【16】六十六年の因縁を超えて。愛へと昇華された二つの一族
四月一日。六道珍皇寺、閻魔王宮。
朱塗りの広間は、張り詰めた沈黙に支配されていた。
玉座から見下ろす閻魔大王の瞳が、冷徹な光を放っている。
その視線の先で、飛鳥京吾は額を床に擦り付けたまま、動かない。
「さあ、選べ。どうする?飛鳥京吾」
閻魔の声が、審判の鐘のように響く。
「一族の繁栄か。それとも……」
京吾は顔を上げた。その瞳に迷いは微塵もなかった。
かつて「嘘」と「ハッタリ」で武装していた少年の顔は今はもうない。
あるのは一人の愛する女性を救おうとする、剥き出しの男の顔だ。
「どうするも何もない。初めから決まっていたんだ」
京吾の声が、広間に朗々と響いた。
「家も金も力も……何もいらない!」
「……ほう」
「紗夜を……あいつを助けてください!!」
京吾の絶叫が、朱塗りの柱を震わせた。
その選択は、飛鳥家の再興という悲願を、自らの手で捨てることを意味する。
父の無念も、母の苦労も、全てを裏切る行為だ。
だが京吾にとって、紗夜のいない「繁栄」など、地獄よりも寒々しい空虚でしかなかった。
広間が静まり返る。財前もエリザも固唾を呑んで閻魔の反応を待った。
閻魔は、無表情のまま京吾を見下ろしていた。
やがて、その美貌が歪み――口元がニヤリと吊り上がった。
「……ククッ。ハハハハハ!」
高笑いが爆発した。それは嘲笑ではない。
永きにわたる退屈が破られた、歓喜の笑いだった。
「やはり、歴史は繰り返すか」
「……え?」
「私はずっと待っていたのだ。入江隆仁と同じように……『自分の利益(家)』よりも『他人の未来(愛)』を選べる人間が現れるのをな」
閻魔は、京吾の目の前に浮かんでいた「報酬の光」を、無造作に鷲掴みにした。
パリンッ。
乾いた音がして、光がガラス細工のように弾け飛んだ。
永遠の繁栄が、霧散していく。
だが、京吾はそれを惜しいとも思わなかった。
「契約成立だ。飛鳥京吾」
閻魔が告げる。
「貴様の願い通り、その『報酬(特殊能力)』は破棄する。さらに……入江紗夜の体にある『能力(呪い)』も私が没収する」
「没収……!?」
「能力が消えれば、生命力の減退も止まる。……そして」
閻魔が懐から、一株の草を取り出した。
それは、淡い黄金色の光を放っている。
かつて隆仁が妻を救うために作り出し、そして妻に使わなかった幻の薬草だ。
「『奇跡の薬草』だ。これを入江紗夜に飲ませろ」
閻魔が薬草を放る。京吾は震える手でそれを受け止めた。
「彼女の失われた時間を埋め合わせる。すぐに生命力が元に戻るだろう」
「……っ!」
京吾の手の中で、薬草が温かく脈打っている。それは紗夜の命そのものだった。
「ありがとうございます……!ありがとうございます……!」
京吾は何度も頭を下げた。涙が床を濡らす。その様子を見て、紫門が満足げに煙を吐いた。
「へっ。……粋な真似しやがって」
「飛鳥京吾。おまえこそ、第四十代目の冥府検分役にふさわしい」
閻魔の言葉に財前とエリザも、安堵したように肩の力を抜いた。
彼らの目にもうっすらと光るものがあった。
その日の夜。病院の個室。
京吾は震える手で薬草を煎じ、スプーンで紗夜の唇に含ませた。
液体が喉を通ると同時に、淡い光が紗夜の体を包み込んだ。
奇跡が起きた。老婆のように白くなっていた髪の色が、根元から毛先へと、波打つように艶やかな黒へと戻っていく。
枯れ木のようにひび割れ、硬質化していた指先の皮膚が再生し、透き通るような白さと、瑞々しさを取り戻していく。
「……頼む。戻ってきてくれ……」
京吾は、紗夜の手を両手で包み込み、祈り続けた。
最初は氷のように冷たかったその手が、徐々に熱を帯びてくる。
ドクン、ドクン。
掌を通して、彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。
生きている。血が巡っている。
死神の手なんかじゃない。愛しい人間の手だ。
(閻魔大王、あんたには感謝するよ)
(こいつの命は絶対に救う……こいつの痛みも、未来も、全部俺が引き受ける)
(紗夜は、俺だけのものだ)
京吾の祈りが通じたのか、紗夜の頬に微かに赤みが差した。
規則正しい寝息が、静寂の部屋に響き始めた。
翌日、四月二日。快晴。
琵琶湖疏水の散歩道は、満開の桜のトンネルとなっていた。
花びらが舞い散る中を、二人が歩いている。
紗夜は奇跡のように回復していた。その足取りは軽く、黒髪が春風になびいている。
「すごい……!本当に全部、咲いてる」
紗夜が桜を見上げて呟く。その瞳に薄紅色の世界が映り込む。
「夢みたい……」
「夢じゃねえよ。お前が命がけで咲かせたんだ」
京吾は立ち止まり、紗夜に向き直った。
言わなければならない。彼女が背負っていた十字架の真実を。
「紗夜。……話さなきゃいけないことがある」
京吾は、閻魔から聞いた「過去の真実」を語り始めた。
紗夜の曾祖父・隆仁の苦渋の決断。彼が妻よりも見知らぬ妊婦を選んだこと。
そして、その妊婦こそが、京吾の曾祖母であったこと。
「……そう、だったんだ」
聞き終えた紗夜の目から、大粒の涙が溢れた。それは悲しみの涙ではなかった。
「私……ずっと、自分の家を恨んでた。曾祖父様は無能で、家を潰した愚かな人だって……一族の恥だって聞いていた」
紗夜は、自分の両手を見つめた。 もうあの恐ろしくも不思議な力は感じない。ただの温かい人間の手だ。
「この能力も……私を苦しめる『呪い』だとしか思えなかった。でも違ったんだね」
紗夜が泣き笑いのような表情で、京吾を見上げる。
「おじい様は無能じゃなかった。……誰よりも優しくて、強かったんだ」
「ああ。誰よりも気高い人だ」
「私の能力は、呪いなんかじゃなくて……『愛と誇りの証』だったんだね」
紗夜の声が震える。
「私の一族は、誇り高い選択をした。京吾くんの命を繋ぐことができたなら……入江家の没落も、私の苦しみも、全部が無駄じゃなかった!」
その言葉に京吾は胸が押し潰されそうになった。
彼女は自分が犠牲になったことさえ「無駄じゃなかった」と言って笑うのだ。
「……ああ。俺は一生、お前と、お前のひいじいさんに、頭が上がらねえよ」
京吾は優しく紗夜を抱き寄せた。
六十六年の時を超えて、二つの家の因縁が、愛へと昇華される。
桜吹雪が、祝福するように二人を包み込んだ。
四月四日、夕方。鳳凰院学舎の校長室。
京吾と紗夜、そして紫門、花山院、烏丸、白川が集まっていた。
合格祝いの場であるはずだが、京吾と紗夜の表情は晴れやかではなかった。
「さて。……これで晴れて『冥府検分役』ってわけだが」
紫門が意地悪く笑う。
「お前ら、大丈夫か?『能力』はもうねえんだぞ?」
痛いところを突かれた。
(そうだ。俺は特殊能力を与えられず、紗夜は能力を失った)
武器は何もない。ただの貧乏学生に戻っただけだ。
これから待ち受ける難題に、丸腰で挑まなければならない。
「全くだ。凡人が二人で、冥府検分役として、これからの難題を解決できるとは思えんがな」
烏丸が腕組みをして鼻を鳴らす。
「ふふ。烏丸くん、少しは期待してあげなさい」
花山院がフォローするが、不安は拭えない。
「……まあ、正直不安ですけど」
京吾が頭をかくと、紗夜がその手をギュッと握った。
「でも、私たちには『これ』がありますから」
「ケッ、アツアツだねえ。ま、二人の愛で乗り越えるってか?」
紫門が呆れたように言う。
その時だった。背後から、カツカツと規則正しい足音が近づいてくる。
校長室のドアが、ノックもなく開かれた。
「ノン、ノン。愛だけで飯は食えませんわ」
「……三十秒。そこで油を売っている時間は無駄だぞ、飛鳥」
振り返ると、そこには財前征一郎と伊集院エリザが立っていた。
相変わらずの高慢な態度。
だが、その瞳には以前のような蔑みはなく、どこか穏やかな理性の光が宿っていた。
「財前……エリザ……。お前ら、まだ俺たちに何か文句が……」
「文句? 違うな。……『投資』だ」
財前が、懐から分厚い書類の束を取り出し、京吾に突きつけた。
表紙には「新規事業計画書」とある。
「計算し直した。疏水事業も続けていくが、この『桜』もだ。これを観光資源にした方が、向こう百年の利益率は高い」
財前が眼鏡の位置を直す。
「飛鳥、君のプランに僕の財閥が投資してやる。……感謝しろ」
「私もよ。……悔しいけれど、認めてあげるわ」
エリザが扇子で窓の外の桜並木を指した。
「その桜……パリの薔薇よりも、少しだけ綺麗よ。私のホテルや路面電車から見える『景色』に、採用してあげてもよろしくてよ」
京吾と紗夜は顔を見合わせた。
「……は?」 「ええっ?」
財前とエリザは、顔を見合わせてフンと鼻を鳴らした。
「勘違いするな。君らのやり方(情熱)に感動したわけではない」
「そうよ。私たちの『美学』と『計算』において、あなたたちが必要だと判断しただけですわ」
どこまでも素直じゃない。
京吾と紗夜は、呆気にとられた後、プッと吹き出した。
「……ははっ!相変わらずだね、君たち!」
「上等だ。……最強のスポンサーとして、こき使ってやるよ!」
四人が並び立つ姿を見て、花山院と紫門が満足げに微笑んだ。
「……揃いましたね」
「あん?」
「『財力・人脈・権力』を持つ、財前くんと伊集院さん。そして、理屈を超えて『人から応援される魅力』を持つ、飛鳥くんと入江さん」
花山院は、ステッキを静かについた。
「剛と柔。……この四人が揃って初めて、『冥府検分役』という役職は完成するのかもしれませんな」
「……へっ。違げえねえ」
紫門がニヤリと笑った。
「最強の布陣だ。……こりゃあ、俺も安心して隠居生活に入れるな」
夜の帳が下りる頃。円山公園。公園の中央には、満開の「祇園しだれ桜」が闇に沈んでいた。
その周囲を、大勢の市民が取り囲んでいる。
「よし。……準備はいいか?」
京吾が声を張り上げる。
「いつでもいいぞ。電力供給、安定している」
財前が発電機の前で頷く。
「アーク灯、スタンバイOKよ。……さあ、最高のショータイムを!」
エリザが合図を送る。
京吾が手を振り下ろした。
「点灯!」
カッ!!!!
「桜のライトアップだ!」
京吾が公園中に響き渡る声で叫ぶ。
強烈な光が、夜の闇を切り裂いた。
最新鋭のアーク灯が、しだれ桜を白く照らし出す。
闇夜に浮かび上がった桜は、妖艶で、神々しく、息を呑むほど美しかった。
それは紗夜が命を削って咲かせ、京吾が守り抜き、そして財前とエリザの技術が輝かせた、奇跡の桜だ。
「おお……!」
「なんて綺麗なんや……!」
「極楽浄土みたいやわ」
集まった市民たちから、どよめきと歓声が上がる。
文明の光と、伝統の花。相反するはずの二つが融合し、新しい時代の美を作り出していた。
これぞまさに、死にゆく都に咲いた冥土の桜。
光の中で、京吾と紗夜は手を繋いで立っていた。
(特殊能力はない。金もない。コネもない。権力もない)
京吾は、自分の空っぽの手のひらを握りしめた。
(でも隣には、信頼できる最強の仲間と、愛する人がいる)
(この桜たちをきっかけに、必ず再び京都に人を呼び寄せる)
紗夜が京吾の手を強く握り返す。 (京吾くんと二人なら、できる!)
「……満開の夜桜……綺麗だね、京吾くん」
「ああ。……本当に綺麗だ。言葉も出ないくらい」
京吾は、光り輝く京都の街を見渡した。
かつて「死に体」と呼ばれた街に、今、新しい血液が脈打っている。
「さあ、明日から仕事ね」
「そうだ! 俺たちの『冥府検分役』は、これから始まる!」
満開の桜と、文明の光。
二人の新しい未来が、今、明るく照らし出された。
その光は、もう二度と消えることはないだろう。
― 完 ―




