【3】暗闇の「恋人繋ぎ」。恐怖を塗りつぶす、はぐれないための体温
翌日の夜、二十二時。 丑三つ時にはまだ早いが、明治の夜は漆黒の闇に支配されていた。
ガス灯の青白い光も届かぬ松原通の突き当たり。
「六道の辻」と刻まれた石碑が、亡霊のように白く浮かび上がっている。
六道珍皇寺。
この世とあの世の境目とされるその場所には、湿度を含んだ重苦しい静寂が張り詰めていた。
カエルの鳴き声すら聞こえない、真空のような静けさだ。
「……えっ」
山門をくぐった紗夜が、小さく息を呑んだ。
闇に沈む境内には、すでに四つの人影があったからだ。
財前征一郎、伊集院エリザ、そして上級生の烏丸玄五郎と白川紗代子。
昨日の昼間に、校長室で顔を合わせた「選ばれしエリート」たちが、全員揃っていた。
「お前ら……結局、全員来たのかよ」
京吾が呆れたように声をかける。
財前が懐中時計をパチンと閉じた。月明かりの下、その銀縁眼鏡が冷ややかに光る。
「勘違いするな。オカルトを信じたわけではない」
財前の声には、一切の揺らぎがない。
「だが……調べたところ、花山院校長の実家は代々、朝廷の祭祀を司る家系だ。
彼が『真実』と言うなら、確認する義務がある。もし詐欺なら、その場で警察に突き出すだけだ」
徹底した合理主義。
だがその瞳の奥には隠しきれない好奇心と、得体の知れない利益への嗅覚が光っている。
リスクを恐れず、一縷の可能性に賭ける貪欲さ。それが財閥を率いる者の資質なのだろう。
「私もよ。パパに話したら『一%でも利益になる可能性があるなら、ドブの中でも拾いに行け』と言われたわ」
エリザが扇子で口元を隠しながら、不快そうに周囲を見回した。
「万が一、本当に『繁栄』が手に入るなら、みすみす逃すわけにはいかないもの。……もっとも、こんな不潔な場所だとは思わなかったけれど」
彼女はドレスの裾が地面につかないよう、神経質に持ち上げている。その表情には、泥臭い場所への生理的な嫌悪感が滲んでいた。
「わ、私は……財前君が行くと言うから、見届け人としてだな……」
「わたくしもですわ!」
烏丸と白川も、不安そうにしつつも帰ろうとはしない。
(……なるほどな。こいつら、抜け目がない)
京吾は鼻を鳴らした。
プライドは高いが、利益のためなら泥水でもすする覚悟がある。その執着心だけは、認めざるを得ない。
(偉そうなだけじゃない。彼らは貪欲なんだわ)
紗夜もまた、冷めた目で彼らを見ていた。
(あなたたちが欲しいのは『更なる富』でしょうけど……私たちが欲しいのは『生存』なのよ。覚悟の次元が違うわ)
その時、山門の外から、調子の外れた鼻歌が聞こえてきた。
「六道の~辻~♪ 酒の~入り口~♪」
千鳥足で現れたのは、六角紫門だった。
片手に一升瓶をぶら下げ、顔はほんのりと赤い。完全に出来上がっている。
酒臭い息が、境内の張り詰めた空気を一瞬で緩ませた。
「……来たわね。昨日の『酔っ払い』」
「指定時刻に遅刻とは。……これが『冥府検分役』の規律か?」
エリザと財前が詰め寄るが、紫門は悪びれもせず一升瓶を振った。
「んあ?……おー、揃ってる揃ってる。悪いな、現世の酒が美味すぎて、つい一本空けちまった」
「ふざけるな!やはりタチの悪い悪戯だったか。帰るぞ!」
烏丸が激昂して踵を返そうとする。
「ま、疑いながらも全員来たわけだ。……その『欲深さ』こそが、冥府検分役の第一条件だぜ?」
「なんだと?」 「帰るのか?……ハッ、こいつを見てから言いな」
紫門の目が、一瞬で鋭く細められた。 彼は本堂の裏手にある、古びた井戸の前に立った。
苔むした石組みの井戸からは、冷蔵庫を開けたような冷たい風が吹き上げている。
紫門は持っていた一升瓶を傾け、中身の酒をドボドボと井戸の中へ注ぎ込んだ。
「清めの酒だ。……開けろ」
ボウッ!!
井戸の底から、突如として青白い鬼火が吹き上がった。
化学的な炎ではない。肌に触れれば魂ごと凍りつきそうな、冷たく、禍々しい霊気だ。
「なッ……!?」
「きゃあっ!」
白川が悲鳴を上げて尻餅をつく。
財前さえも、論理を超えた現象に後ずさった。
「さあ、来な。地獄への片道切符だ」
紫門はニヤリと笑うと、躊躇なく井戸の中へ身を躍らせた。
ドプン、という重い水音もなく、男の姿が闇に消える。
波紋が消えた後には、底知れぬ闇を湛えた水面だけが残り、鬼火がゆらゆらと手招きしている。
「こ、ここに入るんですの? 泥だらけになりますわ……」
「嫌なら帰れ。誰も止めねえよ」
井戸の底から、紫門の声が反響して響く。
顔を見合わせる生徒たち。誰も動けない。
足が竦んでいるのだ。
未知への恐怖と、生理的な嫌悪感が彼らを縛り付けている。
「……行くぞ」
沈黙を破ったのは、京吾だった。
彼は震える脚を叱咤し、迷わず井戸の縁に足をかけた。
「正気か、飛鳥?」
財前が信じられないものを見る目で問う。
京吾は、強がって不敵に笑ってみせた。
「チャンスが底にあるなら、肥溜めだって潜るさ。……貧乏人は失うもんがねえからな」
京吾に続いて、紗夜も小さく頷いて降りる。
それを見て、財前が舌打ちをした。
「……チッ。行くぞ」
彼らのプライドと欲望が、恐怖に勝ったのだ。次々と井戸へ飛び込んでいく。
「……あなたたちも全員が狂人ね。信じられませんわ」
最後にエリザが、ドレスの裾をまくり上げて井戸に入っていく。
井戸の底には、水ではなく、横穴のトンネルが続いていた。
壁は土ではなかった。脈打つような黒い岩肌で覆われ、触れると生温かい。
まるで巨大な生物の食道の中を歩いているような感覚に、強烈な吐き気を催す。
松明の炎が青白く燃え、一行の影を長く不気味に引き伸ばしていた。
「京吾くん。……私、ちょっと怖い」
紗夜が京吾の学ランの裾を掴む。その手は小刻みに震えていた。
京吾は彼女の手を、力強く握り返した。
「大丈夫だ。俺が側にいる。……何とかなるっしょ」
軽口を叩くが、その掌も汗ばんでいる。
京吾自身も、恐怖で足が動かなくなりそうだった。
「な、何なのここは……悪夢だわ」
先を行くエリザが悲鳴を上げ、財前の背後に隠れる。
最後尾を歩く紗夜もまた、足元の悪さと生理的な嫌悪感に、足がすくんで動けなくなっていた。
「……っ」
紗夜がよろめき、壁に手をつこうとした、その時だ。
「触るな。……岩盤が突起している。危ない」
バシッ、と紗夜の手が空中で掴まれた。
京吾だ。彼は紗夜の手首を掴むと、そのまま強引に自分の懐へと引き寄せた。
「きゃっ……」
紗夜の体が京吾の胸にぶつかる。近すぎる。
暗闇の中で、彼の心臓の音が聞こえそうな距離だ。
「さ、京吾くん……?」
「離れるなよ。……みんなに置いていかれたら、俺たち二人で、ここを彷徨うことになる」
「う、うん……」
「お前が転んだら、俺まで共倒れだ。……ほら」
京吾はぶっきらぼうに言うと、掴んでいた紗夜の手首から、手のひらへと指を滑らせた。
そして、指を絡めるようにギュッと握り込んだ。恋人繋ぎだ。
「えっ……」
「この方が力が入りやすいだろ。……行くぞ」
京吾は前を向いたまま歩き出す。
その耳が、松明の灯りを受けて微かに赤くなっているのを、紗夜は見逃さなかった。
(……昔と、変わらない)
紗夜は胸が高鳴るのを感じた。
子供の頃、いじめっ子から逃げる時も、こうして手を引いてくれた。
没落して、ひねくれて、道化を演じていても……いざという時、この手は私を一番に守ってくれる。
その様子を、前を行くエリザが振り返って目撃した。
「あらあら。……『空気』な貧乏人同士、随分と仲がよろしいこと」
エリザが冷やかすようにクスクスと笑う。
紗夜は恥ずかしさで手を引っ込めようとしたが、京吾は逆に力を込めて離さなかった。
「悪いね。幼馴染なもんで、はぐれないように必死なんだよ。……君らみたいなエリートと違って、余裕がないもんでね」
京吾はヘラヘラと笑い飛ばしたが、その繋いだ手は、紗夜を安心させるように優しく力強かった。
(……あったかい)
暗闇と恐怖の中で、京吾の体温だけが、紗夜にとっての唯一の光だった。
この温もりがなければ、紗夜はこの異界の空気に飲まれて発狂していたかもしれない。
京吾もまた、紗夜の手を握ることで、震えを止めているのだと分かった。
二人は互いに支え合わなければ、立っていることすらできない。
この温もりが、間もなく訪れる閻魔との対面で、二人の運命を変える「嘘」の源泉になるとは、まだ誰も知らなかった。
「おい、出口はあるんだろうな!」
エリザと烏丸が叫ぶ。先頭を行く紫門が、足を止めた。
「もう少しだ。……ほら、見えてきたぞ」
トンネルの先に、眩い朱い光が見えた。
血のような、鮮烈な赤。
一行がトンネルを抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
「…………!」
全員が息を呑み、言葉を失った。
そこは、地下とは思えない広大な空間だった。
天井はなく、どこまでも続く夜空には、見たこともない巨大な赤い月が浮かんでいる。
そして大地を埋め尽くすのは、見渡す限りの彼岸花。
血のような真紅の花が、風もないのにざわめき、妖艶に咲き乱れている。むせ返るような花の香りが、鼻腔を刺激する。
「きれい……」
紗夜が、夢遊病のように呟いた。
恐怖を忘れるほどの、圧倒的な「死の美」がそこにあった。
エリザも扇子を取り落とし、呆然と立ち尽くす。
「嘘でしょう……? 美しい……」
それは、この世のものとは思えない、美しくも残酷な「死の世界」の絶景だった。
紫門が、彼岸花の海を割って歩く。
「ここは『賽の河原』の特別区。閻魔王庁への正面玄関だ」
庭園の中央に、見上げるほど巨大な黒塗りの門がそびえ立っていた。
その威圧感だけで、押し潰されそうだ。
紫門が門に手を当てる。
「開けろ。客を連れてきた」
紫門の手から青白い「念」が放たれる。
ゴゴゴゴ……と地響きを立てて、巨大な門がひとりでに開いた。
中から、強烈な威圧感が暴風となって吹き出してくる。
「くっ……!」
京吾は思わず腕で顔を覆った。
肌が粟立ち、本能が「入るな、死ぬぞ」と警鐘を鳴らしている。
門の奥は、朱塗りの柱が並ぶ広大な部屋だった。
その最奥。一段高い玉座に、一人の美青年が座っていた。
年の頃は二十代後半。豪奢な狩衣を纏い、長い黒髪を緩く束ねている。
その周囲には、うず高く積まれた巻物の山。 彼は一心不乱に筆を走らせていた。
「連れてきましたぜ、大王様」
紫門の声に、美青年――閻魔大王の手が止まる。
「…………」
衣擦れの音と共に、彼がゆっくりと顔を上げる。
長い睫毛が持ち上がり、その瞳が露わになる。
血のように赤く、宝石のように硬質な瞳。
この世の者とは思えない、凍てつくような美貌。
閻魔の視線が、京吾たち一人一人を舐めるように動く。
ただ見られただけで、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感。空気が鉛のように重くなる。
紗夜も、エリザも、白川も、思わず小さく悲鳴を上げて硬直した。
京吾は、蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「ここまでくると……信じるも信じないもなくなったな」
「思ってたのと違う。……若くて美しい方ね」
京吾とエリザが、乾いた唇で呟くのが精一杯だった。
閻魔が、薄い唇を開く。
「……遅い」
低く、よく通る声。
その一言が、絶対的な審判として響き渡る。
「報告が遅れるごとに、貴様の寿命を縮めるぞ、紫門」
冗談には聞こえないその言葉に、六人は息をするのも忘れて立ち尽くした。
ここが「地獄」の中枢であることを、彼らは肌で理解させられたのだ。




