【1】「地獄に落ちればいいのに」――少女が秘めた冷徹な毒舌
それから十年後。明治十六年(一八八三年)
かつて「王城の地」と謳われ、千年の栄華を極めた京の都は今、死臭を放ちながら腐り落ちようとしていた。
明治維新という名の嵐が吹き荒れ、帝が東京へと去った。
それは都にとって、魂を抜かれたに等しい出来事だった。
都の人口はわずか数年で三十四万から二十三万へ、約三分の一にまで激減した。
主を失った公家屋敷は雨風に晒されて骨組みを晒し、庭木は伸び放題となり、カラスの巣となっている。
路地裏には職を失った元士族たちが、昼間から酒をあおり、亡霊のように座り込んでいた。
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた寺院からは、打ち壊された仏像の破片と、カビ臭い線香の匂いが漂っていた。
一方で大通りを見れば、黒い煙を吐き出すレンガ造りの工場が、古刹の瓦屋根を見下ろすように建ち並び始めている。
工場の壁には「文明開化」「富国強兵」の張り紙。
煙突から吐き出される煤煙が、京の青空を灰色に塗りつぶしていく。
美しさと汚さ、富と貧困、過去と未来がドロドロに混ざり合う混沌の街。それが現在の京都だった。
路地裏で、子供たちが手毬をつきながら歌っている。
「六道の~辻~♪地獄の入り口~♪篁さんが~♪」
通りがかりのシルクハットを被った洋装の紳士が、それを聞いて鼻で笑う。
「フン、いつまでそんな迷信を。これだから京都は……」
紳士はステッキを回し、子供たちを避けるように大股で去っていく。
そんな灰色の街に、極彩色の異空間が存在する。
京の名門校・鳳凰院学舎。
西洋建築の粋を集めたレンガ造りの校舎は、京都の新しい権威の象徴だ。
昼休み。
高い天井からシャンデリアが下がる豪奢な教室は、フランス製の香水とダージリンの香り、そして上等な牛肉の脂の香りで満たされていた。
「……非効率だ」
昼時の喧騒の中、氷点下の声が響いた。
教室の中央、窓際の一番日当たりの良い特等席。
そこに座る男子生徒が、片手に英字新聞を持ち、もう片方の手で金時計の懐中時計を睨みつけている。
新興財閥・財前家の嫡男、財前征一郎、十六歳。
仕立ての良い三つ揃えのスーツを着こなし、鼻梁には銀縁の眼鏡。
その奥の瞳は、感情という不純物を一切排除したかのように冷たい。
「……紅茶一杯持ってくるのに、これだけの時間を要するとは」
「も、申し訳ありません財前様!厨房が混んでおりまして……!」
給仕役の下級生が青ざめて震えている。財前の机の上には、純銀の食器に盛られた、
湯気の立つビーフシチューと、焼きたての白パンが並べられている。学食などではない。
専属のシェフに作らせ、馬車で運ばせた特注品だ。
しかし財前はそれらに口もつけず、冷徹に言い放った。
「君のその無駄な動きが、日本の近代化を遅らせる要因だ。……去りたまえ」
「は、はいっ!」
下級生が逃げるように去っていく。
財前はため息をつき、再び英字新聞に視線を落とした。
彼にとって、無能な他者との会話は、酸素の無駄遣いでしかない。
その隣のグループでは、ひときわ派手なバッスル・ドレスに身を包んだ令嬢が、扇子で優雅に顔を仰いでいた。
貿易商の娘、伊集院エリザ(いじゅういん えりざ)、十六歳。
巻き毛の髪にはリボンをあしらい、手元にはレースのハンカチ。
まるでパリの社交界から抜け出してきたような出で立ちだ。
「……ああ、嫌だわ。誰か窓を開けてくださらない?空気が澱んでいますわ」
エリザが大げさに顔をしかめる。
「日本の教室はどうしてこう、カビ臭いのかしら。……理解に苦しみますわ」
彼女の言葉は完璧な日本語だが、その端々には、この国の土着的なもの――畳の匂いや、墨の匂い――を心底見下す冷ややかさが滲んでいた。
「パパに言って、空調設備を輸入させようかしら」
取り巻きの女子生徒たちが「さすがエリザ様!」と黄色い声を上げる。
権威と富、そして西洋への盲信。
この学舎は、家柄と金がすべてを支配するカースト社会の縮図だった。
そんな教室の隅。
廊下側の、日も当たらない一番暗い席に、その二人はいた。
まるで光り輝く教室の中で、そこだけ色が抜け落ちたかのような空間。
飛鳥京吾(飛鳥あすか きょうご)十六歳と、入江紗夜十六歳。
京吾の机の上には、数日前の古新聞が広げられている。
その上にあるのは、梅干しだけの冷たい握り飯が二つ。米は古く、所々黒ずんでおり、海苔すら巻かれていない。
財前のビーフシチューの芳醇なデミグラスソースの香りが漂ってくる中、京吾はその貧相な握り飯を隠すように、急いで口に詰め込んでいた。
(…目立つな…空気になれ。石ころになれ)
京吾はモソモソと硬い米を噛み締めながら、奥歯を鳴らした。
かつての名門・飛鳥家は、五年前の父の事業失敗により没落した。
屋敷は人手に渡り、父は蒸発し、残されたのは莫大な借金だけ。
今の自分は、学費を払うのも精一杯の「血筋だけの貧乏人」だ。
ここでは目立ったら終わりだ。嵐が過ぎるのを待つしかない。
隣の席の紗夜もまた、継ぎ接ぎだらけの袖口を隠すように小さくなり、ボロボロの古書を読んでいた。
彼女の入江家もまた、とある事情で没落した家系だ。
二人の周りだけ、重苦しい疎外感の壁があった。
食後。京吾がトイレに行こうと席を立ち、財前の机の横を通った、その時だった。
「……邪魔だ」
財前が、英字新聞から目を離さずに呟いた。低い、地を這うような声。
京吾は足を止めた。心臓が嫌な音を立てる。
「へ?」
「君が僕の視界を横切ると、思考が阻害される。……貧乏神の瘴気でも出ているのか?」
財前がゆっくりと顔を上げ、京吾を見据える。
その瞳には、人間を見るような温度はない。ただの「排除すべきエラー」を見る目だ。
「飛鳥……だったか。五年前の事業失敗で夜逃げした家の」
「…………」
「僕の貴重な時間を、君のような非生産的な『存在』で浪費させないでくれたまえ」
教室中の視線が、一斉に京吾に突き刺さる。嘲笑、憐憫、そして蔑み。
京吾の拳が、太ももの横でギュッと握りしめられた。
爪が食い込み、血が滲む。胃の底から、熱いものがせり上がってくる。
(……こいつ、マジでぶん殴りてえ)
(その気取った眼鏡を叩き割って、これみよがしな懐中時計を粉々に踏み砕いてやりたい)
はらわたが煮えくり返るような屈辱。名門の誇りを傷つけられた誇り。
だが京吾は知っている。ここで殴れば、本当に「終わり」だということを。
退学になれば、家を再興する道は閉ざされる。何より、隣にいる紗夜を守ることもできない。
だから彼は、瞬時に仮面を被った。
プライドをドブに捨て、「道化」の仮面を。
「ひえぇ~!こりゃ失礼しました財前様ぁ!」
京吾はわざとらしく大袈裟に飛びのき、ヘラヘラと卑屈な笑みを浮かべた。
腰を低くし、手をもみ合わせる。
「俺みたいなゴミが高貴な視界に入っちまって……いやあ、申し訳ない!すぐ消えますんで!換気!換気しときますね~!貧乏菌が移っちゃ大変だ!」
ペコペコと頭を下げ、逃げるように廊下へ出る。
背後でドッと笑いが起きる。
「飛鳥のやつ、相変わらずだな」
「プライドないのかよ」という嘲笑が聞こえる。
財前は「……ふん」と鼻を鳴らし、興味なさそうに懐中時計をしまった。
彼にとって京吾は、羽虫程度にも記憶に残らない存在なのだ。
その一部始終を、隣の席の紗夜が見ていた。
彼女は一見、怯えているように見えた。長い睫毛を伏せ、華奢な肩を震わせている。
だが。その俯いた顔の影で、彼女の瞳は、冷え切った硝子玉のように財前を射抜いていた。
(……あいつ、地獄に落ちればいいのに)
紗夜は、着物の袖の下で強く拳を握った。爪が食い込む痛みで、激情を抑え込む。
(京吾くんの貴重な演技を、あんな特等席で浴びておきながら……何その態度?)
(京吾くんがどれだけの覚悟で、その頭を下げていると思っているの。)
(飛鳥家の当主が、あんな下衆な笑いを浮かべる苦しみが、あんたごときに分かるの?)
(その眼球をくり抜いて、鴨川の泥水で洗ってこい、秒針メガネ)
彼女の心の中では、猛烈な毒舌の嵐が吹き荒れている。
紗夜にとって、飛鳥京吾はこの世のすべてだ。
彼を侮辱する者は、たとえ神でも許さない。ましてや成金の息子など、万死に値する。
そこへ、伊集院エリザの派手なドレスの裾が視界に入ってきた。香水の甘ったるい香りが鼻をつく。
「あらあら。飛鳥が心配なの? お似合いね、没落同士」
エリザが、ハンカチ越しに侮蔑の眼差しで見下ろしている。
まるで汚いものを見るような目。
「入江家と言えば……六十年ほど前の当主の『失態』で衰退した一族よね?」
「…………」
「内容は知らないけれど……あなたを見てると分かるわ。きっと、よほど恥ずべき事をしたんでしょうね。血は争えないものですわ」
「……ご、ご迷惑はおかけしませんから……」
(…六十年ほど前の当主? 曾祖父様のこと?何の話?)
紗夜は消え入るような声で答え、さらに深く俯いた。
その殊勝な態度の裏で、彼女は冷ややかに舌打ちをする。
(……かわいそうな人)
(着飾っても無駄よ。京吾くんは、そんな布きれ一枚で靡くような安い男じゃないわ)
(いくら香水を振りまいても、あなたの性根の悪臭は消せないわよ)
「目障りよ。化石は博物館にお帰りなさい」
エリザの高笑いが響く。
紗夜は何も言い返さず、ただじっと、机の上の古書の文字を睨みつけていた。
今は耐える時だ。いつか、必ず見返してやる。
夕暮れの鴨川。
茜色に染まる河川敷を、京吾と紗夜は並んで歩いていた。
周囲に人はおらず、川のせせらぎと、遠くで鳴くトンビの声だけが聞こえる。
川面を渡る風は冷たく、湿った土の匂いを運んでくる。
京吾は道端の小石を、苛立ち紛れに蹴り飛ばした。
石は乾いた音を立てて転がり、濁った川水へと没した。
「……京吾くん」
「ん?」
「あんな愛想笑い……しなくていいのに」
紗夜がぽつりと呟く。京吾はぴたりと足を止めた。
「……仕方ないだろ。今の俺たちは『空気』だ。嵐が過ぎるのを待つしかない」
京吾は自嘲気味に笑った。
「あそこで俺がヘラヘラしとけば、お前への被害も減るだろ?道化になるのは金がかからないからな」
そう。京吾の道化は、プライドを捨てたのではない。
紗夜を守るために、プライドごと泥を被るための盾なのだ。
紗夜は胸が締め付けられる思いで、ボロボロの学生鞄を抱きしめた。
「……悔しいよ」
紗夜の声が震える。
「私なんかが言われるのはいいの。でも、京吾くんまで……」
「…………」
「五年前までの京吾くんは、あんな奴ら相手じゃなかった。クラスの中心で、太陽みたいで……いつだって堂々としてた」
紗夜が、潤んだ瞳で京吾を見上げる。
その瞳には、かつての「若き当主」としての京吾の姿が焼き付いている。
「私……あの頃の京吾くんに戻ってほしい」
京吾は、バツが悪そうに視線を逸らした。
川面に石を投げる。水切りができず、ボチャンと沈む。
波紋が広がり、夕焼けを歪ませる。
「……無理だよ」
京吾の声は、枯れ葉のように乾いていた。
「親父が借金まみれで蒸発して、家も失って……今の俺はただの『血筋だけの貧乏人』だ」
彼は自分の掌を見つめた。
ペンだこよりも、内職でついたささくれの方が目立つ手。
「ハッタリかまして虚勢張ったって、金と地位がなきゃ誰もついてこない。……それが現実だ」
帰り道、二人は「六道珍皇寺」の前を通りかかった。
現世と冥界の境目と言われる「六道の辻」
夕闇の中、古い石碑が妖しく浮かび上がっている。
境内からは、線香の匂いと共に、ひやりとした冷気が漂ってくるようだった。
寺の門前で、町娘たちが提灯を持ったまま、ひそひそと話していた。
「ねえ、聞いた?夕べ、また『井戸』の中から音がしたんだって」
「やだ、怖い……。やっぱりあそこ、本当に『地獄』に繋がってるのかしら」
「小野篁公の伝説だろ?昼は朝廷、夜は地獄の閻魔庁にお勤めってやつ」
「最近、京の都は物騒だからなぁ…。地獄の釜の蓋が開いて、死人が溢れ出してなきゃいいけど」
京吾は興味なさそうに吐き捨てた。
「……くだらねえ」
「京吾くん?」
「死人だの地獄だの……そんな迷信で飯が食えるかよ」
京吾は貧乏ゆすりをしながら、門を睨みつけた。
「幽霊より怖いのは貧乏だ。明日の米の心配の方がよっぽど地獄だぜ。……行くぞ、紗夜」 「……うん」
京吾の背中を追いかけようとした紗夜が、ふと足を止める。
閉ざされた山門の隙間から、境内の奥が見えた気がしたのだ。
そこには、濃密な闇と、誘い込むような甘い花の香りが漂っていた。
「おい、紗夜。置いてくぞ」
「あ、待って!」
紗夜は小走りで京吾を追いかけた。二人の足音が遠ざかっていく。
誰もいないはずの境内。
本堂の裏手にある古びた井戸の縁に、一人の男が腰掛けていた。
着流し姿に、無精髭。月明かりの下、無言でキセルを咥えている。
その姿は、生きている人間というよりは、夜の一部が人の形をとったかのようだった。
「――――」
男は長く紫煙を吐き出した。
その煙が、まるで生き物のように井戸の底へと吸い込まれていく。
男は表情一つ変えず、音もなく井戸の中へ身を躍らせた。
水音ひとつせず、男の姿が闇に消える。
あとには、ゆらゆらと揺れる彼岸花が一輪だけ残されていた。
この時の二人はまだ知らない。
その井戸の底で、彼らの運命を変える「選抜試験」の準備が、着々と進められていることを。




