髑髏
あなたは大学のサークルと聞いて何を思い浮かべるだろう。テニスやスキーなどの華々しい運動サークルだろうか。それとも演劇や文芸などの芸術性溢れる文化系サークルだろうか。どちらも薔薇色のキャンパスライフに相応しい活気に満ちたサークルたちだ。もちろん、我が校も例外ではなく、大小様々なサークルが大学生活に花を添えている。
しかし、そんな数あるサークルの中でひときわ異彩を放つ一つのサークルがあった。「研究愛好会」と名づけられたそのサークルは、その名の通り各々が個人的に研究したいことを各々で研究するだけという、なんとも地味で陰湿でジメジメしているサークルなのである。活動場所は、今は無き微生物遺伝学の研究室で、一通りの実験用具や、簡易ではあるが図書室までついているという結構な便利さなのだが、如何せん場所が悪い。太陽が燦々と照りつける真夏の昼間でも何故か薄暗く、風通しが悪いので常に埃っぽいのだ。おまけに校舎の隅の隅にあるため、集まってくるのは各大学に一人いれば十分な奇人変人達ばかり。まさに、この大学の暗部だと胸をはって言えるであろう。
なぜ私がこの「研究愛好会」についてこんなに詳しいのかというと、私もこのサークルの一員であるからなのだ。では、ここまで語ってきたことは自虐だったのかというと、そういう訳でもない。私はこのサークルのメンバーではあるが変人ではないのだ。奇人変人に深い興味がある花の女子大生なのである。私にとって彼らはゲージに入ったモルモット、言わばただの研究対象でしかない。決して、勘違いをなさらぬよう。
***
お気に入りの帽子を目深に被り、今日もかつて微生物遺伝学の研究者たちが使っていた部屋へ向かう。無駄に遠い道のりも、変人観察ができると思うと全く苦に感じられない。十分ほど歩くと、「研究愛好会」と書かれた紙が雑に張られ、ペンキが剥がれてボロボロになった扉に到着した。その扉のドアノブを捻り、体重をかける。その瞬間、生じた隙間から誰かが会話をしている声が聞こえた。どうやら、私が一番乗りではなかったらしい。
「——じゃあ、魂はその死体に留まるのかしら」
「んーまあ、それも可能なんだけどさ。特別な呪文の詠唱が必要になるね」
「それは教えてくださらないの?」
「ダメだよ。同志以外に教える気はない」
「私は同志じゃない?」
「曽根崎は、同志じゃない」
「マー君のケチ」
「なんとでも言え。で、この魔術の面白いところはね、その死体の魂を類似した別の固体へ移すことができるところなんだ」
「へえ、双子の弟とかに魂を移動させれちゃうわけ」
「そう。例えば死体が腕しかなくて復活が不可能だって時でも、他人の身体を使って生き返らせることができる」
「でもその、類似した固体に元々入ってる魂が邪魔よね」
「絞め殺すなりなんなりすればいいんじゃん?」
「なるほどね〜」
な、なんて恐ろしい会話をしているんだ……。彼らはこんなにもバイオレンスな方々であっただろうか。
曽根崎、と呼ばれた女性。彼女は生物学を専門としている大人っぽい美女なのだが、心中、つまり愛のある自殺に強い憧れを持っているようなのだ。噂では、度々病院送りになっているらしいが定かではない。
続いてマー君と呼ばれた青年。彼は黒魔術を扱える (自称)という現代の魔術師である。そんなおどろおどろしい特技を持っている彼なのだが、テニスサークルと掛け持ちしており、明るく爽やかでみんなの人気者らしい。
ちなみに曽根崎もマー君もあだ名であり、本名は知らない。それがこのサークルの伝統であるらしく、私も帽子ちゃんというなんの捻りもないあだ名で呼ばれている。
「……で、なんでそんな物騒な会話をしているんですか」
「ああ、帽子ちゃん。こんにちは」
「マー君先輩、こんにちは」
「あのね、帽子ちゃん。例えばの話なんだけど……もしもね、もしも心中した時に失敗して私だけ生き残っちゃったら大変でしょ? だって同時に死ぬのが一番良いもの。だからマー君に生き返らせる方法を聞いてたの」
「そもそも心中をしないという選択肢は無いんですか」
「そんなんじゃ愛は伝わらないわよぉ」
「そういえば曽根崎、前に付き合ってた彼氏とはどうなったんだ?」
「上手くやっているわ。彼、優しいの。幸せすぎるくらいよ。私にはもったいない……」
「そうか」
「うん……。あ、そうそう、もう使わなくなった七輪があるんだけど帽子ちゃん使わないかしら?」
「なんですかその七輪って! 何に使ったんですか! 嫌な予感しかしない!」
「大丈夫よ、一回しか使ってないから」
「答えになってないです!」
曽根崎さんは私の抗議を無視し、うふふと笑いながら、七輪じゃ弱すぎるからダメね、と意味深なセリフを呟いている。……なにが弱いのかは追求しないでおこう。
「うーん……じゃあ、俺が曽根崎に教えることはもうないかな。そろそろ出るよ」
「えー、もう帰っちゃうの?」
「早いですね」
「今日テニスサークルの飲み会なんだ」
「ふーん。じゃあ私も帰ろうかなあ。彼も待ってるし」
「そうですか」
「うん。帽子ちゃん、ばいばい」
「また明日な」
「先輩方、さようならあ」
立て付けが悪いからか、無駄に大きな音をたてて扉が閉まる。研究室の中には曽根崎先輩がつけていた香水と、埃の匂いしか残っていない。私は特に用事もないので、切れかけた蛍光灯が瞬いているのを眺めることにした。あまりにも静かすぎる室内。自分の耳鳴りがよく聞こえる。慣れない状況に思わず帽子を触ってしまった。そういえば、ここに一人でいるのは初めてかもしれない。
とうとう息絶えてしまった蛍光灯から視線を外した瞬間、ドアノブが捻られる音が聞こえた。ゆっくりと動くそれを見て、なるべく音を立てないよう、慎重に捻っているのが感じ取れた。このサークルにそんな繊細な人はいないから、外部の人間だろうな、とぼんやり考えた。
「このサークルの責任者は君か?」
扉の向こうから出てきたのは、長身の青年だった。シンプルにまとめられた服装から、遊んでいるタイプではないことが想像できる。整った顔には眼鏡がかけられており、どことなく理系的な印象だ。ぎゅっと皺のよった眉間からも、彼の気難しさが表れている気がした。
「いいえ、違います」
そう答えながら、どこかで見た顔だ、と私の海馬が訴えかけているのを感じる。どこかですれ違ったとか、そういう遠い人物ではない気がするのだ。
「では、責任者を呼んできてくれ」
「はあ、はい」
私は図書室にいるはずの責任者を呼ぶために立ち上がる。そんな私と入れ替わるようにして男が椅子に座った。机に肘を突き、眼鏡を弄る姿が記憶の中の人物と一致する。彼は、同じゼミの先輩だったのだ (残念ながら名前は記憶に残っていなかった)。そのまま彼の顔をじっと見つめていると、速く呼びに行けと言わんばかりに睨んできた。謝罪の意を込めて軽く頭を下げる。目線が下がった瞬間、彼が何か白い物を大切そうに小脇に抱えているのが目にはいった。一瞬だったので、何を抱ええているのかは分からなかったのだけれど。
「ヌシ先輩、お客様ですよ!」
図書室の扉を開けながら大きめな声で呼びかける。ヌシ先輩とはこのサークルの創立者であり、この大学に昔から在籍している生徒だそうだ。噂では二十年以上も大学生を続けているらしい。彼の年齢不詳な、髭で覆われた顔がそういう噂を呼んでいるのだろうけど、教授と親しげに会話している様子を見ると強ち嘘とは言い切れないのだ。
「客人か! 珍しいなあ。入部希望か?」
「さあ……どうでしょうね」
「なんだ、帽子ちゃん、聞いとらんのか」
「責任者を呼べとだけ言われたんですよ」
「ふむ……」
ヌシ先輩は、もじゃもじゃの顎鬚を撫でながら数十秒考えるそぶりを見せたが、無駄だと気づいたらしくすぐにやめた。手元の分厚い本を適当な棚に入れながら、ドスドスと出口まで歩く。
「あとは俺が対応するから、お前さんはもう帰っていいぞ」
「そうですか。じゃあ、そうします」
「おう」
ヌシ先輩が図書室から出て研究室へ入っていくのを見送った。扉の向こうから、微かにヌシ先輩の豪快な笑い声が聞こえる。ヌシ先輩は、どんな変人でも受け入れてしまう不思議な包容力があった。一癖も二癖もある、自分の世界にしか興味がないような人にでも「あの人はいい人だった」と言わしめるほどだ。あの気難しそうな青年も、きっとヌシ先輩のことを気に入るだろう。
研究室から出て廊下を歩きながら、再びあの青年のことを思い出す。神経質そうではあるが、他の部員のような社会不適合者には見えなかったのだ。
シンプルな服、整った顔、眼鏡、眉間の皺、そして小脇に抱えた白くて、丸い……白い……
「あっ」
あることに気づいてしまった私は、思わず立ち止まり声を上げてしまう。
彼は、白骨化した人間の頭を抱えていたのだ。
***
今日も元気に元・微生物遺伝学研究室の扉を開ける。しんと静まり返った室内に、扉を開けた音だけが響き渡った。話し声がしない、ということは今日も誰も来ていないらしい。そういえば金曜日は集まりが悪いとヌシ先輩がぼやいていたな。私は薄汚れたカーテンをぼんやりと見つめながら、大きい身体を丸めて寂しそうにそう言っていたヌシ先輩を思い出した。そういえば、私も金曜日にここへ来たのは初めてだったかもしれない。
本当に誰も来ていないのかと辺りをグルグルと見渡すと、一人の人影を見つけた。薄暗いせいで気がつかなかったらしい。それは昨日来たあの青年であった。
「こ、こんにちは」
「……どうも」
彼は洋風の分厚い古文書のようなものを読んでいた。文字は筆記体で書かれており、私には何語かも分からなかった。
「何か俺に用件でも?」
用が無いならさっさと去れ、と言わんばかりの眼差しで睨みながら私に問う。ここで会話を終わらせるのは惜しい、と考えた私は必死に話題を考えた。ちらりと彼の左腕を伺うと、やはり白骨化した人間の頭――つまり頭蓋骨が抱えられていた。見間違いではなかったのだ。
「あの」
「なんだ」
「いっつも、そのー、それ……を持ち歩いているのですか?」
「『それ』?」
「今持っている、その……」
「ああ、彼女のことか」
……彼女?
「いつも、一緒にいるぞ」
「でもゼミの時は持ってないですよね?」
「……ゼミ」
その瞬間、彼は思い出したかのようにああ、と声を出した。彼は今の今まで私とゼミが同じだということに気がついていなかったらしい。
「彼女はあのゼミに参加していないからな。別室で待機してもらっている」
「別室、というと?」
「ロッカーだって立派な部屋だ」
少々手狭だが、と彼は続ける。まともそうだと思っていたが、けっこうな逸材かもしれない。
「で、先輩はどうして髑髏と行動を共にしているのですか?」
「ミッちゃん……ミチコは、ただの髑髏ではない。それに、恋人と一緒にいることに理由はいるのか?」
「……あー、先輩って、えー、相当な枯れ専のネクロフィリアですね」
「君、口を慎み給え」
「あっ、すみません」
枯れ専ネクロフィリアに対しての否定は無かったので言い方が気に入らなかっただけらしい。どうやら自覚はあるようだ。
「で、質問は以上か?」
「まあ、はい」
「それなら俺はもう行く」
「そうですか」
「ああ。ここの本は借りてもいいのか」
「個人所有のものもあるので、駄目ですね」
「……そうか」
心なしかガッカリしたような表情で彼は席を立った。そして後ろを振り向くことなく、真っ直ぐ扉まで向かう。左腕に抱いた髑髏を愛おしそうに撫でながら。それはもう、異様としか思えない光景であった。私は、彼が出て行った扉を見つめながら、その光景をしっかりと胸に刻んだのだった。
***
今日もまた、いつものように「研究愛好会」研究室の扉を開く。中に入ると、この間のような薄暗さはなく、蛍光灯が煌々と研究室を照らしていた。コーヒーの匂いに複数人の話し声。どうやら先輩方がもういらっしゃっているようだ。
「こんにちは!」
「あら、帽子ちゃん。こんにちは」
最初に挨拶を返してくれたのは曽根崎先輩だった。それに続いて、他の先輩も返してくれる。レスポンスがあるありがたさを噛み締めながら、会話に加わることにした。
「何のお話をされていたんですか?」
「新しく入った、あの彼のことよぉ」
新しく入った彼、ということは、あの髑髏を持った先輩のことであろう。
「彼はなかなか興味深い人ですね」「過去のデータにない」「俺はただの一般人のように思えるが」「奴はガイコツを持っていたぞ」「なに!? 本物か偽者か」
研究者気質で議論が大好きな先輩方は、いつものジメジメさが感じられないほど、楽しそうに自分の意見を交換し合っていた。いつもこんな感じだったら社会から逸脱せずに生きていけたのかもしれないのに、と思ったのは内緒だ。
「帽子ちゃんは、もう彼と会ったのか?」
「ああ、はい。少しお話もしました」
「なんだと!? それは本当か!」
「どんな感じだった!? 詳しく教えてくれ!!」
どうやら顔は知っていても、直接対話をした人はいないらしい。ただの噂話だけで、よくもまああんなにも盛り上がれるとは……恐るべし。
「ええっと……そういえば彼は、あの髑髏を恋人としていると言ってましたね」
私の提供した情報を聞いて、先輩方がどよめく。同志を見つけた、と喜んでいたレントゲンマニアの先輩が、がっくりと膝を着いていた。
「なに、そこまで不可思議なことでもあるまい。六年前にも、美少女フィギュアを生涯の伴侶として常に持ち歩いていた男もいたぞ」
「いや、でもドクロですよ?」
「それ以前にあれは本物なのであろうか」
どうなんだ、とヌシ先輩に尋ねられた一人の先輩が口を開く。
「そうですね、直接触ってみるまではっきりとしたことは言えませんが、アレはよく出来てますねぇ。模型だとしても本物から型をとったかもしれませんねぇ」
彼は医療マニアのドクター・サカザキだった。無論、ドクターはあだ名である。彼は文系なのだ。しかし、一般的な医療知識だけでなく人体に関しても医学部顔負けの知識量を誇っている (自称)。そんな彼が言うのだから間違いないのだろう。
「ふーん……でも私、彼のやり方が気に食わないわ。だって、恋人が白骨化しているのよ? 自分も一緒に死ぬべきだと思うの」
そう苦言を呈したのは、やはりというかなんというか、曽根崎先輩だった。まだあの髑髏がかつての恋人であったと決まったワケではないのだが、彼女の美学に反する行為なのだろう。曽根崎先輩がそういうことを言うのはいつものことなので、他の先輩方は無視をしていたのだけど。
「で、帽子ちゃんは、彼についてどう思うかい?」
仮説を立てようにもデータが足りなすぎるのか、一人の先輩が私に問いかける。いつもは先輩達の議論を客観的に聞いていただけだったので、少し新鮮だ。先輩達の視線が私に集まるのを感じた。
「私は……うーん、難しいですね」
「第一印象でもいいんだ。話してみて、どう思ったとか」
好奇心で目をキラキラと輝かせ、私の言葉を待つ先輩方をガッカリさせる訳にはいかない。私は出来るだけ鮮明に思い出せるように、目を閉じて記憶に集中した。眼鏡を弄る姿、謎の古文書を読んでいる姿、私を睨む鋭い眼光……どの姿を思い出そうとしても、薄く霧が懸かったかの様にぼんやりとしていて曖昧である。ただ、あの白く美しい髑髏だけが、はっきりと記憶に残っていた。その髑髏を愛おしそうに撫でていた彼の姿も。
「……。そうですね、彼は興味深い人物だと思います。とても魅力的です」
あの異様で美しい光景を思い浮かべながら口から滑り出た言葉は、先輩方には想定外のものであったらしい。皆、少しの驚きと戸惑いの表情を顔に浮かべていた。
「まあ! 愛、愛ね! 帽子ちゃん、それはラヴよ! アムールなのよ!!」
「それを言うなら恋じゃないのか曽根崎」
「やぁだマー君、そんな陳腐なものと一緒にしないでよ」
「いや、違うと思いますよ先輩……」
どうやら少し勘違いをされてしまったらしい。一応、形ばかりの否定はしてみたが、効果はほぼ無いであろう。思い込みが激しいのも、変人の特徴のひとつなのだ。
「帽子ちゃんが愛に目覚めてくれたのは嬉しいけどぉ、相手がアノ男っていうのがちょっと気にいらないわ、私」
「どうしてだい?」
「だってあの根性なしじゃ永遠の愛は誓えないじゃない」
「ぼくも賛成しかねますねぇ。ガイコツとはいえ彼には恋人がいるんですから。不倫は良くないです、ええ、不潔です、不純ですよ!!」
突然ドクター・サカザキ先輩が立ち上がり、大きな声で謎の主張を始めだした。彼は色恋に対して人一倍敏感であった。そんな彼の言葉に多くの先輩方が、確かにそうかもと頷いている。その賛同に気を良くしたのか、はたまた過去に何かトラウマでもあるのか、ドクター先輩はそのまま不純異性交遊がどんなに汚いものであるか演説を始めてしまった。あまりにも熱い演説に、拍手やら声援やらが飛び交っている。私は彼らと少し距離を置きながら、話題がいい具合に逸らされたことに少し安堵した。思い込みが激しいが、自分の研究に関係のない話題はすぐに忘れてくれるのも、ここの人たちの特徴である。
そしてそのまま演説を眺めていると、賑やかな輪から外れ、鞄に資料を詰めて帰る支度をしているマー君先輩を見つけた。今日はテニスサークルは休みだったはずだ。マー君先輩は面白そうなことにはとりあえず首を突っ込む性格なので、珍しく感じた。
「マー君先輩、帰っちゃうんですか?」
「うん、今日は黒魔術保護協会の埼玉支部会議なんだ。俺、協会長の兄弟弟子の弟子だから遅刻できなくて」
「ホゴキョーカイ……。一体何をする集まりなんですか」
「知りたいなら始めてみるかい? 師弟の契りがちょっと痛いけど楽しいよ」
「いや……遠慮しときます」
「そお? 残念だなあ」
ニコニコと笑いながらそんなことを言うので、冗談で言っているのか本気なのか図りかねる。比較的常識人な位置にいるマー君先輩だが、こういうところがなかなか侮れないのだ。
「あ、そうだ、帽子ちゃん」
「なんですか」
「俺は、応援してるからね」
「だから、誤解ですって」
「みんなは不埒だとか得体の知れないとかなんとか言ってるけど、僕はちゃんと彼を信じているからさ」
やはり私の否定は聞こえないらしい。意固地になって否定を主張するのもアホらしいので、適当に頷いてみせた。そんな私の瞳を、先輩は表情を変えず、じっと見つめてくる。辺りの喧騒が遠くなり、彼の顔から視線を逸らすことが出来なくなった。そして彼はゆっくりと息を吸い、薄く微笑みながらこう言ったのだった。
「なんてったって、彼は同志だからさ」
***
同志、と言ったマー君先輩の言葉に少し引っかかりを感じたが、そんなことを深く考えていられないほどに、私は授業で出された少し難解な課題に追われていた。図書館を探すために慣れない土地を駆けずり回り、苦手なパソコンに悪戦苦闘しながらも、なんとか形となり無事に提出を終えたのは、あれから一週間以上経った後であった。その間、調べ物で研究室の図書室へ訪れることはあったものの、サークル活動の参加を全くしていなかったことを思い出す。丁度ここからはそれほど遠くはないし、久しぶりに寄ってみよう。そう考えた私は金曜日にも拘わらず、研究室へ向かったのであった。
久々なせいか、立て付けの悪い扉に手間取ったが、なんとか開くことができそうだ。体重を掛けると悲鳴の様な音をたてながら扉が開く。見慣れた蛍光灯の明かりが無いことに一瞬違和感を覚えるが、今日が金曜日だということを思い出して一人で納得した。相変わらず集まりは悪いままのようだ。身体ひとつ分通れるほどの隙間から、室内へ入る。しんと静まり返った空間に余計な音をたてるのがなんだか気まずく、ゆっくりと扉を閉める。鼻につくカビ臭さや謎の薄暗さに、ほんの一週間来ていないだけなのに懐かしさすら感じた。しかし、いくら懐かしいと言っても、薄暗いのは目に悪い。私は蛍光灯を点けるために奥に進んだ。
丁度、三歩ほど歩いたときだったであろうか。突然聞こえた扉が開く音に、私は驚いて振り返る。そこにいたのは、図書室から出てきた、例の髑髏の先輩であった。一人だと思っていたのだろう。私がいることに、少しだけ驚いているように見えた。
「こんにちは、先輩」
「ああ……」
先輩は、心ここにあらずという様子で、そそくさと図書室から出てきた。図書室にいたというのに、その手には一冊の本も持っていない。あるのはいつもの髑髏と、それから……
「あ、先輩、それ……」
「これか?」
先輩が手に持っていたのは、私のアイデンティティーのひとつ、帽子だった。その見覚えのある質感、フォルム。どこをどう見ても私のものに違いない。
「図書室に落ちていた。これは、君のものなのか?」
図書室。確かに課題に追われ、ここへ訪れたときに落とした……ような気がする。アイデンティティーが失われた瞬間も気がつかないだなんて、よっぽど余裕が無かったらしい。
「拾ってくださってありがとうございます。それは確かに私のものです」
「そうか」
そう呟き先輩は、手に持った私の帽子をじっ…と見つめている。私が怪訝に思い様子を伺うと、急につかつかと私に近づき、私の頭にポンと手を置いた。
「これは、君に返そう」
行動の意図がつかめず呆然とする私に、先輩は無理矢理帽子を手渡した。そのとき、一瞬だけ私の頭の上へ置いてある手に力が入ったように思えたのは、ただの気のせいなのだろうか。そのすぐ後に彼の手は私の頭から離れていき、定位置である彼の美しい髑髏の元へと戻っていった。
「どうも、ありがとうございます……?」
「ああ。じゃあ俺は帰る」
そう言って、先輩はスタスタと出口に向かって行ってしまった。口元にほんのかすかな微笑を浮かべながら――
***
あの「帽子落し物事件」をきっかけに、私と髑髏の先輩達との距離は少しずつ縮まってきたように感じられる。いや、縮まってきたと言うよりも、お互いに張っていた壁が無くなったというのが正しいだろうか。私は先輩 (とミチコさん)が来る金曜日に研究室へ通うようになり、先輩は私が来ても、鬱陶しそうな視線を送らなくなった。最初は机二つ分の距離を置いていたが、次第に机一つ分、椅子三つ分、二つ、一つと減っていき、最終的には先輩の斜め前の位置に落ち着いた。しかし、近くに座ったからといって、特別二人で何かやるわけでもない。先輩は黙々と得体の知れない本を読み漁り、私は授業のノートをまとめながら先輩の傍らに置いてある髑髏を眺める。極稀に先輩が謎の濃い目のコーヒーを淹れてくれたりもするが、会話もほとんど無い。あるとしても先輩が唐突に生前のミチコさんがどんなに素晴らしく、まるで神のような人であった、ということを恍惚の表情で語るのを私がただ聞いているだけである。それだけでも私は興味深い話であったし、会うたびに惹かれていったのだ。先輩でなく、髑髏の彼女に。
彼女は見れば見るほどに、美しい髑髏であった。無駄な凹凸は一切無く、頭頂骨のカーブは滑らかで真っ白な陶器を彷彿とされるほどだ。つやつやとした歯は一本も欠けることはなく、柔らかく微笑んでいるように見える。骨に特別な執着を持っていなかったはずなのに、私は完全に彼女に魅了され、昼も夜も彼女を想って身悶えた。一度でいいからあの頭頂骨に触れてみたい、あの眼窩に舌を這わせたらどのような感覚なのだろう、そんなことを考える度に胸が苦しくなった。壁がなくたったとはいえ、先輩は決してミチコさんを触らせてはくれなかったのだ。
コレが曽根崎先輩の言っていた愛なのだろうか。先輩を、枯れ専ネクロフィリアだなんて言っていたころが懐かしく感じられる。日に日に募る彼女への想いだが、不思議と先輩に対しての嫉妬心、というものは起こらなかった。彼は生前の彼女を愛し、私は髑髏である彼女を愛しているからであろうか。それに私はすでに先輩を彼女の一部だと思い始めていた。彼女の一部である先輩に嫉妬などをする必要はないのである。
「俺は、ミチコのためになることなら、なんでもやっているんだ。科学的なことから、それこそ非科学的なことまで。なんだってやるんだ」
いつものように、先輩は本を読みながらポツリポツリと語りだす。しかし、このような自分のことについて語るのは初めてのことだった。飲んでいたコーヒーのカップを机の上に置き、聞く姿勢を整える。
「どうしたんですか、急に」
先輩は表情を変えないまま口を開いた。
「君は、ミチコのことが好きだろう」
「はい」
「俺の気持ちが痛いほどわかるだろう」
「なんとなくは」
「ならば、今後、協力してくれるか? ミチコのために」
先輩の、眼鏡の奥の瞳が私を捉える。目が合った瞬間、身体が硬直し嫌な汗を感じた。蛇に睨まれた蛙。そんなことわざを連想した。
「協力……ですか? 出来る限りのことならしますけど、一体なにをすれば——」
「それは、次に会ったときに言う」
「ホントに、ミチコさんのためになることなんですか? ミチコさんのためになることって、なんなんですか」
「今は、知る必要はない」
そう言うと先輩はまたスタスタと出口へ向かって歩いて行ってしまった。モヤモヤとした気持ちを抱きながら、私も後に続いたのだった。
***
これまで生きてきて、こんなに長い一週間を過ごしたのは初めてのことだった。ミチコさんにとってためになること。そのことばかりを考え、夜も眠れずに食事もままならず、サークルの皆さんだけでなく教授にさえ心配されるほどだった。最初のうちは、得体の知れないことをやらされるという恐怖感に苦しんでいたのだが、金曜日が近づくにつれて恐怖が覚悟に、覚悟は決心に変わっていった。あんなにミチコさんを愛している先輩なのだから、どんなことであろうとミチコさんに役立つことに決まっている。少しでもミチコさんの役に立てるなら、どうなったっていいじゃないか。そう考えるようになったのだ。
そして、ついに待ちに待った金曜日が、訪れたのだった。期待と緊張が混ざったような不思議な気持ちで、落ち着かない。居ても立ってもいられなくなり、私は生まれて初めて授業を自主休講した。はやる気持ちを抑えきれず、走って研究室へ向かう。息を切らしながら扉を開けたが中には誰もいなかった。図書室も覗くが、人っ子一人いない。まだ先輩は来ていないらしい。少し早すぎたようだ。授業をサボる必要はなかったかもしれない。そんな小さな後悔を抱きながら、時間を潰すために音楽を聴いたり、うろうろと歩き回ったりと落ち着かなく過ごした。
そんなことをしていたからだろうか、いつの間にか先輩が研究室に来ていたことに全く気がつかなかった。
「ずいぶんと早いな」
「ええ、まあ、約束に遅れるわけにはいきませんから」
「そうか」
先輩はミチコさんを机の上に置き、部屋の奥へと進んでいく。私もその後に続いた。
「……俺はな、ミチコのためになることをたくさんやりたいんだ。だから最新の科学技術も学んだし、そのための金も惜しまなかった」
部屋の一番奥に到着しても、先輩はこちらに背を向けたままであった。彼の少ない表情が読み取ることができないので、いつも以上に無機質に感じられた。
「しかし、そんなにのんびりもしてられない。少しでも可能性があるならば、どんなことでも試すべきだと考えた。固定概念を捨ててな」
靴を鳴らしながら、ゆっくりと先輩はこちらへ向き直った。表情は一切無いが、目だけは爛々としている。目と目が合った瞬間、またあの時のように身体が硬直したような錯覚に陥った。目を逸らすことができない。
「君の先輩に樋口とかいう男がいたろう。俺はあいつにいろいろと教わった。人体練成だとか、魂を生き返らせる方法とかだ」
先輩が一歩ずつ私との距離を詰める。靴の音が、嫌に耳についた。その音に気をとられているうちに、先輩と私の距離はほとんど無くなってしまった。先輩は屈んで、私の耳にささやきかける。
「君の帽子を拾ったときから確信していたんだ。君の頭はミチコの頭と大きさがほとんど変わらない……。奇跡のように同じなんだ」
先輩の両手が私の首に触れ、そのまま包み込むように完全に私の首を掴んでしまう。そういうことか。私は数ヶ月前のマー君先輩と曽根崎先輩の会話を今になって思い出した。全てがつながった。私は今、ミチコさんの魂の器になろうとしているのだ。
「君にはすまないが、ミチコのためなんだ。俺はもう一度ミチコに会いたいんだ。例えこれが失敗しようとも、少しでも可能性があるならばやりたいんだ。……協力してくれるか」
先輩は、返事を聞かずに両手へ力を入れ始める。聞く必要がないと思ったのか、どんな返事をしても関係ないと思ったのか、相変わらず無表情なので真相は分からなかった。が、たぶん前者であろう。なぜなら私の答えはずっと決まっていたからだ。ミチコさんのためになるのならば、どんなことでさえ、本望である。
「これでやっと会える……」
先輩の口から漏れる小さな声が次第に聞こえなくなる。
クラクラと、甘美に揺れる意識の中で、私は確かに彼女の声を聞いたのだった。




