【14】樹皮の手のひらへの口づけ。「世界一綺麗だ」と頬を寄せて
十二月の鳳凰院学舎。 窓の外では、ちらちらと粉雪が舞っていた。
廊下ですれ違う京吾と紗夜。二人の間には、目に見えない分厚い氷の壁があった。
「…………」
「…………」
目を合わせず、一言も交わさずに通り過ぎる。
京吾は立ち止まり、紗夜の背中を振り返った。
その足取りは重く、後ろ姿は以前よりも一回り小さくなったように見えた。
(……痩せたな)
(顔色も悪い。……本当に、大丈夫なのかよ)
声をかけようとして、京吾は手を止めた。
嵐山での決裂が、喉元に棘のように刺さっている。
今さら何を言えばいいのか。「やめろ」と言えば、また彼女を傷つける。「頑張れ」と言えば、彼女を殺すことになる。
止めることも、励ますこともできないまま、時間だけが無慈悲に過ぎていく。
年が明け、一月。
京の底冷えが骨身に染みる季節。岡崎の疏水沿いの散歩道には、誰もいない。
ただ一人、紗夜だけが雪の中を歩いていた。
「はぁっ……はぁっ……」
紗夜の息が白い。 手袋を外した左手は、凍傷になりかけ、赤黒く腫れ上がっている。
いや、それだけではない。
指先はすでに、枯れ木のように茶色く変色し、ひび割れていた。
「……あと、少し。……これで、九千九百五十本目」
紗夜が苗木に触れる。
『星霜の手のひら』
淡い光が吸い込まれると同時に、彼女の体がガクンと揺れ、口から鮮血が滲んだ。
「うっ……ごほっ、ごほっ……!」
(痛い。寒い。……体の中が、空っぽになっていく)
(命が、指先から流れ出ていくのが分かる)
紗夜は雪を掴んで口に含んだ。冷たさで意識を保つ。
(でも、止まるわけにはいかない。……京吾くんとの約束だから)
(数カ月かけての緩やかな開花に調整しているから、何とか私は生きている)
彼女の瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。
数時間後の深夜。雪が激しく降りしきる中、紗夜は最後の一本の前で膝をついていた。
「……これが、最後。……一万本目」
紗夜は震える手を、最後の苗木にかざした。
「『星霜の手のひら』……。お願い、春を連れてきて」
最後の光が苗木に宿る。その瞬間。
ドサッ!
糸が切れた操り人形のように、紗夜は雪の中に倒れ込んだ。
もう、指一本動かせない。体の芯まで凍りついている。
「はぁ……はぁ。できた。やったよ、京吾くん……」
紗夜の視界が霞む。雪の上に投げ出された自分の左手が見えた。
完全に老婆のように干からび、黒ずんでいる。それはもう、人間の手ではなかった。
(これでいい。……私は、私の全てを出し切った)
紗夜は薄れゆく意識の中で、鉛色の雪空を見上げた。
何とか起き上がり、ふらふらと歩き出す。
二月下旬。 嵐山の山中。京吾が一人、馬を飛ばして各植樹エリアの最終確認に回っていた。
「……!」
京吾が手綱を引いた。
目の前の光景に、言葉を失う。
数ヶ月前までひょろひょろの苗木だった桜が、見上げるほどの立派な成木へと成長し、無数の蕾をつけていたのだ。
「……やっぱり」
(あいつは、たった一人でやり遂げたのか?)
京吾は幹に触れた。確かに、数年の時を経たような太さと力強さがある。
木の鼓動が聞こえてくるようだ。
京吾は馬を飛ばし、他のエリアも確認に向かった。
琵琶湖疏水散歩道。ここも同じだった。
数百本の桜の木が成長し、風に枝を揺らして開花の時期を待っている。
そして夕方の鴨川堤防。 開花前とは言え、どこまでも続く桜並木のシルエットが浮かび上がっていた。
その蕾のすべてが、不自然なほど急激に成長し、今にも弾けそうなエネルギーを内包して、開花のを待ちわびているように見えた。
京吾は、土手の上で呆然と立ち尽くした。
(一万本……。全部、育ってやがる)
(あいつ……紗夜は、本当に大馬鹿野郎だ)
京吾の脳裏に、紅葉の嵐山で見た紗夜の変色した指先が蘇る。
あの時でさえ、見ていられないほど痛々しかった。ならば、今は?
(紗夜。おまえ!これだけの『時間』を進めるのに、どれだけの命を削ったんだよ……!)
京吾は自分の顔を両手で覆った。
(あいつの壮絶な覚悟。それを一人で背負わせてしまった俺。不甲斐ない男だ)
「……紗夜。俺にも同じ能力があればよかった……代わってやりたかった……」
京吾の目から涙がこぼれ落ちた。
数日後の深夜。琵琶湖疏水の散歩道。
また雪が降っている。京吾が一人、ランタンの明かりを頼りに、植樹した苗木を見て回っていた。
手には、藁や縄を持っている。
(くそっ……寒波が来やがった。このままじゃ根が凍っちまう)
京吾は、一本一本の苗木の根元に藁を敷き、幹に菰を巻いていく。
(紗夜が命を削って『時間』を進めた苗木を、寒さから守る)
(あいつの能力は、成長を進めるだけだ。……寒さや害虫から守るのは、俺の仕事だ)
京吾は凍える手で作業を続けた。指先の感覚はない。
口も利かず、顔も合わせずとも、彼は行動で彼女を支え続けていた。
それが、不器用な彼にできる唯一の贖罪であり、愛だった。
三月中旬。審判の日まで、あと半月に迫っていた。
紗夜が一人、疏水沿いを歩いていた。
その足取りはふらつき、時折、激しく咳き込んでいる。
口元を覆ったハンカチに、鮮血が滲む。
(……あと、少し。あと少しで、春が来る。桜が咲くはず)
紗夜は立ち止まり、桜の枝を見上げた。まだ硬い蕾が、小さく膨らみ始めている。
「……頑張って。みんな、待ってるから」
紗夜がふらふらと歩いていると、前方に人影を見つけた。
京吾だ。彼は地面に膝をつき、真剣な表情で何かをしている。
(……京吾くん?)
よく見ると、京吾は小さなハケとピンセットを使い、桜の幹に張り付いた害虫を一匹一匹、丁寧に取り除いていた。
「……よし、これでいい」
京吾が汗を拭いながら立ち上がり、次の木へ向かう。
紗夜は反射的に木の陰に身を隠した。
(話しかけたい。謝りたい)
でも、あの紅葉の日の「二度と私の前に現れないで」という自分の言葉が、呪いのように足を縛る。
(……ごめんね、京吾くん)
(今はまだ、会えない。……ちゃんと本当に、桜が咲いたら謝ろう)
紗夜は逃げるようにその場を離れた。
三月二十九日。審判の日まで、あと三日。
京の街が、異様な興奮に包まれていた。
「号外! 号外じゃー!」
新聞記者の威勢の良い声が響く。見出しには『京の奇跡!一夜にして万の桜、七分咲き!』の活字が躍っていた。
「去年まであんな場所に、桜の木なんかなかったぞ」
「咲いた……! 桜が咲いたぞ!」
「見てみい、花で枝が折れそうじゃ!」
「これは……神様の奇跡じゃ!」
人々が嵐山や鴨川に押し寄せ、奇跡の光景に酔いしれている。
(大げさな見出しだな。実際は、植えてから半年以上かかっている)
京吾は心の中で苦笑した。
同日昼。鳳凰院学舎。授業中、京吾は紗夜の席を見た。
そこだけ、ぽっかりと穴が開いたように誰も座っていない。
(あいつは今日も欠席か。どこに行ったんだ)
胸騒ぎがする。昼休み。京吾は席を立った。
(よし、抜け出して紗夜を探しに行こう)
校門へ向かう京吾を、新聞記者たちが取り囲んだ。
「君、この植樹の発起人の飛鳥くんだね!?」
「植物学の権威は『あり得ぬ現象だ』と言っておるが、一体何をした!」
「西洋の特殊な肥料か? それとも陰陽師のまじないか!?」
無数のマイクと怒号が京吾に浴びせられる。
(くそっ……! どいつもこいつも!)
(俺に紗夜を探しに行かせてくれ)
京吾は脂汗を流しながら、腹を括った。
「あー、うるさい!どいてくれ」
京吾は大声で叫び、デタラメな理屈を並べ立てた。
「これは……そう!大陸伝来の古の秘術と、平安時代から京に伝わる伝説の庭師の秘術を融合させた……『桜開花促進法』だ!」
「た、大陸伝来……?」
「伝説の庭師の秘術……?」
記者たちが京吾の勢いと謎の単語にひるんだ一瞬の隙を見逃さず、京吾は人垣を強引に突破した。
「取材なら学校を通してくれ!よろしく!」
京吾は走り出した。
(適当言ってすまん!だが今は紗夜だ……!)
背後で「待て!」という声が上がったが、京吾はなりふり構わず走った。
(咲いた……本当に咲かせやがった。あいつ、自分の命と引き換えに……!)
(紗夜は、必ず俺たちが植樹したエリアのどこかにいるはずだ)
円山公園の奥。
人混みから離れた公園の最奥、満開の「祇園しだれ桜」の下に、紗夜はいた。
幹に背中を預け、力なく座り込んでいる。
その顔色は透き通るほど白く、憔悴しきっていた。
そこへ、息を切らした京吾が駆け込んでくる。
「……紗夜~~~!!」 叫び声に、紗夜がゆっくりと目を開けた。
「……あ。京吾、くん……」
「……紗夜!!!やっぱりここだった」
「……京吾くんなら、見つけてくれると思っていた」
京吾は紗夜の前に膝をついた。
怒鳴ろうとしたが、言葉にならなかった。
彼女のあまりの衰弱ぶりに、喉が詰まる。
(心配させやがって。無茶ばかりして)
紗夜が、困ったように眉を下げて笑った。
「ふふ。……すごい顔。……まだ、怒っている?」
「当たり前だ! 怒っているに決まってる」
京吾の声が震える。紗夜の手を取る。
その手はもう、生きている人間の体温を失いかけていた。
氷のように冷たく、硬い。
「……でも、桜、綺麗でしょう?」
紗夜が視線で桜を指した。京吾は涙を堪えて、頭上の桜を見上げた。
風が吹き、花びらが雪のように舞い散る。
この世のものとは思えない、神々しいまでの美しさ。
「昔は……この枝垂れ桜だけだった円山公園が、桜で埋め尽くされているわ」
「ああ。……お前が咲かせたんだ。世界一の桜だよ」
京吾の言葉に、紗夜の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「よかった……。京吾君に褒めてもらえた……」
「すまなかった。ずっと、そばにいなくて。……俺が悪かった」
「ううん、私がわがままだったの。……ねえ、仲直りしてくれる?」
紗夜が、震える小指を差し出した。
京吾は、自分の小指を力強く絡ませた。
「ああ。……二度と離さない」
指切りを解き、京吾は紗夜の左手を両手で包み込んだ。
その時、指先の感触に違和感を覚えた。
京吾はハッとして、紗夜の手のひらを見た。
「……!」
そこにあるのは、人間の肌ではなかった。
どす黒く炭化し、樹皮のようにひび割れ、硬質化した異形の手。
秋の嵐山で決別した日、彼女が必死に隠そうとしていた「真実」がそこにあった。
「京吾くん、見ないで……。醜いから……」
紗夜が恥じらって手を引っ込めようとする。
けれど京吾はその手を離さなかった。逃がさないように強く握りしめ、そして――。
ゆっくりと、その変色した指先に唇を落とした。
「……あ」
紗夜が目を見開く。京吾は、硬く冷たくなった指の一本一本に、愛おしげに口づけを繰り返した。
まるで壊れかけた宝物を崇めるように。
「醜いもんか」
京吾は、樹皮のような紗夜の手のひらを、自分の濡れた頬に押し当てた。
「俺のために戦って、俺のために傷ついた手だ。……世界中のどんな宝石よりも、今のこの手が一番綺麗だ」
「……京吾くん……」
「愛してる。……この手がボロボロになるまで尽くしてくれたお前を、誰よりも愛してる」
その言葉と口づけは、紗夜の心に残っていた最後の痛み――「醜い自分への嫌悪」を溶かし去った。
(京吾くんに会えた。話せた。……愛してもらえた。よかった)
(張り詰めていた意地も、死への恐怖も、すべてが消えてゆくみたいだわ)
紗夜は安心して目を閉じた。
「……よかった。……少しだけ、眠いな」
「能力全部、桜の木にあげてしまったから……」
京吾は紗夜を抱きしめた。 彼女の体から、急速に体温が失われていくのが分かる。
(一万本の桜を咲かせ、京の笑顔を守るために、紗夜は自身の「存在」そのものを使い果たしたんだ)
「おやすみなさい、京吾君……」
紗夜の指から力が抜けた。彼女の体がぐらりと傾き、京吾の腕の中に崩れ落ちる。
「……紗夜?」
返事はない。まるで壊れた人形のように動かない。
「おい……嘘だろ?紗夜!起きろよ!」
「おい、紗夜ッ!!」
京吾の絶叫が、満開の桜の下に響き渡った。
美しく残酷な花びらが、動かなくなった二人を埋め尽くすように降り注いでいた。
審判の日まで、あと三日。
奇跡の代償は、あまりにも大きすぎた。




