【8】「墓まで持ってく」――二人だけの秘密と、出所不明のチカラ
財前征一郎と伊集院エリザが去った後の鴨川の河川敷には、湿った川風だけが残されていた。
二人の足元には、干からびたアマガエルの死骸が転がっている。つい先刻まで瑞々しく跳ねていた命の残骸だ。
入江紗夜は震えながら、自分の左手を胸に抱きしめていた。その手が、無邪気な命を奪った感触が、皮膚にこびりついて離れない。
「……ごめんなさい。カエルさん」
紗夜の声は、消え入りそうだった。
「まあ、落ち込むな。カエルはあとで墓を作って成仏させてやろう」
飛鳥京吾は、努めて明るく振る舞いながら紗夜の肩を叩いた。
だが、その目は笑っていなかった。
彼の脳裏には、先ほどの財前の言葉が、呪いのようにリフレインしていた。
『君が泥をこねている間に、地図が書き換わるぞ』 『時間を無駄にするな』
「う、うん……」
「……ん? 待てよ」
京吾の表情が変わる。
不安と焦燥が混ざり合った混沌の中で、一つの「論理」が閃いたのだ。
「あいつら……『時間を無駄にするな』って言ってたな」
京吾は独り言のように呟いた。
その瞳に、ギラリとした、獲物を狙う猛禽類のような光が宿る。
「……ハッ。上等だ。俺たちが一番『時間』を有効に使ってやるよ」
(桜のアイデア。「時間」という壁。「一瞬で時間を進める」能力)
バラバラだったピースが、京吾の脳内で猛スピードで組み合わさっていく。
京吾は荒い息を吐きながら、髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
焦燥ではない。これは、起死回生の一手を見つけた興奮だ。
(……落ち着け!考えろ!飛鳥京吾)
(カエルは『老化』したんじゃない。一瞬で『一生分の時間を生きた』んだ……つまり)
(紗夜の能力は『死』を与えることではなく、『時間の圧縮』……つまり『成長の促進』だとも考えられないか)
京吾は顔を上げ、紗夜を見据えた。
「……紗夜。この能力が生き物だけでなく、もし植物にも使えるとしたら?」
「え?」
「実験だ」
京吾は足元の草むらを指差した。
そこには、小さなタンポポのつぼみがあった。
夕暮れの中で身を固く閉じている。
「あのタンポポのつぼみに触ってみろ。さっきのカエルみたいに……こいつを『殺して』みろ」
「えっ!?でも、枯れちゃうよ?」
紗夜が後ずさる。
これ以上、自分の手で何かを壊すのは耐えられない。
「そんな可哀想なこと……」
「いいから!やれ!俺を信じろ!」
京吾の真剣な眼差しに、紗夜は息を呑んだ。
そこには狂気にも似た確信があった。今の彼にとって、これは遊びではない。生き残るための賭けなのだ。
(……京吾くんが言うなら)
(私が死神でも、彼が必要としてくれるなら……)
紗夜は覚悟を決めた。恐る恐る左手の指先を伸ばす。
小さな緑色のつぼみに、震える指先が触れる。
ボッ!!
一瞬で茎が震えた。
つぼみがみるみる膨らみ、ほころび、鮮やかな黄色の花がパッと開いた。
「あ……!」
「咲いた……!植物にも使えることが証明された」
さらに数秒後。花は綿毛になり、風に乗って飛び散り、最後は茎が枯れて地面に倒れた。
植物の一生が、瞬きの間に駆け抜けていった。
二人の目の前には、枯れ草だけが残る。
「……やっぱり、最後は死んじゃう」
紗夜はその場にしゃがみ込み、自分の左手を見つめた。震えが止まらない。
「私の手は、何も生み出せない……死神の手だよ……」
「待て。諦めるな」
京吾は隣に見える別のつぼみを指差した。
「もう一度だ、紗夜」
「い、いや!もう嫌……!」
「やるんだ! さっきは『殺す』つもりでやったから、一気に時間が進みすぎたんだ」
京吾は紗夜に歩み寄った。
「力を加減できれば……結果は変わるかもしれねえ」
「今度は、成長が緩やかになるように祈りながら触れてみろ。気持ちを植物に送るんだ。……例えば、今から十分後に花が咲くように」
「十分後……」
「ああ。想いを込めろ」
紗夜は涙を拭い、再び別の蕾に手を伸ばした。
今度は優しく、時間を慈しむように。赤子を撫でるように。
(……咲いて。ゆっくり……ゆっくり……)
触れる。
……何も起きない。
「……ダメ、みたい」
「いや、しばらく待とう」
京吾はじっと蕾を見つめた。
一分、五分、八分……。そして、約十分後。
ゆっくりと小さな音を立てて、蕾がふわりと開いた。
今度は散らない。枯れない。
鮮やかな黄色い花が、夕闇の中で美しく咲き誇っている。
「……咲いた」
京吾の声が震えた。
「枯れてねえぞ、紗夜!成功だ!」
「あ……」
紗夜は、呆然と手のひらの上の花を見た。
枯れていない。生きている。私が触れたのに、生きている。
「制御できるんだ。お前の意思で、時間は操れる!」
紗夜の震えは止まらなかった。喜びよりも、恐怖が勝る。
こんな強大な力を、自分が持っているなんて。
もし制御を誤れば、大切なものさえ一瞬で塵にしてしまうかもしれない。
ガシッ!!京吾が、紗夜の左手首を掴んだ。
「触らないで!」
紗夜は悲鳴を上げた。
「京吾くんまで、死んじゃうよ!?」
「ひっ……!?」
「離して!死んじゃう!時間が奪われちゃう……!」
京吾は、紗夜の左手をさらに力強く握りしめた。
骨がきしむほど強く。
「うるせえ!!制御できたじゃねえか」
京吾は紗夜をグイと引き寄せ、その目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は死なねえよ」
「……お前を幸せにするまではな」
「え……」
京吾は、紗夜の手のひらを自分の頬に当てた。
温かい。脈打っている。
死神の手なんかじゃない、人間の手だ。
「見ただろ? 花は咲いたんだ」
「お前の能力は『老化』させることじゃなかったんだ。『時間を進めて成長させられる』能力だったんだ」
「これは……死神の手なんかじゃない」
「一生、お前を守るために、あいつらに勝つために俺を成長させる手だ」
京吾はニヤリと不敵に笑った。
その笑顔は、紗夜がずっと見たかった、あの頃の自信に満ちた彼だった。
「……っ!」
「この手を握れるのは俺だけ、俺だけの特権だ」
紗夜の目から、大粒の涙が溢れ出した。
自分自身でさえ忌み嫌っていた左手を、彼は頬に当ててくれた。
「特権」だと言ってくれた。
「……思いついたぞ、紗夜」
京吾の目に、野心の火が灯る。
策士としての計算が、音を立てて組み上がっていく。
「カエルに使えば寿命が尽きて死ぬ。だが……『これから育つ桜の苗木』に使えばどうだ?」
「立派な桜の成木は高すぎて買えない。だが、種や苗木なら二束三文だ」
「俺たちは、安い苗木を大量に買い集める。それをお前の手で『成木(大人の木)』を一年後に調整して、寸止めするんだ!」
「え……」
「そうすれば、金のない俺たちでも短い期間で立派な桜並木が作れる!」
「四、五年かかる桜を、一年で咲かせる。……お前の『能力』があれば、俺たちは未来を先取りできるんだ!」
「そ、そんな使い方が……!」
「カエル殺しの呪いが、都を救う『神の御手』に化ける瞬間だ!」
京吾は紗夜の手を強く握った。
「やろうぜ、紗夜。俺たちの『桜』で、この衰退した京都をひっくり返すんだ」
紗夜は涙を拭って顔を上げた。
その表情から、卑屈な色は消えていた。
あるのは、愛する人のために能力を活用する覚悟だけだ。
「……京吾くん」
「もしこの力が、あなたの夢の役に立つなら」
紗夜は、潤んだ瞳で強く微笑んだ。
「私、死神にだってなるよ。……怖くない」
「咲かせる。京吾くんのために……何千本だって……!」
「……ああ。頼もしいな。でも死神にはなってほしくない」
京吾は少し照れくさそうに視線を逸らし、繋いだままの手を見た。
「……その能力……名前をつけるか」
「え?」 「
『老化』とか『死』とか、縁起でもねえからな。……かっこよくしようぜ」
京吾は少し考えてから呟いた。
「『星霜の手のひら』……ってのはどうだ」
「せいそう……?」
「ああ。『幾星霜』の星霜だ」
「ただ時間が経つだけじゃねえ。……『厳しい風雪に耐えて、苦労して、綺麗になる』って意味だ」
京吾はぶっきらぼうに、けれど愛おしげに紗夜の手を見つめた。
「お前のこの手は、老いさせる能力じゃない。桜を一番綺麗な姿にする魔法の手だ」
「……!」 「『星霜の手のひら』……。うん、素敵……!」
紗夜は嬉しそうに自分の手を見つめた。
さっきまで呪いと思っていた手が、今は宝物に見える。
「私のこの能力は、絶対に誰にも言わないでね」
「気持ち悪がらないのは、世界で京吾くんだけだから」
「…………」
京吾はフンと鼻を鳴らした。
「いや、俺も気持ち悪いと思うよ」
「えっ」
「カエル干からびさせる女とか、普通にホラーだろ」
「ひ、ひどい! さっき『魔法の手』って言ったのに!」
「あー、言ったっけ? 忘れた」
京吾はニシシと悪戯っぽく笑った。
紗夜も、つられてクスッと笑う。
「……誰にも言わねえよ。墓まで持ってく」
「……墓まで、か。うん、絶対一緒に入ろうね、京吾くん」
「え! そういう意味じゃねえよ」
「……ふふ。二人だけの秘密ができたね」
(……ああ、誰にも言ってたまるか)
京吾は心の中で誓った。
(触れると死ぬ死神の手。……だが、俺だけがこの手を握ってやれる)
(この危険な手の手綱を握れるのは、世界で俺一人だ)
夕闇の中、二人の影が一つに重なる。
京吾は気合を入れ直すように頬を叩いた。
ふと、隣を歩く紗夜の左手を見る。
「……それにしても」
「なんでお前に、そんな『能力』があるんだ?」
「お前の家系……入江家には、代々そういう力が伝わってるのか?」
「ううん。全然知らないの」
紗夜は首を横に振った。
「お母様とも、おばあ様とも、そんな話一度もしてないもの。……たぶん私だけよ」
「どこから来たのか……誰が与えたのか……私にも全くわからないの」
「ふうん……突然変異ってやつか?」
「わからないわ。家族にも言ってないからね」
「ま、今はその『出所不明のチカラ』でも、猫の手よりはマシか……」
「そうよ。二人で力を合わせて、京都中を桜で埋め尽くしましょう」
明治十六年、五月。
ハッタリだけの凡人の少年と不思議な能力を持つ少女の命がけの「桜植樹プロジェクト」が、今ここに幕を開けた。




