8話:迎撃準備
伐採班の宿舎には異様な熱気が籠っていた。窓や扉をしめ切って部屋を密閉しているわけではないし、かと言って室内で大人数が激しい運動の最中、というわけでもない。ただ、伐採兵科のほとんどはここ宿舎のエントランスに集結し、床に座り込んで対人狼戦の準備に取り掛かっていた。座り込んだ隊員全員が、つい先日ハンブルク城へ配給されてきた物資、採れたてのカボチャをくりぬいている最中だった。
カボチャといってもサイズは子供の頭程度のもので、市場に出回る事無く安く買い叩かれるような不格好な品ばかりだった。形の良いカボチャならばいざ知らず、不格好な手元の品は加工が非常に難しい。隊員たちは互いに一言も言葉を交わさず、そのいびつな野菜の頭を開き、黙々と中身をくり抜いている。最終的には空洞にしたカボチャに目鼻や口のような穴を開けて、収穫祭などでよく見られるランタンをつくる手はずである。
「……俺あ、そう聞いていたんだがよう、ハンナ嬢ちゃん。この真剣さはなんだ?」
伐採班たちの異様な熱気に疑問の声を上げたのは、黒斧団のヘルムート団長。老齢ながらも逞しい肉体の上から鎖帷子を着込んでいる。問いかけた先は、伐採班の隊宿舎に様子を見に来ていた自分事ハンナ・ヴルフだ。疑問の表情をだいぶ引きつらせて問うてくるヘルムート団長の声を耳に、自分は幾度か頷きながら答える。
「真剣にもなるはずですよ。あれをご覧ください」
自分がそう言って掌を向ける先、その先にいる人物を見たヘルムート団長は納得がいったというように苦笑を漏らした。そこにいたのは、楽しげに鼻歌を歌いながらトマホークを振るっているクラリッサの姿だった。さらに付け加えれば、クラリッサの傍らに転がるカボチャランタンの数だろう。他の隊員と比べて作業完了した量が多い。作業速度が段違いなのだ。
楽しげに作業を続けるクラリッサの鼻歌にはやがて歌詞が付き始め、余裕に満ちた幼子の様子に伐採兵科たちは焦りを増してゆく。クラリッサが歌っているのは彼女自作のアヒルの歌だが、口ずさむ歌詞は「ぴよぴよ」と、なぜかひよこの鳴き声だ。歌詞が進めばやがてアヒルになるのだろうとは思うのだが、今まで一度もアヒルになった事はない。手元の作業がなければアヒルの真似と称して小躍りし始めるところだろうが、今は体を左右に揺らして音頭を取っている。
彼らの様子に苦笑いを浮かべているヘルムート団長の視線は、焦りからカボチャを放り落とした班長に向けられてた。自分も班長とは一年と少し程度の付き合いで、しかもほとんど接触する機会を設ける事が出来なかったのだが、それでもこんな焦りを帯びた班長の顔を見るのは初めてだった。それが、結果として伐採班全体に伝播して異様な空気、熱気となっているのだ。
「なあるほどなあ、ハンナ嬢ちゃん。ちっこいお嬢ちゃんは手先が器用だって話は聞いちゃあいたが、ここまでとはねえ。それで伐採班の連中を煽ろうって考えかい。そりゃあムキにもなるわなあ」
「ええ。彼らのプライドをくすぐらせていただきました。まさか、本職で負けるわけにはいかないでしょうからね?」
自分の放った一言がダメ押しだという事くらいは自覚している。伐採班の面々は一度ぴたりと動きを止めた後、その表情を鬼気迫るものへと変化させ作業を再開した。速い。速いが、各々もうカボチャが残っていない事に気付いて、それぞれ敗北を自覚して消沈してしまう。まあ、クラリッサがみなの頭を撫でて回っているので禍根を残す事はないだろう。逆にへこんでしまった者に関しては知らん。
準備の第一段階であるカボチャランタンづくりはこれにて終了だ。すぐさま第二段階である案山子作成へ移行してもらうためにも、自分はみなの注目を集めるべく手を叩き、数歩前に出る。肺に息を送り、腹に力を入れて声をつくる。
「みんな、良くやってくれた! これで準備の初期段階は終了だ! 続いて第二段階へ移行するが、その前に誰か、カボチャの中身をアグネスさんのところに持って行ってくれ。戦いが終わったら腕によりをかけてスープをつくってくれるとの事だ!」
「その必要はないよう! 自分で取りに来たからねえ!」
背後から響いた楽しげな大声に思わず身をすくませてしまう。大声の主はアグネスさんだ。自分が発言し始める頃には、彼女はすでに宿舎の扉を開いていたのだろう。宿舎の前には古城の地下倉庫に貯蔵されていたある品が大樽四つ分、荷車にてここまで運ばれてきていた。荷車を引いて来たのは黒斧団の大男ふたりで、それぞれ肩で息をしながら団長に報告を行っている。
アグネスさんには夜間必要になる食事の仕込みと、馬屋に繋いでいた軍馬をハンブルク城の外へ逃がす仕事を頼んでいた。城内に人狼の侵入を許すとなれば、当然軍馬もヤツらの餌となりかねない。囮に使えるかとも思ったが、結局は逃がすという選択をした。馬とて気配には敏感だ。人狼のひしめく方には逃げないだろうと願っている。
「それで? ハンナや。こんな大量の香辛料と油、いったいどうする気だい?」
カボチャの中身が集められた鍋を抱えながら、アグネスさんが荷車で運んできた品の用途について聞いてくる。香辛料。その単語を耳にして、伐採班の面々をはじめ、ヘルムート団長や荷引き役の黒斧団ふたりも不思議そうな顔になる。
みなの疑問はもっともだ。香辛料、それも黒い樹由来の代用品ではない天然ものは貴重品だ。古くは肉の保存や香水代わりに用いられ、代用香辛料が開発された現代においてもその価値は計り知れない。何せ海路を通じて他国から輸入されてくるものだ。その価値は未だに金や銀と同等以上の価値を持つ。
そんな貴重品がなぜこんな南方の最前線にあるのかといえば、リーゼロッテが金策のために仕入れていたものがあったのだ。もちろん、使用許可は取ってある。問題はその用途だ。
「油はともかく香辛料、それも天然ものなど、いったいどう用いるのだと言いたいのだろう。その用途は、自分たち人間と案山子に同じ匂いを付けるためのものだ」
自分がそう告げた瞬間は、誰もはっきりとした答えを得る事が出来ない様子だった。それどころか、わざわざ人狼に気付かれるような匂いを纏う事で、危険に晒されるのではないかと不安に駆られる者も幾人か見られた。そんな中、最初にこの意図に気付いたのは、やはりというか、班長だった。
「……なるほど。案山子を人間に見せかけて、何か仕掛けようというのか」
班長の呟くような声に伐採班の面々は安堵して胸を撫で下ろすが、具体的な光景を思い浮かべるのは難しいようで、誰もが顔を見合わせている。確かに、作業の方を先行してもらっていたため、伐採班のみなには案山子をどう用いるのかをまだ説明していない。ここで概略を話しておくべきだろう。
「では、案山子の用途について話そうか。班長の言うとおり、こいつは人狼の鼻を騙して案山子を人間に見せかけるためのものだ。人狼の生態についての大まかなところはみな知っての通りだ。やつらの五感の中で一番鋭敏である嗅覚を逆手に取る」
人狼の嗅覚は鋭く、多種にわたる匂いを嗅ぎ分ける。人間の嗅覚では判別不可能な匂いですら、やつらにかかれば野菜の種類を見分けるが如く容易だろう。人間がどれだけ体臭を抑えようとも、やつらは黒森の中からでも嗅ぎ付けてくるのだ。
だから、別の強烈な匂いでそれらを上書きする。敵を惹きつけるだけならフランツィスカの纏う香りだけでも事足りるのだが、それはあくまで黒森内での交戦を想定した場合だ。今回は人狼を城内に引き入れての戦い、市街戦に近い戦い方をしなければならない。
そしてそれは、ここにいる伐採班や黒斧団も戦列に加わり、人狼と相対するという事に他ならない。とはいえ、彼らに求める事は多くはない。フランツィスカとマルグリットが休息を取るためのほんの少しの時間、人狼を抑えておいてくれればよいのだ。
「対人狼戦の矢面に立つのは、もちろん自分たち赤衣隊だ。しかし今回は、伐採班や黒斧団のみなに戦闘支援を頼む事になる。案山子はそのために必須だ。その用途は、こちらの人数を多く見せる事、みなの身代わりとする事、そして人狼の足を止める事だ」
城内で人狼と戦うとなった場合、ヤツらの最大の持ち味である機動力を、幾分かは殺す事が出来る。そうして人狼の足を止める事が出来さえすれば、それだけで自分達に有利な状況が確率される。人狼に対しての銃撃が可能になるのだ。
「伐採班の担当する戦い方は、何も難しい事はない。囮である案山子に人狼が食いついている間に、ヤツ等の急所である頭部を狙ってもらう。散弾で鼻と耳とを潰してヤツらの感覚を奪い、あとは黒斧団が近接戦でとどめをさしてくれる」
黒斧団がとどめをさす。その言葉で、伐採班のみなはヘルムート団長に視線を向ける。普段は黒斧団の作業着をラフに着込んでいるだけの彼が、今日に限って鎖帷子など着ている意味を、ここにきて理解したらしい。
得意げに笑みを浮かべて筋肉を誇示するようなポーズを取るヘルムート団長に視線が集まっていたので、自分は咳払いしてもう一度視線をこちらに集める。まだ話は終わっていない。香辛料を使う目的は、人を案山子と誤認させるためだけではないからだ。
「……そして、香辛料を使う理由はもうひとつある。これからみなに作成してもらう案山子には、最終的に火薬を仕込んで爆発するように仕掛けを施すつもりだ。人の体臭と香辛料の臭気を覚えた人狼が、何のためらいもなく噛みついたところで着火すると、果たしてどうなる? 短時間ではあるかもしれないが、ヤツらは自分たち人間が、爆ぜて炎を上げる存在だと誤認させる事ができるかもしれない」
「火薬の方は俺ら黒斧団が仕入れたものがあるから、そいつを使ってくれ」
自分の言葉をヘルムート団長が引き継いで伐採班のみなに呼びかける。火薬はハンブルク城の貯蔵だけでは心もとなく、黒斧団が独自に仕入れていたものを融通してくれるという事で本当に助かった。懸念があるとすれば、着火の際に周囲の者を退避させる必要がある事と、今夜の天候が見通せない事だ。もしかしたら雨になるかもしれないと、クラリッサとマルグリットが言っていたのだ。クラリッサの場合は嗅覚からくる直感のようなものだろうが、マルグリットが同じく雨だという理由はよくわからない。彼女なりの知識や経験に基づいた意見なのだろう。
「案山子の運用は、大よそこのようなものだ。着火の際にはこちらから指示を出す。……以上だが、何か質問はあるだろうか?」
「……あの、ヴルフ副隊長。よろしいでしょうか?」
自分が質問があるかと確認すると、挙手とともに伐採班の女性隊員が立ち上がった。確か伐採班では最年少、自分と同い歳、名前まで同じハンナだったはずだ。自分が頷いて発言を促すと、彼女は言いにくそうにしながらもはっきりとした口調で己の感じていた疑念をぶつけてきた。
「はい、その……。黒斧団のみなさんが矢面に立つというのに、我々は後方で銃撃するだけというのは、あまりにも」
「自分たちだけが安全圏にいるのは、我慢ならないと?」
彼女の言葉を途中で遮らせてもらった。「その通りです」と頷く隊員に、他の伐採兵科たちも幾人か頷く。本当に高潔な人間が残ったものだ。
「勘違いしてもらっては困るので、この際はっきりさせておこう。危険なのは、このハンブルク城にいる者みな一緒だ。誰ひとりとして例外はない。最前列で人狼と相対しようが、後方で援護を行おうが、それは変わりない。今夜のハンブルク城に、安全圏などない」
隊宿舎のホールにいるみなが緊張に身を固くする。自分たちが死と隣り合わせの場所にいる事を、改めて自覚してもらえただろうか。
「それに、伐採班と黒斧団とでは戦い方がそもそも違う。無論、自分たち赤衣隊とも。それぞれに適した戦い方を行わなければ、今回の迎撃は上手くはいかないだろう。それとも? 人狼との白兵戦経験がある自分たちや黒斧団を差し置いて、真っ向から人狼と相対できると?」
自分の問いが意地悪なものだという事は理解している。意見を述べた伐採班のハンナはいいえと首を横に振って、作業時のように床に座り込んだ。こう言ったところで納得してもらえないのはわかっているが、どうあっても伐採班に無理を強いるわけにはいかない。そもそも伐採兵科の役割は人狼との戦闘ではなく黒森の伐採だ。戦闘訓練をまったく課せられなかったわけではないのだろうが、人狼と直接相対した事などないだろう。
伐採班員たちの顔を見渡せば、己の領分だから仕方がないと割り切っている者が五割、納得がいっていないという者が五割といったところか。後者にはまだ若い隊員が多いのも、いかんともしがたいところだ。ふと、どこかでこれと似たような顔をした人物がいたなと思い出す。すぐに合点がいった。ハインリヒ隊長だ。
隊長業務をこなす傍ら、ひとりで修繕兵科の仕事を片づける手腕はなかなかのものだと思うが、彼はそれ以上の成果を望んでいる節がある。彼は自らも前線に出て、人狼と相対したいという欲求を持っているのだろう。ここ数日の様子を見ていればなんとなく察しはつく。気持ちはありがたいのだが、危なっかしくて見ていられないのだ。
「……まったく、ハインリヒ隊長そっくりだ」
「ああ、やっぱりハンナ嬢ちゃんもそう思うかい?」
自分の呆れを混ぜた呟きに、ヘルムート団長が笑みを深くして同意する。するとどうだ、若い伐採兵科たちはぎょっとして互いに顔を見合わせると、破顔して吹き出し、誰に憚る事なく笑い出したのだ。その顔にはどこか納得の色があり、彼らにも思い当たる節があったのだろう。不満が消えたわけではないが、仕方ないなと、彼らの顔には諦めの色が浮かんでいる。隊長の名前が思わぬところで効果を発揮したものだ。これではますます、彼に生きていてもらわなければ困る。
自分は咳払いひとつして、若い班員たちを見守っている班長に声をかける。
「班長。伐採班内で射撃の腕に覚えがある者を、四人ほど集めてくれ。追加の仕事をしてもらうため、今から黒斧団のところに向かう」
「構いませんが、副隊長。うちは射撃の腕はみな似たようなものですよ? それに、実戦で撃った事のある班員は圧倒的に少ない」
「それでも構わないのだが、基準が曖昧になるか……。言い方を変えよう、班長。射撃ではなく、狙撃の腕に覚えのあるものを四人、頼む」
この班長という人物は非常に優秀な指揮官だと、自分は考えている。自分のような奇怪な策しか講じる事が出来ないような者よりは、断然ここの指揮官に向いているとも。彼は告げた要求から何をするのか理解したようで、すぐに立ち上がって班員たちに声を掛けに行き、自分の元へ連れてきた。
班長が連れて来たのは三人。まず、先ほど意見を述べていた伐採班のハンナ。次に伐採班最年長の兵科、班の者たちからはウルじいと呼ばれ慕われている老兵だ。そして見張り櫓で監視任務をよく担当している若い男性隊員、伐採班のハンナとは双子の兄で、名前は確かハンスといっていた。最後の四人目は班長自身、という事なのだろう。ますます心強い。
ウルじいの顔は課せられる任務を察して引き締められている。しかし、若い隊員ふたりは、なぜ自分たちが呼ばれたのかわからないようで、その表情は困惑と不安でいっぱいだ。伐採班のハンナなど、緊張でがちがちになっている。別に、取って食おうというわけではないのだが……。
「この四人には、追加の仕事を担当してもらう事になる。案山子の組み立ては他の隊員に任せて、黒斧団の隊宿舎まで来てくれ」
力強い頷きと自信なさげな頷きを確認して、自分は伐採班の隊宿舎を後にした。
◇
伐採班の宿舎と道を挟んで向かい側に立っている黒斧団の宿舎前、古城から続く大通りの真ん中では、団員たちが対人狼用装備に身を固めて集結していた。こちらはこちらで、伐採班の方とは違った熱気に包まれている。戦いを前にした高揚の熱だ。彼らの身の纏う対人狼用装備は、元々人狼と戦うために開発されたものではない。中世時代、まだ騎士制度が生きていた頃の産物である、鎧甲冑や戦斧といった重装備だ。
時代錯誤の重装備を前に、付いてきた伐採兵科がぽかんと口を空ける。無理もない事だ。もはや軍隊のどの兵科でも、こんな重装備を纏って戦いに臨もうという者はいない。自分たちのような赤衣隊の中にもそんな変わり者はいないだろう。だが、これが彼等黒斧団だ。黒森の伐採業者の傍ら、対人狼戦の実績もあると噂される者たちだ。
「……鎧、みんな黒いのですね」
そう呟いたのは伐採班のハンナだ。確かに、黒斧団の纏う刺々しいデザインの鎧や武器は、そのすべてが黒く染め上げられている。それがただの塗料ではない事は、光沢具合を見て合点がいった。
「これはおそらく、緩衝用の樹脂塗料だろう。自分たち軍隊の装備にも使われているものだよ」
「おや、やっぱりハンナ嬢ちゃんは気付いたかい。その通りだよ。うちの団員の鎧にゃあ、黒い樹由来の樹液から生成される塗料を何重にも塗ってある。これの有り無しじゃあ、衝撃の吸収具合が段違いでな? 普通の金属鎧じゃあ、人狼の顎に捕まっちまったらひと噛みでひしゃげちまうが、塗料があるとそれがだいぶ緩和されてな? 結構な力がかかっても一撃でひしゃげちまう事あ、まずないのさ」
鎖帷子姿だった団長は、団員数名に甲冑を着せられながら得意げにそう話した。黒斧団の装備に使用されている緩衝用の樹脂塗料は、軍隊の装備でも至る所に使われている。ライフルやトマホーク、フランツィスカの用いるハチェットや、その他の雑多な携行品にも。
樹脂塗料自体の生成はごく簡単なもので、黒い樹の皮からから採れる樹液を数種類の薬品とともに鍋で数日煮込むだけだ。その効果や用途は前述した通り。黒い樹から作られる木炭に並び、この世界では生活必需品となっているものなのだ。
「それでよ、ハンナ嬢ちゃん。鎧の予備なんだが、案山子に着せる分は何とかなりそうだが、伐採班の人数分そろえるのは難しいわ」
「構いませんよ。そもそも自分たち軍隊の兵科は鎧装備での訓練を積んでいませんので、無用の長物になるかと。人狼と戦うにしても、装甲よりも機動力を優先していますから。鎧をまとって人狼と白兵戦を行おうなどいう恐ろしい考えを実行するのは、団長たち黒斧団くらいのものです」
「まあ確かに。しかし、そういう軍隊の範疇にないもんを、わざわざ作戦に取り込んでくれたんだろう? 俺はそういうところが嬉しくてな? 俺らのやり方でやらせてもらえるっていうのが、一番気持ちがいいのよ」
「それは、今回の作戦が黒森近辺ではなく市街戦想定だからです。……とは言っても、都市区に人狼が侵入する事などあり得ないという風潮から、市街地での対人狼戦の想定訓練は計画すらされていません。それは最前線の伐採拠点でも同様なのです。自分も、以前配属されていた南方第五区にて、想定訓練の計画と実施を進言しましたが……」
「突っぱねられたんだな」
ヘルムート団長の同情を帯びた声に、自分は頷かざるを得ない。人狼と相対する役割は赤衣隊に一任されている事は理解しているし、それが隊全員の安全を考えた時に一番生存率が高いという事もわかっている。だがもし、夜間拠点に人狼が大挙して訪れたらどうなるだろう。昼間なら、赤衣兵科が人狼を引き付けている間に伐採兵科は逃げればいい。だが、夜間の拠点を攻められた場合、そこに駐屯している兵科はどこにも逃げ場がなくなる。人狼に食われて死ぬか、戦って死ぬかだ。五区の隊長もそれを理解してはいたが、ついに計画を取り上げてくれる事はなかった。
「なんでえ。その五区の隊長さんはよう、やらなきゃならねえってわかっちゃいたんだろう? それなのにハンナ嬢ちゃんの意見を突っぱねるっていうのは、いったいどういう事でい?」
「単純な話ですよ。兵科の士気が低すぎたんです。五区の伐採兵科は腐りきっていて、人狼と戦うなんてとても……。元居た隊の事を悪く言うのもどうかと思いますが、それが現状でした。この七区に集まった人材がそもそも奇跡なんですよ。黒斧団の方々も含めて」
「苦労してんなあ……。まあ、ハンナ嬢ちゃんにもお膳立てしてもらったんだ。しっかり成果を上げさせて頂きますぜ? なあ、お前らあ!」
しっかりと甲冑を着込んだヘルムート団長は、宿舎前で装備の点検を行う団員たちに激を飛ばす。団員たちはそれぞれの装備を点検しながらも、口々に応と威勢の良い返事をして、手にした戦斧の柄や大盾の底を石畳に打ち付ける。装備を固めた黒斧団の団員たちは、組織名の通りに黒い戦斧と大盾を手にしていた。斧の方は全長一メートル程の片刃で、刃の反対側はピック状となっている。フランツィスカの用いるハチェットとは異なり、こちらは完全に戦闘用の装備だ。大盾の方は身の丈程もの大きさを誇り、基礎形状は楕円形に突起がついたデザインだ。突起は人狼が容易に掴み掛る事が出来ないようにと付けられているものだろう。大盾の底は鋭いフォーク状になっていて、その形状が至近距離にて人狼の突進を受け止めるために地面に突き刺すものか、それとも人狼のつま先を抉る用途であるのか、非常に興味深いところだ。自分の足に落としてしまわないか心配でもあるが……。
堅牢な肉体を持つ人狼ではあるが、目鼻や口内といった比較的柔らかい部分や、手足の指といった神経の多く通っている部分への攻撃は有効だ。だが、軍隊の兵科がそういった箇所への攻撃を行う場合、使用する武器はライフルに限られ、しかも遠距離からの攻撃となる。動きの速い人狼に対応するにはそれでは不充分であり、だからこそ赤衣隊には近接戦闘を行える戦闘力が求められるようになるのだ。
だが、黒斧団のやり方は違う。彼らは自らが装甲を纏って人狼を引き付け、人狼一体に対して複数人で近接戦闘を行う。人狼の動きを止めて機動力を削ぎ、徐々に攻撃を加えて確実に倒していゆくという戦い方だ。当然、負傷する者も多く出れば、命を落とす危険性もかなり高い。とても一介の伐採業者が行うような事ではない。
「……黒斧団のもうひとつの顔は、自分も少しは耳にしています。黒森で伐採業を営む傍ら、行商が黒森近辺を通る際に護衛として同行したり、赤衣隊の配属が間に合わない地区に護衛兵科待遇として雇われている事もあるそうですね?」
「ああ、その通りだよ。ここ七区の臨時登用の話がなかったら、ハンナ嬢ちゃんが前に居たっていう五区に、護衛で売り込もうってところだったんだがな? 今の話を聞いちまうと、やっぱりこっちに来てよかったと思うわな。どうも向こうさんとは、うまが合わなそうだ」
「とは言え、五区は黒森からかなり離れた地点に拠点を置いています。また、水路が整っているので、いざというときは河を遡って都市区に逃げるという事も可能でしょう。ここよりも出番がなくて安全であった思いますよ?」
「それがよう? うちの団員ってのは、手前の力自慢をしたいっていう連中が多くてな。チャンスがあったら人狼と戦ってみたいって命知らずばっかりなのよ。……親兄弟や大事な人を人狼に食われちまって、恨みを持ってるやつも少なくねえから。だから、わざわざ危険な仕事ができるここに集まって来ちまったのよ。軍隊じゃあ、人狼の相手はお嬢ちゃん達って相場が決まってるからな」
「そうはいっても、盾役の出番はなるべく少なくなるようにして頂きたい。何のために伐採班の方で案山子を用意したのかわからなくなります」
「わかってるさ。俺たちは命知らずだが、死にたがりじゃねえんだ。……俺だって、またハインツ坊ちゃんと酒が飲みたいからよう。それに、まだちゃんと、隊長さんて呼んでやれてねえしなあ」
豪快に笑っていたかと思えば、ヘルムート団長は急に遠い目をしてそんな事を言う。それは自分とて同感だ。黒斧団含め七区の兵科全員が無事揃って、ハインリヒ隊長の帰還を迎えるのだ。そうでなければ、自分は彼に合わせる顔がない。
「……つってもよー、団長さん。ほとんど俺とマルグリットで片づけちまうんだ。あんまり気張られても困りもんだぜ?」
あくびを噛み殺しながら、そう告げる声が聞こえてきた。声の主はフランツィスカだが、その姿が見当たらない。そもそもこの時間彼女は自室にて眠っているはずだ。このタイミングで現れるという事は、休息より優先して行うべき事を見つけたからだろう。
さて、声だけのフランツィスカがどこから現れるのかと待ち構えてみれば、上から落ちてきた。黒斧団の宿舎屋根、ざっと建物三階の高さから飛び降りて難なく石畳の上に着地したのだ。赤外套をフードまで被り、眠い目をこすりあくびを噛み殺している。
フランツィスカが思わぬ場所から登場した事により、軒下にいた重装備の団員たちが驚いて転倒してしまう。
「……おい、団長さんよ。あれ転んだらひとりで起きられるのか?」
フランツィスカが細めた視線を向ける先には、転倒した団員が必死に起き上がろうとして手足をばたつかせている姿がある。これはダメかと呆れの混じった視線のなか、ヘルムート団長だけは得意そうにその様子を見守っていた。少しの間も置かず、自分たちはその視線の意味を知る事となる。転倒した団員は、籠手や具足の突起を上手く利用して地面から身を浮かすと、反動を付けながら見事に立ち上がったのだ。
「ハンナ嬢ちゃんが言ってた鎧を着て動く訓練ってのを、俺らはちゃあんと積んでるわけだ。どうだいアンジー嬢ちゃん。見直したかい?」
「実戦でびびって驚いて転んでくれるなよ? 起き上がる暇がないかもしれねえからな」
フランツィスカの嫌味な言葉に、ちげえねえと豪快に笑うヘルムート団長。彼は着心地を確認した甲冑を団員に指示して一度脱ぎ去る。自分と伐採班数名、そしてアンジーがここに来たので、これから黒斧団の宿舎内に移動するのだ。マルグリットはすでに黒斧団の宿舎内で品定めに入っているだろう。
「あの、これから何をするのでしょうか?」
伐採班のハンナが挙手して発言する。別の仕事を頼むとは言ったが、具体的に何をするのか告げていなかったので不安は部分はあっただろう。
「みなに頼む事になる、追加の仕事に必要なものさ」
そう告げるが、伐採班のハンナの怪訝な表情は解けない。自分はすぐにわかると告げて、先に黒斧団の宿舎の扉を潜る。
……はて。それにしても自分はこんな回りくどい事を言って、他の者を困らせたりするような性格だっただろうか。この伐採班のハンナが誰かに似ているのだと思い当たり、いつもハインリヒ隊長にからかわれている自分に似ているのだと合点がいった。瞬間、あまりの恥ずかしさに、頭を抱えてうずくまりたくなった。漠然と、なんとなく、本当に少しだけなのだが、彼がどういった心境で自分にあんな風に接していたのか、理解してしまったのだ。
◇
「あら、みなさん。お先しております」
振り向いたマルグリットが目を細めて笑顔を向けてくる。彼女の左右の手には、刃渡り二十センチを超えるナイフ、もう半剣といっても過言ではないサイズの武器が握られていた。マルグリットは手慣れた動きでナイフを手の中で回して感触を確かめると、鞘に戻してテーブルに置いた。
黒斧団の宿舎ホールには食堂から運び出されたのであろうテーブルが設置され、その上には黒斧団が所有する様々な武器が所狭しと並べられていた。テーブルに置かれているのは比較的小ぶりで取り回しの良いもので、長柄の得物などはテーブルわきの籠に幾本も差してあった。伐採班の四人を呼んだ目的のものは、その籠の横に用意されていた。一メートル弱の細長い木箱が五つ、団員たちがテーブルの上の武器類を押しのけて、その木箱のひとつをテーブルに載せる。
「今じゃ法律で、軍属と一部のお貴族様しか銃を持つのは許されてないからな。ハンナ嬢ちゃんが目を瞑ってくれていて助かったぜ?」
ヘルムート団長が木箱をテコを使ってこじ開ける。中に入っていたのは緩衝材として敷き詰められたおが屑と、油紙に包まれた細長いシルエット。油紙の隙間から除くのは、金属と木とが放つ艶やかな光沢だ。
「ライフル、しかもボルトアクション式ですか?」
伐採班の隊員たちが木箱を覗き込む中、班長が唸るように声を上げた。木箱の中身は軍では正式採用されていないライフルだ。ボルトを操作して弾丸を薬室に送るボルトアクション式は、レバーアクション式に比べて、わずかだか装弾に時間がかかる。命中精度こそボルトアクション式の方が優れているものの、黒森にて俊敏な人狼に狙いを定める事は困難だ。それゆえに、最前線には速射性に優れるレバーアクション式ばかり配備されるのだ。まあ、こちらのライフルとて、人狼を前にしてはただの気休めでしかない。
だが、交戦環境が黒森近辺ではなく市街戦、このハンブルク城を舞台にするとなれば、話は違ってくる。人狼の足を、動きを止めるための仕掛けを行えるのであれば、ライフルによる狙撃が有効打となりうるからだ。
「弾数が少ないため、試射に割けるのはひとり三発までだ。みなにはこのライフルで直接人狼を狙ってもらう事になる。ちなみに、使った事のある者は?」
自分が伐採班員たちを見ると、班長の手が挙がった。他の伐採班員やヘルムート団長もその事を知らなかったようで、みな驚いた表情で班長を見る。当の班長はといえば、何やら重苦しい表情でライフルを取り上げると、ベルトを体に掛けるのではなく腕に巻きつけるようにして固定すると、ボルトを操作して装填の動作を行い、構える。淀みない滑らかな操作は、彼がこのタイプのライフルを実際に使った事のあるという話に説得力を持たせていた。
「……都市区の本隊に所属していた時期がありまして、その時に」
班長の表情は晴れない。このライフルに何か嫌な思い出があるのだろうか。もしかすると、彼が名前を呼ばれず「班長」という肩書だけで呼ばれている事にも関係があるのかもしれない。そもそも、都市区の本隊に所属していたという班長が、軍の正式採用品ではないライフルを用いていた事が疑問の種だが、今は追及を控えよう。
「しかし、いいんですか? 副隊長。こんな事本隊に知れたら……」
「確かに、班長の言う事はもっともだ。だが監査が入るのは年に一度あるかどうかだ。それに、もし咎められたとしても、自分かリーゼロッテが個人的に買い取ったという形にするつもりだったさ」
「なるほど。貴族の個人所有は証明書さえあれば、咎められる事はありませんからね」
納得して頷く班長の横、伐採班の若いふたりは目を細めてこちらを見てくる。湿った視線の意味は理解している。伐採班のみなが自分に抱くイメージは、口を開けば規律規則とうるさく、ルールからはみ出す事を許さないというものだったのだろう。そんな自分が率先して違法な手段を取るとなれば、幻滅もされようものだ。……しかし、フランツィスカ、お前まで並んで同じような目で見るのは、やめろ。わざとか?
「……言い逃れはしない。違法は違法だからな。指摘され罰せられるなら甘んじて受けよう。だが、今は生き残る事が先決だし、そのために必要になるという事を理解してほしい」
「だってよ。副隊長を許してやってくれよ?」
悪乗りしたフランツィスカは意地悪げな笑みを浮かべ、伐採班のハンナとハンスの肩を組んでそんな事を言っている。フランツィスカの方が頭ひとつ分ふたりよりも背が低いため、己の重量でふたりを引っ張る形となっているのが苦笑してしまうところだ。まあ、ハンナとハンスも本気で憤慨しているというわけではないのが救いだろうか。
「伐採班各四名は、ライフルの基本動作の確認と試射を行ってくれ。班長、三名の指導を」
「了解した」
そうして伐採班員たちがライフルの動作確認に入ると、フランツィスカが寄ってきて眠そうな目でテーブルの上を覗き込んだ。
「そんな事よりよ。頼んでたものはできてんのか?」
あくびを噛み殺したフランツィスカが気だるげな様子でそんな事を言う。たった今、若い班員とともに非難の視線を浴びせてきたり、意地悪げな挑発をしてきたくせに。変わり身の早い事だ。
フランツィスカの欲していたものは、団員が宿舎奥の倉庫から持ってきた。小さな木箱、その中身は、一見するとトマホークの柄のようなものだった。片手で握りこめる程の大きさで、材質は黒い樹製で緩衝用の塗料を塗りこんだもの。その数はひとつだけでなく、箱に同じような品が幾つか入っていた。
「お、これこれ。いっただき」
フランツイスカはそう言うと、見ている者たちが怪訝な顔をするより早く、その品を犬が骨をくわえるかの如く歯で噛みしめた。ぎょっとする視線の中に、徐々に理解の色が広がってゆく。フランツィスカがくわえたものが轡であるとわかったからだ。
しかし、なぜ。理解が新たな疑問に変わるのを見て、自分はため息交じりにみなに説明を行う。
「この狂犬は以前に、人狼との交戦時に歯を噛みしめすぎて、自分の奥歯をかみ砕いているんだ。それ以来、トマホークの柄を轡代わりにしたり、全力を出さないよう力を抑えて活動していたりと、いろいろ工夫していたわけだ」
「……歯の治療なんか、二度とごめんだからな」
轡をくわえながら器用にしゃべるフランツィスカの表情は沈痛なものだ。確かに、この狂犬とはハンブルク城に来てから一年そこそこの仲だが、目に涙を溜めてべそをかいている姿を見たのは、後にも先にも歯の治療をしていた短い期間だけだった。
「一個だとすぐかみ砕いちまうからな。予備は多い方がいい」
轡を腰のポーチにしまったフランツィスカはマルグリットとともに武器の品定めに入る。とはいえ、この狂犬の場合はハチェットと自前の爪以外の凶器は用いないので、自然と見る品が決まってくる。
問題はマルグリットの方だ。普段刀を用いる彼女は、テーブルに並べられた武器類をひとつひとつ吟味して、たまに手を休めて黙考という動きを繰り返していた。
「マルグリット。得物は定まらないか?」
「いいえ? 主に用いるものはもう決めておりますよ。そのひとつが、これです」
自分の問いにマルグリットは笑顔で返し、テーブル横の籠に差してあった戦斧を上に引き抜いた。黒斧団たちが持っていた戦斧より柄がさらに長く、彼女の身の丈程の長さを持つ。片方の面は斧、反対側の面はピック状になっているのは、団員たちの装備と同様だ。
「マルグリットお嬢ちゃん、重さや感触はいかがなもんかな?」
「はい。申し分ないと思います。重心も強度も。これならば、ざっと見積もって三時間、五十体というところでしょうか」
三時間、五十体。マルグリットが言っているのは、連続使用して戦斧本体が壊れるまでの時間、もしくは人狼を屠れる数だ。武器の扱いに関しては赤衣隊一の知識と技術を持つマルグリットは、戦い毎に武器を使い分けるという事ができる。普段は隠密行動からの不意打ちという確実な形で作戦に参加している彼女だが、多種多数にわたる武器を用いた持久戦も心得があるのだという。
「へえ? どんなもんだよ」
「そうですね……。こうでしょうか」
フランツィスカとマルグリットの何気ない会話が始まるのかと思いきや、次の瞬間には目に映る光景が変化していた。ふたりの立ち位置が宿舎のエントランス中央から数メートルも離れた玄関先に移動していて、背中を扉に張り付かせたフランツィスカの喉元に、マルグリットが手にする戦斧の刃が当てられていたのだ。彼女たちの動きはここにいるみなが目で追える程度の速さではあったと思うが、突然発生した辻風に部屋の埃が舞い上がり、ほとんどの者が目を瞑ってしまっていた。辻風はマルグリットが戦斧を振るう際に生じたもので、背筋の凍るような鋭い風切り音もみなの耳に届いていたはずだ。
マルグリットがその気になれば、今の一撃で人狼の頭など簡単に斬り裂いてしまうだろう。戦斧は破壊力と耐久性に関しては、彼女が普段から用いる刀に勝るものがある。ならばなぜ、あの戦斧のような武器を用いないのかと、以前マルグリットに聞いた事があった。返ってきた答えは相性が悪いというものだった。刀が鋭い一振りで結果を生むのに対して、戦斧は武器そのものが持つ重さに加えて、幾度か振り回して速度と遠心力とを攻撃に載せる必要がある。隠密行動を主とする彼女にとっては、取り回しにくく音と風とを生ずる長柄の得物は相性が悪いという判断だ。
「……扉がなけりゃ、今ので終わらなかったぜ?」
「そうかもしれませんね」
笑いながら武器の品定めに戻るふたり。頼もしい事に変わりはないのだが、あまりやりすぎるのもよくない。せっかく戦意高揚している伐採班や黒斧団のみなが、己の必要性を疑ってしまうではないか。本当に自分たちが戦う機会が巡ってくるのかと。まあ、彼らが戦う機会が減ればそれに越したことはないのだが……。
「それで? マルグリット。結局その戦斧を主として戦うのはわかったが、他はどうする。見たところ同じような戦斧は二本もないぞ?」
「その時は他の得物を用いて、戦い方を変えるだけの事です。……うん。決めました。団長さん? ここにある武器、全部頂いてもよろしいでしょうか?」
笑みを浮かべての言葉に、ヘルムート団長をはじめ、この場にいた者はみな押し黙ってしまった。ただひとり、フランツィスカだけが笑いを噛み殺している。
「いやあ、マルグリット嬢ちゃん。持っていってもらうのは構わないんだが、本当にこれ全部使えるのかい?」
「使える、とは……。使いこなせるのか、という事でしょうか? それとも、使い切る事が出来るかという?」
十中八九使いこなせるの方だと思うのだが、使い切るとはなんだ。こらえきれなくなったフランツィスカがテーブルを叩いて大爆笑するものだから、宿舎のホールは何とも言えぬ雰囲気になってしまった。
「すまない、マルグリット。できればどういう事か説明してほしい」
「あら。申し訳ございません。団長さんの質問に答えるのならば、その通りです。ここにある武器は一通り使ったことがありますから。使い切るというのは、ここにある武器をもっとも有効な状況で使い分ける、という意味です。もちろん、そちらの方も心得があります」
笑みを深くして言うマルグリットに、味方ながら底知れぬものを感じて背筋が寒くなる。もちろん、そんな彼女を頼もしく感じてはいるのだ。
マルグリットはこの場にいる誰よりも、ハンブルク城で過ごした時間が長い。彼女が赤衣隊として兵士登用され、このハンブルク城に配属される事になったのは八年前。配属当時、マルグリットは十歳だった。それまで訓練を受ける事も戦った事すらなかったマルグリットが、いかにして八年間を過ごしてきたのか。彼女はそれを語らない。語らないという事は、己の弱い部分を見せないという事だ。弱い部分が見えないと、その人は強いのだと錯覚して、無意識のうちに頼ってしまうのだ。
当人も頼られる事が好きだと言っていたから、わかっていてそうしているのだろう。それに、彼女は寄せられる期待にすべて応えてしまう。もはやハンブルク城においてそれは絶対の法則に等しい。マルグリットに頼めば何とかしてくれる。それを疑う者はもはやいないが、だからこそ不安が胸に渦巻く。人の期待を背負い、己の弱さを内に隠したまま戦う彼女が、いつか潰れてしまう時が来るかもしれない。それが今夜である可能性が、限りなく高いのだ。
「難しい事を考えているのでしょうか?」
その声に顔を上げると、目の前にマルグリットの顔があった。彼女の笑みはいつも通りで、こちらが抱いている不安をかき消してしまうように、隙がない。その笑みを、今日は不安に感じてしまう。ハンブルク城にて人狼相手に持久戦。マルグリットだって、そんな経験今までなかっただろう。こんな笑みを浮かべてはいるが、彼女だって不安なはずだ。
「いいや、そう難しい事ではないんだ。今回は知っての通り、持久戦になる。そこの狂犬ならいざ知らず、マルグリットの獣性は3度だ。一晩中戦うとなればどれだけ消耗するか計り知れない。だから、今回はちゃんと伐採班や黒斧団を頼ってくれ。本格的な治療ができる人員も限られているし、マルグリットが負傷すれば戦線が崩れかねない」
「あら。何を考えているのかと思えば……」
ふふと笑って、マルグリットは自分の耳に手を伸ばす。耳朶をくすぐるように撫でられて思わず身がすくんでしまう。いくら半人狼種であるとはいえ、親しい仲でなければ互いの獣の部分に触れさせたりはしない。もちろん、自分は赤衣隊のみなとは相当に仲が良いという自覚はあるが、マルグリットのこれは少し意味が違ってくる。
これはこちらの不安を取り除くための行為であり、同時に彼女に対する心配をはぐらかしてしまう行為でもある。わたしは大丈夫だから心配するな、そう言っているのだ。彼女がこうする以上、自分は引き下がるしかない。これ以上、彼女の強情な態度を崩す事ができないのだ。こうなってしまったマルグリットを追及するには、アグネスさんかクラリッサか、もしくは今ここにいないハインリヒ隊長に頼るしかない。
「今はわたしよりも心配するべき娘がいるでしょう? リゼのところへ行ってあげてください」
納得はしないが、ごもっともな意見だ。自分は各々作業や調整に戻るよう指示を出して、黒斧団の宿舎を後にする。大通りに出ると伐採班たちが案山子の組み上げを行っており、手の空いた人員は大量のワイヤーと土嚢とを荷車に載せて、迎撃区画へ運び始めているところだった。作業の進行状況は順調だ。ハンブルク城に現存する資材で出来得る事は、ほとんど着手出来ている。あとは、戦う者たちの精神をどう保つかだ。
◇
リーゼロッテの自室を訪れた時、彼女はそこにいなかった。まさかと思いハインリヒ隊長の自室の扉をそっと開けたところ、リーゼロッテはハインリヒ隊長のベッドの上で、シーツに包まって丸くなっていた。シーツの隙間からは彼女の両耳が覗き、それは力なく伏せられていた。
「……まったく、何をやっているんだか」
これではクラリッサと同じではないかと呆れ返るが、あんな話を聞いた後なら無理もないとも思ってしまう。そう、無理もない事だ。明け方の会議の場で、リーゼロッテはハインリヒ隊長の病を知ってしまったのだから。
ハインリヒ隊長が患っているという病の名は枯樹病。この病の名が世に現れる事となったのは三十年ほど前だ。当時軍の研究班にて開発された対黒森殲滅用薬剤、通称“枯樹剤”を試験的に黒森に散布するという実験が行われていた。開発期間や予算、薬剤の中に含有されている成分等、そのほとんどが機密とされ、現在に至るまで公開されていない。よって、枯樹剤という薬剤の実物が、液体であるか紛体であるすら定かではないのだ。
さて。問題の枯樹剤の効果だが、公開されている資料を見る限りでは、絶大過ぎる成果を発揮している。具体的にどれだけの量が散布されたかは定かではないが、試験区域となった南方第一区は現在、完全な砂漠地帯となっている。公的な記録によると、枯樹剤の散布から一週間足らずで黒森の木々はすべて枯れ果ててしまったのだという。
そうして絶大な効果を発揮した枯樹剤だが、この試験散布以降二度と用いられる事はなかった。多くの問題が浮上したからだ。まず、黒い樹が枯れ落ちた土壌は治水能力を失い、砂漠地帯となってしまっている。当然作物などは育たず、緑地として再生不可能な土地となってしまっているのだ。さらに、枯樹剤によって汚染された土壌は河を伝って人々の生活圏に溶け込み、そこに住まう人々の体をも蝕んだ。それが、枯樹病だ。
枯樹剤の影響は母体を通じて新生児に現れた。汚染区域で誕生した新生児のほとんどが、生まれながらにして免疫能力に欠陥を持っていたのだ。汚染区で誕生した新生児のほとんどは生後数か月もせずに合併症を引き起こして亡くなり、その期間を生き延びたほんの一握りの子供たちも十歳の誕生日を迎える事無くこの世を去っている。この病を患って生まれた子供は、大人になる事が出来ずに命を終える定めにあるのだ。
「……ではなぜ、枯樹病を患っているはずのハインリヒ隊長は、この歳まで生き延びていたのか」
独り言を呟いて、執務机の椅子に座る。そこにはハインリヒ隊長が手を付けていた書類が乱雑に置かれていて、その上から紙質の違う書類が新たに重ねられていた。今朝の会議の後、自分が保管していた機密資料をリーゼロッテに預けていたものだ。その中身は、枯樹病患者に対する投薬治療の記録。それも、正規の治療ではなく、軍が極秘裏に行った臨床試験の記録だ。このハンブルク城内においてこの資料の存在を知っているのは、自分とリーゼロッテ、ふたりだけだ。
機密資料の出所は、どういうわけか都市区本隊からだ。送られてきたのはハインリヒ隊長がここに着任する数か月程前で、その時はなぜこのような資料が送られてくるのかひどく訝しんだものだ。手違いかと思い、念を入れて本隊に問い合わせて見たのだが、今この時に至るまで返答はない。気味の悪さから、また手違いで見てしまった場合取り返しがつかないという事情から、今までこの資料を見るのを躊躇っていた。だが今朝の件でこの資料に思い当たり、そして開けてみればどうだ。狙い澄ましたかのようにハインリヒ隊長の事が書いてあったのだ。
この記録が正しければ、ハインリヒ隊長は国内に数名といない臨床試験の成功例だ。だが、いくら臨床試験の成功例とは言え、日常生活どころか軍隊の訓練をこなせるような体力を付けるには、並みならぬ努力を積んだに違いない。単純に治療の効果で強靭な肉体を手に入れたという考え方も出来るだろうが、自分はそうは考えない。いや、考えたくないだけかもしれない。きっと、彼の今が薬の力だけで手に入れたものだと思いたくないだけなのだろう。それほどには、自分はハインリヒ隊長という人物に入れ込んでいるのだ。
枯樹病という病がもたらす不幸は、子供の死に留まらない。この病は空気感染や接触感染する危険性はないものの、都市区では心無く無知な風評が今でも根強い。この病を患って生まれた子の一家は、その忌々しい病の名とともに忌み嫌われるようになるのだ。枯樹病にまつわる話は少なからず耳に入ってくるが、そのどれもが吐き気を催すような醜悪なものだ。ある家では生まれたばかりの赤子が枯樹病だとわかった途端、事故に見せかけて母子共々を亡き者にした。またある家では、親類縁者のほとんどから血族の縁を絶たれて孤立し、心を病んだ当主が屋敷に火をかけて自害した。話し出したらきりがない。
ハインリヒ隊長はご自身の家族の話をした事などほとんどない。それは単に、家族と接する機会がそもそもなかっただけなのだろう。病床に伏して生きて来た彼にとって、周囲の人間はかくも冷たかったはずだ。そんな彼にとって、アグネスさんやヘルムート団長のような人たちの存在が、どれだけ救いだったのだろうか。ご自身が枯樹病を患っているという事を自分たちに打ち明けられなかったのも道理だ。そう簡単に人に言えるようなものではない。
「……なにが、ご飯がおいしく食べられない。ですか」
かつてハインリヒ隊長が、笑いながら言っていた言葉を思い出す。冗談では済まない状況だったでしょうに。……資料には続きがある。ハインリヒ隊長は投薬治療の成功例ではあったが、その身に持って生まれた病が完治したわけではなかった。彼の体は投薬によって一時的に免疫力を高めているだけに過ぎないのだ。それが日に二回の服薬で補われていたのだが、昨日の夜と今日の朝と、もう二度も彼は薬を口にしていない。服薬を忘れた場合の症状がどのようなものかは知らないが、昔のハインリヒ隊長を知っているふたりの話を聞く限りでは、想像を絶するとしか言えない。
それに、資料には気になる部分も多くみられる。一番不可解だったのは「人狼との接触が必要不可欠である」という部分。この一文がハインリヒ隊長の病とどう関係あるのかはわからない。だが、彼がこの南方第七区に着任する事こそが、枯樹病に関する何らかの実験ではないのかと勘ぐってしまう。
「……着任の日、ハインリヒ隊長は黒森に置き去りにされていた。それも実験の一貫だったと?」
ならば、彼が人狼と接触する事でいったい何が起こるというのだ。現に彼は人狼に連れ去られてしまった。この状況が誰かが意図した実験に沿うものであるのならば、今頃その成果とやらが出ているのだろうか。そんな実験など、どうでもいい。今は自分たちが生き延びる事、そしてハインリヒ隊長を救い出すことが最優先だ。無用な詮索はそのあといくらでも行えばいい。
そこでふと、誰かの視線を感じた。この部屋には自分とリーゼロッテしかいない。視線の主は彼女だ。ハインリヒ隊長のベッドの方を見ると、リーゼロッテはシーツから耳だけ出してうずくまっていたものが、目元まであらわになっている。眉は下がり瞳に力はない。憔悴している者の目元だ。リーゼロッテはそのまま、もごもごと何事か話しかけてくる。
「……あの、ハンナ?」
「リゼ、もう起きて大丈夫なのか? 体調がすぐれないのなら、まだ寝ていた方が……」
「いえ、いいえ。あの、確かにわたくし体調はすぐれませんが、これはその、……半分はハインリヒ隊長の事ですの。でも、もう半分は、ハンナが思っているような事ではありませんの」
どういうことだろう。自分はてっきり、リーゼロッテはハインリヒ隊長の事で悩み苦しんでいたと思っていたが、半分は違ったのだという。とはいえ、リーゼロッテの顔色が悪いのは目にも明らかで、とても今夜の作戦に出れるような調子には見えないのだ。ふと、考えがよぎる。リーゼロッテの体調不良が精神的なものから来るのではなく、身体的なものから来ているのではないのだろうかと。リーゼロッテに関しては、思い当たる節があったのだ……。
「リゼ、リーゼロッテ。まさか」
シーツから顔をのぞかせたリーゼロッテは、吐き気を抑えるような青い顔で、たった一言吐き出すように告げた。
「生理ですの」
「何てことだ」
宿敵との決着を前に、あるいは大切な人を救いにいかんとする矢先に、狙い澄ましたかのような絶不調だ。再び耳だけ残してシーツの中に閉じこもってしまったリーゼロッテを、自分はシーツの上から力いっぱい抱きしめた。
◇
そうして準備の時間は過ぎてゆき、日も傾いて沈んでいく。どれだけ来るなと願っても、必ず夜はやってくる。自分は夜という時間をいつも忌避しているが、今日に限っては待ち遠しくもあった。自分たちの隊長の無事を早く確認したい。しかし、捜索隊となるクラリッサとリーゼロッテを送り出すには人狼に先制を許す必要がある。多くの人狼たちの関心をハンブルク城に引き付けておく必要があるのだ。逆に、人狼が一体もハンブルク城に入ってこなければこの案は破綻だ。確信はあるが自信はないという我ながら矛盾した思いを払拭する事は難しい。だから、不安に焦れた心を握りしめるように日没を待つ。
準備の方は、限られた時間で出来得るだけの事をほぼ完遂したと言ってよいはずだ。古城から続く大通りの両脇に建つ伐採班と黒斧団の宿舎周辺には、人狼の動きを阻害するためのワイヤーが張り巡らされている。宿舎がある区画への侵入を阻害して、大通りから外れた裏道に設定した迎撃区画へ誘導するためのものだ。迎撃区画には数十体の案山子が立てられ、土嚢と材木で構築された障害物が各所に設置されている。退路はワイヤーに守られ黒斧団の宿舎裏に続くようになっている。最終的な避難所は黒斧団の宿舎内だ。
伐採班と黒斧団の面々は、日没に備えて今は軽い休憩を取っている。今は各々、軽い食事を取ったり仮眠したりと、緊張を残しながらも体を休める事に専念しているところだ。
それらを一通り見まわると、赤衣隊の宿舎がある王城に戻る。赤衣隊の面々はすでに準備完了して、なぜか4人とも宿舎の屋根に身を置いていた。自分の帰りに気付いたクラリッサがこっちだとばかりに手を振るが、自分には宿舎二階の高さまで跳んでいけるだけの身体能力はない。そう考えていると、フランツィスカが屋根から飛び降りてきてこちらへ歩み寄ると、断り無しに自分を抱えて跳躍、屋根の上に着地した。
「みんな集まって、いったい何の儀式だ?」
「いいえ。特に何を、という事ではありませんの。ただ、みんなで夕日を見ているだけですのよ?」
だいぶ体調が好転したリーゼロッテが告げる。あの後マルグリットから薬を処方され、数時間死んだように眠り込んだ効果が出たようだ。この調子ならば捜索隊から外す必要はないだろう。
さて、肝心の夕日だが、強風に煽られて急速に流れてゆく雲間に見え隠れして、本来の鮮やかさを欠いてしまっている。この雲の流れの速さ、分厚さ、これは今晩雨になるどころか嵐が来るかもしれない。空に向かって鼻をひくつかせているクラリッサを呼ぶと、傾斜のある屋根の上だというのに絶妙なバランス感覚を発揮して自分の方まで歩いてくる。そして隣にちょこんと座ると、こちらの身体にぴたりとくっつき、綺麗な空色の瞳で覗き込むように見つめてくる。
「アリス。今晩の天気、どうなると思う?」
「雨がふりますのー。それと、風もとってもつよいですのー」
やはり嵐か。最悪のタイミングと考えるべきか、勝機が増したと考えるべきか。ざっと換算すると、こちらにとってマイナスな部分が大きい。懐に入り込み、鳩尾のあたりに頬を擦り付けてくるクラリッサの耳を撫でながら、嵐が来た場合の対応策を頭の中で組み上げていく。
「……ハンナ、どうにかなりそうでしょうか?」
マルグリットがこちらの心を読んだかのようにそう問うてくるのを、自分は耳をぴくりと一度動かして返事とする。肯定でも否定でもない、ただの問いに対する返事だ。どうにかならなくても、どうにかしなければならない。
「どうにかするとも。自分にはやらなければならない事が山ほどあるからな。みんなも、そうだろう?」
返事は耳で返ってきた。何故だ。まあいい。自分のやるべき事をやるだけだ。泣こうが喚こうが、明日の夜明けには結果は出てしまっているのだから。だから、夕日を見つめながら人狼の遠吠えを待つ。開戦の合図を……。




