているようにも見える。当然だろう。人狼でも半人狼でもない俺が、このような並外れた回復力を見せたのだ。左腕の人狼化と合わせて、俺の事を到底理解しがたい生き物か何かだと思っているのかもしれない。
だが、アンネリーゼから漏れ出た言葉は、俺の予想の少し斜め上をゆくものだった。
「違うわ、ハインリヒ。貴方の回復力は、人狼じゃあり得ない」
言葉の意味を理解しかねる。虚を突かれたような俺の顔に、アンネリーゼは居心地の悪そうな素振りを見せながらも、己の考えている事を説明しようと言葉を続ける。
「……いいえ、言い方が悪かったかしら。人狼でも、そこまでの致命傷を回復できる程の自然治癒力はないのよ。ハインリヒ、貴方の回復力は人狼以上のものよ」
背筋に怖気が走る感触を味わった。これが人狼の力ではないのだとしたら、左腕の変異も、この回復力も、どういった力によるものだというのだろう。嫌な考えを振り払うようにして立ち上がる。体が重い。倦怠感から来る体の重さではなく、単純に重量が増したものだとわかる。それに、ひどい空腹を感じる。
体に感じる症状は、自分の体が人狼の、あるいは半人狼のものに変異しているのだと直感できる。ならば、この変化を受け入れるしかない。嘘だと叫んだところで体の変異は止まるわけではないし、止める方法も知らない。それに、体が丈夫になるのならば願ったりだ。ずっと病弱な己を嘆いていたのだから、これは渡りに船とは言えないだろうか。
無理やりにでも気持ちを前に向けると、徐々に怖気は遠退いて行った。そうだ、今の俺の体なら、ヨハン相手に力で負ける事はないだろう。銀の弾丸を用いたとは言え、人狼を退けた事で気が大きくなっているのかもしれない。それに、そう考える理由はもうひとつある。
「アンネリーゼ、ひとつキミの意見を聞かせてほしい」
話しかけられて身をすくませるアンネリーゼに、躊躇しながらも変異した左手を見せる。正確には、その爪を。鈍い銀色に輝く人狼の爪。この爪がただ銀色をしているのではなく、本当に銀という物質の特性を秘めているのではないかと考えたからだ。
洞窟でアンネリーゼは言ったはずだ。「恐ろしい銀の匂い」と。それは銀の弾丸の事だとばかり思っていたが、もしかするとこの爪の事ではなかったのだろうか。
問えば、わずかな逡巡の後、頷きが返った。アンネリーゼは首を縦に振ったのだ。
「ええ。そうよ、ハインリヒ。貴方の爪からは、銀の匂いがするわ。恐ろしい、銀の匂いが……」
◇
惨状の地から少し歩いたところに河があった。ハンブルク城の水路に繋がっている河だ。元々この河を探して歩いていたのだが、血の匂いに引き寄せられて思わぬ遠回りをしてしまった。この一帯はもう伐採班や赤衣隊が切り開き始めた区画なので、天蓋の枝葉はところどころ払われていて、月明かりが差し込んできている。黒い樹の間隔も疎らで、特に幹の太いものしか残っていない。河が増水した際に地崩れを起こさない最低限の本数を残しているのだ。
ゆるい流れを右手ですくい、顔や髪や、血の跡が残る部分を洗ってゆく。服に染みついてしまった血の跡は特殊な溶剤を使えば簡単に落とすことができるが、今は持ち合わせがない。そもそも、これだけ派手に食い破られてしまっては、繕い直すよりも新たに生地から縫った方が早い。生地も痛み切っているし、繕い直しても部屋着にしかできないだろう。
「キミが根城にしていた洞窟からずいぶんと遠かったね、アンネリーゼ。普段は水の確保など、どうしていたんだい?」
俺の隣で同じように顔を洗っているアンネリーゼに聞けば、彼女は目を閉じて「んー?」と唸りながらこちらに顔を向けてくる。以前リーゼロッテも同じような仕草をしていたので、やはり姉妹なのだなと微笑ましい気持ちになる。
「嫌な匂いが付いちゃったけれど、水を吸ったら乾くまで時間かかるし、重くなるわ……」
長い髪の房を手に持ち、不満げな声を漏らしたアンネリーゼは、結局髪を水につける事を諦めた。そして、なぜか俺の方をじいっと見つめてくる。見ているのは、俺の腰のシースに入っている鋏だ。まさか、本当に切ってしまうつもりなのだろうか。
「そんなに嫌な臭いなのかい?」
「そこまでじゃないけれど……」
不満げに唸っていたアンネリーゼだが、やがてひとつ頷いて、俺の方に身を寄せて来た。何をするのかと思えば、俺の脇腹あたりに自分の頭を擦り付けて来る。猫などがよくこうして自分の匂いを擦り付けているのを見るが、それと同じような行為なのだろうか。いや、これは逆だ。アンネリーゼが自身に俺の匂いを付けているのだろう。クラリッサもよくやっていた事なので納得がいく。やっぱり嫌な臭いだったんじゃないか。
しばらくの間、アンネリーゼの成すがままにさせる事にする。匂いを移すアンネリーゼの表情が、クラリッサのものと似ていて微笑ましい気持ちが湧いてきた。喉を鳴らす猫のような彼女の仕草に、ついつい頭を撫でたくなってしまうが、苦笑とともに思い留まる。せっかく気持ちよさそうにしているのに水を差しては悪い。ここで俺が頭など撫でたら、アンネリーゼは自分のしている事に気付いて恥じ入ってしまうかもしれない。
「うん。これでだいぶマシになったわ。……ハインリヒ、赤衣の娘たちから良い匂いがするって言われるでしょう?」
「突然どうしたんだい? 確かに、キミに浚われる前にリーゼロッテにそのような事を言われたね」
「そうだと思ったわ。ハインリヒ、貴方ね、人狼の好む匂いがするのよ。ううん、人狼じゃなくて、半人狼かしらね。わたしの鼻が本調子じゃなくてもわかるくらいの、良い匂い……」
あの惨状を抜けてきた彼女の鼻は、まだ本調子ではないらしい。ここへたどり着く道筋ですら、何度か木の枝に顔をぶつけているのだ。水で顔を洗った程度では嗅覚は回復しないという事か。
しかし、俺を見るアンネリーゼの目は、どこか蕩けているように見える。疲れて眠いのかとも思ったが、直前までの彼女の様子を見る限り、そうではない。これと同じような表情がなかった記憶を探ると、あった。肉を前にした半人狼の少女たちの表情だ。アンネリーゼの言う「良い匂い」とは、彼女たちの食欲をそそるようなものだという事だろうか。
俺の懐疑的な視線に気付いたアンネリーゼは、ふっと表情を凍り付かせた。すぐに、両手と首とを否定の方向に振る。
「違うの! 美味しそうって意味じゃないのよ! ええとね、その……」 アンネリーゼは困ったように真っ赤になって顔を伏せて、妹のリーゼロッテがそうするように、両手を頬に当てる。まだ何かもごもご言っているのだが、俺にはもう聞き取れそうにない。これが恥ずかしがっている仕草だというのは俺でもわかるが、なぜアンネリーゼが恥ずかしがっているのかまでは見当がつかない。
あるいは、俺がまだ知らない半人狼特有の秘密があるのだろうか。リーゼロッテの尻尾の一件以来、努めて彼女のたちのルールに気を使うようにはしてきたが、俺もまだまだ勉強が足りないという事か。この一件には触れないで置いた方がいいのかもしれない。
「そうだったんだね。銀の爪の事で、怖がられたりしていないか心配だったから、嬉しいよ」 銀の爪。人狼のものに変異した左腕には、人狼を殺す銀の爪が生えていた。これは決して付爪などではなく、俺の体から生えてきたものだ。つまりは、俺の体の中で銀が生成されているという事になるのだ。信じがたい事だが、実際に銀の弾丸と同じ症状で人狼は倒れている。もし、この爪が銀そのものではなかったとしても、それに近似した物質かなにかなのだろう。
「うん。銀の匂いは恐ろしいわ。でも、ハインリヒ。貴方はその爪をわたしに向かって振るう気はないでしょう?」
俺に敵意がないから大丈夫、という事か。信頼してもらえて嬉しい限りだが、アンネリーゼの表情は硬い。困ったように顔をしかめているわけではない、何かを警戒する時の顔つきだ。
「……ハインリヒ。誰かこちらに向かっているわ」
アンネリーゼはそう言って立ち上がると、本調子ではない鼻を鳴らして周囲の状況を探ろうとする。俺は彼女を背に庇うようにして立ち上がると、縮小して若干軽くなった左腕を持ち上げた。
「さっきの変異種かい? それともヨハンが?」
視線を向けずに問えば、アンネリーゼは言いよどむようにして唸る。向かってくるのが人狼かどうかを判別する事は、まだ難しいのだろう。
「まず、ヨハン兄様の線はないわ。兄様、あんな成りしてるくせに鼻が利かないもの。匂いでわたしたちを探す事は出来ないはずだわ。変異種もないでしょうね。さっきまでの匂いとは全然違う。これは、たぶん……」
女の子の匂いね。自信なさげに幾度も頷き告げるアンネリーゼに、俺は苦笑を返す事しかできない。俺も体こそ人狼以上の回復力を得はしたが、五感に関しては人並みのままだ。向かってくる女の子が人狼の女の子ではない事を祈らんばかりだ。
しかし、俺には確信がある。この時間、この場所に来ることができる「女の子」など限られているではないか。すぐに赤衣隊という名前が浮かんできて、頬が緩んでしまう。
「ハインツー!」 幼い叫び声が聞こえてきたかと思って振り向けば、急に視界が暗転して地面に押し倒されていた。今耳にした声と身体に感じるこの重量と感触とを覚えている。クラリッサのものだ。
「やあ、お嬢さん。一日しか経っていないはずなのに、もうずいぶん会っていない気がするね?」
「ハインツ! ハインツー!」
どうやら、俺の声は彼女に届いていないようだ。クラリッサは俺を地面に押し倒すと、俺の首のあたりにしきりに頬ずりを繰り返す。触れ合う事の出来なかった一日を取り戻すかのような執拗さが感じられ、どうしたものかと苦笑を浮かべる他ない。このまま永久に頬ずり尽くされてしまうのかと思いきや、クラリッサは一度身を起こした。何をするのかと思えば、息を荒くしたクラリッサは俺の服のボタンを外し始めたのだ。
「お、お嬢さん? 何をやっているのかな?」
「もっと、もっとですのー」
器用な手つきで俺の上着のボタンを外してしまったクラリッサは、なんと自分の服のボタンまで外そうとする。さすがにそれはいけないと止めに入ると、自分の服のボタンを外すのは止めてくれた。だが、今度は頬ずりが再開され、それからキスに甘噛みにと、行為は次第にエスカレートしてゆく。
「……最近の娘は、進んでいるのね」
そんな呑気な呟きはアンネリーゼのものだ。彼女は俺とクラリッサがじゃれ合っている様を、両手で顔を覆いつつも指の間から見守っているのだ。
「すまない、アンネリーゼ。この娘を止めてくれないかな?」
「ええ? でも、こんなに激しい愛情表現、人狼でも見た事がないわ。それに、わたしが止めに入るなんて、とてもとても……」
「アンネリーゼ。キミ、面白がっているね?」
指摘されて気まずそうに顔をそらすアンネリーゼだったが、横目でちゃんとこちらの様子を見ている。それに、彼女は視覚に頼らずとも、鋭い嗅覚と聴覚でこの状況を感じ取っている事だろう。俺の見る限りではあるが、アンネリーゼの横顔は彼女が人の姿に戻って以来、最も真っ赤に染まっていた。
「もっと、もっとですのー。ハインツー」
「はいはい、アリス。そこまでですのよ」
息を荒げたクラリッサがようやく俺の腹の上から引きはがされる。クラリッサを羽交い絞めにする形で引きはがしたのは、遅れてこの場に到着したリーゼロッテだった。じたばたと暴れるクラリッサを苦笑いで抱えながら、困ったような表情を俺に見せてくれる。
「ハインリヒ隊長、お久しぶりですの。……ちょっと、おひげが伸びましたのね?」
「見苦しい格好ですまないね。また会えて嬉しいよ、リーゼロッテ。アリスも」
いつかのようにリーゼロッテに手を引かれて立ち上がると、アンネリーゼの姿が消えている事に気付く。クラリッサも鼻をひくつかせて「さっきの匂い、どこですのー?」と周囲を伺っている。
「ハインリヒ隊長、どなたかとご一緒だったのですの? ……まさか、“隻眼”と!?」
「いいや。彼には、今から会いに行くところだったんだよ、リーゼロッテ。今まで一緒にいたのは……」
俺は視線を巡らせて彼女の姿を探す。リーゼロッテが現れた瞬間に、どこかへ隠れてしまったのだろう。やはり、妹と会うのは緊張するのだろうか。
「出ておいで。大丈夫だよ、怖がらなくていい」
虚空に向けてそんな事を言う俺の姿に、リーゼロッテもクラリッサも首を傾げる。だがクラリッサの方は彼女の存在を嗅ぎ当てたのか、とことこと走って樹の陰に消えてゆく。
「いったい、なんなんですの?」「キミにとっての朗報だよ。リーゼロッテ」
怪訝な眼差しをクラリッサが消えて行った樹の陰に向けるリーゼロッテだが、彼女の耳がひくひくと幾度か動き、その目が見開かれた。信じられない。そう言いたげな表情で口元を両手で覆う仕草を、俺は喜ばしい気持ちで見ていた。
樹の陰から、クラリッサに手を引かれたアンネリーゼが姿を現す。彼女の手を引くクラリッサの表情は明るく、警戒心を抱いていない事がわかる。鼻歌など歌いながら「リゼとおんなじ匂いですのー」と口にする事からも確かだ。
では、手を引かれる側のアンネリーゼの方はどうか。無邪気に接してくるクラリッサに戸惑いつつも、警戒した様子はない。お互いに匂いでだいたいの事情を察する事が出来たというのもあるのだろう。
「……もう。わたしを犬猫みたいに呼ぶのはよしてよ。ハインリヒ」
アンネリーゼは俺たちから顔をそらしつつも、目線だけちらちらとこちらに向けて、決まりが悪そうにしている。リーゼロッテの手前、特に負い目のようなものもあるのだろう。別たれた十年の月日、命を賭しての覚悟、そして操られているとは言え妹を裏切った事への悔恨。それらが、妹の顔を真っ直ぐ見る事が出来なくさせている。
「ねえ、さま……?」
リーゼロッテが一歩進み出る。クラリッサに手を引かれるがままにしていたアンネリーゼは、妹の方を見る事が出来ずに立ち竦んでしまう。それならばと、リーゼロッテは踏み出してゆき、アンネリーゼの肩に手を置き、優しく引き寄せる。
「本当に、姉さまですのね? そうですのね?」
手は肩から顔へ。アンネリーゼの方が若干背が低いため、リーゼロッテが上から姉の顔を覗き込む形となる。妹に見つめられる形となったアンネリーゼは、決まりが悪そうに俯いたままだ。合わせる顔がないと、そう思っているのだろう。
そんな姉の様子に、妹は呆れたように笑うのだ。
「意固地なところは昔と全然変わっていませんのね? 姉さま。都合が悪くなると、そうしてお顔を逸らしてしまうところも。ね?」
同意を求めるようにそう呟いたリーゼロッテは、小柄なアンネリーゼを抱きしめる。変わってしまった事の方が遥かに多い中、変わらない部分を見つける事が出来て嬉しかったのだろう。最初は顔を逸らしていたアンネリーゼも、やがて耐えられなくなったのか、妹の胸に顔をうずめて鼻をすすり始める。
小声で何か話し始める姉妹から離れ、それを遠目に見守る。俺は胸を撫で下ろす心地だった。別たれていた姉妹がこうして、人として再会を果たす事が出来たのだ。
「……もふもふですのー?」
ふと、聞こえてきた声はクラリッサのものだった。声の方を見れば、クラリッサは俺の変異した左腕に手袋をはずして触れ、灰色の毛並を興味深そうに撫でていた。しきりに鼻を鳴らしては首を傾げている事から察するに、俺の体に起こった現象は彼女にもどういったものか見当がつかないようだ。しかし、顔をしかめられたりしないだけましかもしれない。今まで匂いが好きだからと寄ってきていた彼女が、嫌な顔をして離れてゆくなど……。絶望的だ。想像したくもない。
「気に入ったのかな、お嬢さん?」
「はいですのー! ハインツもふもふー、もふもふですのー。……ごわごわですのー?」
気に入ってもらえて何よりだ。クラリッサは満足げな表情を浮かべ、俺の左腕の毛並を撫でたり、顔を埋めたり、もしくは匂いを嗅いだりしている。だが、その表情がどこか蕩けた笑みに変わってきているように見えるのは、俺の気のせいだろう。
「あ。そうですのー。アリスにも、もふもふありますのよー?」
「ん? なんだい?」
何かを思いついたクラリッサが、俺から身を離して赤衣の裾を上げる。非常に嫌な予感がしたので、先ほどと同様クラリッサの手を掴んで止めると、頬を膨らませて不満げな顔をされた。どうやら先と同じように服を脱ぐ気だったようだ。
「ハインツもアリスの尻尾もふもふするですのー。もふもふでー、ふりふりですのー」
「やっぱり尻尾だったね。おやめなさい、お嬢さん。そう簡単に尻尾を見せてはいけないよ?」
たしなめるようにそう告げるが、クラリッサは頬を膨らませたままだ。
「えー。でもー。ハインツ、リゼの尻尾は見ましたのー」
「ちょっとー!? 何の話してますのー!?」
俺とクラリッサのやり取りをしっかり聞いていたのだろう、血相変えたリーゼロッテがアンネリーゼの手を引いてこちらにやってくる。妹に手を引かれるアンネリーゼはといえば、コートの袖で涙を拭い鼻をすすってはいるが、幾分か晴れやかな表情になったように見える。
その様子に一安心といったところで、クラリッサが俺の服の裾をつまんで呼びかける。
「ハインツー。リゼの尻尾、一緒にもふもふしますのー。リゼの尻尾はー、もふもふでー、ふかふかでー、さらさらですのよー?」
「ハインリヒ隊長の前でなに言ってますのー!? アリス! ちょっとそこに直りさなさいな!」
血相を変えたリーゼロッテが走り出し、クラリッサが笑顔で逃げ出して、思いがけず追いかけっこが始まる。俺は微笑ましい気持ちでその光景を見守っていた。彼女たちの姿を再び目にする事が出来た喜びと安堵。そして、これから成さなければならない事を再確認する。
「ふたりとも、ちょっといいかな?」
追いかけっこを続けるふたりに声を掛ければ、すぐに俺のところへ走り寄ってくる。日頃の訓練の成果、あるいはハンナのお小言の功績とも言える。赤衣を纏ったふたりの少女は神妙な顔つきで俺の言葉を待っている。
「聞いてほしい事があるんだ。……と、その前に。リーゼロッテ、ハンブルク城の現状を知りたい。現在どういった作戦行動中であるのかを……」
◇
わずかな時間、これからの方針について打ち合わせた俺たちは、その後すぐに解散した。ハンブルク城へ帰還して応援を呼んでくる者と、ヨハンの行先を追う者とに別れ、すぐに行動を開始したのだ。ヨハンを追うのは俺とリーゼロッテ。アンネリーゼはヨハンを追わず、ハンブルク城へ帰還するクラリッサに同行する事を申し出た。
「私は一度、ヨハン兄様の魅了に掛かっているわ。また同じような風になるかもしれないから……」
悔しそうにそう告げたアンネリーゼは、俺たちに託して身を引いたのだ。クラリッサに手を引かれて黒森を後にするアンネリーゼは、こちらを振り返る事はなかった。自分の手で決着を付ける事を諦めはしたが、その事にいつまでもこだわる彼女ではなかった。自ら進んでハンブルク城の守りへの加勢を申し出てくれたのだ。
「黒森から戻ったわたしを受け入れてくれそうな場所なんて、そこしか思いつかないんだもの。だから、力の限りを尽くして貴方たちの居場所を守るわ」
去り際にアンネリーゼはこうも言っていた。人の姿で妹と再会できた事で前向きになったのだろう。あの洞窟から連れ出したのは間違いではなかったのだ。それとも、彼女ならひとりで外へ出て、リーゼロッテと再会して、和解して。俺が声を掛けなくても、同じ結果になっていたかもしれない。
「さあ、俺たちはヨハンを追おうか。リーゼロッテ」
「はいですの。でもその前に、ハインリヒ隊長。少しお休みになられてはいかがですの? お顔の色が優れませんの」
心配そうなリーゼロッテの顔に、自分はそんなにひどい顔をしていたのだろうかと立ち止まる。リーゼロッテがポーチから手鏡を取り出して、俺の方へ向けてくれる。鏡に映った自分の顔は、確かに青ざめて見えた。おかしなものだ。肉体を再生した影響だろうか、体内は火にかけられた鍋のように熱を持ち、全身からは絶えず汗が噴き出ていて。それなのに体表は寒気を覚え、流れ出た汗はとても冷たく感じる。
まるで風邪でも引いたかのような症状だが、俺にとっては動きを止める程の辛さではない。慣れというのは恐ろしいもので、近似する感覚ならば、ある程度まで耐えられるのだ。風邪が悪化したような症状ならば身に染みてしまっているので、今体に感じているこの感覚もそれと同じようなものだと結論付けて、無理やりにでも動けてしまう。
だが、それでリーゼロッテの心配そうな表情が晴れるわけではない。彼女たちには丸一日以上心配をかけてしまっているし、俺の体がこれからどうなるかもわからない。もしかしたら、このまま変異が収まって、元の人間の体に戻ってしまうかもしれない。焦りが胸に渦巻くが、今はその焦りを押さえよう。もしそうなっても、クラリッサがハンブルク城へ帰還して、交代で出撃したフランツィスカが到着するまで時間稼ぎが出来ればいい。リーゼロッテの足を引っ張ってしまう事が懸念だが、考え付く手段は少なくない。
「隊長? ハインリヒ隊長?」
考え込んでいて、気が付くとリーゼロッテが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。こうして真下から見上げてくる視線は何度目だろう。彼女がこうして俺を見るときは、いつも批難される時だった気がする。
「そうだね。ちょっと休もうか」
河のゆるやかな流れと、天蓋の合間から差し込む月光の元、ひときわ大きな黒い樹の根元に腰を下ろす。昼間に洞窟を出て以来歩き詰めで、途中人狼との交戦もあった。現在時刻は定かではないが、もうすぐ日が変わろうとしているくらいではないだろうか。
座り込んだ俺を警護するように、リーゼロッテは周囲の気配を探っていた。赤衣のフードを外して露わになった耳が、幾度もひくひくと動いている。この近辺の音を探っているのだ。
「近くに人狼の気配はございませんの。安心してお休みくださいですの」
「あまり、ゆっくりもしていられないけどね。チョコレートの残りがあればよかったのだけど……」
「それも、ご心配には及びませんの。アグネスさんからお弁当を預かってきてますの」
リーゼロッテはヴィオラのケースを下ろすと、俺の隣に自らも腰を下ろす。腕に下げていた小さなバスケットの中から取り出されたのは黒パンのサンドイッチだ。俺の好きだったものをわざわざ持たせてくれたのだろう。気遣いと、心配をかけてしまった事を本当に申し訳なく思う。
「……またアグネスさんの手料理にありつけるとはね。本当にありがたい事だよ」
「ハンブルク城に戻ったら、またみんなで騒がしく食卓を囲む日々に戻りますのよ? 静かにお食事する機会なんて、もうこれっきりかもしれませんの」
「俺は賑やかな方がいいよ。ひとりで静かになんて、さみしくていけない……」
病床でひとりきりの食事を取る日々を送っていた頃から、大勢で賑やかな食事というものにずっと憧れていた。軍に入隊してその夢は叶いはしたが、それは同時に、食卓を共にした仲間がいなくなる喪失感を知るものでもあった。
黒パンサンドを口にしながら思い出すのは、ハンブルク城のみんなを集めて初めて宴を開いた時の事だ。またあんな風に大勢で食事したい。今は黒斧団の面々もいるのでもっと賑やかになるはずだ。アンネリーゼはあの中にうまく溶け込めるだろうか。リーゼロッテもクラリッサもいるので、大丈夫だと信じよう。
「ほら、リーゼロッテ。キミも食べるんだ。これからヨハンを追うのだから、しっかり補給しておかないと」
「ご相伴に預かりますの。ああ、ハインリヒ隊長、お飲み物は? 水筒にお茶を用意してありますの」
たいへん準備がいい。思わずリーゼロッテをまじまじと見つめてしまうと、彼女は赤くなって顔を背けてしまった。極まりが悪そうに視線を泳がせたリーゼロッテは、自分のサンドを頬張って、すぐに怪訝な顔に変わった。
「これ、甘すぎですの。鶏にはちみつが入りすぎではありませんの?」
「俺が小さな頃好きだったものなんだ。鶏のソテー、はちみつとマスタードのソースを、黒パンで挟んだもの。はちみつ多めだね」
「ちょっと、わたくしには甘すぎますの……。隊長、これが好きですのよね」
「小さい頃の話だけれどね。でも、懐かしいな……」
それからしばらくの間、リーゼロッテと自分たちの昔話をした。俺の病気の事や、リーゼロッテがひとりでどうやってここまで生きて来たかなど。それに、ヨハンの事についても明かすことになった。人狼となっても自我を失う事の出来なかった兄のこれまでに、リーゼロッテは衝撃を受けるかもしれないと思っていたが、彼女は毅然として平静を保ったままだった。
「薄々、勘づいてはいましたの。でも、だからと言って、今さら止めるわけにはいきませんの。“隻眼”の手によって既に多くの人が命を落としていますの。ここで討たなければ、これからも……。それに、ハンブルク城のみんなも危険に晒されていますの……」
そこで言葉に詰まったように息を止めたリーゼロッテは、表情を歪めて俺を見た。
「“隻眼”も討たれる事を望んでいますの。ハインリヒ隊長のお力で元の姿に戻れたとして、彼はこれからどう生きて行けばいいですの?」
「さあね。無責任な事を言うと、それは俺にもわからないよ。でも、彼が助かろうとする意志を持ってくれるなら、そして、こちらが差しのべた手を取ってくれるのなら、俺は彼を全力で救いたいと思うよ」
リーゼロッテは複雑な面持ちで俺の言葉を聞いていた。俺がこれからやろうとしている事は、彼女の決意を鈍らせるだけでなく、ハンブルク城のみなを危険に晒す事にもなるからだ。
わかっている。ヨハンを救いたいとは思うが、あくまで優先すべきはハンブルク城のみなの安全だ。彼がハンブルク城に向けて人狼たちを差し向ける事をやめなければ、俺は彼を討たなくてはならない。願わくば、ヨハンが再び希望を見出してくれる事を。そして、そのために……。
「……そのために、あれ?」 どうした事だろう。ここに来て耐えがたい眠気に襲われる。致命傷を数分で完治してしまう程の変調だ、次にどう体調が変化してもおかしくはない。だが、違和感が残る。肉体が劇的に変化しているので違和感などあって当然なのだろうが、この急激な眠気が疲労や体調の変化によってもたらされたものには思えないのだ。
「ハインリヒ隊長? お疲れですのね。少しお休みくださいな。ご安心ください、周囲に人狼の気配は御座いませんの」
リーゼロッテの声が遠い。意識が遠退いているのだ。眠ってしまっては駄目だ。これからリーゼロッテと共に、ヨハンに会いに行かなければならないのに……。
「大丈夫ですの。お目覚めになる頃にはすべてが終わっているはずですのよ。だから、ハインリヒ隊長は……」
ダメだ意識を保っていられない。頬でもつねって痛みを得ようとするものの、そもそも体に力が入らない。完全に脱力してしまっている。命が失われる力の抜け方ではない、眠りにつく前のゆるやかな弛緩だ。このまま眠ってしまえたらどれだけ楽だろう。まだ、緊張を保っていなければならないというのに……!
俺の意識が遠のいてゆく様を、リーゼロッテは終始優しげな顔で見守っていてくれた。その優しげな顔に、会った事もない母の面影を重ねてしまうのは、どうしてだろう。赤子をあやす母の顔。あまりにも心地よくて、つい邪推してしまう。俺は、なんて事を考えているのだろう。こんなに優しく微笑む彼女が、食事に眠り薬など混ぜるはずが、ないではないか……。
◇
目を閉じて、安らかな寝息が聞こえてくるまで、わたくしはずっとハインリヒ隊長のお顔から目を離す事が出来なかった。彼が眠りに着くのを確認した瞬間、思わず泣いて叫び出したい思いに駆られ、自分の肩を抱き唇を噛みしめた。なんて事をしてしまったのだろう。ハインリヒ隊長は、わたくしがこんな真似をするなどと、微塵も考え付かなかったに違いない。罪悪感で死にたくなるが、まだだ。まだ、わたくしの死ぬべき時間ではない。
“隻眼”の人狼を、ヨハン兄様を討つまでは死ぬわけにはいかない。ハインリヒ隊長は彼を救う気でいるようだが、例え元の姿に戻れるとして、兄様が人間の体に戻る道を選ぶとは思えない。仮に、兄様が人間に戻る道を選ぶのだとしても、もうハインリヒ隊長と会わせるわけにはいかない。
脳裏を過るのはハンナから渡された資料。人狼との接触によって、ハインリヒ隊長のお体は変貌を遂げてしまっている。今は人としての理性を保っていはいるが、これからもそうだとは限らない。肉体が人狼のものに、もしくは半人狼のものに変化するという事は、心もそうなる可能性を秘めているという事だ。人狼化した左腕に、致命傷をものの数分で完治してしまう回復能力。これ以上の長時間人狼と接触すれば、これらの変異加え、ハインリヒ隊長自身が狂乱して自我を失ってしまうかもしれない……。
「……本当は、ここで隊長を連れてハンブルク城へ戻ってもいいですのよね」
だが、その道中に人狼に襲われた場合、ハインリヒ隊長を守り切れる保証はない。ハンブルク城への帰路は風下を選び、人狼たちに気付かれないように忍んで行く手筈だが、それでもこの黒森には知恵の利く人狼が二体もいる。先に帰投したクラリッサやアンネリーゼ姉さまだって危険がないとは言い切れないのだ。
だから、ハインリヒ隊長はここに置いてゆく。捨て置くわけではない。今出来得る最善の処置はすでに行ってある。あとは、クラリッサと交代で出撃したフランツィスカが、ハインリヒ隊長を見付けてくれればいい。ハインリヒ隊長の状態を鑑みれば、別行動を取ったわたくしよりも優先して駆けつけてくれるはずだ。
立ち上がって耳を澄ませれば、目を開かずとも音で黒森の今の情景が頭の中に浮かんでくる。周囲に人狼の姿はない。呼び寄せられた人狼たちは、そのほとんどがハンブルク城に向かって行ったのだろう。変異種が配下に連れていたという人狼たちの事も気掛かりだが、その勢力も近くには潜んでいない。いくら嗅覚をくらませようとも、生きている限り心音を消す事などできないのだから。今の静かすぎる黒森ならば、視界の届かないはるか先まで音を補足できる。この場所も当分は安全だ。
「ハインリヒ隊長……」
もう一度そのお顔を見るべく、わたくしは彼の傍らに腰を下ろす。薬の量は明け方まで起きない程度に調整してある。その頃には、嫌でも結果は出てしまっている。ハインリヒ隊長のお顔を見るのは、これが最後かもしれない。静かな寝息を立て、安らかなお顔で眠っているハインリヒ隊長を見ると、ハンナの言葉を思い出す。まるで死人のような寝顔だと。わたくしにはそうは見えない。寝息も心音も、しっかりとこの耳に届いているのだから。
もし、わたくしが生き残ってしまったらと……。覚悟を決めたはずなのに、今でもそんな想像をしてしまう。もしも生き延びてしまったら、たくさん叱られよう。ひとりで勝手に行動して、危険な目に合って。あるいは、もう片方の目も見えなくなっているかもしれない。みなに心配をかけて、叱られて。それで、今まで通りの生活に帰れれば、どんなに幸せな事だろう。だが、それは叶わないのだ。
どうせ最後になるならばと、わたくしは思い切って、ハインリヒ隊長に口付けする。ほんの少しの間、唇を押し付けるだけ。すぐに彼から身を離す。熱を持った頬を冷やす事も忘れて唇に手を当てる。はちみつの味がした。
「わたくしには、甘すぎますの……」 さあ、もうここを離れよう。このままハインリヒ隊長のお顔を見続けていると、本当に決意が揺らいでしまう。彼の顔から視線を逸らして立ち上がり、ライフルとヴィオラのケースを肩に担ぐ。もう二度とハインリヒ隊長の方を見ないようにと努めて、準備を整え深く一息つき、踵を返した。
歩き出そうとした時だ。体が違和を感じて動きを止めた。恐る恐る振り向けば、わたくしの赤衣の裾を、ハインリヒ隊長がつまんでいた。まさか、ずっと起きていて、今までのわたくしの動きをずっと見守っていたのだろうか。動悸がはやまり体全体が熱を発し始める思いだが、しかし彼は眠ったままだった。静かな寝息と穏やかな心音はそのままだ。無意識に、赤衣の裾をつまんでいたのだろう。
「まるで、子供のようですのね……」
樹に背を預けて眠るハインリヒ隊長は、着ていたコートをアンネリーゼ姉さまに着せてしまったので、上はシャツ一枚だけだ。風邪をひいてしまうかもと思い、わたくしは赤外套を脱いで、彼の体に掛ける。
「これで、本当にお別れですの」
今度こそ、わたくしは踵を返してこの場を立ち去る事が出来た。“隻眼”と決着をつけるために駆け出す。黒森の奥、多くの音が集まっている場所へと、進んでゆく。
◇
疎らな月明かりが差しこむ黒森の中を、アリスと呼ばれていた少女・クラリッサは悠々と、鼻歌交じりに進んでいく。鼻の効きが鈍くなってしまったわたしの手を引いて、ハンブルク城で生活する者たちの事などを、楽しげに話してくれながら。クラリッサの話を聞いていると、彼女は本当にハンブルク城の者たちから大事にされているのだとわかる。
リーゼロッテに持たされたお弁当もたいへん美味なものだった。鶏のソテーにはちみつとマスタードソースを絡め、黒パンで挟んだもの。久しぶりに口にする香辛料と、過度な甘みに舌がびっくりして涙目になる思いだった。涙目になった理由は、味にびっくりした事だけではない。ハインリヒからチョコレートを分けてもらった時にも感じたのだが、わたし自身がまだ食べ物の味を覚えていた事が、嬉しかったのだ。
「アグネスさんのお料理はー、美味しいですのよー」
「……そうね。お会いしたら、ちゃんとお礼を言わないと」
まだ他の人間に会うのは怖い。そうして躊躇って歩みが遅くなるわたしを、クラリッサは笑って手を引いて導いてくれる。何も怖い事はないのだと、ハンブルク城はわたしを受け入れてくれる場所なのだと。別に、わたしは疑ってはいないのだ。機能を取り戻してきたわたしの嗅覚は、クラリッサという少女の「これまで」を嗅ぎ取る。彼女の楽しげな記憶は偽りのものではないとわかるのだ。
だが同時に、わたしはこの小さな少女の「それ以前」をも嗅ぎ取ってしまっていた。彼女に刻まれている痛みと悲しみの記憶。彼女が赤衣を纏う前。おそらく、ハンブルク城の誰にも話した事がないであろう、悲痛な過去だ。心はおろか、体にも大きな傷が刻まれているだろう。
「心配ないですのー。アリスは大丈夫ですのよー?」
振り向きこちらを見る空色の瞳は、どこまでも澄んでいる。こちらの考えなどお見通しとばかりにかけられる言葉に、なるほどと納得して、同時に悲しくなってしまう。クラリッサという少女の、この異常なまでの諭さは、特化しすぎた嗅覚に起因している。苦痛の中で生き抜くために、獣性を高めて己を人狼に近付けた結果だ。
わたしには同じ経験があるから、わかる。この娘は、一度狂乱して自我を失い、人狼化している。年齢不相応の発育がその証拠のひとつだ。どうやって人の姿に戻ったのかはわからないが、この娘はもう一度人狼化してしまう事にひどく怯えてもいる。自分に過度の恐怖とストレスとを与えてくるような者が誰であるか嗅ぎ取り、近付かないようにしているのだろう。ハンブルク城ではそのような人物がいないという事もあるのか、今のこの娘に人狼化の兆候は見られない。
しかし、人狼との交戦となればどうか。それはクラリッサにとって過大な負荷と成り得るはずだ。ハインリヒの話では戦闘支援という形で直接人狼と戦う機会は与えられていないようだが、これからもそうだとは限らない。特に、今はハンブルク城に人狼が攻め込んでいる最中だという。最悪の場合、この娘が直接人狼と対峙する事もあり得るだろう。そうならない事を願わんばかりだ。
「……それにしても、この……、なに?」
赤衣の少女たちと合流したわたしは、リーゼロッテが予備として携行していた軍服を着せてもらったのだが、その中にひとつ、驚くべき事が用意されていた。わたしが黒森で十年という時を過ごす間に、なんと尻尾専用の下着というものが発明されていたのだ。半人狼の地位も服飾技術も、ずいぶんと向上したものだ。尻尾専用下着もリーゼロッテが持ってきていたものを履かせてもらったのだが、これがものすごい。
従来の下着は尾の部分がある事を想定して作られていないため、尾を通すための穴をあけて縫い直すか、丈の短く面積のないものを履くしか選択肢がなかったのだ。小さい頃はお腹を冷やさないようにと、ドロワーズに尾を通す穴をあけたものを履いていたものだ。
ところが、今履いているものは違う。尻尾全体を靴下のように伸縮性のある布で包み、それをガーターベルトで固定するという形を取っているのだ。着心地、質感ともに申し分ない。通気性もいい。下着なぞ十年も付けていなかったが、まるで違和感がない。逆に、尻尾じゃない方の下着に違和感を覚えるくらいだ。
「……お股のあたりが、ちょっと、むずむずするわね」
「むずむずしますのー。ねー?」
どうやらこの子も同じ感想を得たようだ。お互い、下着を履くのは慣れていないらしい。それはさておき、尻尾専用の方だ。クラリッサの赤衣の裾から除く黒い布に包まれた尻尾は、これでもかと言わんばかりに振りたくられているが、布がずり落ちたりする事はない。この尻尾専用の下着を発明した者は、よほど半人狼種の体に詳しいようだ。
「これですのー? ハインツがつくりましたのー」
開発者はあの男だった。彼はいったい何をやっているのだろう。赤衣の少女たちの隊長ではなかったのか。
「ハインツはー、縫い物上手ですのー。帰ったらみんなの服をつくってくれるんですのー」
なるほど、そういう約束が交わされていたのか。確かに、彼は縫い物好きとも言っていた。だが、明らかに物好きの範疇を超えている部分もある。それが、彼女たち半人狼専用にと拵えられた軍服、そのスラックスだ。通常の軍服だと尾が緩衝して擦れたりと不具合が多いらしいのだが、専用の軍服はそういった不具合がほとんど解消されている。
構造はレーダーホーゼンのような吊りズボンで、紐を背中側で交差するつくりになっている。尻の辺りは尾に干渉しないようにと大きくスリットが入り、尾の動きが妨げられる事はない。試しにと自分の尾を振ってみるが、衣服に擦れるような不快な感触はない。下着以外はたいへん申し分ないつくりだと思うのだが、リーゼロッテが言う事には、これでもまだまだ改良の余地があるらしい。ハインリヒという男の探究心には感服するばかりだ。
「黒森を抜けましたのー。もうすぐハンブルク城ですのー」
そんな事を考えているうちに、クラリッサが一足先に黒森から出てしまった。途中走ったり速足だったりしたが、それを差し置いてもかなり早いペースでの到着だ。わたしたちは、体を打つ程に激しさを増した風を全身に感じ、遠目に件のハンブルク城を臨む。小高い丘を背にして背の高い城壁に覆われた古城。その城下町には今、煌々と橙色の灯りが灯っている。訝しげに眼を凝らすわたしに、クラリッサがすぐに「かぼちゃさんですのー」と、灯りの正体を解説してくれる。中身をくりぬいたカボチャをランタンにしたものだそうだ。
人間が夜に人狼と戦うなど無謀極まりないが、もしそれを押して戦わなければならないのだとしたら、やはり視界の確保は重要だ。クラリッサの拙い説明を聞く限りでは、あのカボチャはランタンとしての機能を有するものと、衝撃を与えると爆発するものとがあるらしい。ランタンの方は、カボチャの中身をくり抜いたものに食用油を注いで内蓋をして、太めの縄を通して火をつけているもの。案山子の頭に据えられている方のカボチャは、小さな麻袋に火薬を詰めたものを内側に貼り付け、狙撃によって爆発を引き起こすものだという。
ちょうど、カボチャが爆発する音が風に乗ってわたしたちのところにも届いてきた。音と共に火薬の匂いまで運ばれて来るが、湿った空気のおかげでほとんど苦にならない。もうすぐ雨が降るのだろう。わたしですら大した事がないならば、人狼たちも火薬の匂いで鼻がやられる事もないのだろう。
風下を進むクラリッサに追走しつつハンブルク城の方を見やれば、人狼たちは一方行から数十体の塊となって侵攻しているのが見て取れた。なぜ一方行からなのかと思いきや、考えるまでもなく答えがあった。城門が開け放たれているのだ。
「あの、アリス? 城門が開いているようだけど、あれはわざと?」
「はいですのー。門を開けてお招きですのよー? 壁は登っちゃダメですのー」
壁は登っちゃダメというのは、城壁を登れないような措置を施してあるという事だろうか。先にリーゼロッテから聞いている限りでは、人狼を城内に引き入れ各個撃破するという流れらしい。城門を閉鎖して篭城すれば、城壁を登って方々から侵入されてしまう可能性があった故か、侵入し易ように城門を開放して、少数ずつ中に引き入れるという形を取ったのだ。
クラリッサは城門の方へは向かわず、風下を迂回して城壁の裏手の方へと進んでゆく。城を出る時も同じところから出たのだろう、城壁の片隅に小さな勝手口が設けられていた。ここからは人間の領域だ。小さな先導者に続いて城内に入る事を躊躇ってしまうが、わたしには気持ちの整理をつける時間がなかった。先に城内へと入ったクラリッサが鼻歌をやめて、表情を消したのだ。
「……様子がおかしいですのー」
小さく呟くような言葉に、背筋が寒くなるような感触を覚えた。クラリッサの纏っていた空気が変わってしまっている。わたしの鼻が万全ならば、さらに感じ取れるものもあったのだろう。しかし、こちらの嗅覚が回復するまで彼女は待ってくれない。
弾かれたように駆け出したクラリッサを追って、わたしはハンブルク城内を行く。目に飛び込んでくるのは、人狼を誘導するために設けられていたのだろうワイヤーやバリケードの残骸、そして積み上げられた人狼の亡骸。破損した刃物の欠片や武器と思われる物の残骸もところどころにあり、半人狼以外にも複数の人間が人狼と戦っていたのだなと、この時のわたしは考えていた。そこら中に散らばっていた武器の残骸を用いていた者が、たったひとりの赤衣兵だと知って驚愕するのは、この時点から言うと、もう少し先の話になる。
まるで迷路のような廃墟の群れを抜けて、たどり着いた先は人の生活の匂いが染みた建物だった。多くの人間が寝起きする場所、宿舎というものだろうか。クッリッサはその裏口を叩き壊さんばかりの勢いで開けて建物の中へと消えてゆく。続いて中に入ろうとして、わたしも彼女の感じていたものに気付いた。血の匂いだ。人間の血ではない、半人狼の血の匂い。赤衣隊の誰かが負傷したのだ。
恐る恐る、裏口から宿舎の中へと足を踏み入れる。暗い通路を進んですぐ、クラリッサの小さな背中があった。その向こう側はエントランスになっているようで、多くの人の匂いと、血に塗れているのであろう赤衣の少女の匂いがあった。わたしは、クラリッサの後ろからその光景を見る。
「……アリス、よく戻った。……すまない」
声の主は赤衣の少女、銀髪に軍帽を被った少女のものだ。名前は確かハンナだったはずだ。その横顔には疲労が浮かび、声はひどく憔悴してしまっている。ハンナは苦しげに、絞り出すように声をつくる。
「リゼの元に増援を送る事は出来なくなった」
ハンナは負傷した少女の傍らに寄り添い、手当を続けながら状況を言葉にする。クラリッサの方を向く事はない。
「マルグリットが、重症だ」
担架の上に乗せられたまま複数人の兵科に手当されているのは、長い黒髪を持つ背の高い少女だった。呼気も心音も、今にも消えてしまいそうに弱々しく、意識を失った頬は死人のように白かった。




