【15】明かされる六十六年前の真実。曾祖父・隆仁が捨てた「自分の愛
三月二十九日、深夜。 京都市内の病院の一室は、死のような静寂に包まれていた。
消毒液と鉄錆のような血の匂いが混じる、冷たい空間。 ベッドには、入江紗夜が横たわっていた。
その肌は、掛けられたシーツよりも白く、透き通るようで、触れれば消えてしまいそうだった。
無数の管が彼女の細い腕に繋がれているが、胸の上下動は恐ろしいほど浅い。
医師が聴診器を外し、沈痛な面持ちで紗夜の両親と京吾に向き直った。
「……残念ですが」
医師の声がハンマーのように京吾の頭を殴りつける。
「生命力が……燃え尽きようとする蝋燭の火のように、尽きかけています。医学の力では、もう……」
「そんな……」
紗夜の母が泣き崩れる。医師は静かに首を振り、無慈悲な宣告を下した。
「今夜が、峠でしょう」
医師が部屋を出て行く足音が、遠く聞こえた。
京吾は、石像のように動けなかった。
ただ紗夜の冷たい手を両手で包み込み、温めようと必死にさすり続けていた。
「……嘘だろ」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
「一万本……咲かせたんだぞ。全部、お前の手柄だぞ」
窓の外では、彼女が命を削って咲かせた桜が、夜風に揺れているはずだ。
街の人々は、その美しさに酔いしれているはずだ。
なのに、なぜ。
「なんで……その報いがこれなんだよ……ッ!」
京都を救った英雄が、なぜこんな冷たい部屋で、たった一人で死ななきゃならない。
京吾の目から溢れた涙が、紗夜の動かない頬に落ちた。
「俺は……お前なしでは生きていけない」
その言葉は、比喩でも感傷でもなく、飛鳥京吾という人間の生存本能からの叫びだった。
四月一日。審判の日。六道珍皇寺の井戸の底、閻魔王宮。
朱塗りの広間に、候補者たちが集められていた。
財前征一郎、伊集院エリザ、烏丸玄五郎、白川紗代子。
そして幽鬼のようにやつれ果てた顔の京吾。
(入江さんは、欠席なのね)
エリザがチラリと京吾の隣を見る。
(こんな大事な日に、来れないなんて何があったんだ?飛鳥のあの顔……ただ事ではないぞ)
財前も、京吾の異様な雰囲気に眉をひそめる。
「……定刻だ。厳正なる審査の結果を発表する」
閻魔大王が、玉座から厳かに告げた。その表情は能面のように感情がない。
その横で六角紫門が長い巻物を広げた。
「まずは、それぞれの『通信簿』を読み上げる。覚悟して聞きな」
紫門の鋭い眼光が、まずは財前を射抜く。
「財前。……お前の疏水工事、完成間近だ。まさに京の近代化の象徴になるだろう。
お前は徹底した安全管理を行い、過酷な労働環境を改善したそうだな」
「当然です。作業員の消耗は、工事の遅延に繋がりますから」
財前は胸を張った。自分の正義は証明された。そう確信していた。
しかし紫門の声色が低く沈む。
「だがな。……それでも自然相手の難工事だ。不慮の事故で、十七人の作業員が亡くなった」
「……ッ」
財前の表情がわずかに曇る。
「それは……不可抗力です。最大限の対策はしました。彼らには規定の倍の退職金を遺族に支払いました。契約上の不備はありません」
「そこだよ」
紫門が吐き捨てるように言った。
「お前は『生きて動く人間』はリソースとして大事にするが、死んだ人間は『損金処理』して終わりか?」
「……何が言いたいのですか」
「工事責任者の田邉朔郎氏は、私財を投じて『慰霊碑』を建てたぞ? 死者の魂を慰め、手を合わせた。……お前はどうだ。線香の一本もあげたか?」
「…………」
「『死んだ者は戻らない。現場を止めるな』と言って、すぐに次の作業員を手配したそうだな」
財前は唇を噛んだ。
「感傷に浸っている時間こそ、無駄です。生者のために工事を進めるのが、指揮官の責務でしょう」
「冥府検分役の仕事は、現世と冥界の橋渡しだ。……死者の無念に寄り添えねえ奴に、この仕事は務まらねえ」
紫門は冷酷に告げた。
「合理性だけじゃ、人の『魂』は救えねえんだよ。……減点だ」
財前は言葉を失い、悔しそうに拳を震わせた。
合理主義の限界。人の痛みや「死」に対する畏敬の念を計算に入れなかった、エリートの敗北だった。
「次、伊集院エリザ」
エリザがビクリと肩を揺らす。扇子を持つ手に力が入る。
「路面電車、画期的だ。財前と同じくまだ未完成だが、まさに京の大動脈だ。……だがそのレールは血塗られている」
「!」
「線路を通すための強引な地上げ。……そして職を奪われると抗議した『人力車組合』を親の権力で黙らせたな?」
「……ッ!それは……!」
エリザは顔を歪めた。
「文明の発展には痛みが必要ですわ!古い職業が消えるのは歴史の必然……!」
「痛みを負うのは、いつだって弱い連中だ」
紫門の言葉が、エリザの正論を叩き斬る。
「お前は彼らの『声』を聞こうともしなかった。……ただ踏み潰しただけだ。お前は彼らとしっかり向き合い、路面電車で雇用するなどの配慮が必要だった」
「あ……」
「民の恨みを乗せて走る電車に未来なんてねえよ。……不合格だ」
エリザは扇子を落としそうになるほど動揺し、顔を伏せた。
彼女の信じた「文明」は、人の心を置き去りにしていた。
「烏丸、白川。……お前らは論外だ。時代を逆行させるな。以上」
「ぐぬぬ……!」
そして最後に、紫門の視線が京吾に向いた。
「飛鳥京吾と入江紗夜」
紫門の声が、少しだけ柔らかくなる。
「入江紗夜はここにはいねえが……」
「お前らは……金もねえ、人脈もねえ、コネもねえ。何もねえ」
紫門は、まるで自分のことのように誇らしげに語った。
「だが誰よりも人を巻き込み、誰よりも汗をかいた。結果、あの満開の『桜』だ」
紫門が遠くを見るような目をした。
「あれを見た時の、京の人間の顔を見たか?……久しぶりに見たぜ、あんな幸せそうな民の顔は」
「…………」
「おまえらは、誰も何も犠牲にしていない。大きな金も使っていない」
京吾は顔を上げられなかった。
(犠牲にしていない?……違う。俺は一番大切な女を犠牲にした)
「うむ」
閻魔が頷き、扇子を高々と掲げた。
「京の街は蘇るはずだ。一万本の桜は人々の心を動かし、死に体だったこの街に『血』を通わせた。
これから数百年先も、桜の名所として、全国から京へ人々が押し寄せるだろう」
閻魔の声が、広間に響き渡る。
「文句なし。……第四十代・冥府検分役は、飛鳥京吾・入江紗夜のペアとする」
合格。
その言葉に財前とエリザは息を吐き、脱力した。
「……完敗だ」
「ええ。あの桜には敵わないわ」
ライバルたちも、潔くその結果を受け入れた。
だが合格したはずの京吾は、微動だにしなかった。
「……どうした?飛鳥、喜ばぬのか」
「……俺は、素直に喜べない……」
京吾の声は震えていた。
「まあいい。では今まで内密にしていた報酬をいよいよ発表する」
紫門が進行を進める。一同が注目する中、閻魔がパチンと指を鳴らした。
すると京吾の目の前に、虹色に輝く光の玉が出現した。
「これが、歴代の冥府検分役に与えてきた『万能の力』だ」
「金を生むもよし、人を操るもよし。能力を有効に使えば、お前の一族は未来永劫、繁栄を約束される。私からの報酬。それは人智を超えた能力だ」
「飛鳥京吾、お前の希望する能力を言え」
紫門が補足する。
「ただし、お前の元々備えている性質に適応した能力しか、発動しないぜ」
京吾の目の前に、光が漂う。これがあれば、飛鳥家は復活する。父の借金も消える。
かつての栄光が、誇りが、全て戻ってくる。 それは、京吾が喉から手が出るほど欲しかったものだ。
そのために、嘘をつき、泥をすすり、戦ってきたのだ。
しかし、京吾はその光を見ようともしなかった。
「……報酬をもらうより先に、大事なお願いがあります」
「あん?」
京吾は、その場に崩れ落ちるように土下座した。
額を床に擦り付ける。ゴン、と鈍い音がした。
「紗夜を……あいつを助けてください!!」
悲痛な叫びが、広間を切り裂いた。
「あいつは、俺が登用試験に合格するために命を削ったんです!俺のせいで……!」
「飛鳥……?」
財前たちが息を呑む。彼らは知らなかったのだ。
あの桜が一人の少女の命と引き換えだったことを。
「閻魔大王様なら、あいつを救えるんじゃないか?紗夜を死なせないでくれ!」
京吾の慟哭。
紫門が驚いた顔をする。
閻魔は、表情を変えずに京吾を見下ろしていた。
「……おいおい、大王様よ」
紫門が、キセルをくゆらせながら口を開く。
「紗夜ちゃんの病状……知ってんだろ? 治せるのか?」
「……ああ、知っている」
閻魔の声は淡々としていた。
「だが、それを治すには……飛鳥、貴様にとって『究極の選択』が必要になるぞ」
「俺はなんでもします!助ける方法を教えてください!」
京吾が顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。
そこにはかつての「道化」の面影は微塵もなかった。
「よかろう。……まずは知るがいい。順を追って話してやる」
「なぜ入江紗夜が、あのような能力を持ち、そして衰弱したのか。そこには……貴様の一族、飛鳥家と入江家の、深き因縁があるのだ」
閻魔が手をかざすと、空間に過去の映像が浮かび上がった。 セピア色の記憶。
(回想・ 文化十年・一八一三年)
「今から七十年ほど前に、さかのぼる」
映像の中の閻魔王宮。玉座の間。
今と変わらぬ姿の閻魔大王と、一人の侍が会話している。
侍の顔は、紗夜によく似ていた。
『かつて、彼女の曾祖父……入江隆仁は第三十五代目の冥府検分役だった。そして彼女と同じ特殊能力を持っていた』
『当然、入江隆仁には私が能力を与えた』
閻魔の声が響く。
『紗夜の能力は、突然変異による、この隆仁からの隔世遺伝だったのだ』
映像が切り替わる。立派な入江家の屋敷。
隆仁は能力を使って民を助け、入江家は繁栄を極めていた。
「そして今から六十六年前、一八一七年 文化十四年。京の都で、悪い流行り病(疫病)が蔓延した」
(回想・一八一七年・寺の隔離堂)
薄暗いお堂の中。病に倒れた人々が、雑魚寝状態で苦しんでいる。
その一角に二人の女性が隣り合って寝ていた。
「この二人の女性、一人は入江隆仁の妻・静子。もう一人は身重の妊婦。名を八重と言った」
二人とも顔色は土気色で、激しく咳き込んでいる。
だが、布団の間でしっかりと手を繋いでいた。
『……静子さん。……苦しいね』
『ええ。でも、頑張りましょう。八重さんにはお腹の赤ちゃんがいるもの。……きっと元気な男の子よ』
『ふふ。……静子さんは、優しいね。もし私が助からなくても……この子だけは……助けたい……』
『どちらもきっと助かるわ。希望を持って』
静子は、八重の膨らんだお腹を優しく撫でた。
極限状態の中で育まれた、確かな友情と、未来への願い。
だが運命は残酷だった。
深夜、二人の容態が同時に急変した。
『静子!!』
隆仁が駆け寄る。静子は喀血し、虫の息となっていた。
隣では、妊婦・八重もまた苦しみにのたうち回り、今にも心臓が止まりそうだった。
『くそっ……!薬は……薬はないのか!』
『手遅れです……。奥様は今夜が峠でしょう』
医師が匙を投げ、去っていく。 隆仁は拳を握りしめ、決意の表情で立ち上がった。
『……まだだ。俺は冥府検分役。冥府検分役である俺だけの特権があるはずだ』
隆仁は静子の手を一度強く握ると、部屋を飛び出した。
六道珍皇寺へ走り、生身のまま井戸へ飛び込む。
閻魔王宮。 泥だらけの隆仁が、閻魔にすがりついた。
『大王様!頼む、助けてくれ!静子を……俺の妻を助けてくれ!何でもする!』
『……騒々しいな、入江。寿命は変えられん。それが理だ』
『いや。あんたなら出来るはずだ!俺の『生物の成長促進』……この特殊能力を全て放棄する!だから……頼む!』
隆仁が額を床に叩きつけて懇願する。
閻魔は筆を止め、冷ややかな目で隆仁を見下ろした。
『……ふむ。その『能力』と引き換えならば、特例を認めてやらんこともない』
『本当か?』
『しかし……よく考えろよ。能力を失うという、その意味を』
『俺には……考えている時間もないんだ』
『分かった。どうするか?お前が判断しろ。万病に効く『奇跡の薬草』を一株だけ授けよう。……ただし』
閻魔が指を立てた。
『それで救える命は『一つ』だけだ』
『一つ……!それで十分だ、恩に着る!』
隆仁は光り輝く薬草を受け取り、現世へと急いだ。
寺の隔離堂。隆仁が戻ってくる。息を切らしている。
『静子!大丈夫だ、助かるぞ!閻魔と取引してきた。俺の特殊能力と引き換えに、お前を治せる!』
隆仁は静子の枕元に跪き、薬草を差し出した。静子は薄く目を開けた。
だが彼女の視線は隆仁ではなく、隣のベッドに向けられた。
『……あなた……。八重さんは?』
隆仁が隣を見る。
八重もまた、呼吸が止まりかけていた。お腹の子もろとも死の淵にいる。
『…………』
『あの方も……赤ちゃんも……助けてあげて……』
『無理だ。……薬は一人分しかない。俺はお前を救う。迷いはない』
隆仁が薬を使おうとした時、静子の冷たい手が、隆仁の手首を強く掴んだ。
『……いけません』
『静子!?』
『あの方には……お腹に赤ちゃんがいるのよ?私を助けても、救えるのは『一つの命』でも、あの方を助ければ、『二つの命』が救われる』
『そんな理屈、関係ない!俺にとってはお前が全てだ!』
『……あなたは『冥府検分役』でしょう? 私情で命を選ばないで。……より多くの未来を救うのが、あなたの務めのはずよ』
『嫌だ!俺は神様じゃない、ただのおまえの夫だ!』
静子は、最後の力を振り絞って、隆仁の頬に触れた。
『……お願い。私の愛したあなたは……誰よりも優しくて、誇り高い人だった。私のためにその誇りを捨てないで。あの母子を救って』
静子の瞳には、揺るぎない覚悟と、深い愛が宿っていた。
隆仁の手が震える。妻の愛と、冥府検分役としての使命。その天秤が、音を立てて軋む。
『……くっ……うぅ……ッ!』
隆仁は慟哭し、薬を握りしめたまま立ち上がった。
そして叫んだ。血を吐くような絶叫を。
『閻魔ァァァーーッ!!』
『契約だ!俺の能力を持って行け!その代わり……救え!俺の妻じゃなく……隣の妊婦を救ってくれ!!』
隆仁は『奇跡の薬草』を、妻ではなく、隣の八重の口に含ませた。
その瞬間。 八重の体に淡い光が降り注ぐ。苦悶の表情が消え、顔色に赤みが戻っていく。
お腹の子の鼓動も力強くなる。それを見届けた静子は、満足そうに微笑んだ。
『……ありがとう。……愛しているわ』
静子の手が、ガクリと布団に落ちた。
その瞳は永遠に閉じられた。
隆仁は動かなくなった妻を抱きしめ、獣のように吠えた。
『うぉーーーーっ!!』
(現在・閻魔庁)
映像が消える。広間には、すすり泣くような沈黙が流れていた。
京吾は、腰が抜けたように座り込んでいた。
胃の奥から熱いものがこみ上げてくる。嘔吐しそうだ。
あまりに残酷すぎる真実に、脳が拒絶反応を起こしている。
「隆仁は、自分の愛よりも『他者の未来』を選んだ。その代償として能力を失った。同時に最愛の妻も失い、彼もまた抜け殻のようになった。結果、入江家は没落した」
閻魔が静かに語る。
「そして……その時、救われた妊婦と腹の子こそが」
紫門が引き継ぐ。
「……飛鳥八重と、飛鳥継人(飛鳥あすか つぐと)と言う」
「……まさか……お、俺の、じ、じいちゃん……」
京吾の手が震える。
「そうだ。飛鳥家の血は、入江家の犠牲の上に繋がったのだ」
京吾の目から、大粒の涙が溢れ出した。
(紗夜が自分に向けていた笑顔。時折見せていた寂しげな表情)
(その全てが、この因縁の上に成り立っていた)
自分が今ここに生きているのは、紗夜の曾祖父が、最愛の人を犠牲にしてまで、自分の祖父を救ってくれたからだ。
「入江家はずっと……俺たちの恩人だったんだ……」
「俺たち飛鳥家は、入江家に……命レベルの借りがあったんだ……!!」
京吾は床を拳で殴りつけた。皮膚が破れ、血が滲むが、痛みなど感じない。
心の方が、何千倍も痛い。
「そしてまた入江家を犠牲にして、俺は飛鳥家を繁栄させようとしている……!」
自分が「家名の復興」などと浮かれている間に、紗夜は一族の因縁ごと全てを背負い、命を削っていたのだ。
自分は、六十六年前と同じように、また入江家を食い物にして生きようとしている。
「さて飛鳥京吾。少々、状況は異なるが……歴史は繰り返すか」
閻魔が冷徹な瞳で京吾を見下ろした。
「貴様はどうする? 一族の繁栄か、それとも……」
その言葉は、六十六年前の隆仁に向けられたものと同じ問いだった。
京吾の決断を、地獄の王が待っていた。




