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南方第七区赤衣隊隊長日誌  作者: アラック
“隻眼”の人狼
14/22

7話:人の体、人狼の腕

 緩やかに意識が覚醒する間、俺の脳裏には昔の出来事が再生されていた。俺の主治医を務めてくれている老医師との記憶だ。その老医師とは俺が物心つく頃からの付き合いで、軍に入隊して生家を離れても度々彼の下へ診療に訪れていた。南方第七区に着任してからは一度も彼の下に足を運んでいなかった事を今更ながらに思い出すのは、やはり己の寿命を宣告されてしまい、残された時間を精いっぱい使おうと躍起になっていたからだろうか。


 正直な話をすると、最初はその老医師の事が苦手だった。

 老医師は非常に大柄な人物だった。背中は曲がっていたが、それでも元の身長がわかる程に。手だって普通の人よりもずっと大きくて、いつも白い手袋をしていて。彼が白衣を翻すたびに、奇妙な薬品のものと思われる鼻を突くような芳香が立ち上った。何より特徴的だったのが、頭部をすっぽりと覆う鉄でできた仮面だった。

 まるで物語に登場する騎士の兜のような、あるいは罪人の戒めのようなその仮面は、どこか狼の頭を彷彿とさせる形状をしていた。だから幼い頃の俺は、老医師が人狼の類なのではないかと勘ぐっていた程だ。彼と会うのは決まって症状が悪化した時だという事もあり、当時の俺にとってこの老医師は、死を運んでくる担い手に見えていたのだ。


 そんな老医師と俺が仲良くなる切っ掛けとなった一件がある。その日は発作や痛みの症状が比較的軽めで、意識もいつもよりは明瞭だった。今まで霞がかかっていた頭でしか老医師の事を見ていなかったので、その日の彼はいつもより一層奇妙に映った。体調がさほど悪くなかったせいもあるのだろう、恐怖を押しのけて興味がわいてきたのだ。


「ねえ、先生。先生はどうしてお面を被っているの?」


 幼かった俺は、興味本位で老医師に問いかけた。その時の老医師の目に、俺はどのように映っただろう。いつも朦朧としていて死にかけだった俺が、恐怖よりも興味を持って彼を見ていた事を。


 ◇


 そして目覚めた。鉛のように重い覚醒だ。目を開けても映る景色がかすんで見える。まばたきすると、目じりにたまっていた涙が零れ落ちた。意識がはっきりとしてゆくのと引き換えに、見た夢の内容は徐々に零れ落ちてゆく。それでも、この涙は悪いものではないのだという確信があった。

 意識が途切れる前に何が起こっていただろうか。風の強い夜にリーゼロッテと話をしていたところを人狼に襲われ、俺は洞窟に連れてこられた。そしてリーゼロッテの兄と姉、ヨハンとアンネリーゼに出会ったのだ。


 夜、ヨハンが出て行った方からは光が差し込んできている。朝日だ。それも、早朝のものではなく、昼に差し掛かったあたりの光だろう。


「アンネリーゼ、無事かい?」


 果たして応えは返るだろうか。そう考えながら身を起こそうとするが、体の各所に走る鈍い痛みで起き上がる事が出来ない。いや、痛みがあるだけ、まだましかもしれない。左肩から先の感覚が、今は完全に失せてしまっている。二度の上腕骨折に加えて、人狼の鋭い顎で肩を噛み砕かれているのだ。本来なら耐え難い激痛を感じるはずなのだが、それが一向にやって来ない。

 もしや壊死してしまったのだろうか。確かめるべく首を傾け、右手を左半身の方へと伸ばす。すると、手が繊維のようなものに触れた。かすんだ目に移りこむのは金の色。そして、見覚えのない少女の寝顔だった。


 俺の左半身に寄り添うようにして、見知らぬ少女が静かな寝息を立てていた。手が触れた繊維の正体は彼女の金色の毛髪で、その長さは小柄な彼女の全身を覆わんばかりの長さを持つ。頭部には一対の狼の耳を持ち、腰のあたりには尾のような部分がのぞいている。全身を丸めて胎児のような姿勢で眠る姿は金色の繭のようにも見える。

 そして、今更ながら思い出すのは、この嗅覚を駄目にしてしまうような甘い芳香だろう。高い獣性を持つ半人狼の少女が纏う香り。人間よりも人狼に近い存在、もしくは人狼そのものである証だ。この香りを持つ存在を、俺はふたり知っている。ひとりは赤衣隊の“狂犬”フランツィスカ。もうひとりは、人狼と化したリーゼロッテの姉、アンネリーゼだ。


「キミは、アンネリーゼなのかい?」


 眠る少女に問いかける。起こすつもりはない、ただの自問だ。この少女がアンネリーゼという確信はすでに得ている。彼女の右まぶたには大きな傷跡がある。“隻眼”の仕業と思われる傷跡が、人狼姿のアンネリーゼのものとほぼ同じ個所にあるのだ。顔立ちが幼すぎるためか、その傷跡が一層痛々しく見える。

 聞いていた年齢はリーゼロッテよりもひとつ上という事だったが、俺の目には彼女がまだ14歳にも満たなように見える。ふと、年齢と外見とのずれがクラリッサにもあったなと思い出し、だからどうしたと、嫌な考えを振り払う。


 アンネリーゼの身に起こった変化を思い出す。己の獣性に抗わんとする彼女は、俺の命を奪おうとして襲いかかってきた。それは彼女自ら命を絶つための行いだったのかもしれないが、結果的には俺も彼女も命を繋ぎ止める事が出来たようだ。

 だが、彼女は人狼から人の姿に戻った。その原因は、昨晩の様子を思い出す限りにおいて、俺の血肉を食んだからだろう。俺の血肉にそんな力があるなどとは聞いた事がないが、それを言うのなら人狼化した半人狼が元の姿に戻った事例の方も聞いた事がない。


「いや。聞いた事がないだけ、かもしれないね……」


 ヨハンが語った話を思い出す。彼らの生い立ちやハーゲンベックの檻の存在、そして実際に人狼化した彼らのこれまでの生き様。俺にとってはどれも初めて耳にする事実ばかりで、訓練時代に身に着けた知識が塗り替えられてしまった。俺や他のみんなの知らないところで、これまで何の変哲もなく繰り返されてきた事など星の数ほどあるのだろう。

 俺自身、ある特殊な病を患っている。その体質がこのような結果を生み出したとしても、もはや不思議には思えない。ある種の必然だったのではないかと勘ぐってしまう程だ。


「しかし、だとすれば。……これは相当に不可解な事だよ」


 人の姿を取り戻した少女、アンネリーゼが寄り添っていた俺の左半身。俺の左肩から先もまた、変貌を遂げていた。肩の傷や骨折が完治している事は、もはや確かめずとも理解できた。腕の太さは一回りも大きくなり、体毛と同じ灰色の毛並みに覆われている。手は元の倍ほども大きくなり、鋭い爪を指先にのぞかせ攻撃的な光を湛えている。その爪は角質というよりは金属に近しく思えて、鈍い銀色の輝きは背筋を凍らせるような冷たさを感じさせた。


 俺の左肩から先は、人狼のものと思われる肉体に変貌を遂げていたのだ。


 ◇


 それからしばらくして、アンネリーゼが目を覚ました。気だるげに小さく呻いた彼女は、すんすんと鼻を鳴らして、嗅覚から得られる情報で自分の周囲を把握しようとしている。そして訝しげに眉を寄せて薄く瞼を開けた。彼女が最初に目にしたのは、自分の顔にかかる膨大な量の髪の毛だろう。表情はいぶかしげなまま、おそらく「これはなんだろう……?」とでも言いたげに、両の手指ですくように髪の毛をかき分ける。

 アンネリーゼの表情の中に、徐々に驚きが生まれてゆく。自分の手指を見て、それが人間のものに戻っている事を確認するように手指を握り、開き、そして開いた掌で自らの顔を覆う。掌で、指で、顔の輪郭を確かめるように触れてゆき、それは首を伝って体を全体を確認するする動きに変わる。やがてゆっくりと身を起こして膝立ちとなり、自分の全身をしげしげと見つめる。かつての体を取り戻した事を確信すると、両腕で全身を抱くようにして、左目いっぱいに涙を湛えてもう一度鼻を鳴らした。


「体の方は大丈夫かい、アンネリーゼ?」


 少し離れた場所から俺が声をかけると、彼女は耳どころか全身をぴんと硬直させて、素早い動きで岩陰に隠れてしまった。そしてすぐに何かが倒れる音と「わきゃ」と小さく鳴くような悲鳴が上がった。見た目こそ半人狼の少女の姿に戻ってはいるが、その身体能力はいまだ人狼に匹敵するのだろう。フランツィスカのように爪を出し入れできる程かは定かではないが、高い獣性を秘めていると見てまず間違いないだろう。


「すまない。驚かせるつもりはなかったんだ」


 俺は手元の作業を続けながら彼女に声をかけ続ける。人狼の姿の時、彼女は人の言葉を発する事はなかった。それは、あえて言葉を発しなかったのか、それとも言葉を話す事が出来ないような体になっていたのかが定かではない。ヨハンの例を見る限り、人狼の姿でも人の言葉を話す事は出来るようだが、アンネリーゼもそうだったという保証はどこにもない。そうでなくとも、黒森の中の孤独な生活では、話す相手などいなくて言葉など忘れてしまっているかもしれない。


「……体は、どこも痛くないわ」


 はっきりとした滑舌の言葉が返ってきて、意外に思い顔を上げた。岩陰から顔をのぞかせるアンネリーゼは、やや強張った表情で俺の方を窺っている。しきりに鼻を鳴らすのは、クラリッサのように嗅覚から俺の情報を得ようとしているのだろう。


「お薬の匂い。枯れてゆく木々の匂い、死の匂い。たくさんの人の匂い。女の子の匂いもたくさん。妹の、リーゼロッテの匂いも。……あの娘、あなたが好きなのね?」


 俺から自分の妹の存在を感じ取ったようで、見る見るうちに顔がほころんで赤みを増してゆく。なるほど。クラリッサもこうして、その人の周辺情報を嗅ぎ取っているのだろう。本人だけでなく、その人の人間関係までも嗅ぎ取る嗅覚というわけだ。


「……人と人狼の交じり合った匂い。半人狼の匂い。……銀の匂い。恐ろしい銀の匂い」


 せっかくほころんだ彼女の表情が、再び強張ってゆく。半人狼の匂いと、銀の匂いか。確かに、俺はそのどちらも持っている。拳銃には銀の弾丸が三発装填されているし、どういうわけかは知らないが、俺の左腕は今、人狼のものと化している。いや、つくりが人間のものに近しいから、正確には半人狼が人狼化した腕というべきかもしれない。


「本当に、どういう事だろうね? キミが人の姿に戻って、俺は左腕が人狼になってしまって。おかげで、ちょっと手元がおぼつかないよ」


 アンネリーゼの視線が俺の手元に注がれる。彼女の目には、俺が片手で繕いものをしているように見えるだろう。確かに、見たままの通りだ。人狼のものとなってしまった手では、裁縫する事が非常に難しく、自分の利き手が右手でよかったと心底思う。修繕道具を普段から持ち歩いていた事にも感謝だ。


「そのおかげで、こうしてキミの背丈に合うようコートを縫い直す事が出来たよ。急ごしらえで申し訳ないけれど、その恰好では風を引いてしまう」


 務めて彼女の方を見ないように告げる。視界の端に映るアンネリーゼは今更ながら慌てだして、自分の髪の毛を体に纏うように巻きつけている。今までは毛皮が彼女の体を保護していたが、これからはそうはいかない。やはり人間には衣服が必要だ。


「……あなたは、何者なの?」


 小声での問いかけ。訝しむ彼女に俺が返せる言葉は、そう多くはない。


「ハインリヒだよ。南方第七区赤衣隊の隊長を務めている。でも隊長なんて名ばかりの、ただの病弱な縫い物好きさ」


 ◇


「おいひい……。ひょこれーほ、あまひよう……」


 口の中のチョコレートをゆっくりとかみしめながら、アンネリーゼは瞳に涙をためて呟く。その様子に、俺は南方第七区に着任したばかりの頃を思い出していた。あの時も赤衣隊の少女たちにチョコレートを振る舞ったが、目の前の少女の感涙はその時の比ではない。


「手持ちがあってよかったよ。やはり軍支給の甘みを抑えたものでも、キミたち半人狼にとってはとても甘く感じるんだね?」

「これで、抑えてあるの……!?」


 支給品の携行食はすぐに食べてしまわないようにと、どれも味を抑えたつくりになっている。チョコレートも同様で、少なくとも俺の舌にはかすかに甘みを感じる程度なのだ。

 しかし、彼女は十年もの間、人の手による甘味を口にしていなかったのだ。以前チョコレートを食べた事があるのなら、この再会はなおさら感動的なはずだ。


「もう二度と、食べられないと思ってた……」


 涙ぐんで言うアンネリーゼの表情に、胸が締め付けられる思いがする。幼くして人狼の姿になり、人間の文化圏から去らざるを得なかった彼女だ。多くの事をあきらめ、悲嘆にくれただろう。


「まだあるよ。ゆっくりお食べ」

「あ、ありがとう……」


 缶のふたを開けてチョコレートをひと欠けつまんで差し出すと、アンネリーゼは一瞬受け取ろうと両手を伸ばしたのだが、すぐにそれを引っ込めてしまった。力加減を間違えて、せっかくの甘味を握りつぶしてしまわないようにだろう。


「指先の感覚は、まだ戻らないのかい?」

「いいえ。動かす事は出来るし、ちゃんと感触もわかるのだけれど、ものをつまんだりするのはまだ無理みたい。力の入れ方がまだ思い出せないから、掴んだら握り潰してしまいそう」


 長らく人狼の体で過ごしていたアンネリーゼは、再び人の姿に戻った事で少しばかり難儀していた。人狼の体の感覚に慣れてしまったせいか、人の体の感覚がなかなか取り戻せないでいる。特に指先等の繊細な部分は致命的で、ものを「つまむ」という動きがほとんどできていない。かろうじで「掴む」事ならできるのだが、加える力が強すぎて手の中のものの形を失わせてしまう。そのせいで先ほどはチョコレートを握りつぶしてしまい、悲嘆と感嘆との両方の涙を流しながら手の中の甘みを舐めとっていた。


 変異した体の感覚がつかめないのは俺の方も同じだ。人狼のものに変化した左腕は、動かす事こそできるのだが、やはり指先などの部分などは人間のようにはいかない。それどころか、皮膚が毛皮のようなものに変化してしまったせいか、左腕全体の触覚が鈍くなっている気がするのだ。例えるならば、薄手の長手袋を何重にも重ねて着けているような感覚だろうか。

 それに、触覚だけならばまだ良かったのだが、左腕だけが変異したせいで体のバランスが完全に崩れてしまっていた。立ち上がっても重量のある左腕の方に重心が傾いてしまい、歩く事すらおぼつかない始末だ。こんな状態では走る事はおろか、とっさに回避運動を取る事すら危ういだろう。


 それでもと、鈍い銀色に輝く爪を持った左手を、握り、開く。俺の意思で動く、俺の手だ。自分の体が自由にならないわけではない。ならばそれは、大した事ではないと考えてしまう。体の一部が人のものではなくなってしまったというのに、この左腕が自分の死を呼ぶものではないと直感しているからだろうか。変異が始まった瞬間は、あんなに恐怖を覚えたというのに。今は呑気なもので、このままハンブルク城に帰っても、案外みんなあっさりと受け入れてくれそうな気すらするのだ。……さすがにそれは、都合がよすぎるかな。


「あ、あの……」


 アンネリーゼの声で、彼女をほったらかしにしていた事を思い出す。俺がチョコレートを差し出す動きで止まったため、彼女もそれを受け入れる姿勢、顔をわずかに上げて口を差し出す姿勢で停止していたのだ。

 ごめんねと告げて、すぐに彼女の口元へとチョコレートを運ぶ。まるで大人が子供にするような行為に顔を赤くするアンネリーゼは、照れを振り払うかのように勢いよくチョコレートに食みつく。指まで食べられてしまうのではと少しひやりとするが、彼女の頬を押さえての笑みに暖かい気持ちになる。


 頬に手を当てる仕草で、彼女の頬をコートの袖が覆う。袖のボタン等は邪魔にならないよう取ってしまっているので、こういった動きで顔を傷つけてしまう事はない。妹のリーゼロッテが良く頬に手を当てる仕草をしていたからもしかしてと思ったが、どうやらこれはアンネリーゼの癖でもあったようだ。

 アンネリーゼは最初こそ警戒していたものの、仕立て直したコートを着てくれた。長い間衣服を纏わない生活をしてきたせいか、肩周りなど動きづらそうにしていたが、だんだん昔の感覚を取り戻してきたようで、今では貴族の子女そのものの居住まいを見せる。

 出来れば下着や靴もと思ったが、さすがに材料が足りない。せめて靴でも履かせておかなければと、俺が自分の軍靴の紐をほどく手を、アンネリーゼは止めた。


「ハインリヒがわたしに合う靴を仕立ててくれるのは疑っていないの。本当よ? けど、靴なんてもう十年も履いていないもの、きっと身軽に動けないわ。……今から兄様の命を奪いに行くには、このままで充分なの。あなたが仕立ててくれた、この服だけで充分」


 彼女の眼には決意があった。死を賭してでも果たそうという使命感がある。


「残念ながら、その使命はキミだけのものではないよ」

「知っているわ。リーゼロッテもそのために生きて来たのだもの」

「そうだね。そして、これからも生きてゆくために……」


 これからも生きてゆくために。その言葉にアンネリーゼの体が強張る。彼女は“隻眼”と相打って死ぬ気でいたのだろう。もし“隻眼”を倒す事が出来ても、人の姿に戻れるわけではない。そう考えて、自分の家族と死を共にしようとしていたのだ。

 だが、彼女は人の姿に戻る事が出来た。それが、死への決意を鈍らせているだろうか。ならば、その方がいい。もう一度人として生きてゆく事が出来るのだと、希望を持ってほしい。リーゼロッテのためにも、アンネリーゼ自身のためにも。


 “隻眼”を倒してこれからも生きてゆく。その事に思いを馳せてか、アンネリーゼの表情は次第に曇ってゆく。未来を想像しなかったはずはない。そして、もう未来をあきらめなくても良い姿になったはずだ。それでも不安を抱くのは、だからこそだろう。人の姿に戻ってしまったから。


「……また、人狼の姿になってしまうかもしれない」


 ぽつりと零した言葉は、反響する事無く洞窟の岩肌に吸い込まれていった。


「それに、人の中で生きる事が怖い。元々、あまり人と関わるのが得意じゃなかったもの。わたしはずっと部屋で本ばかり読んでいて、明るい妹とは違ったから。……地下牢につながれているのが兄様ではなく、わたしならと幾度も考えた。外に出るのが怖かったから」


 体を抱くようにして震えるアンネリーゼに、俺がかけてやれる言葉はあるだろうか。


「どれだけ辛くて怖くても、痛くても。俺は生きていた方がいいと思うよ」

「それは、あなたが……?」

「そうだね。……生まれた時から病と死とが隣にいて、毎晩眠るのが怖くて仕方がなかった。意識を失ったら、もう二度と目覚める事がないかもしれないって、そう考えてしまってね」


 やがて痛みや恐怖に慣れてしまって、迫りくる死を受け入れてしまっていて。ならば、それまで悔いのないように生きようと考えて。必死にやって来たけれど、やっぱりそれは違ったのだろう。死を受け入れては、駄目なのだ。


「俺は病や死を受け入れて、あきらめてしまっていたけれど、今は違うよ。俺を好きかもしれないと言ってくれる人がいるんだ。その人のためにも、俺自身のためにも、こんなところで死ぬわけにはいかない。病と死に抗って生き続けたいと、今は思うよ」


 リーゼロッテの事ね。アンネリーゼが呟くように言って、顔を俯かせてしまう。


「わたしには、そんな人いないもの……」


 膝を付いて座る彼女の元に俺は跪き、右手を伸べる。左半身の重量が変わってしまっていて歩く事すら難儀するが、こうして膝を付いてしまえば左腕が重しとなってバランスを取ってくれる。

 アンネリーゼは差し出された手の意味を量りかねて、怪訝な表情のまま上目使いに俺を見る。その手を取る事で何かが変わってしまうと思っているのかもしれない。


「この手を取ったとしても、何かが変わるわけではないと思う。けれど、キミ自身が変わるきっかけには、できると思うんだ」


 今まで手を差し伸べてもらうばかりで、誰かを救う事などできないと思い込んでいた。俺の周りには素晴らしい人がたくさんいて、俺はそんな人たちの足元に及ばなくて、何ひとつ満足にできないでいたから。自分には誰かを救う力はないと、そう思い込んでいた。

 その通りだ。俺に誰かを救う力などない。けれど、誰かが救われようとして、自分を変えようとしているなら。そのきっかけをつくる事くらいは、俺にもできるのではないだろうか。


「物語の、王子様のつもり……?」


 そう問うアンネリーゼの表情は、どう表現していいかわからない。嘲りとも照れとも取れる、俺にはわからない顔だ。そういえば、リーゼロッテにも王子様なんて言われたね。どちらかといえば、俺は王子様に仕える召使の方が役割としてはあっている気がするよ。こんな事を言うと、確実にハンナが怒るだろうけれど。


「そんな、大層なものではないよ。せいぜい召使、ただのしがない仕立て屋さ」

「ずいぶんと腰が低い王子様ね。そんな事ではお姫様を幸せにはできないわ」

「努力するよ。お姫様が幸せを掴み取ってくれるように」


 アンネリーゼに笑みが戻る。呆れの混じった笑みだ。


「わたしがこの姿に戻れたのは、王子様にキスしたせいかしら」

「そうだとすれば、ずいぶんと熱烈なキスだったね。たくさんの血と、あと肩の肉をだいぶ持って行かれた気がするよ」


 ごめんなさいと俯いてしまうアンネリーゼが再び顔を上げるのを、右手を差し出したままの姿勢で待つ。上目遣いでその手を見つめていたアンネリーゼは、躊躇いながらも手を伸ばし始める。


「……子供の頃から、物語の世界に憧れていたわ。でも、恐れてもいたの。すべての物語に幸せな結末が約束されているわけではないから。悲劇を見るのがたまらなく怖かった。やがて、わたしたちの身にも降りかかると予感していたからかもしれない」


 伸ばした手は、指先に触れる寸前で止まる。


「だから、すべての物語の結末を幸せなものに書き換えてしまいたいと、ずっとそう思っていたわ。自分の頭の中ではそうしていたし」

「本当に、物語が好きだったんだね」

「幸せな結末を迎える物語がね。今でも、好きなお話は本を見なくても語り聞かせる事ができるの。暗い黒森の中にいる間は、ずっとひとりで、誰に語るでもなく、お話を語り聞かせて来たから……」


 差し出した指に、彼女の指先が載せられる。


「でも、どれだけ悲しい結末を書き換えても、それはわたしの想像の中だけの物語だから……」


 触れる箇所は指同士から掌同士に。そして、かすかな力を込めて握られる。


「この現状を受け入れないとね。悲劇に酔って死を選ぶのではなく、悲劇を踏み越えて幸せを掴み取らないと」

「キミならできるよ。強いから」


 アンネリーゼの手を取って立ち上がる。だが、やはり体の重心が狂ったままで足元がおぼつかない。慌てた彼女に体を支えられてしまう始末だ。互いにほっと息を吐いて、彼女の方は呆れの混じった笑みで俺を見つめてくる。


「頼りない王子様」

「最近は、お姫様の方が強い物語が好まれるらしいよ?」

「わ、わたしは、強くなんてないわ。それに、お姫様でも……」

「強いとも。自らの獣性にずっと抗い続けてきたんだ。そんなキミが弱いはずないよ」


 その言葉を告げた後、しばらく無言の間が生まれた。ああ、これはしまったなと気付いた時にはもう遅くて、彼女の手指からは体温が引いてゆき、代わりに顔と表情が熱を持ち始める。そうしてアンネリーゼは、血の気の失せて冷えてしまった両手を、熱を持った頬に当てる。瞳には大粒の涙を湛えて、表情は今にも泣き出してしまいそう。そんなところも妹のリーゼロッテそっくりだ。


「わ、忘れてしまいたいのに! そんな、そんな事……!」

「落ち着いてアンネリーゼ。今は大丈夫だろう? ほら、男が目の前にいるのに、キミはなんともない」

「確かにそうだけど……。でも、いつまたそうなるかわからないし……。それに、わたしはあなたを……」


 殺そうとした。もしまた獣性に抗おうとすれば、同じような事をしてしまうと考えているのか。恥じらいしかなかった表情に陰りが生まれていく。再び手を差し伸べるも、今度は手を取ってくれそうにない。


「ハインリヒは大丈夫だったけれど。でも、わたしは人狼を何体も……」

「……命を奪った事を、悔いているんだね」


 自分の獣性に抗おうとして、しかしその手段は人狼の息の根を止めるというものだった。人類の敵だとはいえ、自分の都合でその命を奪ってしまった事を、彼女は深く悔いている。


「ならば、奪った命に報いるためにも、生きなくてはね」


 俺はふら付く体で立ち上がり、左腕をゆっくり持ち上げると、左手で右肩を掴むような形で固定する。左腕が体の重心を崩すなら、重心が取れるような位置に持ってこればいい。現状はこの形が無理なく体のバランスを保つ事ができる。

 立ち上がった俺を怪訝そうな目で見るアンネリーゼに、今度は手を伸ばす事はしない。


「どこへゆくの?」

「みんなのところへ帰るのさ。ハンブルク城にね」

「無茶よ! まだ体の自由がまだ利いていないのに!」

「大丈夫だよ。こうして腕を持ち上げてみて、いくつかわかった事がある」


 ひとつは、重心を保つために最適な姿勢を見つけた事。もうひとつは、肥大化した腕がもたらした最大の弊害だ。ヨハンやアンネリーゼのように全身が人狼化したのならば、体の各所もそれに見合ったサイズになるはずだ。そうやって体の重心を整えるだろうし、人狼化した体を機能させるために内臓の類もそれに見合ったものに変化するだろう。


 だが、俺に起きた変化は左肩から先のみだ。その変化が引き起こした現象を端的に言ってしまうと、貧血だ。体積が増えた分、血液もまた増加してはいるのだろうが、その血液を体中に循環させる心臓は、どうやら元の大きさのままらしい。血液の量が増えたとしても、この変化した左腕の分を補うには、元の心臓は少しばかり小さいようだ。

 覚醒当初は感覚が薄れていた左腕だが、今はだいぶ感触等がはっきり分かるようになってきている。同時に左腕に滞り気味だった血液が一気に循環をはじめ、だんだん頭がくらくらしてくる。


 この体でこれからどう動けばいいだろうか。まずは、心臓の動きを活発にする事だろう。動き回る事で血液の循環を早める。体が完全に慣れるまで何もせずに安静にしているという考えは、俺にはない。この身が無事であると、早くみんなに知らせなければ……。みんなに無茶な動きをさせてしまうかもしれない。


「駄目、駄目よ。そんな状態のあなたをここから出すわけにはいかないわ。まだ満足に歩けもしないのに……。今外に出たら人狼に襲われてしまう!」

「大丈夫だよ。銀の弾丸はまだあるし、いざとなったらこの左腕を盾にしよう」

「どう考えても大丈夫に見えないわ。それに、帰る途中で……、“隻眼”に見つかるかもしれない」


 言葉が一瞬止まったのは、自分の兄を改めて“隻眼”と呼ぶ事に抵抗を感じたからだろうか。


「好都合だよ、アンネリーゼ。ハンブルク城へ帰る前に、もう一度ヨハンに会わなければと考えていたからね」

「会ってどうするというの? あの人はもう、自分が救われようなんて考えは捨ててしまっているの。妹に怪物として倒されるためだけに動き続けている。たとえ……。そう、たとえ、ハインリヒの血で元の姿に戻れるのだとしても、あなたがそれを望んでも、彼はきっと受け入れない。怪物である事をやめようとしない」


 アンネリーゼにも俺が考えている事はわかったようだ。確かにヨハンがした事は許されるべきではない。彼の境遇に同情こそするが、それで行いのすべてをなかった事になどできない。だが、それでも。本当にもう、ヨハンを怪物として打ち倒す道しか残されていないというのだろうか。


「“隻眼”はわたしとリーゼロッテが倒すわ。わたしたち姉妹も、かの怪物もそれを望んでいるの。ハインリヒには赤衣隊の隊長としての義務があるのかもしれないけれど、これ以上関わるべきではないわ」

「リーゼロッテはともかく、キミは戦えるのかい?」


 図星を突かれたようにアンネリーゼが怯む。姉妹で“隻眼”を討つという覚悟を決めた時、アンネリーゼは人狼の姿だった。それが、今は小柄な少女の姿になってしまい、且つ体の感覚を完全に取り戻しているとは言い難い。身体能力としては申し分ないのだろうが、体格が大幅に変化してしまった事による差は大きいだろう。

 それに、アンネリーゼは“隻眼”の魅了に支配され、ハンブルク城から俺を浚ってここまで連れてきている。妹のリーゼロッテに危害を加えてもいるのだ。もし体の感覚を取り戻す事が出来たとしても、再び魅了の力に惑わされないとも限らない。もしそうなれば、リーゼロッテは兄と姉と、ふたりを相手に戦わなければならないのだ。


「俺はキミが言った通り、悲劇を踏み越えて幸せを掴み取りたいと思っている。悲しい物語の結末を、少しでも変えたいと思っているよ。そのために、もう一度ヨハンと話さなければと思うんだ」

「何を話すというの? 人の姿に戻って、罪を償いやり直せって? そんな事……」


 やめてと。アンネリーゼは洞窟を出ようとする俺の袖を掴んで引き留める。彼女が纏っている感情は、兄妹同士の決着を邪魔しようとする俺への怒りではない。


「兄様がなんで、リーゼロッテの前で一言もしゃべらなかったと思う?」

「人の意思をまだ残していると、リーゼロッテに悟らせないためだろうね。口を閉ざす事で、本当に怪物になってしまったのだと、救う事をあきらめさせるためだ」

「わかっているのなら、もう二度と彼の言葉を聞こうとしないで。もしリーゼロッテが知ってしまったら、殺せなくなる」


 沈痛な面持ちで言うアンネリーゼは小さく震えている。自分たちの決意が揺らぐ事と、ヨハンが再び生への渇望を抱く事を恐れているのか。


「……殺したくなんてないし、生きていたいはずなのにね」


 取り返しがつかない程たくさんのものを失って、それらは二度と戻る事が無くて。そのうえ、この兄妹たちはまだ失い続けなければならないのだろうか。


「俺は、ヨハンの境遇には同情しているけれど、彼の行動が許されるべきものだとは思っていない。キミたち兄妹がもう二度と、笑って話す事が出来ないのも理解している。……でもね、キミたち兄妹がこのまま殺し合って終わればいいとも、思っていないよ」


 だから、時間が欲しい。ヨハンともう一度話す時間が。彼を説得するのは無理だと承知の上で。最後の悪あがき、俺のわがままだ。それでも、悲劇の中にわずかでも、救いを見出す事が出来るのかもしれないならば……。


「勝手を言ってすまないが、彼と話す時間をくれないか。みんなの傷を抉る事になるだろうけれど、それでも俺は、このまま終わらせたくはないよ」

「……わかったわ。でも、行くならわたしも一緒よ。匂いで兄様を追えるもの。それと、お願いをひとつ聞いて。もし今度、わたしが魅了されるような事があったら」


 意志の強い眼差しは、俺の所持する拳銃へと向けられた。


「今度こそ、それでわたしを終わらせてね」

「約束しかねるよ。そんな事」

「そうせざるを得なくなるわ。リーゼロッテを守るためなら」


 自分の表情が険しくなってゆくのを感じる。せっかく人として生きる意思を持ってもらえたと思えたのに、アンネリーゼは再びヨハンとの決着の事で頭がいっぱいになってしまっているのか。彼の魅了を警戒し、もしもの時には自分を討てとも告げる。


「勘違いしないでハインリヒ。あくまでもしもの時の話よ。わたしはもう、人として生きる事を怖がったりしないわ。そうしたくても、もう叶わない人がいるって、改めて気付かされたから。それに……」


 呟いて、アンネリーゼは引き留めた俺を追い抜いて前へ出て、ひとりで洞窟の入り口へと歩いて行ってしまう。差し込む陽光が冷たいはずの岩肌を照らし出し、彼女は歩みを止めて緊張した面持ちになる。当然だ。十年間人狼として生活してきたという事は、その間太陽の光を直接身に浴びる事がなかったという事だ。


「お姫様、手を?」

「大丈夫よ、王子様。お姫様は強い方が好まれるのでしょう?」


 ああ、もう大丈夫なんだね。彼女の横顔をひと目見て、そう確信が持てた。


「怖い事を乗り越える自信があるわけではないの。兄様との決着も、本当にこれ以上にいい方法があるのかなんて、わからないわ。でも、ハインリヒが違った結末を見せてくれるかもしれないなら、わたしはそれを見てみたい。それにね」


 頼りない王子様を、ひとりにしてはおけないもの。アンネリーゼは一足先に洞窟を出て行った。太陽の下へ出てまぶしそうに光を見つめる後姿は、両手を広げて全身で光と熱とを受けようとする。無意識的にだろうか、服を脱いで素肌を太陽の下に晒そうとしていた彼女は、鼻歌交じりにコートの前を開けていったが、俺が洞窟から出にくそうにしている事に気付き、思いとどまった。


 さあ、次は俺の番だね。陽光を嫌うという人狼の腕は、果たして昼間の太陽のもとでも無事なのだろうか。よくよく考えてみれば、人狼が太陽を嫌う理由こそ未だ判明していない最大の謎だ。定説を挙げるのならば、人狼の毛並みや肉体が陽光に耐えられず発火燃焼するというものや、それとは別に石のように硬化してしまうというもの。ただ単に本能的に嫌っているというものまで様々だが、今日まで自分の目で見てきた事を振り返ると、もうどれひとつとして信じる事は出来ない。アンネリーゼが洞窟を出る前に聞いておけばよかったなと考え、俺も陽の下へ足を踏み出した。




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