白い手は、おいでと誘う
「お嬢さん、そんなところでどうしたの?」
蝉の声が煩い七月のはじめ。
日陰を求めて民家の隙間に猫のように潜り込んでいた梨々花は、涼しげな声が聞こえて視線を大通りへと向けた。高い位置で結ったツインテールが大袈裟に揺れる。
そこに立っていたのは、上品な白い日傘を差した、黒髪の女性。
母親と同世代、もしくはいくらか若い女性は、母とは比べものにならないほど美しい人だった。
「具合が悪いの? 毎日暑いものね」
水色のワンピースを着たその人の首筋を、汗が流れていくのが見える。
11歳の梨々花だって汗をかいていたが、何故かその一筋の流れから目が離せなかった。
「ここだと暑いから、私のお家においで。一緒に涼もう?」
日傘の下から差し出されたのは、白い腕。
「おいで?」
微笑むその人の手を、梨々花は特に考えず、握り返した。
それから梨々花は。
「和美さんただいま~」
「おかえりなさい、梨々花ちゃん」
学校が終わると、日傘の女性、和美さんの家に行くようになっていた。
「今日のおやつはシュークリームよ」
「え? マジで? 和美さんが作ったの?」
「ええ。でもちょっと失敗しちゃったわ。美味く膨らまなかったから、半分に切ってクリームを盛ったの」
「えー!? オシャレで良いじゃん! 早く食べよ!」
「手を洗ってからね」
「は~い!」
紫色のランドセルをリビングに置いて、勝手知ったると手洗い場へ向かう。
オシャレな形をした石けんのボトルをプッシュして、ジャバジャバと洗う。洗い終わった手はハンドタオルが置いてあったので、ちゃんと拭いた。
(相変わらず、うちとは全然違うなぁ~)
梨々花の家に手洗い用の石けんはない。勿論タオルも置いてない。
手を洗えと言われたら洗うが、濡れた手は自分の服で拭う。
ハンカチを持ち歩けと言われたが、毎日持ち歩くだけのハンカチなんて持っていない。
「梨々花ちゃん、ジュースはりんごとオレンジがあるわよ」
「りんご! りんごがいい!」
「ふふ、はぁい」
優しい笑い声に、慌ててリビングへと戻った。
リビングも物が溢れてごちゃごちゃしている梨々花の家とはまったく違い、スッキリ整頓されている。
白い、縁も形もまん丸いテーブル。ふわふわしたクッションは落ち着いたグレー。これまた丸いガラスのコップには林檎ジュースが注がれて、白くて丸い皿には手作りのシュークリームが二つ載せられていた。
「二つだ! 二つ食べて良いの!?」
「もちろん食べて」
「やったー!」
両手を挙げて喜びを表現する。些か子供っぽい言動だけど、こうすると和美は嬉しそうに笑うのだ。
「嬉しいなぁ。うちだとこんなオシャレで美味しいおやつなんか出てこないもん」
「お母さん、働いているのよね。忙しいわね」
「そうなんだけどさ。でも他の友達の家だと、いいおやつ買って貰ったりしてるんだよね」
言いながらりんごジュースを飲む。外が暑かったので、喉が渇いていた。
このりんごジュースだって、家では滅多に飲めない。何故なら高いからだ。
「ヤマザ○のアップルパイだって、朝ご飯じゃなくておやつなんだよ? うちだと朝ご飯とか、お昼ご飯扱いなのに」
「ふふ、梨々花ちゃんはヤマザ○のアップルパイはおやつに食べたいのね」
「そうだよ! 朝ご飯がヤマザ○のアップルパイじゃ全然足りないもん!」
今度はシュークリームにかぶりついた。
手作りだと言っていたが、コンビニのふにゃふにゃしたシュークリームしか知らなかった梨々花は、サクッとした歯ごたえに驚いた。
「なにこれサクサクだ!」
「クッキーシューにしたのよ」
「クッキーシュー!? そんなのあるの!?」
「美味しい?」
「美味しい! どこが失敗なの? これより美味しくなっちゃうの?」
「嬉しいわ。もっと食べる?」
「え、何個あるの? たくさん食べたい」
笑顔で増量してくれる和美に、梨々花は全部食べると笑った。
――和美は梨々花が今まで通っていたどんな家の人よりも、寛大で慈悲深くて懐の広い人だった。
梨々花の父親は営業職で、休日も関係なく仕事関係の付き合いがある。母親はスーパーで働いていて、こちらも休日だろうと仕事がある。そんな両親だから、梨々花は家に一人でいる事が多かった。
一人にするのは危険だから、なるべく友達の家に遊びに行けと母には言われている。
だが遅い時間まで梨々花を招き入れてくれる家は少なかった。
このご時世、他人の子供の面倒まで見られる大人は少ない。同じように働きに出ている人ばかりだし、在宅の親もいるがそういう家の方が入り浸れない。親の目が厳しくて、おやつだって自由に食べさせて貰えないのだ。
親がいなければ、子供達で好きなだけおやつを食べられるのに、親がいると制限されてしまう。
アレルギーが怖いとか、責任を取れないとか言われるが、母曰くアレルギーなんて体の弱い子がなるものだ。梨々花のお腹は丈夫なので、そんな心配は杞憂である。
大丈夫と訴えても、そういう問題じゃないと怒られる。
どういう問題なのか、梨々花にはよくわからない。
あまりにも友達の家を転々とするので、母はよその親に学童に預けるべきだと言われた。しかし学童はお金がかかる。そんな余裕はないと母は進言した人を追い返していた。
それ以来、より友達の家に入れて貰えなくなった気がする。
皆、薄情だなぁ。
梨々花は誰も家に入れてくれないから、家の隙間に入って日差しから逃げていた。
家にいてもクーラーをつけたら電気代がかかると怒られるので、外にいた方がマシなのだ。友達の家に入れないなら、図書館やコンビニに居座るしかない。
どっちに行こうか考えていた所、声を掛けてくれたのが和美だ。
和美は子供が一人でふらふらしているのを見て心配してくれた、とてもいい人だ。
梨々花をクーラーのついた涼しい家に連れて行き、ジュースを飲ませ、お菓子をくれた。
母親が帰って来る時間までいても怒らなかったし、また来ていいとまで言ってくれた。
社交辞令なんか知らない梨々花は本当にその日から毎日通っているが、こうしておやつを用意して待っていてくれる。
そんな和美は、このあたりに最近越してきたらしい。
体が弱くて、家でできる仕事をして生活している。
「仕方がないけど、それだと人と話す機会が減って寂しかったの。梨々花ちゃんが来てくれると嬉しいわ」
梨々花は楽園を手に入れた。
むしゃむしゃとシュークリームを3つ食べた梨々花は、口の周りがクリームだらけになった。和美はその様子を上品に笑って、梨々花の口元を拭ってくれる。
これが梨々花の母だったら、呆れた顔で布巾を渡すだけだろう。
柔らかい手が触れてくるのが嬉しくて、思わず猫のように喉を鳴らしそうになる。
ぐーきゅるきゅる。
鳴いたのは腹だった。
「食べ過ぎちゃったわね」
「うぇーん!」
半泣きになりながらトイレに駆け込む梨々花。
食べ過ぎには、どんなに丈夫なお腹でも負けてしまうらしい。
トイレの扉が閉まったのを見送った和美は、にこやかな笑顔のまま、空になったコップを片付ける。
キッチンにはまだたくさんのシュークリームと、白い粉末が置かれていた。
「うう~、まだお腹痛い……」
暫くしてトイレから出てきた梨々花は、お腹をさすりながら甘えるように洗い物をしている和美に擦り寄った。和美は洗い物を中断して、梨々花の丸い頭部を撫でる。
「お腹が落ち着くのを待つしかないわね。でも脱水が怖いから、お水は飲みましょう」
「今飲んだらお腹を刺激しちゃう……」
「お腹を落ち着けるお薬と一緒に飲みましょう」
「お薬やだなぁ~」
「ノメタネいる?」
「あるのー?」
作業を止めて構ってくれる和美に、梨々花はゴロゴロ懐いた。子供が苦い薬を飲めるように補助するものまで出してきて、梨々花に薬を飲ませる。これでお腹が良くなると良いわねと笑われて、ちょっと恥ずかしかった。
「よくなるまで寝ていて良いわよ」
「え、いいの? リビングのカーペット、ふわふわだから転がってみたかったんだよね」
「床じゃなくて良いのに。ここがいいの?」
「えへへ」
クーラーの効いた部屋でごろりと横になる。窓の外から、カンカン照りの太陽が見えた。
和美がいなければ、今頃梨々花はこの空の下で彷徨い歩いていたかもしれない。
天国ってあるんだなぁと、梨々花は目を閉じてあっさり意識を手放した。
お休み3秒だった。
それはそうだ。
梨々花が飲んだのは、睡眠薬なのだから。
「可愛いわね、梨々花ちゃん」
リビングのカーペットの上で丸まって眠る少女に、和美はうっとりと微笑んだ。
「あの人にそっくりで、可愛い」
女の子は、父親に似るって言うものねと、笑う。
独り言にも反応しない様子を確認し、和美は戸棚からガムテープを取り出した。
「梨々花ちゃんは偶然だと思っているみたいだけど、私、梨々花ちゃんの事を知っていたのよ」
呟きながら、ガムテープを適度な長さに千切った。
ガムテープの伸びるビーッと耳障りな音にも、梨々花は反応しない。彼女は深い眠りの底にいた。
「北原梨々花ちゃん、11歳小学五年生。両親は共働きで学校が終わってからは一人になりがち。学童もお金がかかるからって通わせて貰えず、お友達の家に遊びに行きなさいって言われている。だけどこのご時世、どこも共働きだし、友達だとしても勝手に冷蔵庫を開けたり引き出しを開けてお菓子を取ったりする梨々花ちゃんは、よその家にたいそう嫌がられているわよね」
和美の家で梨々花が大人しかったのは、梨々花が行動する前からおやつが用意されていたからだ。
用意されていなければ、梨々花は真っ直ぐ冷蔵庫に向かう。和美はそれを経験則から知っていた。
「自分の家での行動と、よその家での行動は制限があるって、慎めない子は嫌われるわよね」
親の躾がなってない。
親に訴えても響かない。
「それでも梨々花ちゃんは、仕事ばかりの親からほったらかしにされているから……よその家庭に愛を求めてしまうのよね」
自分の家庭で手に入らないから、よその家の大人に代理で愛を求める。
和美に母性を求めたように、友人の親に家族愛を求めた。
所詮はよその子の梨々花が、友人の親を奪えるわけがないのに。
「可哀想な梨々花ちゃん」
和美は適度な長さに千切ったガムテープで、梨々花の口元を覆った。
鼻はふさがない。呼吸ができなければ、さすがに起きてしまう。
「可哀想な梨々花ちゃん」
言いながら、細い手足をガムテープで拘束する。
「誰からも愛されない、可哀想な梨々花ちゃん」
小柄な体を抱き上げて、リビングを出る。
冷房の効いた室内から、じっとり肌に纏わり付く暑さの廊下を進む。扉が開きっぱなしの洗面所に入り、風呂場に梨々花を寝かせた。洗い場のタイルには滑り止めのマットが敷かれ、梨々花の体を柔らかく受け止める。
「私達と同じね。私達も愛されなかったの」
そう言って、悲しげに目を伏せる。
「あなたのお父さんに」
上げた顔は――憤怒に塗れていた。
「あの人とは、職場で出会ったの。新人の私に優しくしてくれて、ミスをしてもいつも助けてくれた。素敵な人だからすぐに好きになったわ。あの人も私を必要としてくれて、私達は運命のように結ばれたの。嬉しいことに、子供もすぐに宿ったのよ? 本当に、幸せな日々だったの」
噛み締めるように言いながら、自分の腹を撫でる。その指先が、衣服に皺ができるほど食い込んだ。
「なのにあの人は……私が妊娠していると知ったら、私を捨てたわ。妻と子供が居るからって」
和美は、彼が既婚者だと知らなかった。
職場恋愛だったので周囲には秘密にして付き合っていたし、新人だったので職場の既婚者を把握しきれていなかった。彼は指輪もしていなかったし、家庭の話をしなかったので知らなかったのだ。
騙されていたのだと、弄ばれたのだと知った和美はショックで寝込み……子を失った。
その結果、精神的にも身体的にも、働きに出ることが難しくなり――現在に至る。
「このあたりに引っ越してきたのはね、あの人の家族が気になったから」
梨々花の頬に触れた和美の表情は、憤怒から一点、慈愛に満ちていた。
「子供が居るのによその女に浮気した男の妻はどんな顔だろう。最低な男の子供はどんな子だろう。一体どんな家庭を築いているんだろう。絵に描いたような、幸せな家庭だったら……その虚像をぶち壊してやろうと思ったの」
柔らかな頬を撫でながら微笑む。
その笑顔は、いつも梨々花にむける優しげなものと同じだった。
「だけど、だけど……目にしたのは、どこにでもある、余裕のない家庭だったわ」
共働きであまり家に居ないのも。家で一人が多い子供も、このご時世では珍しくない。
学童費が勿体ないから行かせない。友達の家に行かせるといった梨々花の母の対策は顰蹙を買うが、珍しくない。「放置子」と呼んで問題視するくらいには、社会問題として取り上げられるくらいには浸透している。
「不思議ね。あの人は私を選ばなかったのに、奥さんを大事にしているようには見えないの」
そう思ったとき、途端に虚しくなったのだ。
あの人は、誰のことも愛していないのだと。
「可哀想。ああ、可哀想な私達」
そう言って――真横に置いていた、真新しい包丁を握りしめた。
「奥さんはね、いいのよ。だってあの人、勤め先で楽しそうだもの。人に囲まれて、孤独を知らない顔をしているの。誰に何を言われても、自分の都合のよいように解釈できる人」
眠る梨々花に馬乗りになる。左手をマットの上に乗せて、上体を固定した。
「それなのに私達は……愛して欲しい人達に愛して貰えない。愛を求めても、相手はこっちを見てもいない……ああ、ああ、ああ! ああっ!!」
俯いて叫んだ拍子に、長い黒髪がカーテンのように垂れ下がる。長い黒髪が、和美の表情を完全に隠した。
夏の鬱陶しい暑さと、口を塞がれた息苦しさ。拘束された体の違和感と、深い慟哭に梨々花は瞼を震わせた。
その瞼の上に、雫が落ちる。
梨々花は不思議そうに瞼を上げた。
「私達、可哀想よねぇっ!! 梨々花ちゃん!!」
目に映ったのは、目を見開き大粒の涙を流し、狂人のように笑う和美だった。
「――――っ!?」
驚いて悲鳴を上げるが、口はガムテープで塞がれている。
身を捩って逃げようとするが、手足も拘束され、体の上には馬乗りになった和美がいる。
何が起きたのか理解できない梨々花は、目を見開いて和美を見上げた。
長い黒髪のカーテンが、和美以外を映す事を拒絶する。
「私、可哀想なのよ梨々花ちゃん。私、私達、可哀想なのっ可哀想。私もあの子もあなたも可哀想っ!」
唾を吐く勢いで叫ばれ、梨々花はすっかり萎縮していた。身を縮ませ、涙を浮かべて震える。
和美はそんな梨々花の首に手を置いて固定した。首を絞めるつもりではなかった。しかし力強い手の平に、梨々花の呼吸は阻害される。
「愛していたのに、愛があるなら仕方がないと思ったのに、愛があるなら壊してやろうと思ったのに、愛がないならなんで、私の子は死んだの?」
振りかぶった和美の手で光る銀色に、梨々花が絶叫する。
塞がれた口では、その絶叫も喉を震わせて終わる。
「愛がないならなんで、この子は生きているの? ――――どうしてっ!!」
振り下ろされた銀色は、梨々花の眉間を突き刺した。
頭蓋骨を砕いて脳に包丁が突き刺さる。
固い手応えに、和美は何度も何度も狂気を振りかぶった。
小さな体は暴力を受けるたびに小さく跳ねる。
何度も繰り返される行為に、ついには衝撃で揺れるだけになった。
原形を留めぬほど幼い少女の頭蓋を刺し貫いた女は……返り血とに塗れ、疲労で疲れた腕を眺め、にっこりと笑った。
今まで誰にも見せたことのない、爽快な笑顔だった。
それから四日後。
異臭がすると近所からの通報で、藤代和美の家を訪ねた警察官が、風呂場で重なり合うように倒れた二人の遺体を発見した。
自分で首を切った女、藤代和美の下には少女の遺体。顔を集中して複数回刺され、身元がわからぬほどだった。
しかし、四日前から行方不明で捜索願が出されていた小学五年生の女児である可能性が浮上する。
調査の結果、藤代和美と少女の父親は不倫関係であった事が判明し、警察は詳しい事情を調査中である……。
「ねえ君、そこで何しているの?」
ランドセルを抱えて木陰でしゃがみ込んでいた少年は、大人の声に顔を上げた。
優しそうな顔をした大人は、汗を流す少年に微笑みかける。
「そんなところにいたら熱中症になっちゃう。家ならクーラーついているから、涼しいよ?」
だから、おいで?
放置されてあっちこっちの家庭に乗り込む放置子問題がありますが、その放置子に近付く大人って、果たして善意の人なのでしょうか。
子供の行き先、ちゃんと把握してますか?




