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南方第七区赤衣隊隊長日誌  作者: アラック
“隻眼”の人狼
12/22

5話:ハーゲンベックの檻

 体の痛みによって目を覚ますのは久しぶりの事だった。骨折箇所を打撃された左腕の痛みと、服薬を忘れたためにぶり返してきた体内の痛みだ。どちらか片方だけならば耐える事も出来たかもしれないが、両方はいっぺんには、無理だ。

 痛みに情けない声を上げそうになるのを、体をくの字に折って耐える。ひしゃげてしまったギブスを右手で掴み、元に形になるようにと引っ張り上げる。だが、自力では元の形に戻すことはできない。痛みが増すだけだ。

 この痛みだと、固定していた箇所が再び折れてしまっているのは明らかだ。せっかくマルグリットが手術してくれたというのに申し訳ない。このままでは治るどころか動かせなくなってしまうだろう。


「けど痛みは、だいたい無視できるようになったかな。これも昔からの積み重ねのお陰かもしれない」


 体内の痛みに耐えるため、体の外に新たな痛み与えてそちらに集中する。自分の手による痛みの方が耐えられるというのは、長期の病床で学んだ知恵だ。まさか今になってこの方法を用いるとは思わなかったが。


「それで、俺はどうなったんだろう……」


 どれくらい意識を失っていたのかは、検討がつかないわけでもない。以前服薬を忘れた時は真夜中に激痛で目を覚まし、ベッドから転げ落ちていた。生活リズムはあの時とほとんど同じだったとなれば、今は真夜中という事でほぼ決まりだろう。


 辺りは暗くてほとんど何も見えないが、背中や尻に当たる感触は石や岩だという事はわかる。聞こえてくるのは籠った風の音。非常に強い音だが、肌にも直接風が当たらないという事は、ここは閉鎖された場所という事になる。手先をはじめ触覚から得られる情報と合わせて考えれば、洞窟のような場所だと答えが導き出される。

 目が慣れてくれば、もしくは何か光源があれば、周囲の状況を把握することができるだろう。そして、鼻孔に残る甘い香りだ。ここが洞窟ならば苔などの湿った植物の匂いがするかとも思ったのだが、そういった自然の匂いを上書きしてしまうほどの強烈な香りが充満していた。

 これと良く似た香りに覚えがある。フランツィスカが身に纏う、人狼寄せの甘い芳香だ。ならば、近くに彼女がいるという事だろうか。いいや、違う。


 意識を失う直前の事を思い出す。俺はリーゼロッテと隊宿舎の庭で話をしていて、突然現れた人狼の強襲を受けたのだ。人狼の剛腕を身に受け倒れたリーゼロッテが身を起こそうとするのが、意識が途切れる前に見た最後の光景。


「リーゼロッテは無事だろうか……」


 自力で起き上がろうとしていたので無事だと思いたいが、彼女はその直前に隊宿舎に壁に強かに体を打ち付けている。彼女が今どうしているのか確かめる事が出来ず、胸に焦りを生む。

 焦燥感を抱くのは、リーゼロッテの身を案じてのものと、もうひとつ。この空間に充満する匂いの主だ。人狼に担ぎ上げられ意識を手放さんとするとき、この匂いが俺の嗅覚をかすめている。この香りは、俺を担ぎ上げた人狼のものだったはずだ。


 暗さに目が慣れてきた。体の痛みに歯を食いしばり、身を起こして背中を近くの岩肌に預ける。すると、ここが洞窟だという考えが正解だった事を確認する。左手側、洞窟の入り口側の方から、月明かりが差し込んで来たのだ。

 そうして照らされてみれば、ここはかなり広い空間だった。俺がいたのは天井の高い広間のような空洞状の場所で、ここからいくつもの横穴につながっていた。不思議な事に、人が掘り進んだようなものと、そうでないものとが混在している。という事は、ここには誰かが住んでいるのだろうか。


「……なるほど。ここはそういう場所だったのか」


 俺は暗さに慣れてきた目を正面に向けた。その先には金色の毛並みを持つ人狼がうずくまっていて、低く小さな唸り声と共にこちらを睨んでいた。右目が大きな傷跡で潰れていたので“隻眼”かと思ったが、気だるげに身を揺する姿を見てそうではないと確信する。体の線がしなやかで女性的な事から、この人狼がリーゼロッテの姉であると察する事が出来た。

 彼女がうずくまっている周囲には動物の骨が散らばっている。人狼のもの、それ以外の動物のもの。人間の骨が見当たらなかった事は幸いというべきだろうか。ここは彼女の根城なのだ。


 しかしなぜ、彼女はリーゼロッテを襲い、俺をハンブルク城から連れ出したのだろう。リーゼロッテの言う事には、“隻眼”と刺し違えてでも討ち果たすはずではなかったのか。あの状況でリーゼロッテが嘘を言うとは考えられない。ならば、目の前の彼女がリーゼロッテを欺いたというのか。


 胸に焦燥と緊張を抱いて目の前の人狼を観察していた俺は、彼女の様子がおかしい事に気付いた。彼女は身を起こさず、岩肌に身を沈めたまま苦しげに身悶えている。まるで体内の緩やかな痛みに耐えているように見える。

 それに、満月を目前に控えているにしては、彼女の瞳に理性の色はない。俺を見据える瞳は、まるで熱に浮かされた獣そのものではないか。何が彼女を苦しめているというのだ。


「満月を前に理性を取り戻しているはずだと、そう考えているのか? 少女たちの飼い主」


 その声は、俺が聞いた事のないものだった。確かに人間の声だったが、声の質や震えが別の動物のものにも近い気がする。それもそのはずで、声の主は月明かりを背に姿を現した、“隻眼”の人狼だったからだ。

 左腕を失い片足を引きずるようにして歩いてはいるが、患部の流血は止まり首の傷も治りかけている。“隻眼”が俺を見る目は先日のように憎しみに満ちたものではなく、捕獲して身動きを封じた餌を見る目だった。


「随分と冷静なものだな。人狼が人間の言葉を話しているというのに」

「驚いているとも。けれど、キミたちは元は半人狼だったと聞く。少なくとも俺は、人狼と化した半人狼の話なんて、ほとんど聞いた事のないんだ。何が起こっても不思議ではないと思っているよ」

「そうか。なら、そこの雌が僕の支配下にあると言っても、すんなりと信じてくれるのだろうな」

「支配下? キミは、自分の家族に魅了を使ったというのか……!」


 “隻眼”を見る目元に力が入るが、見据えられた側の“隻眼”は俺の視線などまったく意に介さない。逆に幼子をたしなめる様な余裕を持って語りかけてくる。


「そう怖い顔をするなよ。貴様ら人間は魅了などと呼んでいるが、こんなもの人狼が向こうから尻尾を振って寄ってくるようなものだ。僕の意思ではどうする事も出来ないんだよ。ただ、寄って来た獣に命令を聞かせるだけだ。まあ、この雌はなかなか強情だったがな。支配下に置けるようになったのはつい最近の事だよ」

「自分の家族をそんな風に呼ぶのはやめてくれ。それと、俺をここに連れて来たからには、何か理由があるのだろう?」

「理由はあったが、その前に……」


 “隻眼”の声色が変わる。今までより低い、怒気をにじませたものだ。素早い動きで俺に掴みかかると、先日のお返しとばかりに左腕を岩壁に押し付けられる。岩肌と人狼の剛腕とに圧迫されて、ギブスが歪み左腕から嫌な音が発せられる。声を上げるものかと歯を食いしばれば、“隻眼”は期待外れだとばかりに俺から身を離した。


「随分痛みに慣れているのだな。軍隊では拷問に耐える訓練も行っているのか?」

「まさか。人間相手ならまだしも、戦う相手は人狼だ。俺は生まれつき、痛みに耐える事に関しては得意なだけさ」

「そうか、それは良かった。ならば、今から起こる事にも悲鳴を上げずに堪えて見せてくれ」


 “隻眼”が身を引くと、それを待っていたかのようにリーゼロッテの姉が身を起こした。その姿は身を低く沈め、獲物に飛び掛かる前の予備動作のそれだ。目は俺を捉えている。飛び掛かる気なのか。


「彼女に俺を襲わせようというのかい?」

「違うな。僕はそいつが貴様を襲おうとしているのを止めているに過ぎない。まだ、その時ではないからな」


 嫌な笑みを浮かべて語る“隻眼”に、俺は言葉を返さず状況を見守る。どういう事だ。“隻眼”はなぜ、彼女を使って俺をここに連れてきた。それに、俺に襲い掛かろうとしてる彼女を制止する意味も。


「何故、貴様をここに連れて来たか、だったな。それは、リーゼロッテの不安を煽るためさ。姉とふたりで僕を殺そうと企んでいたはずが、その姉が裏切って自分の主人を連れ去ったんだ。さぞ動揺している事だろうねえ」


 疑問を言葉にせずにいると、“隻眼”は自ら企みを明かしてくれた。どうやら“隻眼”はリーゼロッテたち姉妹の考えを知っていたようだ。それで、満月前夜というこのタイミングで、隊長である俺を彼女の目の前で浚ったのだ。

 あの場で俺を殺さず浚うという形にした事で、俺を生死不明の状態にした。あの場で俺が襲われて死んでいれば、それは彼女にとって怒りや悲しみといった割り切れた感情になったかもしれない。だが、生死がわからなければ、ただ不安だけが残るだろう。それを見越しての誘拐だったのだ。


「なるほど。ならば、俺はもう用済みという事かな? “隻眼”」

「ヨハンだ。人間だった頃はそう呼ばれていたよ。そこで盛っているのはアンネリーゼだ。もっとも、僕たちの名前を呼ぶような者は、この世に誰ひとり残っていないがね。好きな方で呼ぶといい」


 確かにリーゼロッテも、自分の兄姉の事を名前で呼ばなかった。それは、ふたりを敵として排除するという決意の表れだったのだろうか。


「それに、まだ用済みではない。貴様にはこれから、そいつの相手をしてもらうのだからな」

「相手? 彼女と戦えと言うのかい? その彼女だけど、ひどく苦しんでいるように見える。何か病を抱えているのではないのか?」

「……病か。確かに病気だろうな。獣性という名の、抗い難き病さ」


 獣性。半人狼の少女たちが持つ、人狼側に寄った特性。元半人狼の少女だったアンネリーゼにも獣性はあったのだろう。だが、それがどの領域に特化しているのかまではわからない。身悶え苦しむような獣性など聞いた事がない。

 いや待て。“隻眼”は先ほど、なんと言った?


「盛っていると言ったろう。その雌はな、貴様に欲情してるんだよ」

「……何だって?」


 思わず変な声を上げてしまった。では、先ほどから苦しそうにしていたのはそういう事だったのか。


「貴様が僕の妹からどれだけ話を聞いているのかわからないから教えてやろうか。僕の母さんも半人狼でね、その獣性は情欲が人の何倍も強いというものだったよ。そうでなければ半人狼の伴侶がいる家で三人も子供を儲ける事など無かっただろうよ。僕も、アンネリーゼも、そして僕の愛しいリーゼロッテも、そうした忌々しい獣性の元に、この世に生み出されたのだよ」


 “隻眼”はだんだん饒舌になっていく。会った当初こそ口調もたどたどしいものであったが、久しぶりに人間と会話した事で、本来のしゃべり方を取り戻しているのだろう。

 しかし、「僕の愛しいリーゼロッテ」か。“隻眼”の人狼ヨハンが、なぜリーゼロッテだけを殺さずに生かしていたのか、その理由が見えてきた気がする。


「母さんの獣性は僕たち兄妹たちにも余すことなく遺伝してね。特に冬場は最悪だ。狂おしい衝動が体を駆け巡る日々が、冬の入りから終わりまで続くんだ。僕も、こいつも。おそらくリーゼロッテもそうなのだろう、かわいそうに」


 赤衣隊のみなが話していた事を思い出す。リーゼロッテの体が「そうである」と直接口にする者こそいなかったが、言葉の端々にそういった含みがあったの事には今更ながら気付かされる。これは彼女を問いたださなくて正解だったかもしれない。もし真っ向から問いただしていたら、俺は彼女に一生口をきいて貰えなかったに違いない。


「まあ、哀れといえば、このアンネリーゼだよ。こいつは一度情欲に支配されると周りが見えなくなって、人狼の雄どもに襲いかかるんだが、その度に勢い余って殺してしまうんだ。僕が見た限り、今まで一度も尾を交えた事はなかったね。もちろん、子供を儲けた事も」


 哀れに思うというよりは蔑むように“隻眼”は語る。“隻眼”がアンネリーゼを見る目は家族に向ける温かなものではなく、忌々しい毒虫を見るような冷徹なものだ。


「“隻眼”……。いいや、ヨハン。キミはなぜ、リーゼロッテを傷付け、アンネリーゼを黒森に連れ去ったんだ?」

「リーゼロッテは僕が両親を殺して、アンネリーゼを連れ去ったと言っていたのか。まあ、似たようなものだけどね。……事が起こったその日その時、リーゼロッテは僕らがどこへ向かっていると言った?」

「現在の南方第七区拠点、ハンブルク城へ向かうと」

「そうか。ならば十年前当時、そのハンブルク城が人狼と半人狼の研究施設だった事も話していたかい?」

「……それは本当なのかい?」


 初耳だ。人狼の研究機関は都市区にしか存在しないものだと思っていた。もし“隻眼”の話が本当ならば、十年前のその日、ハンブルク家を乗せた馬車はその研究施設へ向かっていた事になる。だが、何のために?


「何のためにと問うのかい? 決まっている。僕や妹たちを施設に引き渡すためだよ。」

「そんな、今まで育ててきた子供を?」

「だからこそだよ。知っているかい? 貴族や軍人の家系では、半人狼の子が生まれるたびに莫大な金を軍に支払っているんだ。僕のところは三人もいたから、相当な額になっていただろうねえ。……本来ならば」


 本来ならば。“隻眼”はそう告げて言葉を切った。その表情を嫌悪の形に歪める。


「本来ならば多額の金を軍に支払うところだったのだろうが、ハンブルク家はそうはならなかった。逆に軍から多額の金をもらっていたようだよ」

「……待ってくれ。まさか」


 ハンブルク城にて皆から聞いた情報と、“隻眼”の話す事が繋がってくる。嫌な繋がり方だ。あのハンブルク城は元はリーゼロッテの両親の土地だと言っていた。そこは十年前当時、人狼と半人狼の研究施設であった。本来軍に多額の金を払わなければならないハンブルク家が、逆に軍から金を受け取っていた。それはまるで……。


「貴様の察した通りだよ。前ハンブルク家当主である父さんは、その研究施設の責任者で。母さんは街を追われて検体となった半人狼だったんだよ」


 ◇


「どういう理由でふたりが夫婦になったのか、僕は知らない。情が移ったのかもしれないし、何かの実験だったのかも。父さんは責任者という立場を利用して母さんを自分のものにしたようだけど、もしかすると母さんに魅了され支配されていたのかもしれない。今となってはどうでもいい、知りたくもない事だよ」


 そうして僕が生まれた。そう語る“隻眼”は表情を歪ませながらも、目つきは遠く過去の自分を見る様に細められた。


「知っているかい? 生まれてきた男の半人狼はね、殺処分を免れる代わりに様々な実験を施されるんだ。研究所の責任者、その息子である僕も例外ではなかったよ。怪しげな薬を飲まされて体の中を掻き毟られるような痛みに襲われたり、傷の治り方を観察するためといって体を切り刻まれたり。死んだ方がましだと思える程だったよ」


 語る“隻眼”は怒りや嫌悪を隠そうとしない。当然だろう。この世に生を受けたその日から、その身を実験動物として弄ばれてきたのだから。


「僕は生まれた時から、都市区にある屋敷の地下深い独房に閉じ込められていたよ。会いに来るのは軍人を従えた怪しげな研究者どもと、申し訳なさそうな顔の両親だけ。来る日も来る日もそればかりで気が狂いそうだったよ。いや、もうその時から狂っていたのかもしれない。そんな時さ。偶然にも妹たちが、僕の閉じ込められている場所に迷い込んだのは……」


 今まで負の感情ばかりだった“隻眼”の表情と声が和らいだ。その顔を見るだけで、彼の人生において妹たちとの出会いが何よりも大切なものだったのか察する事ができる。


「僕は最初、妹たちが自分の家族であるとわからなかった。両親も妹たちに僕の事を話していなかったのだろうね。互いの事を知らないままに出会ったけど、そのうちお互いの顔つきや仕草が両親のものと似ている事に気付いてね。何より兄妹の中で一番鋭い嗅覚をもっていたアンネリーゼが、僕たちが兄妹であると確信したようだったよ」


 “隻眼”の言葉を頼りに、かつて兄妹たちがであった時の情景を思い浮かべる。まだ幼かった頃の、人狼と化す前の兄妹たちの姿を思い浮かべて、やりきれない気持ちになった。


「アンネリーゼは本が好きな物静かな子で、リーゼロッテは歌と音楽が好きな賑やかな子だったよ。両親たちの目を盗んで僕に会いに来てくれて、物語や歌を聞かせてくれた。妹たちと過ごす時間は夢のようだったよ。いつまでもそんな時間が続けばいいと思っていた……」


 だが、そうはならなかったのだ。“隻眼”の表情が再び歪んでゆく。その顔は嫌悪ではなく、悔恨か。


「アンネリーゼもリーゼロッテも聴覚が鋭敏になる獣性があってね。ある日、軍人と両親たちが僕をハンブルク城の施設に送るという話しているのを、聞いてしまったんだ。そしたら、閉じ込められている僕の元へ来て、一緒に逃げようって。嬉しかったけれど、すぐに詰めていた軍人に見つかってしまってね。言い逃れもさせてもらえず、妹たちも一緒に施設に送られる事に決められてしまったんだ」

「それで、キミは……」

「僕は体を拘束されて、家族とは別の馬車で護送されていたよ。それでも、僕の耳にはリーゼロッテのすすり泣く声が聞こえてきた。そこから先は、だいぶ記憶があいまいなんだ。僕は狂乱に陥り完全に人狼化して、拘束を解いて周囲の軍人たちを皆殺しにしたんだと思う。それに、両親も」


「次に意識が戻った時、僕はリーゼロッテを組み敷いて、その服に手をかけているところだったよ。人狼となった体で、鋭い爪の生えた手で、妹に乱暴しようとしていたんだ。でも、結局それができないという事に、その時気付かされた」


 表情が自嘲的なものに変わる。意識を取り戻した事で、思い留まったという事だろうか。

 だが、俺の視線に“隻眼”は違うと、首を横に振って応える。


「理性で思い止まれていたならば、どれほど良かっただろうね。僕はそうできなかった。意識は戻りはしたものの、妹を求める衝動に抗う事は出来なかったんだ。むしろ、その衝動に進んで身をゆだねた。……でもね、出来なかった。僕は去勢されていたんだよ」


 “隻眼”はそう告げて、悔しそうな、しかしどこかほっとしたような表情を浮かべた。なんて事だろう。これでは、ハンナの読んでいた論文に近似するようなものではないか。彼の“隻眼”としての行いは決して褒められたものではないが、その境遇には同情を禁じ得ない。同じ男としても。


「そうして、僕からリーゼロッテを助けようとしたアンネリーゼも、狂乱して人狼と化した。あとは、ふたりで殺し合いながら黒森の中さ。取り戻した意識を辛うじて保っていた僕は、アンネリーゼに深手を負わせて動きを止めたあと、すぐにハンブルク城へ向かったよ。研究者たちを皆殺しにするためにね」


 その判断は、おそらくリーゼロッテのためだったのだろう。馬車が到着しなかったとなれば、当然軍は捜索隊を出すだろう。そしてリーゼロッテを見つけて、そのあとは……。俺は考えを、そこで無理やり途切れさせた。


「当時そこはハンブルク城なんて名前ではなくて、ハーゲンベックの檻なんて呼ばれていたようだよ。行われていた研究とやらは当然放棄せざるを得なかっただろうね。都市区の本部に成果報告は送られていたのだろうけど、施設そのものと研究員、検体までも失われてしまったのだから。研究自体も秘密裏なものだったから、引き継ぐ者もいなかっただろうね」

「なるほど。その事件が明るみに出なかったのも、そういった事が理由だったのかな。軍と、ハンブルク家で真相を隠したと?」

「さあね。だが、軍はリーゼロッテを他の施設に送ろうとしていた。だから、その度に僕がそいつらを皆殺しにしていたら、いつの間にか妹の周りに軍人が寄り付かなくなっていたよ」


 そういう事か。軍がリーゼロッテを対“隻眼”の看板にしなかったのは、“隻眼”の行いが残忍で執拗過ぎて、手を出せなくなったからだ。リーゼロッテは軍に入隊する前も後も、腫物のような扱いを受けてきたのだろう。


「昔話はこれでお終いだよ。そして僕も、そいつも、もちろんリーゼロッテも。明日の満月の夜に、みんなお終いにするんだ」


 “隻眼”の笑みを浮かべての言葉に、動悸が早くなるのを感じる。焦燥感だ。彼はこれ以上、何をするというのだ。


「……何をする気だい、ヨハン。リーゼロッテの不安を煽り、俺を亡き者にしたあと、そのあとは?」

「言ったろう。終わらせると。貴様はここで、そいつに慰み者にされて死ぬ。僕は、愛しいリーゼロッテに殺されるだろう。そして、その次はリーゼロッテさ」

「リーゼロッテと心中する気かい?」

「いいや? 僕が妹の死を見届ける事はないだろうね。でも、リーゼロッテは命を絶つ他に道はないはずだよ」


 片方だけの獣の目は俺を見て、大きく裂けた口はにやにやと嗜虐的な笑みを浮かべていた。今までの話とその瞳を見て、俺は“隻眼”の企みが大よそではあるが理解できた。

 彼を止めなければならない。“隻眼”の人狼が企むのは、リーゼロッテが明日を生きようとする理由を根こそぎ奪い去る事。十年前彼がそうしたように、ハンブルク城に住まう命を根絶やしにする気だ。

 “隻眼”単騎であるならば、ハンブルク城に現存する赤衣隊のみなで打ち倒す事は難しくないだろう。だが、“隻眼”が魅了した人狼の群れを引き連れて攻め入ったらどうだ。


「貴様の飼い犬も、貴様がどこかに連れ去られた事で探しに来ているのだろうな。だが、そうして赤衣の少女たちが出払ってしまえば、城の中に人狼と渡り合えるだけの者は居ないだろうからなあ」

「……果たしてそう、うまくいくだろうか」


 にやにやと笑みを浮かべていた“隻眼”が、俺の言葉でその笑みを納めた。

 人狼が城内に侵入した時点で、新たな防衛策を打ち出している彼女の姿は容易に思い浮かんだ。


「うちの副隊長は優秀でね。俺が浚われたくらいじゃ動じたりしないよ。俺ひとりのために捜索隊を結成するどころか、城内に人狼の侵入を許した事で警備を固めるだろうね。ハンブルク城全体を使って迎撃態勢を整えるはずさ。たとえ、キミを討つ機会を逸してしまってもだ」

「強がりかい? どちらにしても、貴様はここで死ぬ。共に戦う仲間を失い、守るべき者たちも無残に殺され、そしてやっと見つけた貴様はすでに亡骸だった。リーゼロッテはさぞ悲しむだろう事だろうねえ」

「ヨハン、キミは、なぜ妹を悲しませるような事を? キミには理性があるし、意思の疎通が可能なのだろう? それだというのに、何故だい!?」

「何故かだと? そうせざるを得ないからに決まっているからだ!」


 感情の高ぶりが咆哮となって放たれ洞窟を震わせた。“隻眼”は人間の頃の面影を残した表情を歪ませている。怒りや悲しみの混在した彼の顔は、どこか人間よりも人間らしい気がして、俺は言葉を失う。

 今までだってそうだ。人狼化してはいるが、彼の表情は人間以上に感情豊かだった。誰にもぶつける事の出来ない、やりきれない思いをずっと抱え続けてきた者の顔だ。


「半人狼の男は存在する事を許されない。人として生きる事を許されず、人の住まう場所に居場所がないのならば、黒森で人狼として生きるしかない。最初はそれでもいいと思ったよ。人である事を捨てて人狼として生きる道もあるだろうとね。だが、僕はそれすらも許されなかったんだよ……!」


 その言葉の意味はわかる。人狼として生きるのならば、群れに属してそのルールの中で生きなければならない。“隻眼”程の力があれば、魅了などなくとも群れの頂点に立てたであろう事は、想像に難くない。

 だが、彼が自らの子孫を残す事が出来ないとなればどうか。野の獣として生きていくうえで、それがどれだけの絶望をもたらすのか。想像を絶するとしか言いようがない。


「……人としての理性など、人狼化した時に完全に消え去ってしまえば良かったんだ。僕はね、去勢されたせいだろうか、最初に人狼化した時以来、狂乱状態に陥っていないんだよ。ずっと僕は、僕自身の意識を保ったままだ。何も考えず、獣の意思を持つ事すらできなかったんだ!」


 一瞬だが、“隻眼”の姿が人間のものに変わったように思えた。俺の目の錯覚であろうことは明らかだが、彼の中にある人間としての意思が幻を見せているというのだろうか。


「人にも獣にもなれなら、怪物になるしかないじゃないか……」


 涙を流さずに泣くという様を、俺は初めて見た。“隻眼”に共感を抱いたわけでは決してない。ただただ、目の前の男が哀れでならず、何とか救ってやりたいとさえ思えてくるのだ。


「だが、だからと言って、キミはリーゼロッテに怪物として接しようというのかい? 怪物として妹に打ち倒される事が、彼女との間に残された絆だというのかい!?」


 “隻眼”は俺に背を向けた。もう応えてくれる気はなさそうだ。隆々とした体を揺らし、足を引きずって歩いてゆく。その先は洞窟の外だ。この洞窟がハンブルク城からどれだけ距離があるかはわからないが、今宵はもう拠点に攻め入るような事はないだろう。朝日が近い。


「答えろ、ヨハン! ヨハン・フォン・ハンブルク!」


 俺はその背中に向かって叫ぶ。左腕と体内の痛み、そして心の痛みをを振り払うようにして。

 叫びが届いたのかはわからないが、“隻眼”は足を止めた。こちらに振り向きはしないものの、少しだけ顔をこちらに向けてくれたような気がする。


「名前を聞いていなかった。貴様の名前だ」

「ハインリヒだよ」

「……そうか。返すぞ」


 “隻眼”が何かを放って寄こした。月明かりが途絶えて光源のなくなった暗闇の中、緩く風を切る音がして、それは俺が身を預ける岩肌の近くに落ちた。何を「返した」のかはその音でわかった。


「貴様が万が一に生き延びる事があったら、その時はリーゼロッテの目の前で殺してやろう……」


 “隻眼”の人狼は洞窟を去って行った。

 同時に、狩りの姿勢を保っていたアンネリーゼが動き出す。


 ◇


 “隻眼”が去った事で、洞窟には俺とアンネリーゼが残された。ずっと俺に飛び掛かる機会を窺っていた彼女は、魅了の主である“隻眼”が姿を消した事で、ついに行動に移った。身を沈めて蓄えた力を解放するように、俺目掛けて襲いかかってきたのだ。

 その初動は俺にも察知する事が出来た。死の匂いを感じ取ったからだ。とっさに腰のホルスターに手が伸びる。銀の弾丸が装填された拳銃はそこにあった。赤衣隊の隊長ならば携行義務があると、普段からハンナが口を酸っぱくして言うものだから、身に着ける癖がついてしまったのだ。


 だが、拳銃を引き抜きはしたものの、それを彼女に向ける事は躊躇われた。人狼の姿をしているとはいえ、彼女はリーゼロッテの姉なのだ。正体を知らないならまだしも、俺は知ってしまっている。“隻眼”の話とも相まって、拳銃が重く感じられ引き金に指がかからない。

 結局、俺は銀の銃弾を彼女に見舞う事無く、力任せに組み伏せられる事になった。むせ返るような、呼吸すら危ぶまれる香りが俺に圧し掛かる。身長はほぼ同じくらいだが、身に纏う筋肉の量は人間と人狼では格段に違う。体重も向こうの方が何倍も重く、身じろきこそできるものの、拘束から抜け出すのは難しいだろう。


 さあ、彼女はこれからどうしようというのか。俺は抵抗せずに彼女の次の動きをじっと待つ。それは、ふと浮かんだ疑問を確かめるためでもある。これまで一度も行為に成功した事がないと“隻眼”は言っていたが、そもそもそれがおかしな話なのだ。

 理性が崩れ獣性に突き動かされるままに雄を求めているのならば、彼女自らが雄に襲いかかるとは考えにくい。人狼化した半人狼固有の特性と言われてしまえばそれまでだが、彼女の行いが自らの獣性を満たすためのものではないとすれば、いくつかの疑問が解消される。


 結果から言えば、俺の予測は半ば当たっていた。彼女は俺の服を破るでもなく、愛撫するでもなく、苦しそうなうめき声をあげた後、俺の左肩に噛みついたのだ。鋭さと無骨さを併せ持つ人狼の牙が肉を断ち、緩やかに血液が溢れてきた。

 推測の域を出ないが、“隻眼”が魅了を使えるのならば、同じように半人狼から人狼化したアンネリーゼが魅了を使えない道理はない。彼女が情欲を満たそうとするならば、魅了した雄の人狼を自らに宛がえばいいだけなのだ。


 アンネリーゼは自らの内側から湧き上がる情欲に耐えていると、確信を持って言える。“隻眼”の言っていた「自ら人狼の雄を襲う」というのは、情欲に負けて獣と交わるためではなく、行為の対象となり得る雄を排除していたのだろう。

 ではなぜ、目の前の雄を排除するのか。自らの情欲に敗北する前に対象となる雄を消してしまう、という事だろうか。他にも理由は思いつくが、そんなものはどれであっても構わない。重要なのは、彼女が獣性に抗っているという事。人としての意思を手放していない事だ。


「キミは強いんだね。アンネリーゼ」


 右手を伸ばしてアンネリーゼの頬に触れる。するとどうだ、彼女の潤んだ左目からは涙が零れ落ちてくる。彼女にとっては他に方法がなく、自分の意思を守るためにこうせざるを得ないのだろう。


 だからと言って、俺の方もこのまま食い殺されるわけにはいかない。最悪の事態はみんなが回避してくれると信じている。だから、俺自身もまずこの場を切り抜けなくてはならない。だが左肩はもう駄目だ。彼女の牙が骨にまで達している事を、堅いものが砕けるような音で理解する。

 彼女を手にかけたくはない。だが、苦しみから解放してやりたいという思いもある。無事な右手は取り落とした拳銃のありかに届く。拾い上げてグリップを握り、彼女の頭か心臓に狙いを定めて引き金を引く。……今の俺にはその考えを実行に移すだけの余力がある。


 だが、本当にそれでいいのか。どうすれば彼女を救える。理性を取り戻したとしても、それは“隻眼”と同じ苦しみを抱く道だ。では命を奪う事が最善なのか。人狼化して元の姿に戻れないのならば、いっその事……。


「駄目だ、時間がない……。決めるんだハインリヒ……!」


 拳銃を、その銃口を彼女の側頭部に当てる。アンネリーゼは銃を振り払う事はせず目を閉じた。だが、左肩を抉る顎の力は衰えない。撃たなければこのまま噛み砕く、とでも言うように。

 痛みに歯を食いしばり、撃鉄を起こした。この至近距離、加えて頭部という急所中の急所ならば、たとえ銀の弾丸でなくとも命を奪う事は容易い。


 引き金に指をかけ、泣き叫びたいのを必死に堪える。痛みによる悲嘆ではない。現状においてこんな決断しか下せない、情けない自分を恥じ入るものだ。

 呼吸を整えて、もうリーゼロッテに顔向けできないなと、ゆっくりと引き金に力を加え始めた時だった。


 アンネリーゼの苦悶の声、その質が変化したのだ。違和を感じた時には彼女は俺の肩から牙を引き抜き身を離して、おぼつかない足取りで距離を取っていた。苦しげに体を抱くようにして、徐々に身を折って沈めてゆく。

 苦しげな彼女が口から吐き出すのは血液。彼女自身ののものではなく、口内に残っていた俺の血だろう。だが、なぜだ。俺の血に人狼に取って毒となり得る要素があったとでもいうのか。

 確かに普段から服薬している身ではあるが、今宵はその薬を飲んでいない。ならば別の要因か、または“隻眼”があらかじめ何かしていたのか。


 そして、体に変調をきたしているのは彼女だけではなかった。俺の体の痛みも、徐々に別なものに変化してきているのだ。うまい形容が思いつかないが、今までの痛みが傷を負う類のものだとすれば、傷が治る類のものに変わってきているのだ。


「なんだい、これは……!?」


 左肩口から多量の血液が流れだしたかと思えば、みしみしと奇妙な音が聞こえてくる。今までの人生で聞いた事のない音だ。肉が軋み動く、生々しく気持ちの悪い音。そしてそれは、左肩を通じて骨折していた箇所にまで伝播する。

 軋みを上げたのは体だけではない。胴を覆ていたコルセットや左腕を固定していたギブスも、内側から押し上げられるように変形して、金属が歪曲する異様な音を立てている。


 肉体が作り変えられてゆくような感触に恐怖を覚え、かつて耳にした昔話を思い出した。人狼と交わった人間は、同じ人狼と化してしまうという話だ。現在では根も葉もない噂として否定されているが、本当にそうなのだろうか。

 この変貌が始まったきっかけはなんだ。人狼に噛まれた事か。別の要因が関わっているのか。何ひとつ確証を得られるものがなく、それが恐怖を煽ってゆく。驚いた事に、自分が変貌するという恐怖は、痛みや死への恐怖を上回るものだった。

 痛みや死には、長い時間をかけて折り合いを付け、やり過ごす術を身に着けてきた。だが変貌は別だ。自らの体が変貌する事が恐ろしい。目の前で苦しげな呻きを上げているアンネリーゼも、かつて同じ事を感じていたのだろうか。


「……!? アンネリーゼ!?」


 苦しげに身を折ったアンネリーゼには目に見える形で変化が起こり始めていた。彼女の骨格や肉体が縮小して、体毛が抜け落ちてゆくのだ。

 俺に起こっている変貌とはまるで逆だ。俺が人狼化しようとしているのならば、彼女は人狼から人に戻ろうとしている。もはや何故だという疑問は忘れ、この変貌が無事に治まるのを待った。

 だが、互いの身に起こった変貌は長い時間続き、ひどく精神を摩耗させるものだった。


 混濁する意識の中、洞窟の入り口から見えたきれいな月が、やけに印象に残っている。耳には人狼のものと思われる咆哮が聞こえてくる。胴を覆っていた金属製のコルセットがはじけ飛ぶ感触を最後に、俺は再び意識を手放した。




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