1話:雨の黒森と人狼、そして赤外套の少女たち
馬車の揺れを全身に感じながら窓の外を見ていると、朝からぐずっていた曇り空がついに泣き出してしまった。雨にさらされる御者の事が心配になり、小窓から顔を出して声をかけるが、彼は無愛想な事にこちらを見もしない。返事の代わりとばかりにフードを目深に被り直したので、俺はそれ以上は話しかけないことにする。屋根に降り注ぐ雨音が耳に心地よく、深く息を吐いて眠る態勢に入った。新天地に就任早々この天気だ、これが俺の未来を暗示しているというのならば、どうにも先が思いやられるというものだ。
小窓から見える風景はひたすらどこまでも続く曇り空で、右手には黒森、そして左手には、こちらもやはり黒森だった。枝葉の絡み合って作られた天蓋によって、昼の陽の光は森の中へは届かない。かろうじで森の入り口の様子は見渡すことができるが、その先は暗澹たる深淵が横たわっている。隊宿舎のある拠点への一本道、その両脇を黒森に挟まれているというのは生きた心地がしないものだが、ここが最前線であるのならばその事実も仕方なしと受け入れよう。
事前に渡された資料によれば、この地域の伐採成果は悪いものではないが、それでも最前線で任務にあたるという精神的な負荷が大きく、多くの脱落者を出したそうだ。今回俺が隊長として着任すると同時に、伐採班も総入れ替えとなるだそうだ。前の部隊が半年足らずで半数を上回る脱落者を出した、というのも要因のひとつかもしれない。
新たな任務の地は黒森伐採の最前線、俺は対人狼戦に特化した半人狼たちの部隊、通称赤衣隊の部隊長として配属される事になった。人狼の脅威の比較的少ない都市区から、黒い領域を臨む最前線へ。出世を望む野心的な士官ならば左遷であると憤慨するだろうが、あいにく俺には野心も出世欲ないのでおあつらえ向きだ。生家はそれなりに名のある一門ではあったが、俺はそこの末弟で家督を継ぐ権利も義務もない。さらにいえば、生来病弱であったため十回目の誕生日を迎える事すら困難だと言われてきた身だ。今生きているだけでも奇跡に近く、訓練時代の知人などは冗談めかして「実は貴様はもう死んでいて、今ここにいるのはその残留思念なのではないか?」と言ってくる始末だ。残念ながら今年で20歳、この通り生きている。
それにしても、まったく失礼な話だ。確かに、昔は毎日のようにベッドの上で吐血して、薬の世話にならければ生きた心地がしないほどではあった。今でも薬の服用は続けているが、あの頃の俺とは違う。病床から起きられない間は知識の詰め込みを行い、少しずつ体を鍛えてなんとか最低限の体力を身に着けると、昔からの興味があった軍隊に志願した。
生家は元々軍需の衣料品を製造する事で栄えた貴族だったが、三代前から士官となる者が出始め今では立派な軍人家系だ。俺は一兵卒としての入隊を望んでいたのだが、家名がそれを許さず士官候補としての入隊と相成った。それでも、訓練の過酷さは一兵卒に劣るものではなかったが。
やがて士官学校を卒業した俺は、士官としてではなく修繕兵科、拠点施設での兵士の衛生面や装備、主に衣料関係の補佐を行う役割に進む道を選んだ。人員が足りないときは伐採部隊や工兵として、あるいは看護兵としても借り出される都合のいい役回りではあったが、その仕事は俺に取って充実感を得られるものだった。
ただ、俺が士官以外の道を選んだ事で、家族や親類縁者からは完全に見放されてしまっていた。父や兄たちからは家の恥だと苦言を頂いてしまっている。元々生家が仕立て屋であった事を完全に忘れているような言いようには、さすがに辟易してしまった。親類の態度も同じようなもので、そもそも幼少期に俺が病に伏していたため「ああ、あの病弱な」と、薄ら笑いなど浮かべてくれる程だ。
生来特殊な病を抱えている俺に取り入ろうという者は居なかった。俺の病の原因がわかっているだけに、加えて一門の恥さらしと揶揄されている俺を利用したところで益など無いと、そう思われていたのかもしれない。こんな俺の身を心配してくれる者など、生家のある都市区には誰ひとりとしていないのだ。
いや。誰ひとり、というのは語弊があるので少し補足しよう。俺が病床から起きられなかった子供時代、身の回りの世話をしてくれた半人狼の侍女への恩は今でも忘れていないし、外へ出られない俺のために気を使ってくれた気さくな庭師の顔もよく覚えている。病弱な俺のためにレシピを気遣ってくれていた料理長も。訓練時代にも気の合う仲間は何人もいた。彼らは俺が辺境の最前線に移動となった事を知れば、心配して手紙をくれるかもしれない。
ただ、その彼らがみな都市区の外の地域へと出て行ってしまい、その中にはもうこの世にいない者や、行方知れずとなってしまった者いるという事が、「都市区には誰ひとりいない」という言葉の正体なのだ。彼らが息災であることを望まずにはいられない。昔の心地よい夢を遮るかのように、雨音の先で事態は動き出していた。
◇
馬車が大きく揺れて体が向かいの席へと投げ出される。向かいの椅子に体ごとぶつかった衝撃で俺は目を覚ました。急停車にしても乱暴すぎるが、何せこの雨だ。ゆかるみに車輪が取られてしまったのかもしれない。心配して小窓から御者の様子を伺うが、彼の姿はなかった。今の衝撃で地面に投げ出されてしまったのだろうか。俺は急いで馬車の外に出ようとして、扉に手をかけたところで動きを止めた。小窓から見える周囲の光景が異様なものに変わっている事に、その時点でようやく気付いたのだ。どういうわけか馬車は元の道を外れ、黒森の中へ入り込んでしまっていたのだ。
どういうことだ。小窓から街道の方を見ると、馬車を引いていたはずの馬は鞍から外され、元の道を逃げてゆくのが遠くに見える。その二頭の内の片方に御者の姿を見つけ、俺はなんとなくではあるが事情を察した。俺は黒森に置き去りにされたのだ。誰の差し金かは知らないが、この件はしっかりと軍部に抗議させていただこう。この黒森を生きて脱出できればの話だが……。
たかが森の入り口と侮るなかれ。黒森においては樹の幹が見える位置にいる間は安心してはならない、それが軍に入隊して最初に教わる言葉だ。黒森に住まう人狼は陽光を嫌い森の外に出てくることは稀だが、短時間ならば街道や野営地に現れて人を襲うことがある。今は曇り空どころか土砂降りの大雨だ、人狼が黒森から進出できる距離も晴れの日より格段に伸びていることだろう。まして、俺はまだ黒森の中にいるのだ、次の瞬間には命を落としていてもおかしくはない。
俺は急いで自分の服用している薬と、支給されたばかりの真新しいライフルだけを手に取り、暗いグレーの外套をフードを目深に被った。黒森の中となれば、もはやこの馬車の中とて安全ではない。次の瞬間にも剛毛と鋭い爪を携えた丸太のような腕が、窓を突き破って侵入し、この身を易々と引き裂いているかもしれない。
ライフルのレバーを操作して薬室へ弾丸を装填する。そっと馬車の扉を開けて、しかし急いで馬車の外へ身を躍らせるような真似はしない。もし近くに人狼が潜んでいるのなら、外に出たところを狙ってくるかもしれないからだ。俺は手近に転がっていた荷物の中から、お土産にと持ってきていたチョコレートの缶詰を手に取り、開けたままにしていた扉の外へ向けて、ゆっくりとそれを放った。缶詰はゆるい弧を描いて湿った暗褐色の草の上に落ちる。続いてもうひとつ、今度はもっと遠くへ投げる。これもゆっくりと弧を描いて半ば地面に埋まるようにして落ちた。
ふたつの缶詰は人狼の注意をひきつけるためのもの。扉が開け放たれ、ゆっくりと放られる缶詰を見たのならば、馬車の中に人がいることを認識するはずだ。ここで突然、何か素早い動きがあれば、馬車に注目している人狼の目をそちらに向けることもできるだろう。たとえば、足元に転がっている最後の缶詰を、思い切り遠くに放ってみればどうか……。
缶詰を放る、というより投げてすぐに、ライフルの銃口を外へ向ける。こいつに反応して飛びついてくれれば、少なくとも一発は人狼の体にお見舞いできるだろう。だが、投げた缶詰は樹の幹に当たって跳ね返り、暗褐色の草の上を転がった。放った缶詰に反応するような生物は、この近くにはいない。
果たして人狼はいないのか。わずかな安堵が胸に湧いたとき、馬車の屋根に水が滴となって落ちる音が聞こえた。黒森の中では捻じれ絡み合った枝葉の天蓋から、幹を伝って雨が滴り落ちてくる。稀に枝葉の腐り落ちて穴の開いたようになった個所から、滝のように雨水が降り注ぐことがあるそうだが、その落下地点はまるで湖のごとし水たまりができるのだという。
ならば、この周囲に水たまりはあるか。腐り落ちた枝葉の残骸は。偶然にも枝葉の間に隙間が生じ、そこから天蓋上の雨水がわずかに流れ込んで来ているだけかもしれない。だが、そうでなかったとしたら。
俺はライフルの銃口を屋根に向けるように、そっと縦に構えた。どうしても、この馬車の屋根に人狼が乗り掛かり、息を潜めているであろう可能性を捨てきることができない。豪雨は枝葉の天蓋を叩き、森の中に音を反響させる。雨に濡れた草葉の匂いにかき消され、獣の残滓を嗅ぎつけることができない。腰のシースに納めてある支給品のトマホークも、軍の正式採用とされているこのKHM-26ライフルも心許ない。人狼の強靭な肉体に対しては、どれほど銃弾を浴びせたところで効果は薄い。ただの鉛の弾丸では、急所を狙わない限り致命傷を与える事が出来ないのだ。銃口の先で光る銃剣とて、急所を突かなければ人間の膂力では奴らの肉体を貫くことは困難だろう。
引き金に指をかけ、深く静かに息を吐く。本来ならば対象を確認しないまま引き金に指をかけることはご法度なのだが、こと人狼に関しては視認してからでは遅すぎる。狭く視界の限られている馬車の中では尚更だ。焦燥感が胸を焼いている。
気の置けない生来の友人が隣にいるようで、本当に辟易してしまう。死という名の友人だ。幼い頃はベッドの中で、いつもその存在を傍らに感じていた。冷たく優しい手が、もう苦しみも何も感じない暗がりへと誘うように手招きしている幻は、幾度となく夢に見てきた。体を鍛え逃げるようにベッドから這い出しても、軍に入隊して休む間もなく訓練や任務に打ち込んでも、友の気配は常に近くにあった。今は、隣にいる。
こうして友の存在を身近に感じるていると、決まって焦燥感に襲われるのだ。焦り、生きて何かをなさねばならないという焦りだ。生存への欲求が焦燥という感覚となって、今まで俺の背中を押してきたが、そろそろ共にどこかへ行こうと手を引こうとしているようにも感じられる。もしここで人狼を目の前にしたら、その焦燥はいよいよ耐えがたいものとなるだろう。
そして、その時は唐突に訪れる。馬車の材質が軋む音を耳にした瞬間、俺は躊躇わずに引き金を引き絞っていた。銃声が馬車の中に反響し、火薬の煙が室内に舞ってわずかに視界と嗅覚を奪う。撃ちだされたスラッグ弾は馬車の屋根を貫通して、細かな破片を頭上に舞わせる。視界が晴れぬままだがレバーを操作して排莢、次弾を薬室に装填する。訓練で幾度も繰り返し体に染みついた行為は、考える間もなく次の動作へ繋がってくれる。対象への弾着が確認できない以上、ライフルは常に撃てる状態にしておかねばならない。
だが、馬車の屋根の上に人狼がいるというのは俺の妄想の域を出ていない。人狼の姿をこの目にしていない以上、誰もいない黒森の中でひとり相撲しているだけだという可能性の方がはるかに高いのだ。だがそうだとしたら、まだ人狼の姿を目にしていないというのに、この胸が張り裂けそうな焦燥感にどう説明を付ければいいのだろう。
ふいに、木材が砕ける音と共に、俺の体は強い力に引っ張られて宙を舞った。馬車から投げ出されたのだろう。視界が上下の認識を放棄し、体が緩やかな浮遊から落下へと変わってゆく。とっさにライフルの引き金から指を離しつつ、ライフル本体を胴体に密着させ、体を丸くする。暴発の危険を避けるためと、武器の喪失を防ぐため、そして身を守るための行動だ。訓練時代の蓄積はここでもこうして生きてくる。
堅く冷たい草に覆われた地面の上に落下した俺は、そのまま身を丸めて転がり、その先の黒い樹の元で身を起こす。樹の幹に背を預けて片膝で立ち、銃口を正面、馬車の方へ向ける。すると、やはり人狼はいた。馬車の屋根の上に一体。馬車の扉はばらばらに砕けて原型を失い、扉がはまっていた空間は人狼の剛腕によって大きく抉り取られていた。どうやら開けていた扉から人狼が腕を差し入れ、中の俺をつかみ出そうとしたようだ。幸いなことに、人狼の爪がひっかけたのは俺の体ではなくライフルの方だったようで、心許なかったライフルの腹の材質が、木の部分は削れ鉄の部分は歪んでしまっている。構造上、このまま発砲すれば暴発する危険がある。
申し訳程度に銃剣の切っ先を馬車の方、人狼の方へ向けてその個体を観察する。黒い毛並みの個体、体長は一メートル後半といったところか。資料で目にした人狼の平均サイズと比較すると明らかに小さく、まだ未成熟な個体であろうことが推測できる。だが、仮にこの人狼が子供だとすれば、親や兄弟が近くにいるであろうことは想像に難くない。
人狼の習性のすべてが明らかにされているわけではないが、それらが群れを成して行動するという事は、まだ教育を受ける歳に至っていない子供でも知っている。その知識を裏付けるかのように、周囲の樹の陰から次々と人狼が姿を現した。数は七体、馬車の上にいる個体と合わせて八体だ。人狼の体格は馬車の上に陣取っていたものと同サイズの個体がほとんどだが、そのうち一体は三メートルに届かんばかりの巨体だ。この群れの主か親か、いずれにせよ俺の生還できる道は狭まった。胸を焼く焦燥感も全身を裂かんばかりだ。
もしここで命を終えるのならば、銃弾の一発でも、あるいは銃剣の一撃でも人狼に見舞ってやれれば、軍人としては本懐なのだろう。しかし、俺はそうは思わない。修繕兵科らしく、兵士たちの衣を整えてやることができれば、そしてその兵士が生きて再び家族の顔を見ることができればいい。それこそが幸いであり、そういうものを見届けた先の自分の死であるならば、甘んじて受け入れようとしていただけに、この結末が残念でならない。
「本当に、残念でならないな」
暴発の危険を承知で引き金に指をかける。馬車から放り出されるときに人狼の爪がかすめたものか、レバー部分の金属がひしゃげてしまっていて、これでは次の銃弾を装填できそうにない。どちらにせよ一発撃てればいい方だなと深く息を吐いて、前足を付いて俺の方へと近寄ってくる人狼たちを待った。
もうひとつ心残りがあるとすれば、俺が部隊長として配属されるはずだった半人狼部隊は女性ばかり5人で構成されていると聞き及んでいた事だ。都市区では迫害の対象でしかなかった半人狼だが、俺にとっては人間の女性となんら変わりない。
ひと目だけでもその顔を見たかったという願いは、この状況を前にしては贅沢なものだったろうか。俺に任務を与えた士官殿は口の端を歪め、冗談めかして「美人ばかりの部隊だそうだ」と言っていただけに、それを確かめられなかった事に悔しさが込み上げてくる。状況が変化を見せたのはその時、まさに悔しさが込み上げてきた時だった。
◇
群れの中で最も巨体を誇る個体、その個体の右側の首元に突如、ハチェットが突き立ったのだ。黒い樹の伐採用として、あるいは人狼から身を守る護身具の役割も少しは秘めている品が、である。まるで手品のように、人狼の首元に刺さる形で出現したそれを、俺は最初風景の一部として認識してしまっていた。
ハチェットが回転しながら飛来する様も、それが人狼の首元に突き刺さる様もこの目にとらえることができなかったのだ。もしそれが人の手によって投げ放たれたものだとすれば、人狼の太い首元に突き立つだけの膂力を持って投げ放たれた事になるのだし、周囲には人狼の群れと、それに取り囲まれている俺の姿しか見つけることができない。そんな事が出来るのは……、いや、まさか。
一呼吸ほどの短い時間で、人狼たちはやっと事の異様さに気付き始めていた。首元にハチェットが突き立った人狼は患部から止めどなく体液を流し始めているし、他の個体は心配するかのように負傷した仲間のところへ近寄ってゆく。そして、今度こそははっきりと、俺の目にもわかりやすい形で事態を捉えることができた。
負傷した人狼の、ハチェットが刺さった側に回り込んでいた個体の頭が、おそらく同じ方向から飛来したハチェットによって切断されて宙を舞ったのだ。仲間の頭が地面に落ちるより早く、人狼たちは前足を地について体を武器が飛来してきた方へ向けると、一斉に木々を振るわせんばかりの咆哮を放ったのだ。耳を割らんばかりの咆哮は威嚇のためのもの、侵入者に対して縄張りを荒らす事なかれと主張するための轟音だ。同じ人狼ならばその威嚇で通ずるものもあったのだろうが、あいにくこれを行った主は人狼ではないらしい。
三体、群れの中では比較的大きな体躯を誇っていた個体たちが、弾かれたように脅威の発生源たる方向へと駆け出してゆく。恐るべき速さだ。静止した状態から前傾姿勢となり、全身に力を貯めた状態からであるとはいえ、その速度は馬をはじめとする有蹄類たちをはるかに凌駕する。このような速度で動かれていたのならば、たとえ俺がライフルの引き金を引き絞っていたところで銃弾を命中させる事はできなかったであろう。
そして三体の駆けてゆく先、ハチェットの射出地点と思わしき方向からも、人狼の群れを目指して疾走してくる影が見えた。遠目であり、かつ今この場所は黒森で、曇り空に豪雨という自然の光源がほとんどない夜にも近い暗さであるにも関わらず、こちらに向かって疾走してくるふたつの小さな影は俺の目にもはっきりと見つけることができた。目にも鮮やかな赤い外套を纏い、フードを目深に被っていたのだ。
人狼の巣食う黒森の中において、鮮やかで目を引きやすい色を纏う事は自殺行為にも等しい。だが、部隊の中にひとりか、あるいはその鮮やかさを纏った者たちだけで構成された部隊が存在することも確かだ。黒森の中において鮮やかな赤色を纏うのは、その身が半人狼の少女である証だ。自らが鮮やかな色を身に纏い、人狼の目を引いて負傷兵や伐採部隊の撤退を支援するための囮なる、そういった役割を担った者たち。
群れへと疾走してゆくふたりはフードを目深に被っていてその顔を見ることはできないが、前頭部あたりから二本、一対の突起のようなものが見て取れる。これこそが、彼女たちの半人狼の固有器官である耳を覆っているものであり、彼女たちが彼女たちである証だ。
ふたりの赤衣と三体の人狼は今まさに接敵する。そのままぶつかって白兵戦を始めるのかと思いきや、ふたりの赤衣は三体の人狼の間を巧みにすり抜けて、一番最初に傷を負わせた巨体の人狼へと近接したのだ。
人狼に匹敵しうる恐るべき速度をそのままに、赤衣のひとりが外套の内側から新たなハチェットを取り出す。前に二度、投げ放ったものと同じハチェットだ。その柄を持ち替え、刃の背中側、ハンマーのようになっている箇所が前に来るように構えているのを見て、彼女の狙いがなんとなく理解できた。未だ自らの首に突き立ったハチェットを抜く事ができていない人狼に止めを刺そうというのだ。体躯を見るに、この個体が群れのリーダーであるという判断を下したのだろう。いい判断だ。統率者を失った群れは散り散りになり、新たリーダーを立てるには多少なりとも時間がかかる。リーダーをはじめ仲間を失った群れが撤退するという報告は残念ながら聞いた事がないが、統率者の有無は群れを駆逐するうえでは大きな差となりうる。
だが、当然そううまくはいかない。負傷した仮称リーダーの元に残った二体が、リーダーを守るようにふたりの赤衣を待ち構える。人同士の戦いならば、向かってくる相手にタイミングを合わせて迎撃という形をとるのだろうが、人狼対半人狼の戦いは違った。人狼たちはふたりの赤衣が近づいてくるのに合わせて、まるで大型動物に反撃された狼の群れのように三方に散開しつつ併走する。これに加えて、先ほど少女たちが置き去りにしてきた三体の人狼もリーダーの元へと戻ってきているのだ。このままではリーダーが手負いとはいえ、合計七体の人狼に取り囲まれる形なってしまう。
目の前を赤と黒の色が通過する様を見て、小さくだが思わず驚きの声を上げてしまった。リーダーと赤衣の方へ引き返していた三体のうち、一体の姿がないのだ。もう一体は何処へ? 俺が赤衣の少女たちの来た方向へ視線を向けるのと同時、ふたつの事が同時に起こった。
ひとつは赤衣のうちひとりが、俺が先ほど放っていた缶詰に足を取られて盛大に転倒した事。……ふたりのうち小柄な方で、しかも転倒の際に「ふぎゃ」と可愛らしい少女のうめき声が聞こえてきている。もうひとつは、赤衣の少女たちが疾走してきた方向から複数の銃声が響いてきた事だ。
そして、今起こったふたつの出来事に続く形でもうひとつ。銃声によって足を止め、その方角を振り向いた人狼のうち一体の首が宙を舞ったのだ。斬首は投擲されたハチェットによるものではない。その証拠に、頭を失って崩れ落ちる人狼の傍らに、鈍い銀色に輝く曲刀を手にした赤衣の少女が佇んでいたのだ。続いて迫り来る銃声。こちらも赤衣を纏った少女たちがふたり、人狼たちを威嚇するかのように交互にライフルを発砲し、速足で曲刀を持った赤衣と合流しようとしていたのだ。
そして、新たな3人の赤衣が姿を現した様に気を取られている間に、半人狼対人狼の勝負は半ば決していた。耳を割らんばかりの咆哮、まるで断末魔のような響き。視界をそちらに移せば、仮称リーダーの人狼の首が、今まさに胴体から切り離されたところだった。細く黒い針金の様なもの、罠の工作などに用いられるワイヤーで体の自由を奪われ組み伏せられ、首に突き立ったままになっていたハチェットに赤衣の振るったハチェットが打ち付けられたのだ。刃の裏同士、ハンマーの部分同士が鈍い金属音を響かせて、人狼の首は肉も血管も、太い骨をも一息に断ち切られていたのだ。最初八体いた人狼も瞬く間に四体、しかもリーダーである人狼を仕留めたことで、統率者がいなくなった。
生き残った人狼たちは口々に短く鋭い咆哮を挙げて、そのうち三体はリーダー格を討ったふたりの小柄な赤衣を取り囲む。残り一体は曲刀を携えた長身の赤衣と、それに合流しようとする残りふたりの赤衣を警戒する。こう着状態が生まれた事で、俺にも少しだけ知恵を働かせるだけの余裕が生まれた。加勢するべきか、状況を静観するべきか。
対人狼戦の訓練は受けているが、実戦はこれが初めてだ。そもそも武装したとはいえ生身の人間が人狼に適うわけがない。それに対し、赤衣の少女たちは対人狼戦に特化した存在。ここは手を出せば彼女たちの連携を乱してしまうかもしれない。静観するべきだろう。
悔しさを押し殺して状況を見守れば、いとも簡単に決着は付いた。まず、曲刀持ちとライフル持ちの3人を警戒していた人狼の首がいつの間にか切り落とされていた。その技を行ったのは曲刀持ちの赤衣で、すぐさま三体の人狼に取り囲まれている小柄なふたりの元へと駆け寄ってゆく。その姿は幽鬼のように気配も足音もなく、赤衣を纏っているにも関わらず、注視しなければ彼女が移動した事を認識できなかったかもしれない。
そして三体に取り囲まれていた少女たちもそのままであったわけがなく、俺が目を離したわずかな時間にすでに一体を屠っていた。その方法は目にも明らかで、先ほどリーダー格を拘束していた黒いワイヤーを用いて一体の動きを止め、その隙にハチェットで致命傷を与えるというものだった。
小柄な赤衣の少女ふたりは、ひとりはハチェットを構え、もうひとりは重しの付いたワイヤーを振り回していた。ワイヤーの重しとなっているのは支給品のトマホークだろう。ひと昔前まで軍隊における支給武装の中にナイフがあったのだが、現在では利便性を重視したトマホークにその座を譲っている。勝敗を分けたのは缶詰を開けられるか否か、という点だった。なけなしにも斧の形状している事から、黒森と人狼に対する対抗の精神を表しているとも言われている。
生き残った人狼二体は前後を赤衣の少女たちに囲まれる形となり、背中合わせのようにして互いの位置を入れ替える動きを見せていた。そこから先はまるで流れ作業のような手際の良さと鮮やかさを垣間見た。小柄な赤衣がワイヤーを放ち人狼の動きを鈍らせたところへ、もうひとりの小柄がハチェットを投擲し致命傷を与え、それに気を取られた人狼の喉元を曲刀の刃が煌めき薙いだ。人狼たちは瞬く間に物言わぬ姿へと変わってしまったのだ。リーダー格の時とは違い、最後の咆哮を上げる事すら許されなかった。
◇
人狼の群れは地に伏し危機は去ったが、俺はまだ緊張を解けないでいた。人狼たちの咆哮や、リーダー格が命を落とす前に挙げた断末魔がまだ耳の奥に残響しているのだ。あるいは、黒森の特殊な木並がその咆哮を反響させているのかもしれない。それらの響きがどこか呪いの言葉じみて聞こえ、胸の奥を焦燥感が焼いているのだ。
「ご無事のようですのね。新しい隊長殿?」
少し高めの澄んだ声が、俺のやや斜め上から聞こえてきた。見ると、ライフルを携えた赤衣の少女のうちひとりが、俺のすぐそばまで近付いてきていた。彼女の接近に気付かないほど俺は緊張していたのか、それとも彼女たちは足音や気配を殺して素早く動く術でも身に着けているというのだろうか。
目の前にいる彼女、その顔は目深に被られたフードによって隠されてはいるが、言葉遣いや佇まいから育ちの良さを感じさせる。軍隊慣れしていない言葉遣いは、この隊の自由さを表しているのか、それとも俺への侮りが込められているのか。どちらでもいい。今生きている事、そして生きて彼女たちの顔を見られる事への感謝を。
「助けてくれてありがとう、感謝している。本日付で南方第七区へ配属となった、ハインリヒ・フォン・シュナイダーだ。赤衣隊隊長及び、伐採班隊長兼任となる。よろしく頼むよ」
座ったまま小さく敬礼し、その手を差し出して握手を求める。気難しいと話に聞いていた半人狼の少女は、果たして応じてくれるだろうか。
「驚きましたの。わたくしてっきり侮られているものだとばかり……。無礼をお詫びしますの」
少女は握手には応じなかったが、自らのフードを取って顔を見せ、俺と同じように小さく敬礼して見せた。さらさらでクセのない亜麻色の髪の少女だった。今まで布地の拘束に耐えてきた両耳が幾度も痙攣するように動き、それがつくりものではなく彼女の体の一器官であると主張しているようだった。きれいで整った顔立ちながら、右目に当てられた黒い眼帯が彼女に不釣り合いな気がして、どこか違和を感じる。
「申し遅れましたの。わたくし南方第七区赤衣隊副隊長を務めております、リーゼロッテ・フォン・ハンブルクですの。以後お見知りおきを、新しい隊長殿」
リーゼロッテはそう名乗って、敬礼を解いた手でやっと俺の握手に応じてくれた。そしてそのまま握った手に力を込めて、俺を引っ張り上げて二足で地に立たせてくれた。先の人狼といい、この少女といい、人狼の血はすさまじい膂力を発揮するようだ。俺を引っ張り上げたリーゼロッテはというと、自らの行い何か思うことがあったのか、途端に顔を真っ赤にして弁解を始める。
「た、隊長殿? 念のため、誤解無きように申しておきますが、わたくしの獣性は2度。さすがに殿方を軽々と引っ張り上げる事は容易ではありませんの。今だって渾身の力を込めて隊長殿引っ張ったわけでありまして、こんなこといつも行っているわけではありませんのよ? ほんとうに、ほんとうにですの!」
自分の非力さを力説されても、こうして軽々と引っ張り上げてしまわれた後では説得の甲斐もない。だが、彼女の乙女心を守るのはやぶさかではないので、ここは素直に頷いておこう。両耳をせわしなく動かすリーゼロッテは、赤らんだ両頬を手で押さえて視線をさまよわせると、近くにいた赤衣の少女に水を向けて逃げようとする。
「そう、そうですのよ。獣性5度の“狂犬”とは違って……」
獣性5度。数字としては、日常生活を送ることが許されず、独房へ隔離されるか、あるいは拘束次第その場で処刑されるかといった危険なものだ。その獣性5度がこの隊には所属しているというのだろうか。リーゼロッテの視線の先には、両手に人狼の血が付いたハチェットを携えた少女がいた。付着した血をぬぐいもせず腰のベルトに柄を差すと、こちらに挨拶もせず他の少女たちのところへ歩いて行ってしまった。
あの子は確か、最初に現れたふたりのうちひとり。ハチェットでリーダーに止めを刺した子だ。拾い上げたハチェット誰に渡すでもなく自らが所持したままという事は、最初とその次の、あのすさまじき投擲は彼女の手によるものだったのだろう。獣性5度という言葉の説得力が重みを増してくる。
「“狂犬”フランツィスカ。獣性5度でありながら特例にて編隊行動を許可されている変わり者ですの。なじみの者以外には気難しい部分もあり失礼を働くかもしれませんが、どうか容赦してやってほしく思いますの」
仲間の事を気遣う響きがリーゼロッテの言葉にはあった。彼女を心配そうな表情のままにしておくのはよくないなと思い立ち、俺は他の隊員たちを紹介してくれるかなと言い残して、遠巻きにこちらの様子をうかがっている少女たちの方へと歩みだした。
リーゼロッテはすぐに俺を追い抜いて仲間たちと合流する。そして仲間たちと手短に話をした後、フランツィスカと呼ばれた少女以外はフードを取って顔を見せてくれた。士官殿の言った通り、美人揃いであるのが嬉しくもあり悔しくもあり、複雑な心境だ。
その中のひときわ小柄な、ゆるいクセのある薄い金髪の少女が小走りに駆け寄ってきた。この子は確か、最初に現れたふたりのうちひとり、フランツィスカではない方の子、ワイヤーを巧みに操っていた方の子だ。俺が放っておいた缶詰に足を取られて転んでしまった子でもある。
かすかに赤くなったおでこをさすりながらも、飼い犬のようにすんすんと鼻を鳴らして近寄ってくる。匂いを嗅いでこちらを探っているという事は、それなりに獣性が高い証でもある。なるほど、獣性5度のフランツィスカに併走できる脚力となれば、彼女も相当な身体能力の持ち主なのだろう。
「クラリッサですのー。アリスって呼ばれてますのー」
クラリッサはそれだけ言うと、満面の笑みとと共に俺の腰に抱き付いてきた。思わぬ事態に足を止めてしまった俺に構うことなく、クラリッサは俺の鳩尾のあたりに頬ずりし始める。獣性が高い半人狼は気に入った相手にすり寄って自分の匂いを付けるのだと聞いたことはあるが、出会って間もない男にこんな事をするものだろうか。
疑問と驚きを得たのは俺だけではなかったようで、少女たちの表情もかすかな驚きを浮かべたものに変わっていた。クラリッサを伴って彼女たちのところへ合流すると、黒髪の娘が微笑をこぼすのを見た。長くきれいな黒髪をひとくくりにした娘だ。表情は優しげで背が高く、物腰には落ち着きと余裕が見られる。おそらくこの部隊の中では最年長、もしかすると俺と同い歳かもしれない。
その黒髪の娘は目を細めた微笑を浮かべたまま、俺の方へと歩み寄ってきた。薄紅色の唇が笑みの形から言葉を発する動きに変わる。
「アリスが初対面の殿方にそうして懐くの、珍しい事なのですよ? 新しい隊長さん」
やはりただ事ではなかったのか。クラリッサは相変わらず嬉しそうな表情を浮かべたまま頬ずりを続けている。白い頬が擦り切れてしまわないか心配だ。その様子になおもくすくすと笑う黒髪の少女は、クラリッサの髪を手ですきながら言葉を続ける。
「ですが、この子がこんなに懐くという事は、少なくとも新隊長さんが私たちの嫌いなタイプの殿方ではないという事。よろしければ末永くご一緒したいものです」
声色にどこか妖艶さを感じさせる黒髪の少女は、自らをマルグリットと名乗った。彼女の腰には鞘に収まった武器、先ほど鈍い輝きを見せた曲刀が納めてあった。軍の支給品ではない。彼女自らが持ち込んだ武装だろう。
赤衣隊に所属する兵士たちには他の兵科同様、ライフルとトマホークが支給されているが、中にはマルグリットのように固有の武器を持ち込む者も多いと聞く。たとえば、先にリーゼロッテから紹介を受けたフランツィスカだ。彼女が所持していたハチェットも、そういった固有武装のひとつだ。
「珍しい刃を用いるのだね」
興味を抱いた俺がマルグリットに聞くと、彼女は腰のベルトに指していた刀を鞘ごと抜いて、俺に見えるように掲げてくれた。大昔の戦に用いられていた両手剣ではない。どこか他の文化圏で作られた品なのだろう。
昔資料で読んだ記憶を手繰れば、刀という単語が浮上してくる。俺がその武器の名を言い当てると、マルグリットは笑みをさらに深くして頷いてくれた。
「刀の事をご存じですか? ええ、芸術品や骨董品の色が強い品ではありますが、非力な私にとっては唯一人狼に致命傷を与えることのできる代物です。手入れをはじめ取り扱いには難がありますが、奇襲がてらに二、三体を一撃で屠ることが適えば、最上の役割を果たしたといっても過言ではございません」
マルグリットは謙遜するように言うが、仲間の援護があったとはいえ、二、三体どころか半数の人狼を一刀の下に切り捨てている。刀は手入れもそうだが、扱うにも相当な技術が必要だと聞くし、それに彼女のあの気配を感じさせない動きだ。半人狼の身体能力としては説明がつかない部分も多くあり、それは彼女が何らかの体術を修めている証でもあるだろう。
そして、少しばかり饒舌になってきたマルグリットを遮るように、こちらも背の高い銀髪の少女が一歩前に出た。鋭い目つき、姿勢は良く全身に緊張が漂っているが、険悪な雰囲気というわけではない。ただ単純に堅いというだけのようだ。リーゼロッテと同じくライフルを携えている事から、先ほどの銃声はこのふたりによるものと見て間違えないだろう。
こほんと咳払いひとつした後、鋭い敬礼を見せた銀髪の少女は、結んでいた口をゆっくりと開いた。
「ハンナ・ヴルフ兵長であります。南方第七区赤衣隊隊長を任されておりました。着任早々災難でありましたね。これから我々が拠点内の宿舎へお連れ致しますので、どうかご安心を」
凛々しく告げるハンナだが、目つきは鋭いままで、口調がややセリフを読んでいるかのようだ。ほんとうに緊張しているのだろう。真面目な彼女には失礼だが、どこか微笑ましく思えてしまう。それが顔に出てしまっていたのか、ハンナの表情が明らかに一段階険しくなる。
しかし、俺が取り繕うと何か言おうとしたとき、その表情が再び変化を見せた。わずかに目を見開く形に。……わかっている。俺もその理由を訪ねたかったところなのだ。
「ところでハンナ。非常に言いにくいんだが、クラリッサはどうしたら離れてくれるのかな?」
先ほどまで俺の鳩尾あたりに頬ずりを続けていたクラリッサは、今や俺の背をよじ登り、後ろから
首筋を甘噛みしてきている最中だった。痛みはなく、湿った暖かさとこそばゆさを感じる。悪い気はしないのだが、どうにも決まりが悪く、これから先の事を話しづらい。隊長業務の引き継ぎ等、やるべきことは山ほどあるというのに。
それに、クラリッサは小柄な外見に反して相当な重量を誇っていた。獣性の高い半人狼の体は、より人狼に近しいものつくられている。彼女の小柄からは想像もできないほどの脚力や膂力を発揮するのもその証拠。普通の人間とは体のつくりが違うのだ。彼女の体重が見た目の倍ほどであってもなんら不思議はない。
若干ふら付く俺の姿を、ほかの隊員たちは呆れているか微笑むかで見守るばかりだ。フランツィスカに至っては未だにフードも取らず、こちらを見ようともしない。俺を置き去りにした御者の血縁かとまで思うが、小刻みに震えた肩と笑みの形に歪んだ口元から、彼女が笑いをかみ殺しているのだとわかり、ほっと一息つける心地がした。いい加減冷や汗交じりにクラリッサに説教するハンナも不憫に見て来たところなので、隊長着任の初任務としてこの場を取り仕切ろうと思う。
「みんな。そのままでいいから、聞いてくれ」
俺の声に、みんな居住まいを正す。といっても、俺の背中に陣取っているクラリッサは甘噛みするのをやめただけだし、フランツィスカに至ってはやはりこちらを見ようともしなかった。それでいい、着任早々お説教なんて柄ではないし、軍属とは言っても堅苦しい態度で接したりすることも苦手なのだ。できるだけみな好き勝手、自由な方がいい。俺もそうできる。
「着任早々助けてくれてありがとう。ほんとうに感謝している。見ての通り至らない隊長だから、これからもみんなの力を借りることが多々あると思う。俺もなるべくみんなの助けになるようにやっていきたいと思っているので、どうかよろしく頼む」
こうして堅苦しさを排して話す意図を理解してはいるが、納得がいかないのか不満そうな表情を浮かべているハンナのために申し訳程度の敬礼を行い、改めてみんなを見渡す。当然の事だと言いたげに、真面目に敬礼を返したのはハンナだけ。リーゼロッテとマルグリットは俺と同じく肩の力を抜いたゆるい敬礼を。背に乗ったままのクラリッサは再び首筋を甘噛みすることで返事とし、フランツィスカは返事も何も返さずに、ひとり踵を返してしまった。すんすんと、二度鼻を鳴らす音は聞こえてきたので、俺にとってはそれだけで及第点だった。
「あらためて、本日付で南方第七区赤衣隊部隊長に着任したハインリヒ・フォン・シュナイダーだ。以前は修繕兵科をやっていた。これでも服を縫うのは得意分野なんだ」
少しだけ、自分の声が良く通った気がした。それもそのはずで、今まで天蓋を叩いて黒森に音を反響させていた原因が取り除かれたのだ。雨が止んでいた。先行きは厳しいものになるやもしれないが、厳しいだけではないのかもしれない。