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明治洛中で死神没落令嬢に捧ぐ1万本の桜 ~嘘つき婚約者は、地獄の果てでも君の手を離さない~  作者: 京太郎


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【7】「お前の痛みは俺が引き受ける」――四年前の保健室での誓い

五月の湿った空気が、鳳凰院学舎の教室にまとわりついていた。  

だが、教室の中央だけは、梅雨の湿気など存在しないかのように華やいでいる。  

財前征一郎と伊集院エリザを中心に、選ばれし者たちの笑い声が渦巻いていた。


「琵琶湖疏水の測量が終わった。政府からの追加予算も認可された」

財前が懐中時計を確認しながら淡々と告げると、取り巻きの生徒たちが感嘆の声を上げた。

「さすが財前様!仕事が早い!」

「私もよ。フランスから鉄道技師を三人招いたわ。来月には測量開始よ」

「エリザ様の電気鉄道計画も順調ですね! 京都が変わりますわ!」


彼らが語るのは、輝かしい「未来」だ。鉄と蒸気と電気がもたらす、確実な繁栄。  

その喧騒から遠く離れた、日陰の席。飛鳥京吾は机に突っ伏し、魂が抜けたように動かない。

「西陣織」も「青空教室」も失敗に終わり、手元に残ったのは無力感だけだ。  

泥にまみれ、罵声を浴びた記憶が、彼の自尊心を蝕んでいる。


「……京吾くん」

隣の席から、入江紗夜が小声で話しかけた。

「……あ?」  

京吾の返事は掠れていた。生気がない。

「あ、あのね……お弁当、作ったの。一緒に……」

「いらねえ。……食欲ない」

京吾は顔を上げようともしなかった。  

紗夜は膝の上で弁当包みを握りしめた。  


いつもなら「腹減った!」と飛びつくはずの彼が、今は何も欲しがらない。  

それが何より、彼の心が壊れかけている証拠だった。


夕方。二人は鴨川沿いの通学路を並んで、無言で歩いていた。  

夕日が川面を赤く染めている。  

美しい夕景だが、二人の間には重苦しい沈黙が横たわっていた。


「…………」

俯いて歩く京吾の背中は、ひどく小さく見えた。  

あの頃の自信に満ちた背中はどこへ行ってしまったのか。  


紗夜はその頼りない背中を見つめながら、不意に、古い記憶を蘇らせていた。  

あれは四年前――二人がまだ十三歳だった頃のことだ。


(明治十二年・回想)  

中等部の体操の時間。  

校庭の砂埃の中、十三歳の紗夜は派手に転倒した。


「ったぁ……っ!」  

ハードルに足を引っ掛けたのだ。  

膝を擦りむき、滲んだ血が白い靴下を汚していく。  

周囲の男子生徒たちがクスクスと笑った。


「うわ、ドジだなー」

「入江、運動オンチすぎ」  

恥ずかしさと痛みで涙目になった紗夜の視界に、一人の少年が飛び込んできた。  

京吾だ。彼は眉をひそめ、誰よりも早く駆け寄ってきた。


「……おい、立てるか?」  

京吾は何も言わず、紗夜の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。


「乗れよ。保健室行くぞ」

「えっ……でも、みんな見てるし……」

「いいから乗れ」


有無を言わせぬ口調に、紗夜はおずおずとその背中に腕を回した。  

京吾が立ち上がる。  

彼の体温と運動着の汗の匂いが鼻をくすぐる。  

歩き出す京吾。その歩調は、驚くほど安定していた。


「……ごめんね。私、重いでしょ?下ろしてよ」

「じっとしてろ」

「だって、重いもの……」  

紗夜が身を縮めると、京吾は少し歩を緩め、背中の彼女を持ち上げ直した。


「……重いな。でも心地よい重さだ」

「え……?」

「この重さが『俺の人生』でずっと背負えるなら、悪くない」


京吾の耳が、夕焼けよりも赤く染まっていた。  

紗夜は言葉を失い、その背中に顔を埋めた。  

トクン、トクンと鳴る自分の心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうで怖かった。


保健室には先生がいなかった。消毒液のツンとした匂いが鼻をつく。  

ベッドの縁に座らされた紗夜の足元に、京吾が膝をつく。  

手には消毒液を含ませた脱脂綿を持っていた。


「……沁みるぞ。動くなよ」

(意外に、手つきが優しい…。私を『壊れ物』みたいに丁寧に扱ってくれる)  

京吾の指先が、傷口に触れる。


「っ……!」  

激痛に、紗夜が顔をしかめた。  

京吾はすぐに手を止め、紗夜を見上げた。  

その瞳はふざけている時の彼とは別人のように真剣だった。


「痛えか?……我慢しろ、すぐ終わる」  

京吾は自分の制服の袖をまくり、白い腕を紗夜の口元に差し出した。


「痛ければ、俺の腕を噛め」

「え?」

「俺の腕ならいくら傷ついてもいい」


京吾は真っ直ぐに紗夜を見つめた。

「……お前の痛みは、俺が引き受けるよ」  

その言葉に射抜かれ、紗夜は息をするのも忘れた。痛みなど、もうどうでもよかった。  

紗夜は噛む代わりに、その腕にそっと額を押し当てた。彼の脈動が、直に伝わってくる。


(私を、何よりも大事に扱ってくれる)

(この人のためなら……私、どんな痛みだって耐えられる)


(現在)  

そして今、紗夜の目の前には、自信を失い、ボロボロになった十六歳の京吾がいた。  

あの頃の太陽のように眩しかった彼は、もういない。


(……やっぱり嫌だ)

(こんな京吾くん、見たくない。……あの頃の、元気な彼に戻ってほしい)


紗夜の中で、何かが決壊した。  

彼が苦しんでいる。  

なら今度は私が、彼の痛みを引き受ける番だ。  

たとえ、嫌われることになったとしても。


「……京吾くん」  

紗夜は立ち止まった。  

京吾がのろのろと振り返る。死んだ魚のような目だ。


「話があるの。……大事な話」

「なんだよ、改まって」


紗夜は左手を胸に当て、深呼吸した。  

手袋の下の指先が、微かに震えている。

「嫌われるかもしれないけど……勇気を出して言うね。私……『変な特殊能力』があるの」

「……は?」


京吾の目が、少しだけ開かれた。

「隠しててごめんなさい。誰にも言えなかったんだけど……私、触れた生き物を『老化』させちゃうみたいなの」

「老化……?」

「前に、ここで魚を捕ろうとした時……触った瞬間に死んじゃって……。何度試しても同じだった」

「……どういうことだ?」

「信じられないよね」


紗夜は自嘲気味に笑った。京吾の顔色が変わる。

「何も役立てられないかもしれないけど。京吾くんなら何か、思いつくかもしれない。……見てて」


紗夜は河原に降りた。浅瀬に、一匹のアマガエルが泳いでいる。  

紗夜は手袋を外し、素手を水面に近づけた。


「ごめんね……」 紗夜が素早く手を伸ばし、カエルの背に柔らかく触れる。  

その瞬間。

ジュワッ……。  水中で小さな泡が立った。

ピチピチと跳ねていたカエルの緑色の皮膚が、一瞬で茶色く変色し、水分を失ってシワシワに萎んでいく。  

カエルは苦しむ間もなく、干からびた枯れ葉のようになって水面にプカリと浮いた。  

完全に、老衰して死んでいる。あまりにも呆気ない、時間の略奪。


「う、わぁ……!!」  

京吾が悲鳴を上げ、尻餅をついて後ずさった。

「死んだ……!?一瞬で!?」


紗夜は、濡れた自分の左手を見つめた。  

恐ろしい手だ。命を奪う死神の手。

「……気持ち悪いよね……。私、呪われてるの……」


京吾が荒い息を吐きながら立ち上がる。 その目は恐怖で見開かれていた。


「……おい、紗夜」

「……はい」

「怖いよ。その左手で絶対に俺を触るなよ」  

紗夜の心臓が、冷たく凍りついた。


「……っ!う、うん……」

(やっぱり、嫌われちゃった……)  

覚悟はしていたけれど、京吾からの拒絶は、想像以上に心をえぐった。  

だが京吾は震えながらも、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。


「信じらんねえ……。殺傷能力抜群じゃねえか。これは……最強の『武器』になるかもしれねえ」

「え……?」

「脅しか、暗殺か……使いようによっちゃあ、あいつらを出し抜ける!」


京吾の顔に、悪巧みをする時の色が戻る。  

しかしすぐにその表情が曇り、彼は頭を抱えた。


「……いや、待てよ。今回の試験は『京都の復興』だぞ?」

「あ……」

「『殺す』能力で、どうやって街を救うんだよ!?カエル殺しても人殺しても……復興にはなんねえだろ!」


京吾の叫びが、夕闇の河原に虚しく響く。

「やっぱり使えないよね……。この能力は『破壊』の力。街を豊かにしたり、人を幸せにすることはできないね」

「くそっ……!やっぱり俺らは詰んでるのか!?」


京吾は地面を蹴った。

「金も人脈もない俺たちが、持ってるのは『死神の手』だけ……。どうしろってんだよ……!」


万策尽きた。  

夕闇が濃くなる河原で、二人は立ち尽くすしかなかった。


その時。頭上の三条大橋から冷ややかな声が降ってきた。


「――そこで何をしている、飛鳥」  

ハッとして見上げると、橋の欄干に財前征一郎と伊集院エリザが並んで立っていた。  

夕日を背にし、二人を完全に見下ろす構図だ。


「財前……!」

「泥遊びか? 相変わらず暇そうだな」


財前は懐中時計を見ることすらせず、侮蔑の眼差しを向けた。

「僕は今日、琵琶湖疏水周辺の用地買収を八割方完了させた。

予定より十二時間早い進捗だ。来週には着工だ。……君が泥をこねている間に、地図が書き換わるぞ」


エリザが扇子を広げ、クスクスと笑う。

「あら、財前様。いけませんわ。彼らには彼らなりの『おままごと』があるんですもの」

「……」

「私も、フランスからの技師団との契約を済ませましたわ。

電気鉄道の路線地も確保済みよ。……ねえ、飛鳥さんと入江さん。そろそろ『身の程』を悟ったら?」


「……行くぞ、エリザ。時間の無駄だ」

「ええ。ごきげんよう、ゴミあさりのお二人さん。

あなたたちが子供のお遊戯をしている間、私たちは未来へ進んでいるわ」


二人は興味なさそうに背を向け、橋を渡って去っていく。  

その姿は、あまりにも遠く高く輝いて見えた。


橋の下に残された二人。

「……くそっ」  

京吾は、足元の石を力任せに川へ蹴り込んだ。

「なんなんだよ……! あいつらは金と権力で『地図』を変えるってのに……俺たちはカエル一匹殺して終わりかよ!」

「こんな能力……どう使えばいいんだよ」

京吾の悲痛な叫び。  

だが紗夜は泣いていなかった。  

俯いてはいるが、その拳は震えるほど強く握りしめられている。


(……ムカつく)

(京吾くんを見下ろしていいのは、神様だけよ)

(あんな成金女に、京吾くんのカッコよさの何が分かるの?)  

紗夜の中で、何かが音を立てて砕け、そして再構築された。  

もう、ただ守られるだけの少女ではいられない。  

彼女は自分の左手を、胸元で強く握りしめた。  

呪うべきこの手を、今は武器として使う覚悟を決めたのだ。


「……京吾くん」

「え?」

「あんな奴らの言葉、一秒で忘れて。京吾くんの耳が汚れるわ」  

その声の冷たさに、京吾は思わずたじろいだ。

「お、おう……?(なんか今日、迫力が……)」

「見返してやろうよ」


紗夜は、去っていった財前たちの背中を睨みつけた。

「あいつらが泣いて土下座して、『飛鳥様、参りました』って言うまで……私、絶対に許さないから」

「……!」  

その剣幕に押され、京吾の目に冷静な色が戻る。  

そうだ。ここで腐っていては、あの高慢な連中の思う壺だ。


「……ああ。そうだな」  

京吾はニヤリと笑った。  

それは弱者の笑いではなく、反撃を誓う狼の笑みだった。


「やってやるよ。……見てろよ、クソエリートども」  

太陽が完全に沈み、夜が来る。  

しかし二人の瞳には、逆襲の光が確かに灯っていた。

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