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見上げる空は、それでも青い。
無量の太陽の輝きに雪山の頂はその光を弾いてきらめき、ポタラ宮の金屋根をさらに輝かしいものにする。黄金と宝玉、目も眩むほどの極彩色にいろどられたポタラ宮は空に浮かぶ。
「やはり、ここにおいでだ」
テンジンの屈託のない、それでも少しだけ遠慮がちの声が風に運ばれた。
「猊下、隠れんぼは苦手ですね」
黄色い花畑では、六世の法衣は目立ちすぎる。風に揺られた黄緑色の茎と葉は、独特の草の匂いをはなっていた。
「ここへ。頭の上を風がすぎていくよ」
言われるままに、テンジンはとなりに腰をおろした。さわさわと、金色の花弁を揺らしながら風が過ぎていく。
草の香に、いとこ達と転げ回って遊んだ懐かしい記憶にふれた。彼らの顔をしばらくぶりに思い出す。
「テンジンはなぜ僧になったのだ」
彼は、今でもそれについて上手にこたえられなかった。
なぜ人は生まれ、生き、死ぬのか。
なぜ、自分は自分なのか。
そうしたすべてのことを知りたかった。
けれど、今になってみると、テンジンがあのころ抱えていた苛立ちや悲しみ、焦燥のすべて、叔父のいう轟々と吹く冷たい風の正体は、そんなことではなかったような気もする。
今も謎はそのままだが、自分の胸にあの吹きすさぶ冷たい風の音は聞こえない。
それはきっと、目の前の尊い存在に出会ったせいだろう。
否。
(叔父もボルデ叔母さんも、みんな、優しかった。尊い心根の持ち主だった。でも、あの時の自分にはその慈しみを容れるだけの気持ちがなかったんだ。自分の、心の痛みにばかり囚われていた)
テンジンは、ゆっくりと口をひらいた。
「家族が死んで、わたしの心なかに大きな穴が開いたようになって、いつも冷たい風が吹いておりました。叔父が、仏の道を学び尊い菩薩の慈悲の御心におすがりすることで、わたしのなかで何かがかわるのではないかと勧めてくれたのです」
青年は黙ってうなずき、それからいったん口を結んでから思い出すようにしてたずねた。
「それで今は」
「猊下にお会いして、いつしか冷たい風は止み、今日のような心地よい夏風が吹くようになりました。けれど、痛みは消えません。それでも教えを学ぶことで、何かは少しずつ変わってはおりますが……」
耳の横をいきすぎる風の音に耳を澄ませていたテンジンに、六世が言った。なんでもないような声だった。
「ラプサン汗が戦の用意をしはじめたらしい。もうすぐここも、戦場になる」
テンジンはもう、驚かなかった。
汗がパンチェン・ラマと共謀して清朝とともにこの神の地を奪いにくる。それを避けるために大摂政は様々な外交努力を行い、六世はパンチェン・ラマに戒をかえすことで一つところにある権力を放棄し、反ダライ・ラマ勢力の不満を抑えようとした。
「大摂政も私も、お互いこの数年間、無為に過ごしたわけではないのに、それでも来るべきことはやって来る。この聖なる都が、清朝と汗の猛威に晒されて崩壊するのだ」
先代の五世は国の存続を危ぶみその将来を憂えながらも、自分を頼ってやってきたものを見殺しにはできなかった。そして、さらなる仏教の信仰のためにパンチェン・ラマの後継者を認めたのだ。国主たるよりは、真に菩薩の化身であったのだ。国をつくり、王になることで救われるものの多くなることを願い法王となった。
「祈りというのは恋に、似ている」
後の世までうたいつがれる甘美な恋愛詩の作者はそう言った。