【12】祇園しだれ桜が見つめる歴史。世代を繋ぐための深夜の重労働
六月の円山公園。 梅雨入り前の湿った空気が、夜の闇に重く立ち込めていた。
公園の隅に、三つの影があった。京吾、紗夜、そして源蔵だ。
彼らの足元には、リヤカーいっぱいに積まれた桜の苗木と、泥にまみれた土木道具が置かれている。
「さあ、今日からたった三人で一万本の植樹の開始じゃ」
源蔵が手ぬぐいを頭に巻き直した。
その瞳は、昼間の濁った色ではなく、職人の鋭い光を放っている。
「おぬしら、気合を入れろよ。……途方もない数じゃぞ」
「……はい!」
「がんばります!」
二人は声を揃えた。源蔵の指導のもと、黙々と作業が始まる。
京吾が固い地面に鍬を振るい、紗夜が苗木を運び、源蔵が絶妙な手つきで植えて土を被せる。
ザッ、ザッ、という土を掘る音だけが、静寂に響く。
ふと、京吾が手を止めた。公園の中央を見つめる。そこには、巨大な「祇園しだれ桜」が、青々とした葉を茂らせて佇んでいた。
闇夜に浮かぶその姿は、まるでこの公園の主のようだ。
「この見事な一本。……素晴らしいよな」
「うん。春になると、この桜は本当に綺麗よね」
紗夜も作業の手を休め、見上げた。
「この枝垂れ桜、私たちが小さい頃から、すでにあったよね」
「源蔵さん、この枝垂れ桜は、いつからここにあるんですか?」
源蔵は土を被せ終え、腰を伸ばした。
「ふん。……この枝垂れ桜は、わしが生まれた頃にも、すでにここにあった」
源蔵は愛おしそうに、老木の幹を撫でた。
その手つきは、昔の恋人に触れるように優しい。
「この木の『記憶』に比べれば、わしらの人生など、ほんの一瞬よ。
……だからこそ、わしらは次の世代に繋ぐ木を植えねばならんのじゃ」
その言葉の重みに、京吾と紗夜は改めて巨木の存在感に圧倒された。
自分たちが植えているのは、ただの木ではない。これから紡がれる「歴史」そのものなのだ。
数日後の昼。鳳凰院学舎の教室。夏の日差しが容赦なく照りつける中、漢文の講義が行われていた。
教室の後ろの席で、京吾は机に突っ伏し、完全に熟睡していた。
教科書には涎の染みが広がっている。
「……おい飛鳥、起きろ。……次は漢文だぞ」
隣の席の鷹司徹が、呆れた顔で京吾の肩を揺すった。
鷹司は老舗商家の跡取り息子で、京吾とは入学以来の腐れ縁だ。
「……はっ!」
京吾が飛び起きた。寝ぼけ眼をこする。
「……すまん。昨日、ちと遅くてな」
「内職か? にしちゃあ、随分と野良仕事のような汚れ方だな」
鷹司が、京吾の学ランの袖口を指差した。
そこには、洗っても落ちきらなかった乾いた泥が付着している。
「……ああ。今日も早朝から、働いてきた」
「飛鳥、君は毎日、何をやってるんだ?」
鷹司が怪訝そうに尋ねる。
京吾は人差し指を口元にあて、ニヤリと笑った。
「……内緒だ。まあ、来年の春を楽しみにしていろ」
そう言い残すと、京吾はまた机に突っ伏し、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
鷹司はため息をつき、首を横に振った。
放課後。校門前。京吾と紗夜が並んで校門を出て行く。
そのすぐ後を、鷹司と他の学友たち(計五名)が、こっそりと尾行していた。
「あいつら、絶対何か隠してるぞ」
「徳川の埋蔵金でも掘ってるんじゃないか?」
好奇心と、少しの心配。彼らは二人の後を追った。
鴨川の堤防。夕暮れ時。
源蔵が先に到着し、道具を並べていた。
京吾は学ランを脱ぎ捨て、肌着一枚になった。その身体には、連日の重労働でうっすらと筋肉がついている。
「よっしゃ!やるぞ!」京吾が勢いよく鍬を振るう。
紗夜も、着物の上にモンペを履き、手ぬぐいを被って苗木を運ぶ。
旧家の令嬢とは思えない姿だが、その目は真剣そのものだ。
泥だらけになりながら、一心不乱に作業を続ける二人。
ふと、紗夜が立ちくらみを起こしてよろめいた。
「……っ」
「紗夜、大丈夫か?少し休むか?」
京吾が心配そうに声をかける。紗夜はパッと顔を上げ、笑顔を作った。
「平気!ちょっと靴紐がほどけただけ」
「ならいいけど……無理すんなよ」
京吾が作業に戻るのを見て、紗夜は小さく安堵のため息をついた。
(あと少し……あと少しだけもって、私の体)
「……ふぅ。あと、此処だけで五十本か……」
京吾が腰を伸ばし、手のひらの豆を気にした時だった。
「よう。飛鳥」
土手の上から声がかかった。京吾が振り返ると、逆光の中に学ラン姿の鷹司たちが立っていた。
「鷹司……!おまえら……何故ここに」
「此処でお前らが『徳川の埋蔵金』を掘ってるって噂、誠だったんだな」
鷹司が土手を降りてくる。他の四人も続く。
「飛鳥、お前が講義中に寝言で『あと九千本……』などとうなされておれば、誰だって気にもなるさ」
「……聞かれてたのか」
「で? 本当に何をやっている?『人生の墓穴』を掘り始めたのかと思ったぞ」
鷹司が、掘りかけの穴を覗き込む。
そこにあるのは、何の変哲もない苗木だ。
「……そんなものではない」
京吾は鍬を握り直し、鷹司を真っ直ぐに見据えた。
「俺たちは、ただ京都市中を桜で埋め尽くしたいんだ」
「だから、桜の苗木を植えているの」
紗夜も言葉を添える。 二人の真剣な眼差し。そこには一点の曇りも、ふざけた色もなかった。
「馬鹿な」と笑い飛ばすつもりだった鷹司は、一瞬言葉を詰まらせた。
京吾の目の奥にある熱意に、圧倒されたのだ。
「……ふん」
鷹司は学生鞄を放り出した。
「それはいいじゃないか……仕方がないのう」
「え?」
「見ろ、そのへっぴり腰。見ていて癇に障る」
「何?」
「手伝うと言っておるのだ。……報酬は、その埋蔵金が見つかったら山分けということでな」
鷹司は京吾の手から鍬を奪い取った。
「見本を見せてやる。……おりゃ!」
鷹司が、乱暴だが力強く土を掘り始めた。
「え……?」
紗夜が驚いて目を丸くしていると、他の四人も照れくさそうに腕まくりをした。
「名門・入江家の令嬢に力仕事をさせていたとあっては、我々、京の学生の名折れだからな」
「仕方ない。俺も手伝うよ。……運動不足解消だ」
彼らはブツブツと言いながらも、楽しそうに作業に加わった。
京吾と紗夜は顔を見合わせ、嬉しそうに微笑んだ。
二人だけだった世界が、少しだけ広がった瞬間だった。
数日後の堤防。 学生たちの作業を見つめる市中の大人たちの姿があった。
「またやっておるわ、あの書生さんたち」
「いったい何がしたいんじゃ…」
商店主が呟く。
だが、毎日泥だらけになって働く彼らの姿は、冷めた大人たちの心を少しずつ溶かしていった。
「……手伝ってやるか」
通りがかりの元庭師の老人や、商店主たちが動き出した。
「兄ちゃん、其処は水はけが悪い。もう少し盛り土をせんと」
「はい! ありがとうございます!」
「店の裏に腐葉土が余っておるから、大八車で運んでやるわ!」
「まあ、嬉しい! 助かります!」
「あんたら、握り飯を持ってきたぞ!食べて気張りなはれ!」
「やったー!」
「腹減ったー!」
歓声が上がる。京吾と紗夜の活動は、徐々に、だが確実に賛同者を増やしていった。
学友十二名、市民二十名。
かつて教室の隅で「空気」だった二人の周りに、確かな熱気が生まれ始めていた。
それは文明開化の冷たい風ではなく、人の体温を持った温かい風だった。
夜の祇園。一見さんお断りの格式ある茶屋の奥座敷で、三味線の音が静かに響いていた。
花山院雅房と六角紫門の二人が、芸妓の舞を見ながら酒を酌み交わしている。
「……聞いたか、花山院の旦那。あの阿呆な飛鳥と入江、他の学生や市民まで巻き込んで大騒ぎしておるらしいぞ」
紫門が、楽しそうに盃を干した。
「握り飯まで差し入れられておるとはな」
「……ふふ」
花山院は冷ややかな表情を崩さないが、その瞳はどこか楽しげだった。
「彼らの『無謀』が、一種の祭りとして認識されたのだろう。……悪くはない」
花山院は窓の外、静まり返った花街を見下ろした。
「文明開化で騒がしいだけのこの街に必要なのは、理屈ではなく、こういう『熱気』だ」
「ああ。この寂れゆく祇園の花街。今の京都には、かつてのような『粋』や『余裕』がない。
金と効率ばかりを追い求める風潮の中で、芸妓や舞妓たちも肩身の狭い思いをしている」
紫門が盃を置いた。
「飛鳥君たちが本当に桜を咲かせれば、この祇園にも少しは『彩り』が戻るかもしれん」
「違いない!こりゃあ、冥府検分役登用試験の結果が楽しみになってきたぜ」
二人は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「……ところで、紫門さん」
花山院の声が、少し低くなる。
「入江さんの『能力』……気づいていますね?」
「……ああ」
紫門は、一瞬だけ鋭い目つきをした。
「あのお嬢ちゃんから漂う気配……。六十六年前の昔話を思い出す」
「やはり……。だとすれば、歴史は繰り返すのかもしれませんね」
紫門は夜空を見上げた。
「咲かせてもらおうか。彼らの命を懸けた、一世一代の桜を。……それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からんがな」
翌日の昼。鳳凰院学舎の校長室。
京吾、紗夜、財前、エリザ、烏丸、白川の六名が呼び出されていた。
校長の花山院が、静かに紅茶を飲んでいる。
その隣では、紫門が徳利を片手に酒を飲んでいた。
「今日は、いったいどんな話が?」
「……忙しい。早く用件を言ってくれ」
「私もよ。午後はフランス公使との会食があるの」
財前とエリザが不満げに言う。
「まあまあ、そう急かさないでくれたまえ」
花山院が微笑む。
紫門が、ギラリとした目で六人を見渡した。
「よう、若人たち。元気か?」
「登用試験対策は順調か?今日はおまえらへ連絡事項がある」
紫門の目が、楽しそうに光る。
それは、物語がクライマックスへ向けて加速する合図だった。




