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 はじまる――少年は口角の切れた唇からほそい息をついだ。この一瞬のために、朝の勤行をさぼって抜け出してきたのだ。

 うす闇のなか目をこすってそちらを仰ぎ見た瞬間、きらりと白銀の戴きが光り、目を焼くような輝きが青闇を切り裂いた。つづいて尾根をなめるように、太陽の狂おしい光がその形を照らしだす。どうにか瞬きをこらえると、それまでのよわい反射と違う、目を細めるほどの光がつぎつぎに弾かれる。それは、宮殿の屋根を飾る金の法瓶の照り返しだ。彼が肩でひと呼吸したと同時に光り満ちる紺碧の空に忽然と、紅白の宮殿があらわれた――ラサ市街を見守るように建つポタラ宮。観世音菩薩の化身ダライ・ラマ法王の居城であり、菩薩の住む補陀楽浄土をあらわす宮殿だ。

 光の饗宴が終わり、あたりがすっかり白い朝の空気にかわると、テンジンは小さなあくびをした。僧にはふさわしくない振る舞いだが、見るものはいない。彼はせなかの力を抜いて、両手を後ろについた。ふわり、と丈高い草木が肉のうすい背をかかえこむ。

(ぼくだけが知る、いちばん美しいポタラ宮)

 頬をかすめた菜の花をそっといじる。指先に、あおい草が匂う。標高の高いこの地では、初夏になってようやく菜の花が咲く。菜種油をとる花畑で偶然、この位置で見る宮殿がもっとも美しいことを知った。それからもう数ヶ月たつ。もったいなくて、宝物のように秘密にした、誰にも知られないところ。

(まだ、戻らなくてもいいかな)

そう思ったとたん、眠くなる。ぼんやりしているとまどろみそうだ。花畑の中、うとうとしはじめた頭のうえに声がかかる。

「テンジン、テンジン。起きなさい」

 びくりと肩を震わして顔をあげると、息をのむほどに端正な相貌がまぢかにあった。

「猊下」

 慌ててしゃんとするテンジンを見て、青年は微笑をうかべた。

「もう私は『猊下』ではない。還俗したのだから、今はただのツァンヤン・ギャムツォだ」

「ですが」

「いくら言っても聞かないのだから」

 そう言って笑った法王は二十二歳。この、若すぎるようなダライ・ラマ法王が自らタシルンポ寺に赴いてパンチェン・ラマに戒を返してからすでに三年の月日がたつ。


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