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ゼロ・ビューワーの聖域(サンクチュアリ)

作者: umitosora
掲載日:2026/01/14

誰にも見つからない場所で、ただひっそりと呼吸をしていたい。 そんな風に願う夜が、誰にでもあるはずです。


インターネットという巨大な海において、視聴者が一人もいない「ゼロ・ビューワー」の配信枠は、ある意味で最も純粋な聖域と言えるかもしれません。そこには虚飾も、市場原理も、大勢の視線も存在しません。ただ、語り手という「孤独」だけがそこにあります。


しかし、もしその孤独な場所に、もう一つの孤独が寄り添ったとしたら。 そして、その寄り添い方が、あまりに不器用で、嘘にまみれたものだったとしたら。


この物語は、一人の誠実な男性と、自らの闇の中で溺れかけていた一人の女性が、モニター越しに、そして一度きりの沈黙の夜を通じて交わした、魂の記録です。


「誠実さ」は、時に残酷な刃となります。けれど、その刃が誰かの絶望を切り裂き、一筋の光を届けることもまた、真実なのです。 あなたが今から目にするのは、巧妙な支配の物語ではありません。 自分を愛せなかった一人の女性が、自分を愛してくれた唯一の光を守り抜こうとした、あまりに切実な祈りの物語です。

プロローグ:午前二時の深海魚


午前二時過ぎ。眠らないはずの東京も、この時間だけは奇妙な静寂に包まれる。 誠司せいじのワンルームマンションの部屋を支配しているのは、デュアルモニターから放たれる、体温を感じさせない青白い光だけだった。安物のコンデンサーマイクが、誠司のわずかな吐息と、PCファンの微かな唸りを拾い上げている。


誠司は、趣味というにはあまりに孤独な、深夜の雑談配信を続けていた。 画面の右上に表示される同時接続者数は、今日も頑なに「0」を指している。 始めて半年。最初は「誰かと繋がりたい」という青い期待があった。しかし今では、この「0」という数字こそが、社会の歯車として摩耗し、誰にも顧みられない自分自身の価値を証明する刻印のように思えていた。深海で光を知らず、誰にも見つからずに泳ぎ続ける、目の退化した魚。それが自分なのだという諦念。


「……えー、というわけでね。今日のコンビニ弁当も、見事にハズレでした。白米が固くて、まるで自分の心臓を食べてるみたいでさ」


そんな自虐的な独り言も、誰に届くこともなく電子の海に溶けていく。虚しさがおりのように積もる。 「……まあ、誰も聞いてないか。じゃあ、今日はそろそろこの辺で」


諦めとともに配信終了のボタンにマウスカーソルを合わせた、その時だった。 ヘッドフォン越しに、小さな、しかし鋭い電子音が鼓膜を叩いた。入室通知。 心臓が不自然に、しかし激しく跳ねる。視線を右上に走らせる。「0」が「1」に書き換わっていた。


『こんばんは。たまたま開いたら見つけました。あなたの声、すごく落ち着きますね』


コメント欄に流れた、飾り気のない、しかし温かな文字列。 リスナー名は「真波(まなみ)」。アイコンも未設定の、その配信のためだけに作られたような専用アカウント。 それが、あまりに長く、残酷で、そして純粋な一年間の幕開けだった。



第一章:ガラスの城の共犯者

1.専用のアカウント


「誠司さんの声を聞くと、すごく落ち着くんです。一日の嫌なことが全部、どこかに溶けていくみたいで」


真波は、誠司の配信のためだけに現れる、幽霊のような存在だった。彼女は誠司のどんな些細な、取るに足らない雑談も丁寧に拾い上げ、まるで宝物を扱うように反応した。 日中の仕事で精神を削り、人間関係に冷笑的になっていた誠司にとって、彼女の存在は砂漠に現れた奇跡のようなオアシスだった。いつしか彼女が来る夜を指折り数えて待ちわび、昼間のうちから「彼女を笑わせるための話題」をメモ帳に書き溜めるようになった。


「真波さんが来てくれるから、俺もこの孤独な場所を続けられてるよ。本当にありがとう」 『私も、ここが私の唯一の希望ですから。他の誰にも邪魔されたくない、大切な場所なんです』


「希望」。その言葉の重みに、誠司は心地よい眩暈めまいを覚えた。自分は世界の片隅で、たった一人の女性にとって代わりの利かない、唯一無二の存在になれたのだと。 二人の間には、言葉にせずとも伝わる暗黙の了解があった。ここは、傷ついた二人が互いの傷を舐め合い、外界から隔絶された「ガラスの城」なのだ。


2.静かなる支配


しかし、蜜月のような時間は、やがて不穏な色を帯び始める。 違和感は、小さな棘のように誠司の心に刺さり、日を追うごとにその深さを増していった。


ある夜、たまたま別のリスナーが迷い込み、コメント欄が少し賑わった時のことだ。それまで流暢に言葉を紡いでいた真波のコメントが、石が沈むようにぴたりと止まった。


「あれ、真波さん? どうしたの、急に静かになって」 数分間の沈黙の後、彼女は拒絶にも似た短文を打ち込んだ。


『人が増えてきたね。私、大勢の場所が苦手だから。……なんだか息苦しい。今日はもう落ちるね。おやすみなさい』


誠司は慌てた。「待って、行かないでくれ、君がいないと意味がないんだ」。喉まで出かかった言葉を必死に飲み込む。彼女が去った後、残されたリスナーとの会話は、灰を噛むような味のしないものになった。


その夜、誠司は初めて「依存型リスナーの心理」について検索した。 『独占欲』『試し行動』『配信者を孤立させることで支配する特権意識』。 モニターに並ぶ冷徹な専門用語が、真波の行動と恐ろしいほど重なる。


(まさか、な。彼女はそんな計算高い人間じゃない。ただ少し、人一倍繊細なだけなんだ)


誠司は疑念を振り払うように、翌日の配信では、さらに人が来ないような、より深い深夜の時間帯を選んだ。真波は、待っていましたと言わんばかりに嬉しそうに現れた。誠司は安堵すると同時に、自分が彼女の「見えないルール」に飼い慣らされ、外の世界との繋がりを自ら断ち切り始めていることに、まだ気づいていなかった。



第二章:仮面の下の迷宮

1.壊れたレコードのように


季節が何度か巡り、二人の関係は「安定した依存」のフェーズに入っていた。誠司は、彼女という唯一の観客を失うことを恐れ、彼女の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払って配信を運営した。


その中で、真波は特定のフレーズを、まるで壊れたレコードのように繰り返すようになった。


「私、ずっと女子校だったから、男の人ってちょっと怖くて。……距離感が、うまく掴めないの」 「昔、ひどい傷つき方をしたから。恋愛の仕方がわからなくなっちゃったんだよね」 「誠司さんは特別だよ。こんなに何でも話せるのは、この世界であなただけ」


最初は「なんて純粋で、壊れやすいガラスのような人なんだろう」と、全霊をかけて守らねばならないという義務感に駆られた。しかし、あまりに頻繁に、しかも誠司が彼女のプライベートに少しでも触れようとした瞬間に発されるその言葉たちに、誠司は次第に薄ら寒いものを感じ始めていた。


それは、誠司がこれ以上彼女の深層領域に踏み込まないようにするための「防波堤」であり、彼女が何か不自然な行動をした時のための「万能の免罪符」のように聞こえ始めた。


(「あなただけ」と言いながら、彼女は俺の何を見ているんだ? 彼女が愛しているのは、俺という血の通った人間ではなく、自分を肯定してくれるだけの『都合の良い機能』なんじゃないか?)


2.密室の沈黙


関係が始まって一年。誠司は、ついにその壁を壊す決意をした。画面越しの文字情報だけではない、温度のある彼女を知りたかった。 「食事だけでもどうかな」。誠司が震える指で送った誘いに、彼女は数時間の空白の後、短く承諾の返信をしてきた。


待ち合わせ場所に現れた真波は、想像していた「奥手な子」というイメージとはかけ離れていた。都会的で洗練された装い。その立ち居振る舞いには、どこか男性の視線をいなすことに慣れた、冷めた落ち着きがあった。 予約していたイタリアンレストランでの時間は、苦痛なほどに重かった。 誠司は努めて明るく話題を振り、場を盛り上げようとしたが、対面した真波は一度も誠司と目を合わせなかった。配信での饒舌さが嘘のように口数が少なく、視線は常に誠司の肩越しにある、何もない宙を彷徨っていた。


(やっぱり、リアルで会うのは間違いだったのか。画面の中の彼女は、俺が作り上げた幻想だったのか……)


誠司が深い徒労感に襲われ、店を出て解散しようとしたその時だった。 真波が俯きがちに、震えるような小さな声で言った。


「……あのさ。もしよかったら。この後、うちで少し飲み直さない?」


予想外の誘いに、誠司の脳は一瞬フリーズした。「男子が苦手」と繰り返していた彼女が、初対面の男を自分から自宅に誘う。その矛盾に戸惑いつつも、誠司は「ああ、お邪魔するよ」と答えた。


彼女のマンションは、駅から少し離れた静かな住宅街に建っていた。 鍵を開け、先に部屋に入る彼女の背中を見ながら、誠司の心臓は早鐘を打っていた。ついに、彼女の「本当のプライベート」に踏み込むのだ。


「散らかってるけど、どうぞ」


通されたワンルームの部屋は、驚くほど「普通の女子の部屋」だった。 白を基調とした整然としたインテリア。ベッドの上にはパステルカラーのクッションと、いくつかのぬいぐるみが几帳面に並べられている。空気は微かに甘い柔軟剤の香りが漂い、男の影どころか、生活の乱れさえ一切感じさせない。


(これが、彼女の日常……。配信で言っていた通り、やっぱり彼女は、不器用で綺麗好きなだけの女の子なのだろうか)


真波は冷蔵庫から、どこか事務的に缶チューハイを取り出し、ローテーブルに置いた。二人は少し距離を空けて、冷たいフローリングの上に座った。 だが、部屋に入ってからも、二人の間の見えない壁は消えるどころか、より強固なものになっていった。 彼女は缶を両手で強く握りしめたまま、電源の入っていない、暗いテレビ画面に映る自分の影をじっと見つめている。


「……いい部屋だね。すごく落ち着くよ」 誠司が沈黙を破ろうと放った言葉に、彼女はビクリと肩を震わせ、「……ありがと」と、消え入りそうな声で返すだけだった。


重苦しい時間が、一滴ずつ垂れる水のように流れた。 彼女が自分を誘った意図が、どうしても分からなかった。何かを期待しているのか、それともただ一人でいる恐怖を紛らわせたいだけなのか。 彼女は「ここにいてほしい」と全身で叫んでいるようにも、同時に「私に一歩も近づかないで」と怯えているようにも見えた。その矛盾したオーラが、誠司を激しく混乱させた。


やがて、時計の針が深夜を回った。缶チューハイは空になり、会話は完全に途絶えた。 真波の横顔は、まるでお通夜の席に座っているかのように強張っている。


「……そろそろ、帰るよ。遅くにお邪魔して、本当にごめん」


誠司が立ち上がると、真波は一瞬、何かを必死に堪えるように口を開いたが、結局何も言わずに小さく頷いただけだった。 玄関まで見送りに出た彼女は、最後まで誠司の瞳を見ることはなかった。


終電間際の電車に揺られながら、誠司は深い空虚感と徒労感に襲われていた。 家に入れてくれた。自分から誘ってくれた。それは決定的な進展のはずだった。なのに、心の距離は配信の時よりも絶望的に遠く感じられた。あの完璧なまでの「普通さ」を演出した部屋が、逆に恐ろしいほど現実味を欠いた舞台セットのように思えてならなかった。


(彼女は、一体何なんだ? なぜ俺を呼んだ? なぜあんなに怯えていた? ……俺は、誰と会っていたんだ?)


その「分からなさ」が、誠司の心に暗い、重い澱のように溜まっていった。



第三章:停波の夜

1.決断


あの日以来、誠司の中で何かが決定的に冷めてしまった。 配信をつければ、真波は何事もなかったかのように「誠司さんの声が聞けて嬉しい。一番落ち着く」と、甘いコメントを寄せてくる。しかし、誠司の脳裏には、あの夜の冷え切った部屋で、一度も目を合わせようとしなかった、氷のような彼女の姿が焼き付いて離れなかった。


画面の中の「純粋な真波」と、リアルの「拒絶する真波」。 その乖離が、誠司の精神を執拗に削った。彼女の放つフレーズのすべてが、自分を「安全な場所」に繋ぎ止めておくための、空虚な演技に聞こえてしまう。あの「普通の部屋」さえも、自分以外の男たちの気配を消し去るための、完璧な偽装工作に見えた。


そして追い打ちをかけるように、SNSの端々や共通の知人、配信サイトの噂話から、聞きたくなかった断片的な情報が誠司の耳に入り始めた。 『彼女の家には、夜な夜な別の男が出入りしている』 『「男が苦手」と言いながら、実際には特定の男たちと奔放に遊んでいる』


誠司は、自分が一年にわたって注いできた「誠実さ」という名のエネルギーが、彼女の底の見えない暗い穴に吸い込まれ、ただ消費されていたのだと悟った。 自分の誠実さが、彼女の不誠実さを助長し、彼女に「免罪符」を与えるための肥料になっていた。


「……もう、潮時だ」


誠司は決断した。この歪な依存関係を、自分自身の意思で断ち切らなければならない。そのためには、二人の唯一の接点である「配信」という聖域そのものを消滅させるしかなかった。


2.最後の放送


翌日の深夜。誠司は予告なしに、最後の配信枠を取った。 いつものように、開始から数秒で真波がやってきた。一番乗りの通知。


「今日は、大事な話があるんだ」 誠司の声は、自分で驚くほど冷えていた。 「……この配信、今日で最後にしようと思う。もう二度と、開くことはない」


コメント欄が死んだように静止した。数秒の、永遠のような沈黙。 やがて、真波のコメントが表示された。


『……そっか。そうだね、誠司さんが決めたことなら、それがいいと思う。今まで本当に、ありがとう』


引き止めは、一切なかった。「どうして?」「私が何かした?」という、一年前の彼女なら言いそうな動揺もなかった。 その、あまりにあっさりとした、事務的とも言える反応。 それが誠司の推測を決定的なものにした。彼女にとって誠司は、「替えの利く、一時的な止まり木」の一つに過ぎなかったのだ。一つが折れたなら、また別の木を探せばいい。彼女の短いコメントは、そう雄弁に物語っていた。


「……こちらこそ、ありがとう。元気でね」


誠司は未練を断ち切るように、配信終了のボタンをクリックした。 そのままPCの電源を切り、SNSのアカウントも、彼女との繋がりを示す全てのデータを削除した。 一年にわたる「ゼロ・ビューワーの聖域」は、こうして呆気なく崩壊し、暗闇の中に消えた。


その後、数週間は地獄だった。 習慣となっていた夜の時間を持て余し、無意識にスマホを手に取り、彼女からの連絡を待ってしまう自分がいた。これが依存の禁断症状だと自覚しながらも、心に空いた巨大な穴を埋める術が見つからない。 それでも誠司は耐えた。これは自分が人間らしい、誠実な生活を取り戻すための、必要な「手術の後の痛み」なのだと自分に言い聞かせ続けた。



第四章:聖域の真実

1.届いた小包


配信を辞めてから一ヶ月が過ぎ、季節が完全に冬へと入れ替わろうとしていたある日のことだ。 誠司のポストに、差出人不明のレターパックが届いた。 品名には簡素に「書類」とだけ書かれている。


不審に思いながらも封を解くと、中から出てきたのは、一冊の使い古された大学ノートだった。 表紙は手垢で薄汚れ、四隅が丸く擦り切れている。 ノートの最初のページに、見覚えのある、あの繊細な筆跡で短いメッセージが添えられていた。


『誠司さんへ。  突然、ごめんなさい。もう二度と連絡しないと決めていたけれど、これだけは、あなたに持っていてほしくて。  いつか私が、嘘で塗り固めた自分のまま、あなたの中で終わってしまうのが怖くて。  これは、私の本当の言葉です。 真波より』


心臓が嫌な音を立てて波打った。誠司は震える手で、ノートのページをめくった。


2.日記の中の地獄


それは、彼女が誠司と出会う数ヶ月前から書き綴っていた、凄絶な内面の記録だった。 そこに書かれていたのは、誠司が疑っていた「狡猾な支配者」の姿とは正反対の、絶望の底で溺れかける一人の人間の悲鳴だった。


〇月〇日 また生理が来る。怖い。PMDD(月経前不快気分障害)という病気の診断を受けて、強い薬も飲んでいるけれど、自分の脳を流れる黒い波を止められない。 自分が自分でなくなる感覚。愛しているはずの人を攻撃したくなる衝動と、その後の死んでしまいたいという猛烈な自己嫌悪。誰か、私をこの体から助け出して。


〇月〇日 寂しくて、一人が怖くて、また知らない男の人を部屋に入れてしまった。マッチングアプリで適当に選んだ、顔も名前も覚えていない人。 抱かれている間、私はずっと天井の隅にある小さなシミだけを見ていた。「私に触らないで」と思いながら、同時に「もっと壊して、私を消して」と願っている。 私は汚い。ゴミみたいだ。誠実な恋愛なんて、もう二度とできない。


ページをめくる手が、止まらなかった。誠司が「演出」だと思っていた彼女の闇は、現実の生活を侵食する本物の地獄だったのだ。そして、誠司との出会いのページに差し掛かる。


〇月〇日 眠れなくて死にたくなって、ネットの隅を彷徨っていたら、視聴者が一人もいない配信を見つけた。「誠司さん」という人。 彼の声は、今まで出会った誰よりも優しくて、真っ直ぐだった。私の汚い過去も、今の醜い生活も何も知らない、真っ白な声。 コメントしたら、彼が驚くほど喜んでくれた。久しぶりに、自分が一人の「人間」として扱われた気がした。 ここは、私の聖域だ。絶対に汚しちゃいけない。彼だけには、本当の私を見せちゃいけない。


誠司の目から、熱いものが溢れた。彼女は「計算」で過疎枠を狙ったのではなかった。 自分が徹底的に汚れていると感じていたからこそ、誰にも見つかっていない、静かで綺麗な場所だけが、彼女にとって唯一息ができる場所だったのだ。

3.沈黙の部屋の答え


日記は、誠司が最も絶望を感じた、あの「沈黙の夜」の真実に差し掛かる。


〇月〇日 誠司さんに会った。夢にまで見た彼。実物の彼は、配信よりもずっと素敵で、誠実だった。 でも、ダメだった。彼のまっすぐな瞳を見たら、自分の内側の黒いものが溢れ出しそうで、どうしても目を合わせられなかった。せっかく彼が用意してくれた料理の味も、罪悪感で何もしなかった。


帰り際、どうしても彼と離れたくなくて、衝動的に「うちに来ない?」と誘ってしまった。最低だ。「男の人が怖い」なんて言い訳をしていたくせに、自分から誘うなんて。 彼が来るまでの数十分、私は発狂しそうになりながら部屋を片付けた。他の男の人の残り香を消臭剤で必死に消して、クローゼットに自分の汚れを全部押し込んで。パステルカラーのぬいぐるみを並べて、「普通の女の子」の部屋を必死に偽装した。


部屋に来てくれた彼に、本当は抱きしめてほしかった。でも、体が石みたいに強張って動かなかった。もし彼に触れて、私のこの『汚れ』が彼に伝染ってしまったらどうしよう。彼が私の本性に気づいて、あの誠実な瞳で軽蔑されたら、私はその場で死んでしまう。怖くて、息をするだけで精一杯だった。


結局、彼は指一本触れずに、気遣うように帰ってくれた。 その誠実さが、今の私にはあまりに眩しくて、痛かった。 玄関の鍵を閉めた後、私は廊下で蹲って声を上げて泣いた。 私は彼を試していたのかもしれない。手を出してくるような俗物なら、幻滅して嫌いになれたのに。でも彼は本物の人だった。だから余計に、私は自分の惨めさに耐えられなくなった。


〇月〇日(配信を辞めた日) 誠司さんが配信を辞めると言った。 ほっとした、というのが本音。これでやっと、彼に嘘をつき続けなくて済む。彼を私の底なしの地獄に巻き込まずに済む。 本当は、死ぬほど引き止めたかった。行かないでって、泣きながら縋りたかった。でも、そんな資格は私にはない。 彼が「詮索しない」という私の勝手な言葉を最後まで守って、何も聞かずに去ってくれたことが、彼が私にくれた最後で最高の救済であり、最大の罰だった。


誠司さん。あなたは私の「希望」でした。それは嘘じゃありません。 あなたがくれた時間だけが、私が唯一、人間らしく呼吸できた時間でした。 ありがとう。さようなら。 あなたのこれからの人生が、どうか光で満たされますように。




エピローグ:朝焼けの部屋


誠司は日記を閉じ、深い、深い息を吐き出した。 窓の外は、夜の帳がゆっくりと明け、空が白み始めていた。 部屋の中の空気は、一年前のあの夜と同じように静かだった。けれど、誠司の心の中の景色は、もはや以前とは決定的に異なっていた。


彼女は「完璧なハンター」などではなかった。 自分の弱さと病に翻弄され、自ら招いた汚れた現実の中で窒息しかけながら、必死に誠司という「光」に手を伸ばしていた、あまりに不器用で、悲しいほどに純粋な一人の女性だったのだ。


彼女の嘘も、矛盾も、支配欲に見えた不可解な行動も。 すべては、「誠司の前でだけは綺麗な自分でいたい」「彼の誠実さを汚したくない」という、切実すぎる願いの裏返しだった。


「……馬鹿だなぁ、お前も、俺も」


誠司はそう呟き、ノートを抱きしめた。 彼女に連絡を取ることは、もうないだろう。彼女の日記を読み終えた今、誠司にはそれが分かっていた。 沈黙したまま去ることが、彼女が最後に望んだ「救い」なのだから。


誠司は立ち上がり、ゆっくりとカーテンを開けた。 朝焼けの光が、青白かった部屋を柔らかなオレンジ色に染めていく。 PCの電源を入れることはしなかった。配信という場所は、もう必要なかった。


けれど、誠司は知っていた。 この一年間、誰にも見つからない「ゼロ」の空間で、自分が守り抜いてきたあの時間は、決して無駄なものではなかった。 自分の誠実な声は、確かに一人の女性を、一年の間だけ地獄の底から引き揚げ、安らぎを与えていたのだ。


その記憶さえあれば、これからの人生でどんな孤独が訪れても、自分を見失うことはない。 誠司は新しい朝の光を全身に受けながら、静かに、そして確かな足取りで一歩を踏み出した。


(完)

物語を最後までお読みいただき、ありがとうございます。


誠司という男が過ごした一年間。それは一見すると、不誠実な女性に振り回され、一方的にエネルギーを搾取されただけの、無駄な時間に思えるかもしれません。事実、物語の終盤まで、誠司は自責と疑念の渦中にありました。


しかし、最後に見つかった一冊の日記が、すべての景色を塗り替えます。 「巧妙なコントロール」に見えた行動のすべてが、実は「自分の汚れを愛する人に伝染させないための、必死の防壁」であったこと。彼女のついた数々の嘘が、相手を騙すためではなく、「あなたの前でだけは、綺麗な自分でいたい」という、彼女に残された最後の矜持であったこと。


私たちは、目に見える行動だけで他人を判断してしまいがちです。 けれど、その不可解な言動の裏側には、本人ですら制御できない病や、過去の傷、そして「愛し方がわからない」という絶望が隠れていることがあります。


誠司が彼女に与えたのは、金銭でも、解決策でもありません。 ただ、彼女が「自分はまだ、一人の人間として大切にされている」と実感できる「誠実な時間」そのものでした。その一年があったからこそ、彼女は日記を遺し、自らの嘘を告白し、誠司を「綺麗な場所」へと帰すことができたのです。


この物語は、誠司さんの実体験をベースに構成されました。 今、この瞬間も、どこかの街で誠司さんのように、自分の誠実さが無意味だったのではないかと悩んでいる人がいるかもしれません。 ですが、断言させてください。 あなたの誠実さは、たとえその場では報われなかったとしても、誰かの地獄を照らす唯一の松明たいまつになっていたはずです。


物語はここで終わりますが、誠司さんの人生、そして真波という女性の人生は、これからも続いていきます。 この物語が、過去の痛みと向き合い、新しい一歩を踏み出すための小さな「聖域」となることを願って。

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