6話:夜明け前の対策会議
目を覚ましたのは明け方だった。まだ日の出の時間帯ではないが、黒から紫へ変わりゆく空を自室の窓から見る事ができた。小鳥たちが囀りはじめる時間には、まだ少し早い。
覚醒の切っ掛けは悪い夢を見たからか。それとも人狼のものと思わしき咆哮を耳にしたような気がしたからだろうか。自分の聴覚には絶大な自信をおいているが、それでも人狼の接近にぎりぎりまで気付かなかったからには、気が緩んでいたという事だろう。他に言い訳しようもない。
「……隊長。ハインリヒ隊長、連れ去られてしまいましたの……。わたくしが着いていながら……」
体の痛みなどたいしたものではない。それよりも心がちぎれてしまいそうだ。自分の大切な人を目の前で奪われるのは、これで何度目になるのだろう。悔しさや悲しさよりも、彼が無事か心配で居ても立ってもいられない。
不安を押し込めるように深く息を吐き、耳を澄ませる。獣性により強化された聴覚は、瞬く間に隊宿舎内の音という音を拾い集める。風は真夜中よりもやや収まりつつある。他の赤衣隊のみんなは食堂に集まっているようだ。彼女たちだけではない。アグネスさんも、班長も団長もいる。会議室ではなく食堂に集まっているのは、アグネスさんの給仕の手間を省くためだろうか。
声を拾い集めながらベッドから降りて、丁寧に畳まれていた赤外套を羽織る。外套が机の上に畳んで置かれていた事から察するに、マルグリットがわたくしをベッドまで運んでくれたのだろう。彼女はああ見えて、結構腕力があるのだ。少なくとも成人男性ひとりくらいは軽く引っ張り上げられるだろう。わたくしとは違って。ええ、わたくしとは違って。
「……作戦会議中ですのね。ハインリヒ隊長が浚われた事は、さすがにもう知っているのでしょうね」
自室を出て、今は食堂の前。暗鬱とした気持ちになる。自分が傍に着いていながら隊長は浚われてしまったのだ。みんなに合わせる顔などあるわけがない。入りづらいなと考えて、入口で立ち止まってしまう。すると、そっと扉が開けられて、わずかな隙間からクラリッサが顔の半分をのぞかせた。あら、可愛らしい。
「リゼ、もう大丈夫ですのー?」
「ええ。わたくしはもう大丈夫ですのよ。みんなは中に?」
みんなが食堂に詰めている事は知っているが、逃げ腰な心持のせいか無為な確認を口にしてしまう。クラリッサに手を引かれて食堂へ足を踏み入れると、中にいたみんなの視線が一斉に向けられ、思わず耳が閉じてしまう。
みんながわたくしの姿を見て、安堵の息が漏れるのをわたくしが見て。心配をかけてしまったと改めて申し訳なくなる。そして、ここにいない隊長の事も……。
「御心配をおかけしましたの。これから会議に参加しても?」
気持ちを切り替えるようにそう問えば、赤衣隊のみんなや班長たちは首肯にて応える。アグネスさんが椅子を引いて手招きするのでそこに座ると、彼女は「何か温かいものでも持ってくるよ」と優しく囁き食堂の奥へ小走り気味に歩いてゆく。
改めてテーブルに着く面々と顔を合わせると、ハンナが咳払いひとつして話を切り出した。
「ちょうどリゼも起きて来たところだ。ここで一度、現状の見直しと、これからの方針を確認を行おう」
いつものように珈琲をひと口、と思いきや、ハンナのカップは空だ。班長やマルグリットが苦笑して見ているという事は、先ほどから何度も同じような空振りをしているのだろうか。
「ハンナ、あんた珈琲ほしいなら素直に欲しいって言えばいいんだよう。ほら、お砂糖もいるかい?」
アグネスさんが苦笑しながら珈琲の入ったカップを持って戻ると、ハンナは顔を真っ赤にして手渡されたカップを受け取った。わたくしにもホットミルクのカップが手渡される。立ち上る湯気が鼻先をくすぐる。安心する香りだ。
会議の時など、アグネスさんはこうして、横で眺めていながら給仕をしてくれる。だが、こんなに遅い時間にアグネスさんが付いていてくれるのは初めての事だ。緊急会議、という事もあるのだろうが……。
「アグネスさんは、そもそも時間外です。本来ならこの会議にだって参加する義務はないのですよ?」
「何言ってるんだい。夜中に娘っ子や樵連中が鼻突き合わせて会議となったら、あたしが出ないわけにはいかないでしょうよう。それに、坊っちゃんの事も気掛かりだしねえ」
その言葉で、食堂の空気が重くなるような気がした。一番そう感じているのは、わたくしでしょうね。お腹が痛くなってくるし、いやな汗も出てきますもの。
「先に言っておくが、リゼ、自分を責めるな。隊長が浚われたのはリゼの責任ではない」
ハンナの言葉に、俯いてしまいそうなのを堪えて頷く。わたくしが獣性により強化された聴覚を持っている事を知っているハンナは、カップで口元を隠し、他の者には聞こえないくらいの声量で呟き始める。
「……おそらく、隊長を浚ったのはリゼの姉と見ている。リゼもアリスも彼女の侵入を感知できなかったのは、おそらく強風の中を風下から接近してきたからだろう。隊長を浚った理由は、断定はできないが、おそらくは“隻眼”による魅了だ。詳しい事は後で話そう」
傍目には、ハンナがカップに口を付けつつ何事か呟いている。そんな風に見えているのだろう。アグネスさんがいぶかしげな視線と共に「砂糖、もっといるかい?」と問うと、「もちろん。あとひとつ、いえふたつお願いします」と凛々しい表情でカップを差し出した。
彼女の説明で一応の納得はしたが、それでも疑問は尽きない。それを踏まえて「後で話そう」なのだろう。
「よし。ではまず、現状の確認だ。簡潔に行こう」
今度こそ珈琲をすすったハンナは、静かにカップを置き口を開く。
「ひとつ、ハインリヒ隊長が人狼によって浚われた。生死不明、浚った目的については大よそ検討は付いている。ふたつ、ひとつ目に付随する形となるが、人狼が夜間ハンブルク城に侵入してくる可能性が非常に高まっている。夜間であろうと基本的に黒森から出ない人狼が森を離れるという事は、“隻眼”の差し金である事は明白だ。これに関しては早急に対策を立てる必要がある」
一息に話し終えて、ハンナは一度みんなを見渡す。質問はないかと視線で問うているのだ。だが、ここにいるのは先ほどまで会議に参加していた面々だ。わたくしが挙手しなければ質問などないだろう。だから、ハンナに続きを促すように首肯する。
「では、方針に移ろう。ハインリヒ隊長不在の間、指揮は自分が取る事になる。我々が抱えている問題は目下三点。明日に決行を控えた対“隻眼”討伐作戦、浚われた隊長の捜索、ハンブルク城の防衛機構の構築だ。この三点の中で、自分はハンブルク城の防衛を最優先に考えている」
え。思わず声が漏れてしまったが、誰も反応する者はいなかった。という事は、この話は先ほどすでに出ているのだろう。誰も口を挟まないものの、表情は苦々しいものに歪んでいる。納得しているわけではないのだろう。だが、班長も団長も、自分たちの部下の安全を守る事を最優先に考えなければならない。わたくしたち赤衣隊も、彼らを守るのが最優先任務だ。
「すまんなリゼ。優先順位としては、この次に隊長の捜索。“隻眼”は後回しにせざるを得ない」
「“隻眼”の事は後でもよろしいですの! でも、隊長の捜索に人員を割く事はできませんの?」
「……難しい、と言わざるを得ないな。隊長がどこへ連れて行かれたかといえば、場所ははっきりしている。黒森の中だ。だが、森の中の「どこか」まではわからない。捜索隊を編成しようにも、黒森の中で活動するには自分たち半人狼のみでいかねばなるまい。すると、ハンブルク城の守りはどうなる?」
一息に言って、ハンナはじっとわたくしを見つめてくる。答えなどわかりきっている。黒森の中を捜索するならば、捜索隊の編成は赤衣隊の者が数名といったところになるだろう。その上、人狼の動きが活発化する夜間の捜索を避け、日中の行動とならざるを得ない。
しかし、ハンブルク城の防護となると、夜間侵入してくる人狼を迎撃しなければならない。そのためには夜間の迎撃態勢を万全なものとするために、日中の活動を控えなければならない。
いかに人並み外れた身体能力を持つ半人狼といえど、半日の間危険な黒森の中を捜索し、夜間は迫りくる人狼から拠点の防衛となれば、無理も生じてくるだろう。まして、ハンブルク城に所属する赤衣隊は5人だけなのだから。
わかっているだけに言い返せない。しかし、納得できないという気持ちが晴れるわけではない。それは、テーブルに着くみなの表情を見れば一目瞭然だ。ハンナだってこの判断に納得しているわけではないはずだ。
「まあ。だからと言って、隊長を放っておけるほどリゼたちは冷静ではないだろう?」
「それはハンナも同じですの」
「ですのー」
うっと言葉に詰まったハンナは咳払いひとつして、懐からメモ書きを数枚取り出す。班長や団長、それにクラリッサもテーブルに身を乗り出してそれを覗き込む。何を取り出したかはわかる。ハンブルク城の守りと、隊長の捜索を両立させようとする手段だ。
「作戦と呼べるほど、真っ当な方法ではない。正気を疑ってくれていい。みんなにできる限りの無理を強いるものだ。……そして正直なところ、自分が現状最善と思える分担も、確実とは言い難い。それを踏まえたうえで、話を聞いてくれるか?」
ハンナが提案したのは、ハンブルク城の防衛とハインリヒ隊長の捜索、その同時進行作戦だ。人狼が日没後にハンブルク城へ攻め込んでくるという想定での作戦。日没後、人狼の群れがハンブルク城に侵攻してくる間に、捜索隊が黒森の中に侵入して隊長を探し出すというものだ。
“隻眼”が配下を引き連れてハンブルク城に攻め込んでくる。その可能性はわたくしも考えていなかったわけではないが、ハンナは昨晩の件で確信を持ったようだ。
活動時間を日没後から翌朝にかけての数時間に限定したのは、長時間の活動で体力を消耗する事を防ぐためだ。隊長の捜索隊にわたくしとクラリッサ、そしてハンブルク城の防衛にフランツィスカ、マルグリット、ハンナ、そして伐採班や黒斧団の面々といった布陣だ。
「この組み合わせの根拠は?」
今まで黙してハンナの言動に注視していた班長が挙手して発言する。伐採班の事ではなく、捜索隊にわたくしとクラリッサが選出され事についてだろう。
「生存率が一番高い組み合わせがこの布陣だと自分は考えている。隊長の捜索を行う上でアリスの嗅覚は有効だ。リゼの聴覚もそれに匹敵する働きをするだろう」
「なんだい。それじゃあ、マルグリットの姿を消すっていう技も、人狼に見つからないように歩くのには有利なんじゃないかい?」
アグネスさんが抱いた疑問に、ハンナは「確かに」と頷く。ではなぜ、マルグリットが捜索隊の方ではなく拠点防衛の方に振り分けられたのか。それは、マルグリット本人が説明する事となった。
「わたしの能力を高く買っていただけるのはありがたいのですが、この技はわたしひとりの動きに限定されてしまうので、今回の作戦には向かないのです」
単独での哨戒や奇襲ならば真っ先にマルグリットが選抜されるはずだが、探索となればクラリッサかわたくしのどちらかと共に行動という形になる。マルグリット自身は気配を断ち姿を消す事は可能だろうが、同行する者はそうはいかないのだ。
それに、行きは人狼に見つからないかもしれないが、帰りは隊長を連れて黒森を脱出しなければならない。いくら単独での隠密行動が可能なマルグリットとはいえ、迫りくる人狼の群れから隊長を守りきる事は難しいだろう。
「今回ばかりはマルグリットの隠密能力は出番がないと考えてくれ。だが……」
「ええ、ご安心を。わたしの“能”は、それだけではございませんから」
ハンナの言を引き継いでマルグリットが笑む。団長などは皺の刻まれた顔を疑問の形にしてみせるが、付き合いの長いわたくしたちは、その理由を知っている。
「……そうか、ヘルムート団長やハインリヒ隊長は知らないか。実は、マルグリットは単純な戦闘能力ならば、アンジーと互角なんだ」
団長が表情を驚きのものに変えると同時に、フランツィスカが渋い顔でそっぽを向いた。それもそうだろう、獣性5度に認定されているフランツィスカと互角の戦闘能力を持つなど、それは同じ獣性5度以上の半人狼ではないとあり得ないと考えるのが普通だ。
確かに、身体能力や獣の感覚ではフランツィスカに大きく遅れを取るが、マルグリットにはそれを補って余りある技がある。隠密能力や体術もそのひとつであり、それらは獣性による身体能力を必要としない、普通の人間でも実現可能なものであるのだという。
赤衣隊のみんなやアグネスさんなどは、中庭でフランツィスカとマルグリットが模擬的な一対一の戦いを行っている様を度々見ている。最近、特にハインリヒ隊長が来てからはすっかり行わなくなってしまったが、その意図もわたくしたちは知っている。
「班長には口止めしてもらっていたが、マルグリットの体術は獣性のない人間でも充分実践可能なものだ。もし、伐採班や黒斧団などにマルグリットに師事し、実戦で人狼相手に試してみようと考える者が表れかねないので秘匿させてもらっていた。……特に、ハインリヒ隊長などが知ったら真っ先に教えてくれなどと言いそうで、とてもじゃないが打ち明けられなかった」
「はっは、ちげえねえ。坊っちゃんならそういうだろうな。そういう事なら仕方ねえ、いい判断だよお嬢さん方。……だーが、おい。お前後で覚えとけよ?」
快活に笑って理解を示す団長だが、すぐに意地悪げな表情で隣の班長をなじった。「勘弁してくださいよ」と困り果てる班長にくすりと笑いが起こり、重苦しかった空気が若干緩和された気がした。
「そういうわけで、ハンブルク城にアンジーとマルグリットを配置する以上、この拠点は中央区の本隊よりも堅牢な防護を得たと思ってくれて構わない。“隻眼”がどれだけの規模の配下を獲得しているのかは定かではないが、うまく立ち回れば一晩の籠城はたやすいだろう」
そこで、無言の挙手が上がった。フランツィスカだ。椅子の上で膝を抱えるように座り身を縮めている姿は、どこか己を押さえつけているようにも見える。
「……なあ、今更で悪いがよ。最初の作戦通りに、昼間の黒森に5人で入るってのは、無しなのか?」
話の途中でフランツィスカが口を挿む。それを珍しいなと感じるのは、わたくしが知る限り、フランツィスカがハンナの提案を呑まなかった事がなかったからだ。フランツィスカの考えは、わからなくはない。“隻眼”が配下とする人狼の群れを操りハンブルク城に夜襲を仕掛けてくる可能性があるのならば、日没を迎えるまでにその“隻眼”を打倒してしまえばいい、というものだろう。
確かにその考えならば、夜間のハンブルク城を防衛するという課題は解消されるだろうが、それはあくまで上手くいけばの話だ。もし仮に隊長を助け出す事が出来ても、“隻眼”を取り逃がしてしまえば事態は悪化するのだ。
「アンジー。焦っているのか?」
ハンナの率直な問いに、フランツィスカが不機嫌そうに頷く。“狂犬”の異名を持つ彼女の事だ、本当は今すぐにでもこの場を飛び出して、黒森の中に駆けて行きたいのだろう。自分の抱く焦燥を拭うために、ハインリヒ隊長のお顔を見て安心するために。
だが、フランツィスカはこの場に留まっている。自分ひとりで動けば隊の足並みを乱す事になり、そのしわ寄せで誰かが危険に晒されるかもしれないとわかっているからだ。燻るように椅子の上で身を縮めている姿を、誰かに似ているなと感じる。すぐにハインリヒ隊長に似ているのだと思い当たった。
ハインリヒ隊長も、こうしてやきもきしていらしたのですのね……。
「すまないがアンジー、昨日までの案は撤回する。昨日までならばそれでいけたろうが、隊長が浚われた以上、その案は使えない。理由はこれから話す。聞いてくれるか?」
フランツィスカは深く息を吐いて、二度、三度と頷く。表情は硬いが納得がある。ハンナはその顔をじっと見て、視線を会議の場に戻した。
「“隻眼”の目的、そして優先順位が定かではないが、事実として確定しているものはいくつか上げられる。まず、“隻眼”が今夜襲撃をかけてこなかった事。もし今夜攻めて来られたならば、自分たちは咄嗟に対応する事はできただろうが、少なからず犠牲者は出ていただろう。もうひとつ、隊長は殺されずに、浚われた。これは最高権力者を不在とする、よりは、最高権力者の生死を不明にするという意味合いが強いと考えている。探しに行かなければならなくなるからな」
これは罠だよ。ハンナは苦い表情で告げる。もし“隻眼”が今夜襲撃を決行していたのならどうなっていたか。襲撃当初は混乱し、犠牲者も出ただろう。しかし、全滅は免れたはずだ。それだけの対応能力はここにはある。
いかに夜間の襲撃とはいえ、ここは黒森ではない。南方第七区の拠点であるハンブルク城だ。少なくとも黒森で人狼を相手にするよりは分がある。建物や障害物を利用すれば、伐採班や黒斧団の者でもそれなりに戦う事は出来るはずだ。
“隻眼”がこちらの戦力を読んで襲撃してこなかった、というのは虫のいい考えだろう。ならば、なぜ襲撃せず、隊長だけ浚ったのか?
「以上二点から導き出されるやつの目的は、隊長を餌に自分たち赤衣隊を黒森におびき出す事だ」
そう、罠を張るためだ。
「おそらく“隻眼”はこう考えているのだろう。……やつらが隊長を浚った事で、自分たちが隊長を探しに行かなければならない状況が出来上がった。捜索隊を編成するならば、赤衣隊数名で捜索隊を編成して、人狼の動きが比較的活発ではない日中に捜索を行うはずだ。それが、自分たちをハンブルク城からおびき出す策だとすれば、隊長は生きている可能性が高い。……ただし。最悪の場合、安く見積もっても、かなりの重傷を負っているだろうな」
「隊長の生存」という言葉がハンナの口から聞けて一瞬気持ちが高ぶったが、その直後の「重傷」という単語に再び気持ちを落とされた。その意味は理解できる。“隻眼”がわたくしたちをハンブルク城からおびき出すのが目的ならば、日没までの帰還に間に合わないような罠を仕掛けるだろう。それが、重傷を負った隊長だというのだ。
わたくしたち半人狼だけならば、人狼一家の襲撃があっても何とか逃げ帰る事は出来るだろうが、負傷した隊長を連れていては動きが鈍る。その間に“隻眼”は、拠点であるハンブルク城を掌握してしまおうという考えるかもしれない。
もし“隻眼”がそういった考えで動いているとすれば、捜索隊が撤収の判断を下すまでの刻限ぎりぎりのところまで、隊長の存在を補足させないだろう。捜索隊の足止めをするつもりならば、隊長は殺されずに生かされていて、しかし身動きできないほどの重傷を負っている。そうして負傷した隊長を連れて帰還する捜索隊を、人狼一家を操って足止めし、その間に“隻眼”はハンブルク城を押さえる。……それが、ハンナの予想した“隻眼”の動きだ。
だからこそハンナは、隊長の生存を大前提として、日中の捜索を最初から断念。夜間の行動にすべてをかけようとしているのだ。
「“隻眼”の行為は非常に非効率的で無駄が多い。馬車の荷や人を襲うにしても、その惨状を分析するに、まるで快楽殺人者のそれだ。統計に基づいた推測ではないが、おそらく満月に近いところで理性を取り戻し、そういった行為に及んでいたのだろう。やつは人の精神に揺さぶりをかける、恐怖を煽るという考えを持っている。となれば、隊長を連れて自分たちの前に現れる、という事もあるだろう。隊長の生死に関しては、生の方が確立が高いと自分は考えている……」
ハンナの言葉はここにいるみなに希望を持たせようとする意図が強い。様々な判断材料から推測を行ってはいるが、隊長が生存が確実であるという確固たる要素は、残念ながら誰も提示できないのだ。
それでも、希望を持つ事は大きい。
「よって、自分が提案する策は夜間ハンブルク城防衛とハインリヒ隊長の捜索、この両立だ。最初の人狼一家がハンブルク城に近接したタイミングで、リゼとアリスが隊長の捜索に出発。その間我々は人狼一家の迎撃に徹する。捜索隊のふたりは、隊長を発見次第安否を確認。周囲に敵影なければ合流して、しかるべき処置を。もし、隊長が“隻眼”と共にいた場合、その時は、アリスのみ即座に帰還する事」
クラリッサのみ即座に帰還。この判断に疑問を覚える者も多いだろう。だが、隊長が“隻眼”と共にいる事を想定した場合、そこからの動きに求められるのは捜索能力ではなく戦闘能力だ。
だから、ハンナの次の言葉は容易に想像できる。わたくしを“隻眼”の動向を観察する役割に据え、クラリッサは単独で帰還。そして……。
「アリスの帰還と同時に、アンジーが交代出撃。“隻眼”を討ちに向かう」
「おお」と班長と団長が唸りを上げる。そんな事が可能なのか、という疑問の音が若干含まれてはいるが、ハンナが言うからには可能なのだろうという信頼の現れだ。付き合いの長い班長はともかく、団長が同じような理解を示してくれるのには驚いた。
隊長か、または班長の人徳によるものか。それともこちらの能力を高く評価してくれているという事なのか。どちらにしろ、信頼をおいてくれるというのはありがたい事だ。
……ちょっと待ってくださいですの。なぜか、隊長の思考に近付いてる気がしますの、わたくし。
「……なんだ。結局“隻眼”ぶっ倒すところまできっちり考えているんじゃねえか」
くつくつと笑いながらフランツィスカが言う。彼女も彼女だ。城内に侵入してくる人狼の相手をした後、クラリッサと交代で出撃して“隻眼”を相手して来いと言われているのに、この笑みだ。ハンナがフランツィスカならできると判断し、フランツィスカ自身もそれができると確信しているのだろう。
“隻眼”を発見してからの交代は、彼女たちの体力的には大した問題はない。わたくしやハンナはともかく、人狼に匹敵する身体能力を持つふたりなら、それこそ一晩中走り続ける事が出来るだろう。もちろん戦う事も。活動時間を夜間に限定したのは、そのためでもあるのだろう。
「優先順位を下げるとは言ったが、やらないとは言っていないぞ。自分は」
薄く笑んでハンナは告げる。そして一度深く息を吐くと、決意を新たにするように告げる。
「改めて言っておこうか。本作戦は隊長不在のため、副隊長である自分の独断で行う。よって、本作戦における不利益はすべて自分が責任を負うものとする」
言葉の意味を一瞬測り兼ねたが、深く考える程の事ではない。要は、誰かが負傷したり死んだりすれば、それは隊長の不在中に独断で作戦行動を行ったハンナ自身の責任だと言いたいのだ。そうやって自分ひとりが不利益を被ろうとするのはハンナの悪い癖だ。ハインリヒ隊長が来る以前から変わっていない。
だが、ハンナの考えはみんな理解しているので、返す言葉も決まっているのだ。
「なら、お前が責任取る事ないように俺が夜明けまで動き回ってやるよ。久々の夜戦だ、血が騒ぐぜ?」
「血が騒いでいるところ悪いが、アンジーは現時刻より本日の日没まで待機だ。要は食って寝て、充分な休憩を取っておけ」
「アリスはー?」
「アリスには少し覚えてもらう事があるが、会議が終わったらすぐに休憩に入ってくれ。行動は今日の昼からでいい。しっかり休んでくれ。それから……」
はきはきとした口調で、ハンナは会議に参加している者たちに支持を出してゆく。ほとんどの行動開始時間を昼過ぎからと定めたのは、全員にしっかりと休息を取らせるためと、現状のハンブルク城において実現可能な準備に見切りをつけたからだろう。
たとえば、今から城壁に対人狼用の「返し」を設置しようとすれば、とても一日では終わらない。せいぜい城壁の一角に申し訳程度のものを拵えるのが限界だ。どれだけ場数を踏んでいようと、個人にも集団にも限界はある。
だから、ハンナは方法を変えるはずだ。「返し」や防壁を用意する時間がないのならば、そういったものを使わない策を講ずればよいと。大砲がないと倒せない化け物を前にして大砲がないならば、拳銃やライフルや、それ以外の使えそうなもの、用意できるもので立ち向かえばいい。もちろん、それを用いて化け物を倒す事が前提だ。
ハンナという指揮官はこれまでの脅威や不足を、そういった考えで切り抜けてきた。人材や物資をすべて同じカード、駒として見て考え、扱う事が出来る。冷酷にも思えるかもしれないが、彼女は一度たりとも人という駒を悪戯に失うような策を講じた事はない。ハンナのそういった姿勢が、ハインリヒ隊長が来るまでの間、赤衣隊と伐採班との間に無言の信頼を築いてきたのだ。
ヘルムート団長などは、そういったわたくしたちの関係をすでに察しているようだ。黙ってそれぞれに下されてゆく指示に耳を傾けながら、口元に笑みを浮かべている。
彼が率いる黒斧団という組織は、大規模とは言えないが堅牢な結束を持っている。規律などという言葉には程遠い荒くれ者たちばかりだが、気風の良い一本筋の通った者たちでもあるのだ。伐採班と競おうという意気がありながら、同時に彼らと家族のように親しく接してもいる。わたくしたちも彼らの仕事ぶりや休日の姿を目にする機会は増えていて、その度に元々どちらの所属かわからないほどの親しさに驚かされている。
そういった者たちをまとめ上げる程の実力を持つ団長をして、ハンナの手腕は嬉しげな唸り声を上げる程のものらしい。しきりに「いいねえ、嬢ちゃん。いいぜえ、俺たちにできる事とやりたい事を、ちゃあんとわかってる。それで、こっちに気を使った指示まで送ってきやがる。にくいねえ、いいねえ。軍隊の指揮官なんざ気に食わないところなんだが、嬢ちゃんの指示ならこっちから動きたくなるじゃねえの?」と、褒めちぎる。
ハンナと言えば、こうして真っ直ぐに褒められる事に慣れていないので、だんだん恐縮して椅子の上で縮こまってしまう。わたくしたちや隊長相手だともう慣れたものだが、他の人からこうして褒められる事はまだまだ苦手らしい。咳払いして強引に会議をしめようとする。
「さ、さて。会議はこれにて終了とする。他に意見がなければ、各自直ちに休息に入ってくれ」
そうは言うものの、大よその動きはすでにハンナが指示を出している。あとは休息に入り、昼過ぎから行動開始という流れになってしまったので、この時点で聞く事はなくなってしまっているのだ。各々今から休息だというのに、もう行動開始前のような熱気のようなものを纏い始めている。これでは眠れたものではないだろう。
わたくしも、このまま眠れそうにない。隊長は浚われて、姉さまが魅了されているかもしれない事に動揺して、“隻眼”はまるで人間のような策を用いてくる。やるべき事は定まっているのだが、様々な不安が胸に渦巻いて吐き気を催すほどだ。
「リゼ、眠れそうにない? お薬出しましょうか?」
内面が顔に出ていたのだろう、マルグリットが心配そうに聞いてくる。赤衣隊では衛生兵も兼任する彼女の判断という事は、わたくしはそんなにひどい顔をしていたという事だろうか。いえ、そこまでではありませんのと手を振って断ったところで、とても重要な事を思い出した。背筋が寒くなる。
「あ、アグネスさん? もしくは、他の誰でもいいですの。隊長の御病気について何か知っている方はおられますの? 隊長、昨晩はまだお薬を飲んでいませんの……」
言った途端、アグネスさんの顔色が変わった。ヘルムート団長が血相を変えて椅子から立ち上がる。隊長の過去を知るふたりの反応に、自分の体温が下がってゆくのを感じる。背中から嫌な汗が噴き出してくるようだ。
「待て、ちょっと待ってくれ。ハインリヒ隊長の病気とはそれほどのものなのか? 軍歴にはそれほどの大病を患っているとは記載されていない……」
ハンナは焦りを帯びた声でそう告げるが、どうやら自分自身が発した言葉に答えを得てしまったようで、目を見開いて顔に手を当てる。表情は信じられないものを見た、とでもいうような驚きのものに変わっている。しきりに「いや、まさかそんな……」と、疑問と否定の言葉をループさせている。心当たりがあるのだろう。
わたくしは、青ざめて椅子から倒れそうになるアグネスさんを支えて、再び椅子に座らせる。いつも気丈で明るい彼女がこれほどの動揺を見せた事など今までない。クラリッサも心配してアグネスさんの元に寄り添っている。
「……そうかあ。坊っちゃんはやっぱり、お嬢ちゃん方には打ち明けてなかったんだな。仕方ねえよ、そう易々と言えるような病じゃねえ」
頭を抱えて椅子に座った団長は、まずアグネスさんを見て、次に会議の場にいるみなを見渡して、苦しそうに息を吐いた。隊長の病の名を打ち明ける役回りを、自らが引き受けようというのだろう。
「お嬢ちゃん方、ようく聞いてくれ? ハインツ坊ちゃまの御病気の事だ」
部屋の中から熱気は霧散して、氷のような冷たさが忍び寄ってくる。
「坊っちゃんが患っている病はな、“枯樹病”だよ」
聞いた瞬間には、その病名が何を意味するのかよくわからなかった。あまりなじみのない病名というわけではない。むしろ恐ろしい風評と共に世間に知れ渡っている忌々しい名前だ。だから、「なぜ?」という困惑が頭の中を支配していた。
ハンナが顔を覆ってテーブルに突っ伏してしまう。彼女の反応を見るに、軍関係者の視点からはこの病気の違った面が見えているのだろう。それがどういうものかは、ハンナのこの様子を見ればおおそよの察しはつく。しかし、わたくし自身はどうしても、ハインリヒ隊長がその病に侵されているとは信じられずにいた。
“枯樹病”を患った者で、成人まで生きている者がいるなど、聞いた事がなかったのだ。




