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 テンジンはラサ市街の裕福な商家に生まれた。彼の父は清国から美しい絹織物を運び、ポタラ宮に納めていた。母は清国のひとで、いつも綺麗に髪を結いこざっぱりした服を着て、天女のようにも思えたものだ。

 ところが彼が十歳になった年、清国から帰る途中に父親が盗賊に襲われた。積み荷をすべて奪われたうえ父は生きて戻ってこなかった。また、一緒にいた兄のツァンヤンはその時の怪我がもとで亡くなった。母も兄を看取ると、ふたりの後を追うように死んでしまった。

 彼は叔父の家に引き取られた。叔父の妻ボルデは赤い頬をした丸顔の、気取りのないあたたかなひとだった。叔父との間の子と隔てなく接してくれればくれるほど、テンジンはどこか胸の奥が痛いような気持ちにさせられた。

 叔父の二人の息子と娘は彼より幼く、字の読み書きができるテンジンを無邪気にえらいと信じていた。野良仕事に出かけると、いとこたちは実の父親より彼のまねをした。娘のアランは桃のような頬をして、いつでも彼の後ろをついて歩き回りたがった。アランにまとわりつかれると、彼女を可愛いと思いながら同時にうとましく感じた。

 むしょうに独りになりたかった。

 二年ほどたったある夕、納屋の外に出るところで、叔父がとつぜん言った。

「寺に入ってみるか」

 はじめ、テンジンは納屋の戸を秋風がつよく打つ音のせいで名前を呼ばれたことも気づかなかった。叔父は父に似た、少しだけつりあがった目じりをさげてくりかえした。笑ったのだと気づくのに、ひと呼吸ほどかかった。なぜ、微笑まれたのかもわからなかった。

「今日、導師さまがお見えになってな。おまえを寺に入れてみないかと言われたのだ」

自分はなにか、この叔父の望まないことをしただろうかとテンジンは考えた。しかし、それならばこんなふうに微笑んだりしないだろう。叔父の瞳はおだやかなままだ。

「テンジン、おまえは私の子になって、ここで荒れた土地を耕すことを嫌がったことは一度もない。私の子供たちにも優しくしてくれる。けれど、おまえの心のなかはいつでも、雪山の頂きに吹くような、轟々と冷たい風が吹いている」

 目の前で、踏み固めるように立つ叔父に何故それがわかるのだろうと思った。

「おまえは、なぜ自分がひとりでこの世にいるのか、両親や兄がどこに行ったのか、なぜおまえを置いて逝ったのか、そうしたことがいつも気になっているのだろう」

 彼の喉に熱い塊がおしよせてきた。なんだろうと思う間に、目と鼻に濡れたものがあふれていた。叔父は甥の涙にまるで気づいていないような素振りで続けた。

「私にもそれはわからない。だが、寺に入れば徳の高い方々がおまえの知りたいことを教えてくれるかもしれない。修行は厳しいが、すでに読み書きができる分、同じ子供たちよりは助けになるだろう」

 うなずいたテンジンは顔を乱暴に肘でぬぐった。叔父はその肩を何度も何度も撫でさすり、そっと遠慮がちに抱きしめてくれた。

 それを、昨日のことのように思い出す。

 叔父の言うとおり読み書きのできたテンジンは行儀見習いができて容姿が整っていることも手伝って、法王の侍童の役目を与えられた。若く美しい法王は、名前をツァンヤンといった。ちょうど、最後の旅に出る前の兄と同い年だった。

 泣き叫ぶ氷の風が夏の日のそよ風に変わったのに気づいたのはそのしばらく後、法王に名前を呼ばれた時のことだ。



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