【13】祇園祭の夏の夜。離したくない指先の熱と、忍び寄る終末
六月。鳳凰院学舎の校長室。
梅雨の湿気が入り込む窓辺で、紫陽花が濡れていた。
室内に集められた六人の候補者たち――
京吾、紗夜、財前、エリザ、烏丸、白川――
彼らの間には、以前のような刺々しい敵意とは異なる、張り詰めた緊張感が漂っていた。
校長の花山院が静かに紅茶をすする音だけが響く中、六角紫門が煙管をくゆらせた。
「若人たち。……ずいぶんと『らしく』なってきたじゃねえか」
紫門が紫煙を吐き出す。煙は生き物のように揺らめき、生徒たちの顔を撫でていく。
「……時間は有限だ」
財前が不快そうに煙を手で払った。
「ええ。無駄話なら帰らせていただくわ」
エリザも扇子で鼻を覆う。彼らの装いは洗練され、自信に満ち溢れている。
この数ヶ月の実績が、彼らを「学生」から「実業家」へと変貌させていた。
「ククッ、せっかちだねえ。……ま、いいだろう」
紫門は煙管を置き、ニヤリと笑った。
「進捗状況の確認だ。……まずはエリート組、どうだ?」
「琵琶湖疏水の第一期工事は順調だ」
財前が即答する。その口調には、揺るぎない確信があった。
「来春には通水し、日本初の水力発電所の稼働も視野に入れている。京都に新たな水とエネルギーの革命が起きるだろう」
「私の電気鉄道敷設計画も順調よ」
エリザが続く。
「すでに市内で軌道の敷設が始まっているわ。これが完成すれば、街の『動脈』として人と物の流れが劇的に改善されるはずよ」
「警察組織の改革も進んでいる!西洋式の訓練と装備を導入し、街の治安は劇的に改善した!」
烏丸が胸を張る。
「私のサロンも、完成間近ですわ! 華族や文化人の交流拠点となり、新しい文化の発信地として機能していきます!」
白川も紅潮した顔で報告する。
四人の報告は完璧だった。
数字、工期、規模。どれをとっても「復興」の名に恥じない偉業だ。
だが、紫門はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふーん。……で?『数字』はそれでいいとして肝心の『人』は置き去りか?」
「人?どういう意味だ」
財前が眉をひそめる。
「お前らの作った立派な箱物や設備で、京の人間は幸せそうに笑うのかって聞いてんだよ」
「と、当然そうなるだろう。インフラが整えば生活水準は向上する」
「まあ、京に活気を取り戻せるなら、それでいい」
紫門は冷ややかな目で財前を射抜いた。
「効率、効率ってこだわりすぎるなよ。地獄の釜茹でだって、じっくり煮込むから良い出汁が出るんだぜ?」
財前たちが言葉に詰まる。論理では反論できない「情」の部分を突かれたからだ。
紫門の視線が、京吾と紗夜に向いた。
「……そっちの『泥んこ組』はどうだ?」
二人の服には、今日も土埃が染み付いている。
だが、その目は死んでいない。
「私たちは、京都中を桜で、埋め尽くします。全国から人が集まる桜の名所にします」
紗夜が凛とした声で答えた。
「……順調です。市民の協力も得て、植樹は計画通りに進んでいます」
京吾も力強く頷く。
「……きっと、京都中に綺麗な桜を咲かせます」
二人の言葉には、数字以上の「熱」があった。
紫門は目を細め、天井に向けて煙を吐いた。
「……『桜』か。悪くねえが、咲かなきゃただの枯れ木だぜ?」
「!」
「ま、精々、気張んな。……期待はしてねえがな」
紫門は立ち上がり、窓の外の梅雨空を見上げた。
「紫門さん、では発表してください」
花山院が促す。紫門が振り返り、宣告した。
「そうそう。登用試験の結果発表日が決定した」
「審判の日時は、来たる四月一日」
「場所は地獄、閻魔大王の玉座の間にて行う」
室内に緊張が走る。
「四月一日。……桜が満開になる頃だ」
紗夜が呟く。それは、二人の運命が決まる日。
いや、紗夜の命の期限そのものになるかもしれない。
「その日に、テメェらの運命が決まる。……せいぜい、悔いのないようにな」
紫門は煙のように部屋から消えた。
残された六人は、それぞれの思惑を胸に沈黙した。窓の外で、紫陽花が重たげに首を垂れていた。
そして七月中旬。
梅雨が明け、京都盆地特有の逃げ場のない酷暑。
京都の夏を焦がす「祇園祭」の季節がやってきた。
疫病退散を祈願するこの祭りだけは、衰退した京の都でも盛大に行われる。
宵山の夜。四条通は「コンチキチン」の祇園囃子と、駒形提灯の明かりに包まれていた。
「すげえ人出だな……。やっぱり祭りの力は別格だ」
人混みの中、京吾が額の汗を拭いながら感嘆の声を上げた。
この日は作業着ではなく、久しぶりに浴衣を着ている。
紗夜もまた母の形見である藍染の浴衣に身を包み、少しはにかんだように隣を歩いていた。
「宣伝活動には絶好の機会だろ?気合入れるぞ」
「うん。……でも京吾くん、帯が緩んでるよ」
「あ? マジか」
二人は祭りの熱気に紛れ、桜植樹の協力者を募るビラを配りに来ていた。
だが通りを埋め尽くす群衆の波は凄まじい。
ドンッ、と通行人がぶつかり、紗夜がよろめいた。
「あっ……」紗夜の体が弾き飛ばされそうになる。
「っと、危ねえ!」
咄嗟に京吾の手が伸び、紗夜の手首を掴んで引き寄せた。
そのまま、はぐれないように指を絡め、強く握り直す。
「しっかり捕まってろ。迷子になったら、見つけられねえぞ」
「……うん」
紗夜は京吾の背中に隠れるように身を寄せた。
今夜は閻魔大王も、ライバルの財前たちも見ていない。
「婚約者のフリ」をする必要などないはずだ。
けれど京吾は繋いだ手を離そうとしなかった。汗ばんだ掌の熱が、直接心臓に伝わってくる。
(……温かい)
紗夜は、提灯の明かりに照らされた京吾の横顔を見上げた。
自信に満ちた目、意志の強い眉、少し日焼けした首筋。
そのすべてが、泣きたくなるほど愛おしい。
山鉾が通り過ぎ、お囃子の音が大きくなる。
その賑わいの中で、ふと紗夜の胸に、冷たい風のような不安が吹き抜けた。
(……来年の夏も、またこうして二人でお囃子を聞けるのかな)
自分の生命力を削って時間を進めていると思われる「星霜の手のひら」
一万本の桜を咲かせる代償に、自分の時計の針はゆっくりと確実に進んでいる気がしていた。
最近、疲れが取れにくくなった。指先の感覚も鈍い。
このまま使い続ければ、来年の祇園祭の頃には、私はどうなってしまっているのだろう。
「……京吾くん」
「ん? どうした?足痛いか?」
京吾が気遣わしげに振り返る。
紗夜は首を振り、こみ上げる不安を笑顔の仮面で隠した。
「ううん。……ただ、綺麗だなって」
「ああ。提灯の明かり、すごいよな」
「そうじゃなくて……。京吾くんと見る景色が、綺麗だなって」
紗夜は繋いだ手に、ありったけの力を込めた。
この瞬間を、温度を、匂いを、魂に刻みつけるように。
「……変なやつ」
京吾は照れくさそうに鼻をこすり、しかし握り返す手には、確かな力がこもっていた。
「来年も、再来年も見に来ればいいだろ」
「……うん。そうだね」
紗夜は頷いた。もしも叶わなかったらどうしよう、という恐怖を押し殺して。
その約束が、今は何よりも心強く、そして何よりも切なく胸に響いた。
二人の影が、祭りの喧騒の中に溶けていく。
それは、嵐の前の、あまりにも儚く美しい夏の夜の夢だった。
*七月下旬の嵐山。
蝉時雨が降り注ぐ中、市民や学生たちが汗だくで鍬を振るっていた。
「こらっ!もっと深く掘らんか!根が張らんと倒れてしまうぞ!」
源蔵の怒号が飛ぶ。手ぬぐいで汗を拭う彼の顔は、太陽のように赤い。
「は、はいっ!すみません!」
学生たちが声を張り上げる。その顔は生き生きとしていた。
*同月、円山公園。
ここでも多くの人々が作業に汗を流していた。
「ここは水はけが悪いので、少し盛り土をしてください!お願いします!」
京吾が声を枯らして指示を出す。
「おう、任せとき!飛鳥ちゃん!」
商店街の男たちが頼もしく応える。京吾は「飛鳥ちゃん」と呼ばれるようになっていた。
かつての「没落した飛鳥の息子」ではなく、街の仲間として。
*同月、琵琶湖疏水散歩道付近。
巨大な工事現場の脇で、紗夜が女性たちに丁寧に苗木の扱いを教えていた。
「苗木は、優しく扱ってくださいね。……赤ん坊を抱くように」
「あら、紗夜ちゃんったら。……でも、本当に熱心で可愛いわ」
紗夜の献身的な姿は、街の人々の心を掴んでいた。彼女の周りには、いつも優しい空気が流れている。
そして、九月中旬。晩夏。夕暮れの鴨川堤防に、赤トンボが舞っていた。
源蔵、京吾、紗夜。そして鷹司ら学友十二名、市民二十名が集まっている。
全員、泥だらけだが、その顔は夕日よりも輝く達成感に満ちていた。
「……皆の者、よくやった!」
源蔵の声が響く。
紗夜が、ボロボロになった地図を広げた。
円山公園、嵐山、鴨川堤防、琵琶湖疏水予定地周辺。
四つの地域すべてに、植樹完了の印がついている。
「わしらは、この四つの地域に植樹をしてきた」
「そして本日をもって、目標の一万本! すべての植樹が完了した!」
源蔵の宣言と共に、おおーっ!と歓声が上がった。
学友たちが京吾の肩を叩き、おばさんたちが紗夜の手を取って喜ぶ。
「やったな、飛鳥!お前、本当にやり遂げたんだな!」
「ああ。……みんなのおかげだ」 京吾は鷹司と拳を突き合わせた。
「ここでひとつ、諸君に朗報がある」
源蔵がニヤリと笑った。
「わしの見立てでは、本来は、この苗木たちが花を咲かせるのは早くて三年後……のはずなんじゃが」
源蔵が首を傾げる。
「なぜか、もっと早く咲きそうだ。……この『熱気』のせいかのう?原因は、わしにもわからんが、来年の春には咲いているかもしれん」
どよめきが起きた。
「ええっ!?来年に咲くのかい!?」
「そりゃあ楽しみだ!」
「絶対に花見をしような!」
「そんなこと、ありえるのか?」
人々がざわめき、期待に胸を膨らませる。
その喧騒の中で、紗夜だけが静かに俯いていた。
(……熱気のせいじゃない。私が、夜な夜なこっそりと『時間』を進めているから)
彼女の左手は、手袋の下で冷たく脈打っていた。
帰り道。月明かりの下を二人で歩く。
虫の声が秋の訪れを告げていた。
「……やったな、紗夜。一万本だぞ」
「うん。……すごいね、夢みたい」
「……源蔵さんと三人だけじゃ、無理だった」
「京吾くんの人を巻き込む力、さすがだわ」
「そうだろう? 俺ってやっぱりすごいわ」
京吾はおどけて見せたが、紗夜の声に元気がないことに気づかないふりをした。
いや、気づきたくなかったのかもしれない。
「みんなが植えてくれた苗木。……十月からひとつずつ、お前の『星霜の手のひら』で触れていこう」
「来年の春、一斉に満開になるように」
「……うん。私、頑張るわ」
紗夜は、不安そうに自分の左手をそっと握りしめた。
(きっと大丈夫。私自身がどうなっても、絶対にやり遂げる。これは京吾くんとの『婚約』の証だから)
十一月下旬。晩秋。
嵐山の山肌は、燃えるような紅葉に覆われていた。
観光客が紅葉狩りを楽しむ中、人目のつかない山中で、京吾と紗夜は一本一本苗木を確認していた。
「これで九千本目、残り千本だ」
京吾がしゃがみ込み、リストにチェックを入れる。
紗夜は無言で苗木に近づいた。
「……お願い。来年の春に咲いて」
『星霜の手のひら』紗夜は手袋を外し、凍てつくような素手で苗木に触れた。
淡い光が、彼女の手から苗木へと吸い込まれていく。木の時間が進み、蕾が膨らむ。
ドクン。紗夜の心臓が、嫌な音を立てた。
一つ触れるたびに、体から熱がごっそりと奪われ、視界がぐらりと揺れる。
指先の感覚が消え、代わりに奇妙な「硬質化」が始まっている感覚。
紗夜の指先がミシミシと音を立てて硬化し、どす黒い樹皮へと変わっていく。
「……紗夜、もういい。休憩しよう」
背後から、京吾の声がした。
「ッ……!」
紗夜は心臓が止まるほど驚いた。
見られる。この異形の手を見られるわけにはいかない。
(隠さなきゃ……!)
紗夜は、膝の上に置いてあった厚手の手袋を慌てて掴む。
だが、樹皮のように肥大化し、枯れ木のように硬直した指は、思うように動かない。
ググッ……!
紗夜は焦燥に駆られながら、変形した左手を無理やり手袋の中にねじ込んだ。
ひび割れた皮膚が擦れ、激痛が走る。
「……っぐ」
脂汗が滲むほどの痛みに耐え、なんとか手袋をはめ終えた瞬間、京吾の手が紗夜の肩に置かれた。
紗夜はビクリと体を震わせ、反射的に手袋をはめた左手を袂に隠した。
「……?」
「……へ、平気よ。まだ今日はあと五十本は頑張る」
「平気なものか。顔色が悪いぞ。それにさっきから、左手を庇っているじゃないか」
京吾は強引に紗夜の手首を掴み、隠していた手を引き出そうとした。手には、厚手の手袋がはめられている。
だが、急いで着けたせいか、指先までしっかり入っておらず、どこか形が歪だった。
「っ!やめて、放して!」
紗夜が悲鳴を上げ、必死に抵抗する。
だが京吾は手袋の上からその手を強く握った。
「冷たい……!氷みたいじゃないか」
京吾が眉をひそめる。さらに、手袋越しに伝わる感触に違和感を覚えた。
(……なんだ? 妙にゴツゴツしている。手袋の中で指が曲がっているのか?……酷い霜焼けか、あかぎれで腫れているのか?)
京吾は、それが「樹皮」だとは夢にも思わない。ただの重度の手荒れか、寒さでかじかんでいるのだと思い込んでいる。
「こんなになるまで……馬鹿野郎。薬を塗って温めるぞ。手袋を外せ」
「い、いや! 見ないで!!」
紗夜は顔面蒼白になった。今、手袋の中は見るも無惨な状態だ。見られたら終わる。
この「枯れ木のような手」を見られたら、京吾くんは優しさゆえに、絶対に計画を中止させる。
「見せろって言ってるだろ!」
京吾が手袋の縁に指をかけ、引き抜こうとする。
無理やりはめた手袋は、肌に張り付いたように外れない。京吾が力を込める。
手袋の隙間から、どす黒く変色した皮膚が、わずかに覗きそうになり――。
バチンッ!!
乾いた音が、静かな山中に響き渡った。
紗夜が、渾身の力で京吾の手を振り払い、その反動で彼の頬を張ったのだ。
「……っ」
京吾が驚いて目を見開く。鳥たちが驚いて飛び立った。
紗夜は、自分の左手を胸に抱きしめ、ガタガタと震えていた。
「……触らないで」
紗夜の声は、拒絶で張り詰めていた。
「ただの手荒れよ。……女として、荒れた手を見られるのは恥ずかしいの。そんな乙女心も分からないの?」
「……は? 俺は心配して……」
「その『心配』が重いのよ! ほっといて!」
紗夜は、心の中で血の涙を流しながら、精一杯の虚勢を張った。
(嫌われなきゃ。……彼に真実を見せないためには、遠ざけるしかない)
「私は、京吾くんの夢、飛鳥家の再興を叶えてあげたいだけなのよ!」
「ふざけるな!飛鳥家も京都も滅びてもいい!お前がボロボロになるくらいなら、俺は世界中を敵に回したっていいんだ!」
京吾の叫びは悲痛だった。
(復興?名誉?そんなもの、隣にお前がいなきゃゴミクズだ!)
「もう登用試験などどうでもいい。合格などしなくていい!お前がこんなに弱ってまで咲かせる桜など、俺は見たくない!」
「……どうでもよくなどないわ!」
紗夜の瞳には、今まで見せたことのない、暗く激しい炎が宿っていた。
それは狂気にも似た、純粋すぎる愛の炎。
「京吾くんには分からないわ!ずっと日陰で、誰からも期待されずに生きてきた私の惨めさが、何でもできる京吾くんに分かるはずがない!」
「何だと……?」
「これは私が決めたことよ!才能もない、力もない落ちこぼれの私が、この世に生きた証を残すには、これしかないの!」
紗夜の目から大粒の涙が溢れ、苗木の上に落ちた。
「私は、私のためにやってるの。京吾くんの夢を利用して、私が『生きた証』を残したいだけ!」
「……本気で、言ってるのか?」
「ええ! だから邪魔しないで。……同情なんて、お断りよ」
その言葉は、鋭利な刃となって京吾の胸を突き刺した。
京吾の内側でも、何かがプツリと切れた。
心配が、焦燥が、裏返って冷たい諦めとなる。
京吾の瞳から、心配の色が消え、冷たい怒りの色が宿った。
彼は、手袋の下にある「真実」を知らないまま、彼女の言葉を額面通りに受け取ってしまった。
「……そうかよ。そんなに死に急ぎたいなら、勝手にしろ」
京吾の口から出たのは、本心とは真逆の、投げやりな言葉だった。
(言っちまった……)
「俺だって、もううんざりだ。お前のその『悲劇のヒロイン』気取りの自殺行為には、付き合いきれん」
「っ……!」
「好きにすればいい。俺はもう降りる」
紗夜の顔が絶望に歪むのを、京吾は見ようとしなかった。
紗夜は唇を血が滲むほど噛み締め、背を向けた。
「……さようなら。二度と、私の前に現れないで」
拒絶の言葉と共に、京吾は走り去っていく。
紅葉の舞う中、京吾の背中が小さくなっていく。一度も振り返ることなく。
その背中越しに、彼女はこっそりと手袋を外し、自分の手を見た。
――そこにあるのは、完全に炭化し、樹皮のようにひび割れた異形の手。
(……ごめんね、京吾くん。……痛いよ。怖いよ……)
舌打ちをし、紗夜を残して山を降りていく京吾。
だが中腹まで降りたところで、京吾は足を止めた。
拳を木に叩きつけ、振り返る。
そこにはもう、彼女の姿は見えない。けれど京吾は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「お前と二人で見る桜だから、俺にとっては大きな価値があるんだよ……!!!」
その声は、悲痛なほど愛に溢れていた。
「勝手に自己完結してんじゃねえ!お前がいなくなるなんて……俺は絶対に許さない!認めないぞ!」
京吾の絶叫は、風にさらわれて消えた。
ただ冷たい晩秋の風だけが、すれ違う二人の間を吹き抜けていく。
春まで、あと四ヶ月。
二人の心は、致命的な秘密を抱えたまま、凍りついてしまった。
十一月の深夜。
京吾に「二度と現れるな」と拒絶し、別れたその日の夜。
紗夜は一人、冷え切った自室の鏡の前に座っていた。
月明かりだけが頼りの薄暗い部屋。 鏡の中に映るのは、十六歳の少女の顔ではない。
頬はこけ、目の下にはどす黒いクマが張り付き、唇は紫色に乾いている。
そして何より――。
「……また、増えてる」
紗夜は震える指で、自分の髪を掬い上げた。
艶やかだった黒髪の中に、老婆のような白髪がまた数本、混じっている。
一本抜くたびに、命が抜け落ちるような痛みが走る。
さらに、手袋を外した左手。
指先はすでに炭化したように黒ずみ、皮膚は硬くひび割れ、関節を動かすたびに「ミシッ」と乾いた音がする。
それは人間の手というより、枯れ木の枝に近かった。
(……怖い)
紗夜は鏡の前で、小さく体を丸めた。死ぬことが怖いのではない。
このまま自分が、人間ではない「異形」に変わっていくことが、どうしようもなく恐ろしい。
「……嫌だ。こんな姿、京吾くんに見られたくない」
紗夜は化粧箱をひっくり返し、白粉を手に取った。
震える手で、荒れた肌を隠すように厚く塗りたくる。
紅をさし、血色のない唇を誤魔化す。
(綺麗でいたい。……最期の瞬間まで、京吾くんの記憶の中では、可愛い幼馴染のままでいたい)
けれど化粧をすればするほど、鏡の中の自分は「生きた人間」から遠ざかり、安っぽい人形のように見えてくる。
紗夜は化粧筆を投げ出し、机に突っ伏した。
ズキリ。 心臓が悲鳴を上げる。 能力を使うたびに、体の中身が空洞になっていく感覚。
最近は夜になると幻覚を見るようになった。手足から根が生え、体が樹木に覆われ、声も出せずに立ち尽くすだけの存在になる悪夢。
(あと、九百九十本……)
残りの苗木の数を数える。
今の自分の体力で、持ちこたえられるだろうか。
桜が咲くのが先か、私の命が尽きるのが先か。
「……会いたいよ、京吾くん」
誰もいない部屋で、嗚咽が漏れる。
突き放したのは自分だ。嫌われるようなことを言ったのも自分だ。
それでも、今すぐ彼に抱きしめてほしかった。
「大丈夫だ」と、あの温かい手で頭を撫でてほしかった。
(でも、ダメ。……この手を見られたら、彼はきっと優しさで計画を止めてしまう)
(そうしたら、飛鳥家も入江家も救われない)
紗夜は涙を拭い、再び手袋をはめた。
激痛に耐えながら、異形の手を隠す。 これは、愛する人の未来を守るための、孤独な戦い。
「……負けない。私が全部、背負ってあげる」
紗夜は鏡の中の、やつれ果てた自分を睨みつけた。
その瞳に宿る光だけは、死神すらもたじろぐほどに強靭だった。




