3話:リーゼロッテの事情
ハンブルク城に帰りつく頃にはもう日が暮れてしまっていた。予定の時間を過ぎても帰還しない俺たちを心配してか、伐採班や黒斧団の数名が城壁の外まで様子を見に来てくれていた。俺はそれぞれの使いに事の仔細を伝え、急ぎ報告するように言伝して城壁の中へと帰り着いた。
隊宿舎に着くまでにさまざまな人たちから心配の眼差しと気遣いの言葉を頂いたが、幸いにも負傷したのは俺だけで、それも傍目にはどこが負傷したのかわからないような箇所だったため、不安を煽らずにやり過ごす事が出来た。ただ、傍らに寄り添ってきたマルグリットに左腕をつつかれて、痛みに思わず声を上げてしまったのだが、宿舎に入った後だったため外部の者に見られる事はなかった。
「今すぐ処置をします。骨が折れている可能性がありますから」
マルグリットは真面目な表情で告げて、俺の上着を脱がそうとする。俺はその手を一度止めさせ、赤衣隊のみなを宿舎の入り口に集めた。
「これから緊急で会議を開くよ。みんな、自室に装備を置いて会議室に集合してくれ。伐採班と黒斧団にはすでに伝えてある。全員集合したら、会議を始めるから」
解散の号令を出すと、みんなは自室に戻っていく。クラリッサやリーゼロッテが心配そうな顔をするのを笑顔で見送る。そして、玄関口に俺とマルグリットだけが残されたところで、俺はようやく膝を付く事が出来た。
「隊長!?」
強がっているのも限界だった。痛みには慣れているつもりだったが、それは自分を過信していただけなのかもしれない。マルグリットに上着を脱がされ左腕の袖をまくったその下は、内出血でどす黒い色に変色していたのだ。馬上の揺れですら激痛を感じていたものが、いざこうして目の当たりにすると痛みが増してくるように思えてくる。
マルグリットの顔つきが険しくなる。この隊では衛生兵も兼任し、聞くところによると簡単な外科手術なら施せるとの事だ。こういった事態にあっては非常に心強い。マルグリットは慣れた手つきで腕や胴回り、首や肩などを触って症状を見る。
「……折れてますね。それに、左の肋骨にも何本がひびが入っていると思われます。呼吸は辛くないですか?」
「呼吸は今のところ大丈夫かな。しかし、やっぱりか……。骨折するのは初めてだよ。いい経験になった」
「隊長、何をおっしゃっているのですか。他人ごとではありませんよ?」
一本芯が通っているものの、いつもはふわふわとしているのがマルグリットだ。そんな彼女が今はちょっとだけ怖い。当然だろう。あの時、傍目からは俺が自ら“隻眼”の爪にかかりに行ったように見えたのだから。それを止めなかったのは、あの場で動くとかえって状況が悪化してしまうと考えたからだろう。
「もっとご自分を大事になさってください。隊長はあの子たちにとって必要な方なのですから」
「それはキミだって同じはずだよ、マルグリット。すまないが添え木を当てて固定してくれないか。このまま会議に出る」
「馬鹿な事を言わないでください! 隊長の腕は今すぐ手術が必要な状態です。このまま放っておいたら左腕が動かなくなってしまいますよ?」
「大事な時間を失うよりはよっぽどいい。伐採班と黒斧団に方針を伝えたら、リーゼロッテから事情を聴かなければならない。もしかすると、こちらの方は一刻を争うかもしれない」
“隻眼”はもちろん、もう一体の雌の人狼の方も気掛かりだ。リーゼロッテを守るような動きも見せていたし、彼女や“隻眼”と何らかの関係がある事は明らかだ。
「伐採班と黒斧団への指示だけなら、ハンナに任せてもよろしいかと。それにリゼだって、いまさら隊長に隠し事などしないでしょう。わたしたちも知っている事と言えばわずかなものですから、彼女に話を聞きたいと思っていたところです。ちゃんと後で報告しますから、そんなに無理に動こうとしないでください」
力強い眼差しだった。これでは命令だと言っても聞いてくれないだろう。半人狼にとっての命令違反は厳罰以上の仕打ちが待っている事など、彼女とて承知しているはずだ。俺がそういった命令を下せないと思っているのか、俺が命令違反などさせたくないと気付いているのか。どちらにせよ、俺は大人しく彼女の言う通りにした方が良さそうだ。
「情けないな……。こんな事では、すぐに死に追いつかれてしまう」
熱が出てきたようだ。頭がひどくぼんやりしているし、視界はぐらぐらと揺れている。マルグリットが俺を呼ぶ声が反響して聞こえ、ついに俺は意識を失った。
◇
次に意識を取り戻した時、耳には小鳥のさえずりが聞こえてきた。暖かく顔を照らし出すのは陽の光だろう。“隻眼”から逃れて隊宿舎にたどり着いて、どうやら俺はそこで力尽きて気を失ってしまったらしい。
意識は取り戻したものの、まだ夢の中にいるかのような心地でふわふわ宙を漂っているようだ。この感覚はおそらく麻酔によるものだ。という事は、あの後マルグリットは手術を決行したのだろう。痛みがなく、それどころか体が動かせないので確かめようもないのだが。
「あー! ハインツが目を覚ましたですのー!」
耳元で鳴り響く元気な声。どうやらクラリッサが近くにいたようだ。さすがに今日までは俺のベッドにもぐりこんではいなかったようで、薄目を開けた俺の顔を真上から覗き込むと、すぐに誰かを呼びに走って行ってしまった。
わずかに首だけ巡らせて右手側を見ると、こちらを覗き込もうとしていたハンナと目があった。ハンナは慌てて身を離すと、座っていた椅子を俺の上体の近くまで持ってきて、再び座りなおした。
「気分はいかがですか? 隊長」
「悪くないよ。麻酔が効いているおかげかな、今は全然痛みを感じないんだ」
答えると、ハンナはほっと息を吐いて安堵する姿を見せてくれた。何かと言いたい事があっただろうが、それを押して昨日からの隊の動きについて報告してくれる。
「昨晩はマルグリットとアグネスさんが隊長の治療を行ってくれました。左上腕の骨折は、ずれた箇所を修正して補強を行ってます。肋骨の方はコルセットを着けて様子見。今後二か月は激しい運動を控えるようにとの事です」
ハンナの報告を聞きつつ部屋を見回すと、俺の執務机にマルグリットが伏して寝ている姿を見つけた。なかなか隙を見せない彼女がああして無防備でいる姿など、これから先何度も拝めるものではないだろう。尽力してくれた事を感謝せずにはいられない。
「続いて、伐採班並びに黒斧団への指示ですが……」
“隻眼”の目撃及び交戦に入ったため、伐採班並びに黒斧団は、しばらくの間伐採任務を中断。その間黒森を離れてハンブルク城内での任務へと移行する。伐採した黒い樹の加工作業は山のように残っているのだ。燃料用に加工するものや、この城内での補修箇所に当てるものと、その役割は数多い。
それに、都市区へ移送する量を満たしていれば、残った材木は他区の拠点がノルマを達成できなかった時の補填としたり、軍資金調達という名目で売買する事ができる。城下町を行き来している商人たちが燃料を大口で買い付けに来るものもあるので、金額交渉の対応なども彼らに任せる事になっていた。
「さすがだよハンナ。俺がやる事なんかひとつも残っていないじゃないか」
「当然です。仮にも、自分はこの地で一年間隊長業務を行っていたのでありますよ? 経験の浅いハインリヒ隊長に後れを取るわけがありません」
「これは手厳しい」
「赤衣隊や他の班のまとめは自分にまかせて、隊長はしっかり療養してください。隊長が班長やヘルムート団長と渡りをつけてくれたので、こちらとしても以前より円滑な意見交換が可能となっているのですから」
「俺としてはすぐにでも動きたいのだけどね」
「駄目です。どうしてもというのならば、自分が都市区まで赴いて型紙でも仕入れてきますので、服の一着でも作っていればいいのです」
「ハンナ? 俺、左腕動かせないんだけど?」
そこでハンナは調子に乗ってしゃべりすぎていた事に気付いたのか、耳を閉じて縮こまってしまう。机に突っ伏しているマルグリットの耳も開いたり閉じたりを繰り返しているので、もう起きているのは明白だ。俺とハンナのやり取りを盗み聞こうと寝ているふりをしているのだ。
「そ、それより隊長。銀の弾丸を使用した事の重大さ、理解しておられますか? ばれたら軍法会議にかけられますよ? ……報告書を作らなければならないので、確実にばれはしますが」
「“隻眼”を仕留める好機を作り出したと言い訳すれば、お目こぼしをもらえないかな?」
「無理でしょうね。本来ならば、自分たち半人狼の狂乱を止めるためのものですから。……自分は、あの時の隊長の判断を支持しますが、上層部はそうは思ってくれません」
「ハンナの支持が得られたのなら、これほど光栄な事はないな」
「ご自分の立場を心配なさってください! 隊長が免職となれば困る者は大勢いるのですよ?」
同じようなセリフをつい最近聞いた気がするが、どうも歯がゆさが残る。こんな俺を高く買ってくれて嬉しい限りだが、評価に見合った結果を出せていないので、その言葉が心苦しくもある。そんな事をハンナに零したら、「では、それに見合うよう日々精進を重ねてください」と一蹴されてしまった。本当に手厳しい。
そうしているうちに、クラリッサがアグネスさんやらヘルムートさんやら班長を連れてやってくるものだから、部屋の中が一気ににぎやかになってしまった。それに乗じてマルグリットが机から身を起こしたのも、リーゼロッテが部屋に入りにくそうにしながらもフランツィスカに押されて入らざるを得なかった姿も良く見えた。
みんなの話を聞く限り、すでに各員己に下された指示の下動き出しているようで、本当に俺のする事がなくなっていた。かと言って、このまま休んでいるわけにもいかない。アグネスさんたちがそれぞれの持ち場に戻り、部屋に赤衣隊だけが残ったところで、俺は話を切り出す事にした。
「では、話を聞かせてもらおうかな。リーゼロッテ」
用意された椅子に座り俯いていたリーゼロッテがびくりと肩を震わせる。彼女は部屋に残ったみなと一度視線を合わせ、最後に俺の方を見て再び俯いてしまった。リーゼロッテには“隻眼”やあの人狼との関係を聞いておかねばならない。
「……わかりました。お話しますの」
ふっと息を吐き体から余分な力を抜いたリーゼロッテは、眉を寄せやや俯き加減の上目づかいで俺を見た。
◇
「結論から申しますと、“隻眼”とわたくしは血縁関係にありました。“隻眼”の正体は、わたくしの兄が人狼となった姿……。そして片目に傷を負った雌の人狼は、わたくしの姉ですの……」
リーゼロッテは誰の目も見ずに言葉を続ける。赤衣隊のみなも相槌を入れはするものの、彼女の言葉を遮る事無く聞き入った。
「わたくしの両親が亡くなったという話は隊長にもしたと思います。ちょうど十年前の、今ぐらいの季節でした。わたくしと家族を乗せた馬車は、都市区の生家かからここ、ハンブルク城へと向かっておりました。その道行の途中で、“隻眼”の人狼と化した兄に襲われたのです。両親は死に、姉は連れ去られました。わたくしは……」
言葉を止めたリーゼロッテは眼帯を外す。そこには白く残った傷跡だけが残されていた。瞼が縫い合わされているという事は、眼球が損傷したため摘出したのだろう。二度と開く事のない右目を眼帯で覆いなおしたリーゼロッテは、今度は俺の方を見て話を続ける。
「わたくしが軍に志願したのは、人狼と化した兄と姉をこの手で仕留めるためです。……兄が生まれた時、両親はその命を摘み取る事が出来ず、都市区の屋敷に幽閉して生かしていましたの。それが“隻眼”の人狼となって、多くの命を奪いました。……一族の責任として、わたくしが決着をつけねばなりませんの」
強い決意を秘めた目だ。たとえ自分ひとりでも“隻眼”を討つつもりだろう。だが俺はそこに疑問を挟む。
「“隻眼”の件は理解した。だが、お姉さんの方もその手にかけるというのかい? 俺が見たところ、リーゼロッテと意思の疎通ができているように見えたのだが?」
人狼と化して狂乱状態となれば、自分の家族の事すら忘れてしまうものだと考えていたが、リーゼロッテの姉は彼女の事を理解し、逃げるように促したり助けるような動きも見せていた。ならば、彼女の命まで奪う必要があるのだろうかと考えたのだ。
「……おいハインツ。酷な事言うなよ」
部屋の隅で壁に背中を預けていたフランツィスカが、俺を咎めるように言う。その意味をわからない俺ではない。だからこそあえて聞いたのだが、リーゼロッテは首を横に振った。
「姉が理性を取り戻しているように見えたのには、理由がありますの。これはあまり知られている話ではないのですが……。人狼化した半人狼は元の姿に戻る事ができませんが、理性を取り戻す事はあるようですの。月に一度、満月が近づくに連れて、半人狼と化した者は理性を取り戻してゆきます。満月の夜には、完全に人だった頃の事を思い出すはずですの」
初耳だった。確かにリーゼロッテの言うとおり、今まで俺の聞いた事のない話だ。次の満月まではもうすぐで、ならば彼女の姉がリーゼロッテに何事かを伝えるだけの理性を取り戻していたとしても不思議ではない。
「あの時、退却する間際に姉さまは、わたくしに伝えました。次の満月に“隻眼”と刺し違えてでも決着をつけると。もし刺し違える事が出来なかった時は、わたくしがとどめを刺せとも……!」
膝の上で握られた拳には、白くなる程の力が込められている。
「たとえ“隻眼”を倒す事が出来ても、姉さまはもう人には戻れませんの。理性と獣性との狭間で意識が混濁し、陽の光を避けて黒森の中で生きるしかない。そして、獣の本能のままに人を襲うのならば、わたくしは姉さまを討たなければならない……!」
満月と共に理性を取り戻すという話をあまり聞かぬ理由が、なんとなくわかった気がした。人狼と化した大切な人が満月と共に理性を取り戻す事がわかったとしても、姿は獣のままで黒森から出る事は適わず、やがて月が隠れてしまえば再び獣性に支配されてしまう。わずかな希望はしかし、絶望につながっているのだ。
「次の満月の夜、わたくしは“隻眼”を討ちに行きますの。前日には除隊届も出しますので、受理する準備をお願い致しますの」
「赤衣隊を辞めて、キミひとりでいくというのかい? リーゼロッテ」
「ええ。隊のみんなに迷惑はかけられませんの。それに……」
「……そうか、それは残念だな」
リーゼロッテの言葉を遮るようにハンナが声を上げる。彼女は制服のポケットから数枚のメモ書きを取り出すと、それを見せつけんばかりに放り投げた。俺のベッドの上に。
見れば、それは対人狼戦の作戦案をまとめたものだった。この赤衣隊では、人狼と交戦する際の作戦はいつもハンナが立案し、それを現場の状況見て臨機応変に変更するという形を取っていた。メモに書かれていたのはリーゼロッテも含めた赤衣隊5人による作戦だ。
「これでは作戦を練り直すのに時間がかかるな。次の満月まで時間がないというのに、本当に困ったものだ」
ハンナはわざとらしく言って見せる。その気になれば、この場で新たな策を講じて動き出せるだけの能力を持っているにも関わらず、リーゼロッテの脱退を非難する形で言う。除隊を彼女に考え直させるよう仕向けるためだろう。
その考えに賛同したものか、フランツィスカも少しだけ声を大きくしてリーゼロッテに非難の声を向ける。
「まあ、今さらひとりでやるってのは、ないよなあ。俺たちだって人狼をやる理由くらいあるんだ。それが“隻眼”だろうが他の名前付きだろうが変わらねえ。なんなら、リゼが動き出す前に隊長に許可もらって、俺たちだけで動いて片付けてやってもいいんだぜ? 自分の元家族を殺さずに済むんだ。気が楽だろう?」
挑発するようなフランツィスカの言葉は、リーゼロッテを激昂させるには至らない。彼女とて迷っているのだろう。自分の血縁を手にかける事は苦しくも、かといって他の誰かの手で討ち取られてしまうのはやるせない。
「リゼ、いなくなっちゃいやですのー」
今までの話を難しそうに聞いていたクラリッサが、椅子から飛び降りてリーゼロッテの元へ走ってゆく。その小柄な体を抱きとめながら、リーゼロッテの表情は苦しげに歪められていた。クラリッサの特殊な語尾は彼女の真似をしてのものだというのは、ここでの生活を通じてわかった事だ。
リーゼロッテもクラリッサを妹のように大事にしており、彼女の不安そうな顔に心を痛めているだろう。人の感情の機微を嗅ぎ分ける事の出来るクラリッサが不安を表しているのは、リーゼロッテが命を失いかねない事にひとりで立ち向かう決意を、その悲壮さを感じ取っているからだ。隠し事ができなくなった彼女にとどめを刺すかのように、マルグリットがこの会話に加わってくる。
「あなたが危険な事にひとりで立ち向かおうというのならば、こちらにも考えがあります」
マルグリットはそう言って、リーゼロッテの耳元で小声で何事かを呟く。その瞬間リーゼロッテが顔を真っ赤にして、勢い良く椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「ひ、卑怯ですのよ!? よりにもよってこの場でそんな話を隊長にばらそうとするなんて! 信じられませんの! 信じられませんの!」
もう一度「信じられませんの!」と両頬に手を当てて叫ぶリーゼロッテに、どことなく普段通りの雰囲気を感じてしまう。クラリッサが「いつものリゼですのー」と嬉しそうに抱き付いている事から、マルグリットがこの場にそぐわない話を持ち出して、強引に普段通りの彼女へ引き戻してしまったのだろう。何の話かとても気になるところだが、野暮なので詮索しないでおこう。
「もう、もう! なんですのいったい! わたくしは真剣に考えて決めましたのに……!」
「キミだけじゃなくて、みんなも真剣に考えているんだよ。リーゼロッテ。キミをひとりで行かせないために」
まだ息を荒げているリーゼロッテに諭すように言えば、そんな事わかっているとばかりに不服そうな顔をされてしまう。そのまま観念したように椅子に座りなおす彼女を見て、赤衣隊のみなも安心して一息、といった風に肩の力を抜く。
「何も、取り巻きの一家まで相手にする事はねえよ。露払いなら俺が引き受けてやる。その間にリゼは“隻眼”と決着をつければいい。どうせハンナの作戦とやらも、そのためのものなんだろう?」
「ああ。もちろんリゼをお膳立てする用意はできているさ。作戦は最初から、自分たちが囮となってリゼへ向かう敵を引き付けるものだからな」
「あら。では、それ用の装備で向かわなければなりませんね?」
「囮ですのー」
すでに作戦を実行する直前のような気構えになっている隊の面々に、リーゼロッテは嬉しそうな苦笑いを見せる。仲間との絆を断ち切ってまでひとりでゆく事など、彼女にはもうできないだろう。
さて、赤衣隊の結束が一段と強まったところに水を差すようで申し訳ないのだが、俺は気になっている部分をハンナに小声で聞いてみる。
「ところでハンナ、このメモを見る限り、俺の役割が見当たらないのだけど……」
「そんなもの、あるわけないじゃないですか。負傷したことですし、隊長は当分宿舎で療養か机仕事を自分の方で用意しておきますので」
やはりか。わかってはいたのだが、心が萎む思いだった。うなだれる俺を心配してくれるのか、クラリッサが頭を撫でてくれて、さらに悲しくなってしまったのは言うまでもない。
◇
次の満月まで三日。食堂のテーブルを囲み、当日の作戦決行に向けて綿密な打ち合わせをする彼女たちを、俺は一歩引いたところから見ていた。赤衣隊の指揮権は俺にあるものの、ハンナの立案した作戦に口出しできるほど戦術に明るくないし、人狼との戦いにおいても経験値は彼女の方が上だ。下手に助言しても邪魔にしかならないだろう。
「あの時“隻眼”には致命傷を負わせたが、息の根を止めたわけではない。元が半人狼とはいえ、回復力は人狼と同等と考えてよいだろう。やつは、生きている」
ハンナが隊のみなを見渡して、“隻眼”の生存を断定する。人狼の回復力は驚異的だ。さすがに失った手足が生えてくるというわけではないが、部位がつながっていれば再生するし、致命傷も的確な処置さえ行えれば回復してしまう。首に傷を負った時、“隻眼”は患部を押さえて森の奥へと身を引いた。それは首の傷が致命傷である事を、そしてそれ以上動き続ければ死に至るという事を、本能と理性との両方の観点から理解したものだろう。野生の人狼一家と違い、自分の血族が討たれたから相手が動かなくなるまで戦う、という真似はしないのだろう。
「“隻眼”を倒すにはまず、やつの連れている人狼一家を引きはがす必要がある。夜間の黒森で乱戦となっては、アンジーはともかく自分などは五分で死ねる」
「あっは。違いないな」
フランツィスカが茶々を入れるが、ハンナはそれを軽く受け流して説明を続ける。
「あの人狼の大群は、おそらく“隻眼”の魅了によって配下となった一家だろう。だとすれば、“隻眼”は最終的には一家を自分の身代わりとして使ってくるはずだ。いくら自分たちが一家を引き付けていても、その最中に呼び戻されてはたまったものではない」
人狼化した元半人狼がなぜ名前付きで呼ばれる程の存在なのか。それは、フランツィスカが纏う芳香、特殊なフェロモンのような存在を、彼らも持っているからだ。ただ、フランツィスカの場合は人狼の嗅覚を潰し、かつそれらを自らの方へ引き寄せはするが、支配するだけの力はない。
対して“隻眼”をはじめとする名前付きの人狼たちの持つフェロモンは、人狼たちを屈服させて支配してしまう程に強力なものだ。時に半人狼でさえ惑わせるというその力は、魅了という言葉で表現されている。幸いな事に、あの時の交戦では“隻眼”に魅了された者はいなかった。クラリッサが「嫌な匂い」と言った通り、魅了は匂いの波長が合わなければ効力を発揮しないようだ。
「よって、自分たちの取る行動はふたつ。まずひとつは出来るだけ多くの人狼を引き付ける事。もうひとつは、引き付けた人狼の数をできるだけ減らす事だ。“隻眼”が自らの危機に際して離れた一家を呼び戻す事を視野に入れ、少しでもやつの元に帰ろうとする個体を潰すか、あるいは戻れないように時間稼ぎをするか」
「なら、俺が囮役で決まりだな。なんならひとりで全部引き受けたっていいんだぜ?」
フランツィスカが自信に満ちた表情と声でそう言う。彼女の戦いぶりを目にした者なら、本当に言葉通りの結果を出せる事を確信しているだろう。だが、ハンナはその申し出に待ったをかけた。
「いや、アンジーにはリゼと共に“隻眼”を叩いてもらう。正直に言ってすまないが、リゼひとりだけでは火力不足だ。アンジー以外の4人で挑んでも決定打に欠けるという事は、先の“隻眼”との交戦を経てみな理解していると思う」
リーゼロッテは渋い顔で頷く。先の交戦を経て力不足を痛感しているだけに、言い返す事無くハンナの言葉を待っている。
「だから、囮役は自分を含めた残りの3人で行う事にする」
ハンナの言葉にマルグリットが頷きを返し、クラリッサが「はいですのー」と手を上げて応えた。
「作戦決行当日は、黒森に侵入し人狼と接敵するまでは5人で行動。斥候及び人狼一家と接触したら第一段階、緩やかに黒森の中を退却して“隻眼”のご登場を待つ。“隻眼”の出現を確認したところで第二段階だ。リゼとアンジーで相対し、自分たち3人は一家を引き付ける。今回の目標はあくまで“隻眼”を倒す事だ。出来るだけ数を減らすとは言ったが、無理に人狼一家の相手をしなくても良い。それに……」
言葉を止めたハンナは、一瞬だけ俺の方を見た。何かあるのだろうかと疑問の視線を投げ返すが、ハンナはすぐに視線をみんなの方へ戻した。最近俺に厳しすぎではないだろうか。
「……それに、自分たちの生存を最優先とする。犠牲を出してでも“隻眼”を討とうとは思わない事だ。特にリゼ、肝に銘じておいてくれ。もし傷を増やしたり命までやつに奪われる事があれば、ハインリヒ隊長殿が悲しまれるからな?」
ああ、そうか。それを言うために俺を見たのか。名指しされたリーゼロッテはびくりと肩を震わせて俯いてしまう。彼女の姉が刺し違えてでも“隻眼”を討とうとしていると知り、ならば自分もと考えていたのだろう。俺の名前にリーゼロッテを引き留めるだけの力があるのかは怪しいところだが、それで彼女が思い留まってくれれば幸いだ。
「わたくしからひとつ提案があるのですが、よろしいですの?」
挙手と共にリーゼロッテが問う。誰からも拒否の言葉は返らず、無言の頷きを持って促されたので、リーゼロッテは言葉を続ける。
「“隻眼”をおびき出す有効な方法がありますの。狂乱している時ならいざ知らず、理性が戻りかけている時ならば有効な方法が……」
そう言って、リーゼロッテはいつも持ち歩いているヴィオラのケースを、テーブルの上に乗せた。黒森の中で演奏を行い“隻眼”を呼び寄せようというのだ。もしかすると、彼女が任務中常にヴィオラを持ち歩いていたのは、偶然“隻眼”の姿を見かけた時に備えての事だったのかもしれない。
「……兄は、幼い頃わたくしの演奏を聴いていたはずです。ならば、これで誘い出す事ができるかもしれません」
「よし、採用だ」
即決したハンナに頷きを返し、リーゼロッテは続いてフランツィスカを見る。不安げな眼差しで言いよどむ彼女に、フランツィスカはため息を交じりに頭をかいた。
「わかってるよ。リゼの姉貴とかち合ったら、できる事なら共闘する。そのあとは、リゼに任せる」
フランツィスカの言葉に幾度か頷いたリーゼロッテは、ようやく顔を上げて隊のみんなと俺の方を見て、呼吸を整え口を開いた。
「みんな、ありがとうですの……。このお礼は必ず……」
「だとよハインツ。リゼに何してほしい?」
「……ええ?」
フランツィスカがリーゼロッテの言葉を掴んで強引に俺の方に投げつけてきた。ハチェット投げの名手は言葉を投げる事に関しても一日の長があるようだ。思わずフランツィスカの方を見た俺は、そばかすのある鼻をふふんと鳴らし、彼女が意地悪げな笑みを浮かべている様に嫌な予感を覚えた。リーゼロッテも同じような感想を持ったらしく、引きつった頬を冷や汗が伝っている。
「いろいろあるだろ? 尾っぽ交えたり」
「言うに事欠いてそれですの!? 信じられませんの!! それに、ハインツ隊長はそのような要求をするような方ではありませんのよ!? ねえ!?」
「ええ!?」
椅子から勢いよく立ち上がったリーゼロッテは、赤い顔でなぜか俺を睨んでくる。まるで俺が悪いとでも言わんばかりの剣幕に椅子ごと一歩下がってしまうが、その分リーゼロッテが寄って来るので、このまま下がればいずれ壁に追い込まれてしまう。
それに、ここは逃げる場ではないだろう。彼女にひとつ要求できるのならば、ひとつ頼みたい事があったのだ。
「では、こういうのはどうだろう。……リーゼロッテ、俺の作った服をキミに着てほしい」
「はい?」
俺に詰め寄っていたリーゼロッテは、間の抜けた表情を浮かべて動きを止めた。そしてしばらくの間、その言葉の意味を探るかのように身を引いて、じっと俺の方を見ている。事を見守っていた赤衣隊のみなは、リーゼロッテの次の挙動を見逃すまいと沈黙を守っている。
おかしい。俺は別に、今の言葉にそれ以上の意味を込めたわけではなかったのだが……。そんな時だ、ハンナとマルグリットが動きを見せた。ハンナは頭に手を当て呆れたように息を吐き、マルグリットは口元に手を当てて笑い顔。俺の放った言葉が、深読みすればプロポーズとも取れるものだと理解してのものだろう。
ふたりの様子を見て自分の深読みに確信を得てしまったのか、リーゼロッテの頬が熱を持ち始め、いつものように両手で頬を覆い始める。思い返せば彼女はいつもこうして顔を赤くしていた気がする。その原因のほとんどが俺だったように感じるのは、気のせいだと思いたい。
「ハインツー。アリスもハインツの作った服着たいですのー」
「ああ、アリスにもね」
クラリッサに助け舟を出してもらうとは思わなかった。リーゼロッテの方も「あ。そう。そうですのよね。深読みしすぎですの」と、呟いて椅子に座りなおすが、顔の赤みがさらに増してしまった気がする。
笑いをかみ殺して成り行きを見守っていたフランツィスカに呆れの混じった視線を投げかけ、やっと一息とばかり珈琲に口をつけたハンナに、俺は耳打ちする。
「そういうわけで、型紙の調達よろしく頼むよ」
「隊長。まだ左腕、動かせないでしょう?」
結局、俺の腕が治り次第、少女たち5人分の衣装を整えるという事で決着がついた。リーゼロッテからのお礼のはずが、なぜか彼女たちへの報酬を用意するという形になってしまったが、まあこれはこれでやりがいがあっていい。腕が治るまでだいぶ時間もかかるという事もあり、デザインに割ける時間も増えるというものだ。
翌朝から俺はハンナの用意した机仕事に取り組む事になったのだが、その間中何とかして彼女たちの助けになる方法はないかと模索するばかりで、仕事の方はほとんど手に着かなかった。俺が同行してもお荷物になるばかりだとわかってはいるのだが、彼女たちだけを“隻眼”討ちに送り出す事を止めさせたいと考えてしまう。
ハンナの作戦もフランツィスカの強さも、そして赤衣隊の結束も疑っているわけではない。疑ってはいないのだが、どうにも納得がいかない。割り切れないという感情が俺の中で渦巻いていた。ただの我がままだ。隊長として、それよりも一個人として、彼女たちを行かせたくはないと考えている。
あるいは、彼女たちのうちの誰かの死期を、無意識のうちに悟ってしまっているのではないかと考えてしまい、気が気ではなくなるような思いもあった。
そんな俺を見かねたものか、決戦前日の夜。リーゼロッテが俺の部屋を訪ねてきた。




