【10】お姫様抱っこの岩場下り。演技と本心が交錯する嵐山の午後
鳳凰院学舎の放課後。校長室。
重厚なマホガニーの扉の前に、二人の生徒が立っていた。
京吾と紗夜だ。二人は互いに顔を見合わせ、一度深く深呼吸をしてから、覚悟を決めてノックをした。
「し、失礼します……。お時間いただき、ありがとうございます」
「し、失礼します……」
入室した二人は直立不動だった。緊張で体がガチガチに固まっている。
室内には午後の日差しと共に、ほのかな紅茶の香りが漂っていた。
執務机で書類に目を通していた花山院雅房は、眼鏡を外してクスクスと笑った。
「飛鳥くん、入江さん。……そんなに縮こまらなくていいんですよ」
花山院は立ち上がり、ソファへ二人を促した。
「まるで『呼び出しを食らった生徒』みたいですね。面会を申し入れたのは君たちの方でしょう?」
花山院は自らティーポットを手に取り、カップに紅茶を注いで二人の前に置いた。
湯気と共に立ち上る香りは、高貴で落ち着いたものだった。
「ここは取調室ではありません。さあ、座りなさい。今日はどのような相談かな?」
温かい紅茶に少しだけ緊張が解け、京吾は口を開いた。
「あ、はい。閻魔大王様の課題……俺たちは京都中を桜で埋め尽くすことにしました」
「……実は、資金の目処は立ったんですが、技術的な壁にぶつかってまして」
紗夜が言葉を継ぐ。
「桜の正しい植え方が分からないんです。私たちはズブの素人で……」
「せっかく植えても、枯らしてしまっては申し訳なくて……やるからにはちゃんとやりたくて」
京吾は悔しそうに膝の上で拳を握った。金を集めた。場所も目星をつけた。
だが、「命」を扱う技術だけは、ハッタリではどうにもならない。
「財前たちは、一流の技師や職人を金で雇っています」
「でも私たちには、そんなコネも、職人を動かす『家柄』もありません」
「……やっぱり、俺たちみたいな没落組には、限界があるんでしょうか」
弱音がこぼれた。金と権威の壁。それは何度乗り越えようとしても立ちはだかる巨大な壁だ。
花山院は静かに紅茶を啜り、カップをソーサーに置いた。
カチャリ、という澄んだ音が室内に響く。
「家柄? お金? ……ふふ」
花山院は穏やかに、しかし力強く言った。
「閻魔大王様がお求めなのは、そんなちっぽけな物ではありませんよ」
「え?」
「もっとこう……『魂の輝き』とでも言うのでしょうか」
花山院の瞳が、眼鏡の奥で慈愛に満ちた光を放つ。
「泥にまみれ、傷つきながらも、他者のために奔走する君たちの姿……
それこそが、今の京都に必要な『貴族の精神』です」 「ノブレス・オブリージュ……」
「自信を持ちなさい。君たちの『心の気高さ』は、財前くんたちにも負けていませんよ」
その言葉は、京吾の乾いた心に染み渡るようだった。
没落してからというもの、誰もが自分たちを蔑んできた。
けれど、この人だけは、ボロボロの衣服の下にある「誇り」を見てくれている。
「校長先生……」
「……ありがとうございます。なんか、目が覚めました」
京吾は顔を上げた。瞳に力が戻っている。
「私たちは諦めません。……誰か、心当たりのある庭師さんはいませんか?」
「ふむ。やや問題はあるが……一人、いますよ」
花山院は窓の外、遠く霞む西の山々を見つめた。
「かつて『御所の桜守』と呼ばれた男……源蔵という職人が」
「御所!? 元・皇室おかかえってことですか!?」
京吾が身を乗り出す。超一流だ。
「ええ。ですが……帝が東京へ行かれてからは、職を辞し、酒に溺れていると聞きます。今は嵐山のあたりで、世捨て人のように暮らしているとか」
「仙人みたいですね」 「仙人? そんないいものではないかもしれません」
花山院は少し寂しげに目を細めた。
「彼もまた、時代の変化に絶望し、心を閉ざしてしまった一人です。頑固で、気難しい男ですが……今の君たちなら、あるいは」
花山院は二人の顔を交互に見つめ、力強く頷いた。
「行ってきなさい。君たちならきっと、あの気難しい職人の心も開くでしょう」
「はい! 行ってきます!」
「ありがとうございました」
二人は深く一礼し、希望を胸に部屋を出て行った。
扉が閉まった後、花山院はふと紗夜の後ろ姿を思い出し、独り言のように呟いた。
「……入江、か。やはり、血は争えないな。六十六年前の、あの悲劇を繰り返さなければ良いのだが……」
翌日。嵐山。
桂川のせせらぎが響く景勝地だが、観光客はまばらだ。
茶屋で団子を注文しながら、京吾は店番の老婆に話しかけた。
「お婆ちゃん。この辺で『源蔵』って爺さん、見かけないかい?」
「ああ、源さんかい?よく知ってるよ。多分、あの河原だよ」
「河原?」
「渡月橋の下流にな、お気に入りの岩場があるんじゃよ。毎日毎日、真っ昼間から其処に座り込んで、死んだような目で川を見ておるわ」
老婆はため息交じりに言った。
「腕はいいのに、勿体ないねえ……今じゃただの酒呑みじゃわ」
京吾と紗夜は顔を見合わせた。
「いきなり源蔵さん情報。私たち、運がいいね」
「俺は日頃の行いが良すぎるからな」
「いや絶対に私のほうが善人だよ」
軽口を叩き合いながらも、二人の目は真剣だ。
「ともかく場所は割れたな」
「どうするの?すぐに挨拶に行く?」
「いや」
京吾は懐から手ぬぐいを取り出し、職人のように頭に巻いた。
「頑固じじいらしいから、正面から頼んでも、どうせ『帰れ』と言われて終わりだ」
「あ。わかったわ!向こうから『頼む』と言わせるように仕向ける」
「ご名答」
二人はニッと笑い合った。
これから始まるのは、頑固な職人との心理戦だ。
翌日。嵐山。
観光地とは名ばかりの、整備されていない砂利道と岩場が続く。
源蔵がいるという河原へ降りる道は、特に険しかった。
「っと……」
慣れない草履で石に躓き、紗夜が体勢を崩す。
すかさず京吾の手が伸びた。
「おい、大丈夫かよ」
「平気。ちょっと石が動いただけ……きゃっ!」
言い訳をする間もなく、京吾の手が紗夜の膝裏に回り、ふわりと体が浮いた。
お姫様抱っこだ。
「さ、京吾くん!?何してるの!?」
「暴れるな。落ちるぞ」
京吾は平然とした顔で、紗夜を抱えたまま岩場を降り始めた。
「下ろしてよ!私、歩けるもん!」
「無理すんな。お前のその着物、お母上の形見だろ? 泥跳ねさせたら、俺が母上にあの世で怒られる」
「でも……!」
「それに、見てみろ」
京吾が顎で示した先には、茶屋で団子を食べている町娘たちが、うっとりとした顔で二人を見ていた。
「あら、まあ……」
「仲睦まじいわねぇ」
「美男美女だこと」
京吾は紗夜に向かってウインクをした。
「(ほら、観客がいる。ここでも『仲睦まじい婚約者』を演じておかないとな)」
「(……あ……っ、そういうこと)」
紗夜は口を尖らせたが、抵抗するのをやめて、京吾の首に腕を回した。
近くで見ると、京吾の睫毛が長いことに気づく。汗の匂いと、微かな墨の匂い。
(……重くないのかな)
没落して貧しい食事しかしていないはずなのに、京吾の腕は意外なほど逞しかった。
「……重い?」
紗夜が小声で聞くと、京吾は意地悪く笑った。
「ああ、重いな。……『一族の命運』を背負ってるんだ。軽くはないさ」
それは軽口だったが、紗夜の胸を締め付けた。
重いのは私の体重じゃなく責任。
でも、彼はそれを「下ろそう」とはしなかった。
「……着いたぞ。ここが特等席だ」
安全な平地に紗夜を下ろすと、京吾は何食わぬ顔で着物の乱れを直してくれた。
「ありがとう。……助かったわ」
「礼は合格してから言えよ。行くぞ」
スタスタと先を行く京吾の背中を見つめながら、紗夜は熱くなった頬を手で仰いだ。
(演技だもの。……演技、よね?)
川のせせらぎだけが響く、誰もいない岩場。
ここが源蔵の定位置らしい。
「俺たちはここで、どんどん苗木を植えよう」
「ええ」
そこから少し離れた視界に入る絶妙な位置で、二人は作業を開始した。
ザッ、ザッ。黙々と鍬を振るう。
「京吾くん。源蔵さん、いないね」
「ああ。だが、お婆ちゃんの話じゃ、ほぼ毎日来るらしいからな。ここが特等席だ。まずは俺たちが『本気』だってことを見せつけるぞ」
二日後の昼下がり。
「昨日は、源蔵さん登場せず」
紗夜がため息をつく。
すでに数本の苗木が植えられているが、肝心のターゲットが現れない。
「そのうち来るさ。信じて待とう」
汗だくになって作業を続けていると、ふらふらとした人影が現れた。
ボロボロの着物を着た老人。源蔵、六十八歳。
手には一升瓶をぶら下げている。昼間から酒の臭いが漂ってくる。
源蔵はいつもの岩場に座ろうとして、京吾たちに気づいた。
「……ああん?」
濁った目が、二人を捉える。
(なんだあのガキども。……邪魔くせえ)
心の声が聞こえてきそうなほど、露骨に嫌な顔をした。
「(小声)……あ、京吾くん。ひょっとしてあれが源蔵さんじゃない?」
「(小声)……シッ。見るな。気づかないフリをしろ。たぶんあれだろう」
源蔵は面倒くさそうに二人を一瞥すると、声をかけることもなく酒を飲み始めた。
京吾は横目でチラリと確認し、そのまま作業を続ける。
(まずは爺さんの視界に入った。……だが、まだだ。まだ食いつかねえ)
さらに二日後。 曇り空の下、風が少し強く吹いている。
源蔵はいつもの岩場で飲んでいた。
だが、その視線はチラチラと京吾たちの方に向いている。明らかに気になっている。
(……あいつら、まだやってんのか。物好きなガキどもじゃ)
京吾はその視線を背中で感じ取った。
(……よし。そろそろ熟したな)
京吾は急に手つきを変えた。 苗木を掴み、わざとらしくグラグラと揺らす。
「あー、もう!全然入らねえな!えーい、こうしちゃえ!」
京吾は浅く掘った穴に苗木を強引にねじ込み、根が丸見えのまま土を被せた。
さらに、上から足でバンバンと踏みつける。
「……っ!」
源蔵が思わず腰を浮かせた。
(おい馬鹿!根が曲がっとる!窒息するわ!)
紗夜も、京吾の意図を察して阿吽の呼吸で動く。
おぼつかない手つきを演じ、苗木に近づく。
「あ、あれ? 倒れちゃう……。えっと、紐で縛ればいいのかな?」
紗夜は苗木の幹を荒縄でギュウギュウに締め上げた。
「これくらいキツく縛れば……」
「ぐぬぬ……」
源蔵の手が、酒瓶を握り潰しそうになるほど震えている。
(首を絞める気か! 導管が潰れて水が吸えなくなるじゃろうが!)
京吾はトドメとばかりに、川から汲んだ冷水を、バケツから勢いよくぶっかけた。
「ほらよ! 水攻めだ!」
バシャア! その瞬間だった。
ガシャーン!! 源蔵が持っていた酒瓶を地面に叩きつけた。
破片が飛び散り、酒の匂いが広がる。
「――待たんかァァァッ!!!」
雷のような怒号が響き渡った。 京吾はビクリとした振りをして、内心でニヤリと笑った。
(……釣れた) 二人は驚いた顔を作って振り返る。
「うわっ!?な、なんだ爺さん。いきなり大声出して」
源蔵が、鬼の形相でツカツカと歩み寄ってくる。
「貴様ら……数日前から見ておれば、好き勝手しおって!苗木を殺す気か!!」
源蔵は紗夜の手から荒縄を奪い取り、素早くほどいた。
その手つきは、さっきまでの乱暴さとは打って変わり、赤子を扱うように繊細で優しい。
「……苦しかったろう。すまんな、無知な人間のせいで」
苗木に語りかけるその姿は、完全に「職人」のそれだった。
「はあ?何だよ!あんた。俺たちがどう植えようが勝手だろ」
「黙れド素人!」
源蔵が吠える。
「こんな植え方があるか!根が窒息しておる!それに締め付けすぎじゃ!桜はな、貴様らのような適当な手で触っていい木じゃないんじゃ!」
源蔵の目には涙が浮かんでいた。ただの酔っ払いではない。本気で木を憐れみ、その痛みに共鳴する職人の目だ。
「……へえ。詳しいんだな、爺さん」
京吾の声色が、挑発的なものから真剣なものへと変わる。
「そんなに文句があるなら、あんたがやってくれよ」
「あ?」
「俺たちは素人だ。でもどうしても桜を植えたいんだ。あんた、庭師だろ?」
「……!」
源蔵はハッとして口ごもった。過去の亡霊に取り憑かれたような顔になる。
「……昔の話じゃ。今のわしは、ただの酔っ払いじゃ。帰れ。二度と桜に近づくな」
源蔵は背を向け、立ち去ろうとする。
京吾が目配せをした。紗夜が一歩前に出る。
「……おじいさん」
凛とした声が、源蔵の足を止めた。
「その腰の鋏……泣いてますよ」
源蔵の腰元には、ボロボロの帯に一丁の剪定鋏が差してあった。
柄は使い込まれて黒光りし、刃は油で手入れされ、鈍く光っている。
「毎日、磨いてるんですね。一点の錆もない。……いつでも枝を切れるように。未練がない人の道具じゃありません」
「…………」
源蔵は震える手で鋏に触れた。指先が、金属の冷たさと記憶をなぞる。
「なあ、爺さん」
京吾が畳み掛ける。
「あんた……本当は切りたくてウズウズしてるんだろ?」
「……なに?」
「あんたほどの腕利きが、振るう場所をなくして腐ってる。帝が東京へ行っちまって、御所の庭も荒れ放題だもんなあ」
源蔵の顔色が変わった。図星を突かれた動揺が走る。
「き、貴様に何が分かる!わしには、もう庭師への未練なんかない」
「その名刀。未練がないのに、何でそんなもん持ち歩いている?」
「未練があろうとなかろうと関係ない!」
源蔵は叫んだ。
「確かにわしは、かつては御所の桜を任されとった!だが御所は荒れ果てた。
もう手入れする庭もねえ!見る主もいねえ!時代は変わったんじゃ……庭なんて、もう誰も見向きもしねえ!」
源蔵は涙目で叫び、懐から新しい酒瓶を出そうとする。
京吾はその手をパシッと止めた。
「なら、見てくれる奴を、たくさん全国から呼ぼうぜ」
「あ?」
「俺たちに協力してくれ。俺たちが、あんたの腕にふさわしい『日本一の庭』を用意してやる」
京吾は立ち上がり、両手を広げて、眼下に広がる京都の街を指した。
「あんたに任せる庭は……御所なんかよりずっと広い……この『京都の街全部』だ」
「な……」
源蔵が息を呑む。
「俺たちは、この街中を桜で埋め尽くす。あんたは、その何万本もの桜の総責任者だ」
「どうだ? 狭い御所でちまちま庭いじりするより、よっぽど腕が鳴るだろ?」
京吾の瞳には、揺るぎない確信と野心が宿っていた。
それは、死にかけていた職人の魂に火をつけるのに十分な熱量だった。
「街……全部じゃと……?」
「お願いします、源蔵さん」
紗夜も深々と頭を下げた。
「私たちには知識も技術もありません。……あなたの技術が必要なんです。あなたの経験で……もう一度、京都に命を吹き込んでくれませんか」
源蔵は、京吾の不敵な笑みと、紗夜の真摯な眼差しを交互に見た。
錆びついた心に、ひびが入る。そこから溢れ出したのは、ずっと押し殺していた情熱だった。
ふと、源蔵の目が紗夜の顔に釘付けになった。
源蔵はかぶりを振ると、ボロボロと涙をこぼした。
「……報酬は、高いぞ」
「へっ。出世払いで頼むわ」
源蔵は鼻をすすりながら、投げ捨てられた苗木を丁寧に拾い上げた。
「馬鹿もんが。……土が固すぎるんじゃ。まずは耕すところからじゃ!」
源蔵の顔から、酔っ払いの色は消えていた。そこには、歴戦の職人の顔があった。
夕焼けが嵐山を赤く染めていた。
三人が並んで土を耕している。
京吾と紗夜の顔には、泥と共に達成感の汗が光っていた。
「一万本の桜か。わしも気合が入るわ」
源蔵の頼もしい背中を見ながら、二人はこっそりと視線を交わし、笑い合った。
また一つ、壁を越えた。
「行くぞ、紗夜。……次の課題は植樹場所だ」
京吾が遠くを見つめる。
資金、技術。必要なピースが揃いつつある。
あとは、この桜を植えるための大地を手に入れるだけだ。
『第二の壁・技術。――嵐山にて、突破』




