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「大摂政殿」

 室内の奥から響いたその声は、テンジンの聞き慣れたツァンヤン・ギャムツォのものではなかった。微笑をうかべて彼を見つめる青年のものとは思えないくらい厳しい声に、少年は知らず足音をしのばせていた。そのまま壁に背をついて足を止める。立ち聞くような姿勢に躊躇したが、早鐘をうつ鼓動と足の震えがそれ以上先へと彼を進ませはしないのだ。

「私が五世の転生者ではないように、貴方も徳高い高僧ではないのです」

 そう、聞こえた。

 チベット仏教の特異性、その代表はやはり転生活仏制度であろう。活仏が亡くなるとその死から四十九日以内に受胎されて生まれた幼童を探して教育し、跡を継がせたのだ。幼童を選びだすには様々な奇瑞はもちろん、護法神の導きや不可思議な儀式が必要とされた。

 それが、楞伽(りょうが)経に説かれる「一闡提(いっせんだい)の菩薩」を具現化する相続形態だ。すべての衆生が救われるまで、仏と同じ位にありながら現世にうつし身をおき転生し続ける理想の菩薩の姿。

(猊下は、ご自分の正当性を否定しておいでだ)

 バター茶の表面が小波だっている。

「先代が亡くなる際、その側にいたのはまだ若い貴方だけだった。その遺言を聞いたのも、貴方だけ。ダライ・ラマの転生活仏制は貴方によってさらに堅固なものとなって確立されるだろう。この先も、永遠に」

 六世は彼自身の正統性に疑いをもっているのかとテンジンは思ったが、それは誤りだった。

 ダライ・ラマ制度そのものへの批判である。

 大摂政のこたえはない。不気味な沈黙が続いていた。それを破り、再び、

「理論整然と活仏制を唱えながら、そのどこかに、貴方の、救われ難く懊悩する業が見えるのです」

(それはでも、ソンツェン・ガムポ王も菩薩の生まれ変わりであったそうだし、このチベットの神権制は活仏制があってこそ守られるのではないのかしら)

 テンジンの疑問は深くなる。が、次の瞬間、低くもれでる嗚咽の声にたえきれず、駆け込むように奥殿へと足を踏みいれた。

 冷めきったバター茶が床に飛び散った。立ちのぼるそのきつい臭気のなか、テンジンが目にしたのは六世の足下に跪き涙を流す大摂政の姿だった。目を疑うような衝撃に、また自分の粗相の無様さにしゃがみこむと、指をついた先に宝石で飾られた椀の冷たさが痛かった。

「テンジン、ほら、立ちなさい」

 そう、なだめるような声がおりてきた。

「泣かなくてもいいのです。零したお茶は誰かに掃除させましょう」

 彼は自分が泣いていることさえ知らなかった。六世の白い手がその腕を取って立ち上がらせた。先ほど触れた碗よりも、その手のほうが冷たかった。

「次からは、立ち聞きは許しませんよ。わかりますね」

 テンジンは膝を震わせたまま首肯した。顔を見るのが恐ろしかった。涙はすでに、止まっていた。

「わかったならばいいのです。テンジン、行きましょう」

 いつものやわらなか声でそう言って、少年の肩を抱いた。そうして立ち去ろうとした六世の背に、床に手をついたままの大摂政サンギィエー・ギャムツォの叫び声が追いすがる。

「猊下、貴方様は自ら定まるその業をどこまでも否定するおつもりかっ」

 テンジンの肩を抱き支えながら歩む六世が、ゆっくりと振り返った。

「私が本当に真実ダライ・ラマであれば、私には繋がれるべき業もないはずです。すべての涅槃を願いながら夢見るだけの仏であるよりは、あさましい業に縛られながらこの現し世で人らしく生きる道を選びたい」   

「されど、民は菩薩を望んでおります」

「囚われているのは貴方です、大摂政殿。五世の目指したものは理想の仏教国の建設ではなく、弱きものを一人でも多く救済しようとする慈悲の、」

「そのための、ダライ・ラマではありませんかっ」

「五世は、もうこの世にはいないのです。貴方の見た夢はただの夢です。貴方はただひとえに五世の偉業を継いでいくためだけに……そのためだけのダライ・ラマを設けたのです。それがために後代の者にどれほどの苦痛を味合わせるか、貴方は解っておいでなのか。どれほどの時を過ごそうと貴方のもとに五世は還ってはこないのです。貴方がいくら永遠を欲しようとも、それは叶わぬ夢だと」

 大摂政がそこに、力尽きたように崩れ落ちた。その背が、法衣から突き出た細い腕が、小刻みに震えていた。

「お止めください。お願いです。そのようにお苦しめ合わずとも、なにか、なにか別にとるべき道がありますでしょうに」

 六世は、テンジンの瞳をしずかに見つめる。ひたむきな黒い瞳だった。少年は老いた大摂政を庇うようにその隣に座した。

「猊下、もう、お止め、ください……」

 そのとぎれとぎれの涙声に六世は身を翻したらしい。たっぷりとした厚手の法衣の揺らめきとその風を感じた。去っていく足音の遠ざかるせわしさに、テンジンはひやりと手足が冷えた。

「テンジン」

 大摂政の声が名を呼んだ。

 膝をついたまま、後の世にまで名を残す大摂政が乱れた法衣をととのえることもなく言った。

「行きなさい。そなたは法王猊下の侍童だ。いつなりと、おそばを離れずに」

 うなずいたテンジンの頬を、熱い涙がつたって落ちた。



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