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氷の貴公子が婚約してやるから頭を下げろと言うので従いましたが、私にも考えがあります

作者: 玖珠ゆら



「面倒な夜会を抜け出すきっかけになると思って、君に声をかけた。君のことはきちんと家に送り届けるが、これは僕に利があるからやっていることで、他意はない」



 馬車に乗り込むなり一気にそう言うと、向かいに座る男は、窓枠に肘をのせて頬杖をつき、硝子の向こうの夜景に目を移した。


 要するに、お前に興味はない。図に乗るな。話しかけるな。

 ────ということらしい。


 

 氷の貴公子、ジェラルド・オーティス侯爵令息。

 素っ気ない物言いも、人を寄せつけない態度も、噂通りだ。


 感じが悪いな、と思う反面、メリッサは少し安心した。

 嫌われ者の彼女を助け出した理由が、自分に利があるからと言われれば、その方が腑に落ちる。正義のヒーローを気取られるより、よっぽどいい。


 本来ならばたかだが子爵令嬢であり、ジェラルドとは話したこともないメリッサが、侯爵家の馬車に乗ることなど有り得なかった。

 ふかふかすぎる座席のクッションも、窓枠に施された繊細な装飾も、何もかもが場違いすぎて居心地が悪い。


 馬車内の洒落た照明が、ジェラルドの前髪を淡く照らし、長いまつ毛と翡翠の色の瞳を隠すように、その美しい顔に影を落としている。

 もうこちらを見る気配のないジェラルドに倣って、メリッサも窓の外へと目を向けた。


 

 大きな三日月が、王宮へと続く立派な橋と、その先の絢爛豪華な王宮を見下ろしている。

 

 先程までメリッサとジェラルドもいた夜会会場である王宮は、今も賑わいを示すように、全ての窓から光が溢れて輝いている。



 今宵の夜会は王太子殿下主催のものであった。次代を担う若者の交流の場と謳われ、出席者は王国の貴族学園在学生と、卒業間もない者ばかり。


 学園でメリッサは悪女として有名だった。

 義姉の婚約者に嘘を吹き込み誘惑し、次期当主の座をも奪おうとした、図々しくも浅ましい元平民。


 当然そんなメリッサにとって、夜会は針のむしろであった。


 

 メリッサからの嫌がらせに耐え、一度は悪化した関係を修復した義姉とその婚約者は、仲睦まじい様子で寄り添って会場に現れた。

 

 対して惨めに一人きりのメリッサに向けられたのは、嘲笑や侮蔑の視線ばかり。

 遠巻きにされながらも素知らぬふりを貫き、ちっとも悪びれないメリッサに、一人の令嬢が偶然を装って、彼女のドレスにワインをぶちまけた。



「あら、失礼」


 わざとらしく令嬢がそう言うと、周囲にくすくすと笑い声が広がった。


 しかしメリッサが纏う胸の大きく開いた下品なドレスの色は、真っ赤。ワインの染みもさほど目立たない。

 会釈をしてその場を離れるメリッサの堂々とした姿は、笑いものにしようとしていた者たちからすれば、全く面白くない。


 色とりどりのスイーツが並ぶ軽食コーナーの前を横切るメリッサに、すれ違いざまにまた別の令嬢がぶつかった。その拍子に令嬢は、手にしていた皿をさっと傾け、メリッサのドレスへケーキを押し付けた。


 赤いドレスに、白いクリームの汚れが酷く目立つ。


 ────まぁ、なんて酷い有様なの。

 

 ────まさかあんな姿で夜会に居座る気か? 殿下の前で、あれではお目汚しではないか。

 

 ────だからといって、始まって間もない夜会を早々に中座するなんて、それこそ不敬でしょう?



 呆然とするメリッサの耳に、嘲笑うような囁き声が次々と届く。


 ここにメリッサの味方など、一人もいない。

 どう行動したところで、非難の目を向けられることに変わりはないのだ。


  

 ────その時、現れたのがジェラルドだった。


 ジェラルドは大勢のご令嬢たちに囲まれながら、それらに見向きもせず、まっすぐにメリッサのもとへと歩いてきた。

 そして自身のマントを、汚れたメリッサのドレスを隠すように差し出したのだ。


 

「そのような姿では、この場に相応しくない。濡れたままでは体も冷える。僕が馬車で送ろう」

 


 

 ジェラルドは多くの令嬢が憧れる美貌の侯爵令息である。

 その彼が、嫌われ者を庇った。

 

 メリッサをはじめ、誰もが呆気にとられているうちに、ジェラルドはメリッサを連れてさっさと会場を後にした。


 


 ────そう、確かにメリッサは、今夜ジェラルドに助けられた。 



 ジェラルドは変わらず、窓の外を見たままだ。

 関わりたくないオーラが出まくっているが、メリッサは意を決して声をかけた。


 

「あの……図々しいのは承知で、ひとつお願いがあります」 


 ジェラルドの眉がぴくりと動く。

 不快そうにちらりとこちらを見るものの、返事はない。

 

「子爵家まで送っていただけるとのことですが、できれば屋敷の少し手前で下ろしていただけると有り難いです」 


「断る。侯爵家の馬車が道端でご令嬢を捨ておいたなど、人に見られでもしたら醜聞だ」


 今度はきっぱりと、否定の言葉が返ってきた。

 状況的にも立場的にも、それ以上食い下がることをメリッサは諦めた。 


 

 侯爵家の馬車に乗り子爵家に帰ったりしたら、何を言われるかわかったものではない。面倒ではあるが、夜会には義姉も参加していた。既にジェラルドと共に会場を後にしたことは知られているのだから、どちらにしろ結果は同じかもしれない。


 そう思い至って、メリッサは小さくため息をついて俯いた。憂鬱な表情は隠し切れずに。

 

 


「君はずいぶん噂と違うように見える」


  

 そんな声に顔を上げると、先程までとはうってかわって、腕を組んだジェラルドが興味深そうにまっすぐにメリッサを見据えていた。

  


「婚約者のいる王太子殿下をはじめ、学園で大勢の高位貴族令息に声をかけまくっていると聞いた。結局相手にされず、姉の婚約者を騙して誘惑し、姉から未来の子爵夫人の座を奪おうと画策したと」


「それは……。酷い噂ですね。それが本当なら、私に構わない方がいいのではないですか」


「噂通りなら、馬車に乗る前から君に執拗に迫られていた気がする。僕は君の好きな高位貴族である侯爵家嫡男で、婚約者もいない。顔も悪くない」


「さすが、相当自信がおありなんですね。噂と多少違うからといって、何だと言うんですか。あなたに関係ありますか?」


「ないな。だが君の姿勢には疑問がある。仮に真実と違う姿が流布され浸透しているとして、君はそれを甘んじて受け入れ、自分を諦めているのか?」



 ジェラルドを睨みつける。

 気まぐれで、偉そうで、上から目線。メリッサの嫌いな貴族の姿そのものだ。



「諦めているつもりはありませんけど。あなたの方こそ、私の噂を知っていながら馬車に乗せるなんて、迂闊すぎるのでは? あなたとの関係を、私があることないこと言いふらして婚約者の座に収まろうとするとは考えませんか?」 


「誰が君の話をまともに聞くというんだ。君の悪評は相当なものだ。…………ああ、そうか。そうなると、噂の訂正も難しいな」


 呟くように言ってしばし考え込んだジェラルドが、にやりと口角を上げた。人の悪そうな笑い方である。

 ジェラルドもメリッサ同様、噂と異なる一面があるらしい。


 

「君の口から話を聞きたい。噂で聞くよりまともなようだが、普通の貴族令嬢は、あんなにも酷い醜聞にまみれたりはしない。何があったのか話せ。今すぐ」


「…………どうして」


「興味と暇つぶしだ。ただで侯爵家の馬車に乗れると思うな。馬車代と思え。話の内容によっては、屋敷から離れた場所で下ろしてやってもいい」


「話したところで、私の言うことなんてどうせ信じないでしょう」


「信用するに値するかどうか決めるのは僕だ。早くしてくれ、君の屋敷に着いてしまう」



 ジェラルドが有無を言わさぬ口調で言い放った。

 自分よりも格下の人間など、従えて当然で、簡単に思い通りになるものと思っているのが態度から透けて見える。

 

 だからメリッサは、貴族という生き物が大嫌いだ。

 


 ◇



 メリッサはもともと平民として母と二人、市井で暮らしていた。

 ところが一年ほど前、母が亡くなり、父であるイーストン子爵に引き取られることになった。別に父からの愛があった訳でもない。メリッサは平民の間では噂になるほどに綺麗な顔立ちをしていたので、政略の駒として使えるかもしれない、という思惑があっての結果である。


 イーストン子爵に迎え入れられたメリッサに待っていたのは、絵にかいたような冷遇だった。

 義姉キャリーと一つしか年が変わらなかったこともあり、不貞の子であるメリッサが歓迎されるはずもなかったのだ。



 使用人以下の粗末な食事も、身の回りの世話をしてもらえないことも、元平民のメリッサにとって苦ではない。ただ、卑しい女の娘と罵られることだけは、苦痛で堪らなかった。

 

 更に十五歳だったメリッサは王国の貴族学園一年生に編入することになってしまった。


 その名の通り、貴族だけが通うことが決められている学園。

 ほんの数日前まで平民だったメリッサは、マナーも基礎的な知識も、何ひとつ身についていない。


 ちょっとした言葉遣いや仕草ひとつでいちいち眉をしかめられ、戸惑っていたメリッサに声をかけたのが、なんと三年生の王太子殿下だった。 

 

「君が噂の編入生だね? 大きな環境の変化で、大変なことも多いだろう。困ったことがあったら、いつでも力になるよ」 



 いい人だ、とメリッサが感激したのは一瞬だった。

 王太子殿下直々にお言葉をいただくという貴重な機会に恵まれたばかりに、その後同じ一年生からの嫉妬とやっかみで、色々と酷い目にあった。


 あまりの嫌がらせに大変困ったけれど、こちらから王太子殿下のお力を借りる手段などない。話しかけることさえ難しい相手である。

 言ったことに責任ももてない殿下を恨むしかなかった。



 メリッサは学園でも家に帰っても、孤立し冷ややかな目を向けられ続けた。  

 貴族社会に辟易し、貴族そのものに嫌悪感を抱くようにさえなっていた。

 

 そんな時に唯一優しくしてくれたのが、姉の婚約者であるゲイル。


 ゲイルはメリッサの置かれた環境を憐れみ、気持ちに寄り添ってくれた。ひとりぼっちのメリッサに温かい言葉をかけてくれたし、基本的なマナーや貴族としての知識も教えてくれた。

 ゲイルだけは、心許せる相手だった。

 

 辛いばかりの日々の中で、ゲイルと一緒にいる時だけは、少し気持ちが上向いた。嵐の中のふとした晴れ間に、雲の隙間から少しだけ日が差すように、ほっとできる時間だった。 

 


 その頃、学園ではキャリーとジェラルドの仲について詮索するような噂が広まっていた。

 


 幼い頃に婚約者が決まっているのが一般的な高位貴族や跡取りとなる子ども以外は、学園在学中に親しくなった相手と婚約を結ぶことも多い。

 そのため侯爵家嫡男で宰相の息子であるにも関わらず婚約者のいないジェラルドに、なんとかしてお近付きになりたいと画策する令嬢は後を絶たない。

 けれどジェラルドは、氷の貴公子という異名があるほど常に冷たい態度で誰にでも素っ気ない。それは特に女性に対して顕著で、女嫌いだと囁かれていた。


 そんなジェラルドが、婚約者がいるキャリーに思いを寄せているのではないかというのだ。


 キャリーははっきりとした顔立ちできつめの印象を与えるメリッサとは対照的に、今にも散りゆく花のような、儚くも可憐な美少女だ。その美しさは学園一と言われるほど。

 その上キャリーは社交的で男女共に友人が多く、成績も良かったために、子爵令嬢でありながら高位貴族にも名を知られる人気ぶりであった。

 

  

 学年は違えど共通の友人を介して知り合った美男美女の二人が、廊下やカフェテリアでたびたび出くわし、遠慮がちに挨拶をし合う姿は微笑ましく、誰が見てもお似合いだった。

 だからこそそんな二人を見守り、応援するような空気感さえ生まれつつあった。

 


 しかし、あくまでもキャリーにはゲイルという婚約者がいる。

 メリッサはゲイルが不憫でならなかった。キャリーは、明らかにゲイルを顧みなくなっていたのだ。


 けれど当のゲイルは、気にした様子もなく笑ってみせた。


「いいんだ。俺から見ても、あの二人はお似合いだよ。キャリーもきっと、侯爵夫人になる方が幸せだろう。それよりメリッサ、俺はずっと、君の方が気になっていたんだ。どうだ? 俺たちの未来について、考えてみないか?」 



 そんな言葉を皮切りに、ゲイルに熱心に口説かれて。もとより好意的に見ていた相手だったのだから、メリッサも悪い気はしなかった。

 それでうっかり、期待してしまったのだ。自分が幸せになれる未来を。

 ゲイルに愛され結婚して、イーストン子爵家を継いで。父や義母にも認められ、使用人にもちゃんと一貴族として大切に扱ってもらえる、そんな未来。



 しかしそんな日は永久にやって来なかった。

 キャリーとの仲が縮まらないまま、三年生のジェラルドが卒業を迎えたことを発端として、全てがひっくり返ってしまった。

 はじめから、メリッサが夢見た未来など幻だったのだ。


 

 メリッサが二年生に進級して間もなく、学園のカフェテリアに、キャリーを伴ってゲイルは現れた。

 そして大勢の生徒の前で、メリッサのことを激しく糾弾したのだ。

 

 曰く────。

 メリッサはゲイルに、キャリーから虐められていると嘘を吹き込み、二人の仲を引き裂こうとした。

 またキャリーにも、ゲイルが彼女を悪く言っていたと偽り、距離を置くよう誘導した。

 ゲイルとキャリーはなんとか話し合いの場を持とうとしたが、その度メリッサに邪魔をされ、すれ違いが続いた。


 強欲で底意地が悪いメリッサは、どうにかして可憐で賢く優しいキャリーを追い落とし、イーストン子爵家を我が物にしようとしていたのだ────と。


  

 ゲイルは結局、イーストン子爵家に婿入りできれば良かったのだ。

 だからキャリーがジェラルドとの仲を噂されるようになり、メリッサに近付いた。キャリーが侯爵家に嫁ぐなら、妹のメリッサが婿をとって跡を継ぐことになるだろうと考えたのだ。

 

 けれど結果的に、キャリーはジェラルドと結ばれることはなかった。

 このままでは、キャリーとゲイルは共に、婚約者を放置して浮気していたと言われかねない。ならばと共にメリッサを悪役に仕立てあげ糾弾することで、自分たちの名誉を守ることにしたのだ。



 汚名はメリッサが全て一人で被った。

 ゲイルが派手にメリッサを非難したことで、悪い印象は強烈に植え付けられ、悪評にどんどん尾ひれがついて広がっていったのだ。キャリーがもともと人気者で、儚い容姿の美少女だったことも、生徒たちの同情とメリッサへの憤慨を存分に増幅させた。

 


 そしてそんな最中に開催された夜会。

 これまでそんな場所に縁のなかったメリッサだったが、ドレスを用意したからとキャリーと義母に参加を強要された。


 

 今夜のメリッサは幸せな二人の引き立て役で、嫌われ疎まれ、蔑まれるためにあの場にいた。

 あの嫌がらせは、必然として起こったことだった。

 


  

 ◇



 これまでの出来事を、メリッサは洗いざらいジェラルドに話してしまった。


 メリッサの話をきちんと聞こうとしたのは、ジェラルドがはじめてだった。話し出したら止まらなくなった。

 信じてもらえるかどうかはともかく、誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。


 ジェラルドは口を挟むことなく最後まで静かに耳を傾け、そして呟いた。



「そうか、なかなか興味深い話だった。ところで君の話が長すぎて、屋敷の前に着いてしまった」


「話をしたら、離れたところで下ろしてもらえるはずでは……」


「そんな約束をした覚えはない」


「…………。送っていただき、ありがとうございました。マントもお返しします」


「汚れたものをそのまま返すな。洗っておいてくれ」


 そう言われても、既に学園を卒業したジェラルドとメリッサが顔を合わせることなど、恐らくもう二度とない。だからこそ汚れているとわかっていながら、この場で縁が切れるように返そうとしたのだ。


 ──とはいえ別にジェラルド本人と会わずとも、彼が子爵家に使いを出すなりすれば、回収する手段はいくらでもある。

 そう思い至り、メリッサは改めて礼と別れの言葉を告げると豪奢な馬車を下りた。



 肩にかけたままのジェラルドのマントが、ずっしりと重い。

 

 真剣にメリッサの言葉を聞こうとしてくれて、うっかり絆されそうになった。でもジェラルドはずっと、大嫌いな貴族を体現したかのような高慢な態度と物言いだった。優しさも気遣いも何もなかった。



 それでいい。

 はじめから信用しないし、期待しない。


 メリッサは、自分の力で未来を切り開いて生きていく。振り回されていいように使われるのは、もう終わりにすると決めたのだ。


 メリッサは一度も振り返ることなく、子爵家の門をくぐった。

 


 ◇



 容姿には恵まれたメリッサだったが、学園内の評判は地に落ちている。在学中に父が納得するような縁を結び、婚約までこぎつけるのは難しいだろう。

 卒業までにめぼしい令息をつかまえられなかったメリッサに待ち受けるのは、どうせろくでもない縁談だ。

 望んでもいない貴族社会に放り込まれ、蔑まれ、利用され、翻弄され続ける人生。 


 いっそ子爵家から逃げ出してしまおうかと何度も思った。

 それを実行しなかったのは、やられっ放しが悔しいからだ。どうせならと、メリッサも今の状況を利用することにした。 



 メリッサが目指すのは、王宮事務官。

 難関試験を突破しなければその職に就けず、受験資格は貴族学園の卒業、そして推薦が必要となる。

 非常に狭き門ではあるが、その分名誉職だ。合格したならば、さすがの父も反対はしないだろう。


 もちろん現在のメリッサの学力では、遠く及ばない。ゲイルの助力もあって、やっと平均程度まで上がってきたところだ。

 それでも、まだ二年ある。努力を怠らず、叶えてみせると心に誓っている。


 貴族令嬢という立場を、ゲイルから得た知識やマナーを、今度は利用するのだ。

 

 職を手にし、子爵家を出て、豊かな暮らしをする。

 いつか確かな信頼を得て、イーストン子爵家の人間を見返してやる。

 それこそが、メリッサの心の奥底に宿る静かな復讐心だった。


 


 ────それなのに。

 夜会から、たった三日後。


 父の執務室に呼び出されたメリッサは、想定外の言葉を投げられた。 

 

  

「今日から学園には行かなくていい。お前の退学の手続きは、昨日のうちに済ませてある」


「退学……!? そんな急に、どうしてですか」

 

「どうして、だと? そんなことは、お前が一番よくわかっているだろう! 学園内でお前の悪評が蔓延していると、キャリーが泣いて訴えてきたんだぞ! 恥ずかしくて学園に行けないとまで言って、かわいそうに……! イーストン子爵家の名に泥を塗るなんて、お前を引き取ったのは間違いだった!」 



 頭をがつんと殴られたような衝撃だった。


 

 キャリーはメリッサが思っていた以上に欲深くて強か、そして苛烈だった。

 なりふり構わず様々な駆け引きをしても落とせなかったジェラルドが、よりによって見下していたメリッサを庇ったのだ。キャリーが許せるはずもなかった。

 


 望まぬ環境で、不本意な噂に晒されて、蔑むような視線を一身に受け、その中でも歩む道を見つけ、努力を重ねている最中だったのに。

 キャリーの告げ口ひとつで、我慢も努力も全て、一瞬で無駄となった。

 退学になった以上、王宮事務官となる未来は、完全に絶たれてしまった。

 


「幸いそんなお前でも、娶ってやってもいいという方が見つかった」


 そんな父の言葉通り、翌日にはイーストン子爵家に、メリッサの結婚相手として男が訪ねてきた。

 

 バートン男爵。父よりも年上の、小太りの男だった。イーストン子爵家よりもよっぽど羽振りがいいのか、太い指には下品なほど大きな宝石のはまったいくつもの指輪が、ぎらぎらと光っている。


 男爵はメリッサの容姿を気に入ったらしく、また父も乗り気で、早すぎる展開を迎えた。すぐにでもメリッサを嫁に、と。


 

 バートン男爵は、このままメリッサを伴って領地へ帰ることを望んだ。父もそれを了承し、二人は結婚についての詳細を話し合うという。

 メリッサには自室に戻り、出発の準備をするようにと言いつけられた。



 ────冗談じゃない、とメリッサは思う。


 このまま結婚させられるくらいなら、今すぐ逃げ出して、どこかで平民として暮らす方がよっぽどいい。

 何もやり返せなかったのは悔しいが、ことは一刻を争う。男爵と共に馬車に乗せられてしまえば、一生逃げられないかもしれない。

 

 

 心を決めたメリッサは、誰にも見つからないように裏口へと向かった。




 ────けれど。


 イーストン子爵家にはそれほど使用人は多くない分、屋敷の大きさもそこそこだ。夜中ならともかく、昼間に人目につかず、こっそりと逃げ出すことなどできなかった。


 すぐに使用人の一人に見つかってしまったのだ。

 どうか見逃してほしい、と頼み込んだけれど、もとよりこの屋敷にメリッサの味方はいない。男爵と話し込んでいる父のかわりに、すぐに義母に言いつけられた。



  

「この恩知らずが! 薄汚い平民の血が流れるお前を、この屋敷に置いて世話をしてやっていたのに!」


 義母が扇で、メリッサの左頬を激しく打ちつけた。強い痛みで、頭が真っ白になった。


 これまでどんな扱いを受けても、心ない言葉を投げかけられても、反抗することをしなかったメリッサは、暴力を振るわれたことは一度もなかった。

 けれど思い通りにならないとなると、簡単に手を上げられるのだ。恐怖で体がすくんだ。


 義母はメリッサを罵り続けながら、何度も腕を振り下ろした。顔を庇って覆った腕に繰り返し痛みが走る。抵抗を試みるも、壁際に控えていた使用人に押さえつけられ、更に強い力で殴られた。

 

 激しい痛みと恐怖は、メリッサの心を容易くへし折った。



 絶望の中で、ひたすら痛みに耐えていたメリッサは、遠慮がちに声をかけてきた使用人の一言で、ようやく義母から解放された。

 

「旦那様が至急応接室まで戻るようにと、メリッサお嬢様をお呼びです」


  

 結局、メリッサは逃げられなかったのだ。



 ◇



「先触れを出したのだから、当然メリッサ嬢が出迎えてくれるものと思っていた。まさか待たされるとはな」



 メリッサが呼ばれて行った応接室にいたのは、なぜかジェラルドだった。

 先程までバートン男爵が座っていたはずのソファーに、ジェラルドは不遜な態度で足を組んで座っている。 



「……どうしてここにあなたが?」


「一言目がそれか? マントを取り行くと先触れは出したが?」


「申し訳ありません。聞き及んでおりませんでした」


「まさかジェラルド様が直々に我が子爵家に足を運ばれるとは思わなかったのです!! 本当に申し訳ない!」


 父が慌てて口を挟んだ。


 どうやらジェラルドからマントを取りに行くと知らせは入ったものの、やって来るのは使いの者だと思っていたようだ。当然だ。

 ところがジェラルド本人が来てしまったものだから、マントだけ返してすぐにお帰りいただく訳にもいかなかったのだろう。

 男爵と侯爵令息を天秤にかけ、後者を選んだというところか……。


 

 状況を頭の中で整理していると、メリッサの顔をジェラルドが無遠慮に見つめていることに気がついた。

 

「…………あの、何か?」

  

「その顔はどうした」 


 もちろん、左頬のことだろう。

 ついさっき義母に扇で思い切りぶたれたのだから、真っ赤になって腫れているであろうことは、鏡を見なくてもわかる。

 今でもまだ、じんじんと痛みが残っている。


「転んでぶつけました。お目汚し失礼します」


「君は器用だな。どんな風に転んだらそうなるんだ。確かに見ていて気持ちのいいものではないが、仕方がない。君に話がある。二人きりで話そう」



 ジェラルドはそう言うと、視線で父や使用人たちに出て行くように促した。誰も逆らうことなく大人しく従い、メリッサとジェラルドはあっさり二人きりにされてしまう。


 他人の家でこうまで好き勝手するジェラルドに、高位貴族としての格の違いを感じる一方、その横柄さは大嫌いな貴族を象徴するようなもの。

 

 あの日色々と打ち明けてしまったものの、ジェラルドがメリッサの話を鵜呑みにした様子は一切なかった。

 何を企んで自らここへやって来たのか、わからなくて気持ちが悪い。


  


「そう警戒するな。これからするのは、君にとっても悪い話ではない。君があの夜語った内容について、あの後色々調べてみた」


「……調べた? どうして……、どうやって?」

 

「興味深かったからだ。使える人間と権力と金があれば、方法はいくらでもある。そしてその結果、概ね君の話に嘘はないだろうと結論付けるに至った」


「まさか……。私の話を信じてくれたんですか?」


「僕の話を聞いていたか? 信じたんじゃない。調査の結果、信じるに値すると結論が出たということだ」



 ジェラルドは呆れたように言い放ったが、そもそもはじめからメリッサの話を疑っていれば、調査しようとも思わないはずだ。

 少しでも信用に足ると判断して行動してくれたことに驚いたのだ。



「君はこれまでずいぶんと酷い目にあったようだな。そして今も、危機的状況にある。僕に乞い願うならば、助けてやってもいい。オーティス侯爵家から君に、婚約を打診する」

 



「………………今、何とおっしゃいました?」


「君と婚約してやると言ったんだ。侯爵家からの打診ならば、断ることはできないだろう。もちろん、僕にも利があるから提案している。そもそも僕は婚約や結婚に関しては、全く気が乗らない。いずれ望まれるまま侯爵家を継いだとしても、養子をもらうか弟の子に継がせようと思っている。僕は女性の相手をしたり機嫌取りをする暇があったら、仕事に集中したい」


 女嫌いだと言う噂は本当らしい。

 予想外の方向に話が進んで、メリッサは一番どうでもいいことに思考を奪われた。



「だが学園を卒業してからというもの、これまで以上に縁談の話が次々と舞い込んでくる。立場的に、これ以上避け続けるのも難しい。とりあえず君と婚約しておけば、しばらく静かになるだろう。僕にとってもちょうどいいんだ」


「…………。話はわかりました。それはつまり、私が相手ならば、思い通りになると思ったということですか? 私ならあなたの言うことを大人しく聞くだろうし、必要なくなれば捨ててもいい。追い詰められた今の私は都合よく使えるからですか?」


「君が言うほど、僕は君を軽んじるつもりはない。追い詰められているのはお互い様だ。言わばこれは、契約だ」


「…………契約」


「とりあえず二年、僕の婚約者をやってくれ。その間互いに不満や問題がなければ、結婚も考えている。所謂、白い結婚だ」


 

 ───結婚。

 その言葉の重みに、メリッサも思わず息を呑んだ。悪名高い子爵令嬢が侯爵令息と結婚だなんて、冗談にもならない。

 


「三年経って離婚すれば、互いにその後は今より好きに動けるだろう。君は誰かと結婚するなり、平民に戻るなりすればいい。イーストン子爵家と縁を切りたければ、その手伝いもしてやろう。もちろん、婚約だけで終わっても、結婚することになったとしても、契約の終了後にはそれ相応の報酬は支払う」



 ジェラルドの提案は悪い話どころか、メリッサにとって都合のいいことばかりだ。

 だからこそ、不信感が募る。ゲイルに騙されて以来、貴族の言うことなど信用できない。

 うまい話ならば、尚更。


 

「あなたの言うことが信じられません。私はあなたと違って、人脈も地位もお金もないので、調べようがない」 


「君の言い分はもっともだ。疑り深いところも貴族として悪くない。しかし面と向かって信用できないなんて言われたのははじめてだ。どうしたら信じてもらえる? 契約書を作成するか?」


「…………どうして。あなたほどの方なら、私のように評判の悪い女でなくても、探せば他にいくらでも条件を飲むという相手は見つかるでしょう」


「どうしてだろう。わからないが、僕はたぶん君だからこの話を提案した。僕はご令嬢と話すのは好きじゃない。ただ君の話を聞くのは苦ではなかったし、うるさいとも思わなかった。話の内容が興味深かったのもあるが、感情的にならず、事実だけを冷静に語っていたからだ」


「…………それだけですか?」


「それ以上、君のことは知らない。でもあの夜声をかけたのも、君だったからだ。ワインをかけられても笑われても、毅然としていただろう。悪くなかった」



 メリッサのことを褒めているつもりだろうか。

 女性が苦手だというのも、間違いなく事実だ。この顔で甘い言葉のひとつでも吐けば多くの女性は簡単に陥落するであろうに、回りくどい言い方しか出来ないなんて。


 

「では、つくってください。契約書を」


「いいだろう。僕に頭を下げる気になったか?」


「対等な関係が前提の契約でないなら、この話はお断りします。あなたにも利があるのなら、私だけが頭を下げるのはおかしいわ」


 きっぱりと言い返したメリッサに、ジェラルドが一瞬、驚いたように目を見開く。

 けれどすぐに氷と評される冷たい表情で目を細めた。



「君は自分の置かれた状況を理解していないな。僕の話を断れるのか?バートン男爵との結婚を避けたいならば、他に方法はないだろう。それとも、望んで男爵と結婚するのか?」


「…………都合のいいように扱われるという意味では、私にとってはどちらも大差はありません。あなただって耳当たりのいい言葉で、私を騙そうとしているかもしれないので」 


「そうか。バートン男爵の結婚は三度目だ。前妻は体に障害が残るほどの怪我をし、離婚して実家の領地で静養生活を送っている。男爵からの度重なる暴力があったそうだ。一人目の妻は若くして()()による怪我で亡くなっている。もしかして君は痛めつけられることに快感を覚えるタイプか? ならば男爵とはきっと相性がいい。好きにしろ」 

  


 突き放すような言葉と共に明かされた男爵の過去。メリッサの背中に嫌な汗が流れた。


 暴力は怖い。

 義母にぶたれただけで、あんなにも痛くて怖かったのだ。大きな体の男爵に向けられる暴力は、どんなに恐ろしくて激しい痛みを伴うのだろう。

 想像しただけで、体が震えそうになった。


 貴族に玩具のように嬲られて死ぬなんて、それ以上の地獄はない。


 

 バートン男爵の話が本当ならば、結婚は絶対に避けたい。

 しかしジェラルドの作り話という可能性だってあるのだ。貴族は自分の利のために平気で嘘をつく。

 そしてジェラルドの裏の顔が、バートン男爵よりも酷いものではないという保証だってない。

 


「何を思い悩む必要がある? 君に選択肢などないだろう。素直に僕に頭を下げて助けを求めろ」


 

 あまりに高慢な物言い。


 ずっと崖っぷちに立っているような緊張感の中、葛藤していたメリッサの何かがぷつんと切れた。

 

 ジェラルドは圧倒的優位な立場にある。

 その上で、追い詰められたメリッサに自ら頭を下げさせることで、その立場の違いを明確に理解させようとしているのだ。

 一番最初に釘をさしておけば、その後何があってもメリッサは逆らえないだろう、と。

 汚い貴族のやり口だ。



 ジェラルドに屈するのは悔しくてならない。しかしここで感情のままに突っぱねてしまえば、逃げ道はひとつもなくなる。


 メリッサは激しい怒りの感情を込めた瞳でジェラルドをきつく睨みつけながらも、頭を下げた。


 

「…………助けて、ください。お願いします」

 

「いいだろう」



 ジェラルドは氷の貴公子の仮面を剥がし、酷く満足げに笑みを湛えていた。その表情に、ありありと優越感を滲ませて。


 メリッサは怒りに震えながら誓った。

 この男も、利用してやるのだ──と。


 


 ◇



 その後のジェラルドの動きは早かった。

 

 翌日には正式に侯爵家よりイーストン子爵家に婚約を申し込み、即時成立させると、同時にメリッサを未来の侯爵夫人になるための教育と称し、侯爵家へと引き入れた。

 それだけでなく、学園を退学になったメリッサのため家庭教師もつけた。

  

 侯爵家では、メリッサが誰からも侮られることのないよう気を配っている。


 

 侯爵夫妻もメリッサを好意的に受け入れた。


 ジェラルドはこれまで何人もの令嬢と引き合わせても全くその気にならず、婚約がまとまらなかった。

 業を煮やして少々強引に婚約を結ぼうとすれば、ジェラルドの無愛想さに拍車がかかり、相手の家から「娘が蔑ろにされた」と抗議が入ることさえあった。

 そんな息子が自ら相手を見つけてきて婚約したいと言い出したのだから、夫妻も何としても逃がすまいと必死なのだった。



 侯爵家にやって来てからというもの、メリッサはやたら殊勝に振る舞っている。そのことにジェラルドは、多少なりとも罪悪感を感じていたりする。


 メリッサに婚約を提案したあの日。

 予想外に言い返されて、年頃の令嬢に反発されるなどはじめてのことで、ジェラルドにとっては新鮮で面白かった。

 強い意志を感じる瞳で見つめ返すメリッサを言い負かしたくて、ほとんど脅迫のように頭を下げさせた。あの時は大層気分が良かったものの、悪手だったとはっきり自覚している。


 あれ程女性の相手が面倒で関わりたくなくて結んだはずの契約なのに、妙に気を使って慎重にメリッサに接しているのだから皮肉なものだ。まるで手負いの獣を手懐けているような気分である。

 


 侯爵夫妻に勧められるままに、日課となった夕食後のお茶をメリッサと二人囲みながら、ジェラルドは口を開いた。


 

「君と婚約してから三月が過ぎた。不自由はしていないか」


「はい。皆さん、とても良くしてくださいますので」


 心の内がわからない笑みを向けるメリッサに、なんとも言えない苦々しさを感じる。

 だからだろうか。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、ジェラルドはメリッサの機嫌取りのような言葉を口にしていた。


  

「家庭教師が君を評価している。熱心で、覚えがいいと」 


「ありがとうございます」


「このまま努力を続ければ、本来学園を卒業するはずだった一年半後には、相当な知識と学力が身についているだろう。君がその気になれば、王宮事務官の試験も合格するかもしれない」

 

「王宮事務官? 急に何です?」 

 

「夢だったんだろう。事務官について、熱心に調べて勉強していたそうじゃないか」


「…………夢なんて、大層なものではありません。ただ、他にあの子爵家から出る方法が見つからなかっただけです」 


「それでも、もし叶える気があるのなら、力になってやる。僕の父は王宮内でなかなか顔が利く。君を推薦するよう進言してやってもいい。父の推薦があれば、学園を卒業していなくても、なんとかなるかもしれない」



 ──その瞬間。

 メリッサが驚く程冷ややかな目で、ジェラルドを見据えていた。


 久しぶりに感情を露わにしたメリッサに、ぞくりとする。さっきまで大人しくしていたのに突然牙を剥くなんて、油断も隙もない。


 

「施しのつもりですか? 弱者に与えて悦に浸りたいなんて、高貴なお方は素敵な趣味をお持ちですね。きっとあなたも王太子殿下と同じ。気まぐれに構って、後始末なんて考えもしないんでしょうね。短慮で自分本位なこと」


 

 あまりの物言いにぎょっとした。聡明で思慮深いと評判の王太子殿下をこき下ろしたことも。


 冷え切った瞳に睨まれることも、率直な言葉で非難されることも、不快感より興味が勝った。

 本当に、話していて退屈しない。


 

「そんなつもりはない。最後まで責任を持つ」 


 そう言い返せば、メリッサも我に返ったのか口を噤んだ。

 メリッサが王太子殿下をよく思っていないなど考えもしなかったが、仕方がないので本題を切り出すことにした。


 

「一月後、王太子殿下の誕生パーティーが王宮で開催される。気は乗らないだろうが、一緒に参加してもらう。当然、君の家族も参加するだろう」


「……義姉が黙っているとは思えません。ご迷惑をおかけするかもしれません」


「心配しなくていい。僕が守ってやる」 


 

 その言葉にメリッサは目を見張ると、考え込むように俯いてしまう。握りしめた彼女の手が、微かに震えている。

 しばらくして顔を上げると、メリッサははっとするほど美しい笑みを見せた。


 

「ありがとうございます、ジェラルド様。頼りにしています」

  


 

 ◇



 

 その日王都は一層賑やかで、王宮へ続く橋には多くの馬車が連なっていた。

 祝いの日に相応しく町中が色とりどりの花で飾られ、たちこめる香りと色の洪水が人々の気分を高揚させる。

 

 王太子殿下の誕生日、王宮には国中の貴族が集められ、大規模なパーティーが開催されていた。



 主役である王太子殿下の入場を待つ貴族たちの談笑と、緩やかに奏でられる音楽。そんな賑やかな会場で、メリッサとジェラルドは一際注目を集めていた。

 

 何しろ女性を寄せ付けなかったジェラルドが、()()メリッサを伴って現れたのだ。

 ジェラルドの隣に立つメリッサは以前と違い、上品なドレスを身にまとい、悪女らしさは鳴りを潜め、凛とした佇まいでそこにいた。



 ────そして。



「メリッサ……! 久しぶりね。侯爵家でご迷惑をおかけしたりしていない? 私、ずっと心配していたのよ」


 真っ先に声をかけてきたのが、義姉のキャリーである。眉尻を下げ、上目遣いでこちらを窺うその様子は、言葉通り心から心配で仕方なかったという姉そのものだ。

 多くの男性を虜にするそんなキャリーを前にしても、ジェラルドは冷たい表情のまま、メリッサのかわりに答えた。


 

「メリッサは僕の婚約者として不足ない」 

「そうですか、良かった……!」


 ジェラルドの言葉に、キャリーはぱっと花が咲くような笑みを見せる。

 しかしその隣のメリッサを一瞥すると、一転して声を落とし、そっと囁いた。


「でも、ジェラルド様。メリッサはちょうど良かったのかもしれませんが、ジェラルド様ほどのお方でしたら、相手は慎重に選んだ方がよろしいかと思うのです。学園での噂、ご存知でしょう? 別の意味で煩わしいことに巻き込まれないとも言い切れませんわ」



 キャリーも馬鹿ではない。

 これまで接点のなかったジェラルドとメリッサの突然の婚約。その意味を、正しく理解していた。 


 不安にかられるメリッサとは裏腹に、ジェラルドは顔色ひとつ変えない。守ってやるとの言葉通り、メリッサを庇うように立ち、キャリーを見下ろした。


「先程も言った通り、メリッサに不足はない」


 

 キャリーが驚きを隠せずに目を見張った。

 悔しそうに顔を歪めたが、それはほんの一瞬だった。

 

「ジェラルド様は、騙されていらっしゃるんです!」


 突然、キャリーが大きな声を上げる。

 ただでさえ目立っていたのに、一気に周囲の視線が集まった。


「イーストン子爵家の恥になるからと、ずっとはっきりと明言することは避けてきました。けれど私も次期子爵夫人として、侯爵家にとって不利益となるであろうことを、これ以上黙ってはいられません! メリッサには……本当に、手を焼いてきたのです。陰湿な嫌がらせを何度も受けました!」


 

 これまでの苦労を窺わせるように涙を潤ませ、必死に訴えるキャリーに、周囲は同情的な目を向けている。

 家の恥を晒してでも、ジェラルドを止めようとしているなんて、健気で正直者だと。


 表情や声音で、キャリーは巧みに人の心を惹き付け、味方にしてしまう。


 

 対してメリッサは平静を装ってキャリーを見遣り、首を傾げた。

  

「何のことをおっしゃっているのかわかりません。私が一体、何をしたというんです?」 


「やめるんだ、メリッサ。君のしたことは、皆が知るところだ。俺も君に嘘をつかれ、強引に迫られたことはもう、水に流そうと思っている」


 口を挟んだのは、キャリーの隣に立っていたゲイルだ。

 あくまでも、メリッサのこれまでの噂が全て真実であると言いたげに被害者を装っている。

 

 メリッサは思わずゲイルを睨みつけた。怒りのままに口を開こうとしたところを、ジェラルドが手で制した。


 

「不思議なことを言う。それが本当なら、これは何だ」


 そう言いながらジェラルドが懐から取り出したのは、ゲイルからメリッサへ送られた何通もの手紙。そのどれもに、メリッサへの口説き文句が綴られている。

 メリッサがいつかの為にと取っておいたものではあるが、守ってやると言われたあの日、ジェラルドに預けてあった。

 決定的な証拠であっても、メリッサが一人で突きつけたとしたら、きっと捏造だと笑って破られていたことだろう。

 

 ジェラルドが提示した。そのことに意味があるのだ。

 

 

「内容を見る限り、ずいぶんと熱心にメリッサを口説いていたようだが。どちらが迫っていたかなど明白だ。嘘をついているのは、君の方だろう? ゲイル・ロッシュ」


 ジェラルドの低い声が響いて、がらりと空気が変わった。

 

 途端に顔色を悪くし、いや、違う、と小さく呟くゲイルを、ジェラルドは氷のように冷たく鋭い瞳で睨みつけている。


 周囲からも疑いの目を向けられ、ゲイルが縋るようにキャリーへと視線をうつした、その時。


 

「そんな……! ゲイル、酷いわ! 信じていたのに、メリッサと一緒になって、私のことを愚かだと笑っていたの!?」


 目にうっすらと涙を浮かべ、キャリーが声を震わせた。


 知っていて黙認していたくせに、キャリーはあっさりと保身のためにゲイルを切り捨てたのだ。自分だけは純真無垢であるように振る舞い、更にはメリッサの名を落とすことにも抜かりない。


 キャリーに一斉に哀れみの目が向けられる中、ジェラルドだけがただ一人、不機嫌そうに片眉を上げた。


  

「キャリー・イーストン。君は本当に、人の心を掴むのがうまいな。学園在学時、僕と恋仲であるように振舞ったり、そういう噂を故意に流していたのも君だろう。あの頃は、ちょうど他の令嬢が寄ってこなくなって都合が良かったから放っておいた。だが、僕の婚約者を貶めるのなら容赦はしない」 


 キャリーがびくりと肩を震わせ、怯えた目でジェラルドを見上げる。痛ましく庇護欲をそそるそんな仕草にも、ジェラルドは一切動じることなく続けた。

 

「メリッサはイーストン子爵家で貴族令嬢としての世話もまともにされず、ただ道具として扱われ、虐げられてきた。その上君たちに謂れのない非難を受け、悪女という汚名を着せられた。そのことについて、謝罪する意思は?」

 

「まさか、誤解です……! メリッサが何を吹き込んだのかわかりませんが、そんな事実はありませんわ!」

 

「元イーストン子爵家の元使用人複数人から証言はとれている。僕が証拠もなく、公の場でこんな発言をするはずがないだろう。メリッサに対する暴言、暴力はあまりに悪質だ。決して許されることではない」


 冷たく言い放ったジェラルドに対し、人だかりの中から飛び出して来たイーストン子爵が真っ赤な顔で言い募った。 

 

「ジェラルド様! いくら侯爵家のご子息といえど、よその家庭のことに口出しするなど……!」

 


 しかしそこへ突然現れた人物によって、イーストン子爵の言葉は遮られた。 

 

 

「今日は私のための祝いの集まりのはずだけど、この騒ぎは何かな?」


 声の主は本日の主役、王太子殿下だ。

 まさかのタイミングでの登場に誰もが驚きに動きを止め、声を失う。

 会場内はしんと静まり返った。

 


「話は大体聞かせてもらったけれど。こんな騒ぎを起こすなんて、ジェラルド。いくら友人といえど、誕生日祝いとしては君のセンスを疑わざるを得ないよ」


 口調こそ柔らかいが、ジェラルドを咎めるような内容。

 ジェラルド本人は表情を変えないが、周囲には一様に緊張が走る。


  

 睨み合うように向かい合っていた二人だったが、しばらくすると王太子殿下はすっとその視線をイーストン子爵へと向けた。

 

「とは言えジェラルドの言うことが本当だとして、私が耳にした限りでは、イーストン子爵の行いは看過し難い。子爵家に迎え入れた以上、メリッサ嬢をきちんと貴族令嬢として扱わず、まして虐げるなんて、貴族としては恥ずべき行為だ」


 水を向けられ、イーストン子爵は言い訳もできずに呆然としている。

  

「同時にこの場でそれを告発したからには、万一その内容が虚偽であった場合は、それ相応の責任をとる覚悟は、もちろんあるんだね? ジェラルド」

「無論です」


 ジェラルドが即答すると、王太子殿下は満足そうに頷く。


「わかった。この件に関しては私が預かろう。改めて私が主導して調査する。真実は、すぐに明らかになるだろう。それまでジェラルド、君が責任を持ってオーティス侯爵家でメリッサ嬢を保護するように」



 ジェラルドが頭を垂れる。

 イーストン子爵夫妻は蒼白となっていた。


 王族の調査となれば、誤魔化しなどきかない。想定外に大事になってしまい、もう後戻りはできない。

 

 殿下が厳しい言葉で言及したこともあり、あちこちからイーストン家を非難する囁きが漏れ聞こえてくる。いつの間にか音楽も止んだ会場内に、さざ波のように広がっていく。

 

 

 重苦しい空気感の中で、震えながら成り行きを見守っていたキャリーが、わっと両手で顔を覆い泣き崩れた。


「こんなことって……! 知らなかったのよ! 私は本当に、メリッサを妹として大切に思っていたのに……!」


 

 悲愴なその姿は、とても義妹を虐めていたようには見えない。

 例えイーストン子爵夫妻がメリッサを不当に扱っていたとしても、キャリーだけはそうではなかったのではないか。……そう思わせるには十分だった。


 憐憫の視線を一身に受け、涙を零すキャリーは今にも壊れそうで、誰も触れられない。

 見かねた王太子殿下が、手を貸し助け起こそうとした。  


 ────その時。


 

「お義姉様。顔を上げてください」

 

 メリッサがキャリーの前に立つ。

 凛とした佇まいに、これまで何を言われようとも毅然とし、黙って耐え続けた強さとひたむきさを滲ませて。

 

 そして腰を落とし、キャリーの耳元で囁いた。


 

「今あんたの手の中に残っているのは何? 浮気者の婚約者と評判の悪い子爵家だけ。……本当にいい気味、この性悪が」



 途端に、キャリーの顔が真っ赤に染まる。怒りのままに手を振りあげて、メリッサの顔を思い切りひっぱたいた。



「メリッサ! 大丈夫か?」


 悲鳴を上げて倒れ込んだメリッサを、慌てて駆け寄ったジェラルドが助け起こした。


 大きなどよめきが起こり、会場内が騒然となる。

 清純なイメージのキャリーが手を上げるなど、誰も予想していなかった。メリッサが虐げられていたという話が、一気に現実味を帯びる。

 

 我に返ったキャリーが青い顔をしているが、もう遅い。

 


 ────思った通り。

 キャリーの立ち回りはうまいが、案外気が短い。反抗もできない弱者だと見下していたメリッサが挑発すれば、手が出ると思ったのだ。やはり、あの義母と親子なだけある。


 ジェラルドにしてもそうだ。

 女慣れしていないだけあって、勝気なメリッサが弱さを見せれば、助けてやらねばならない、と妙な責任感を発揮すると思った。

 思惑通り、何も言わずともメリッサの悪い噂を跳ね除け、イーストン子爵家とゲイルの裏の顔を明らかにし、その名を失墜させてくれた。社交界での評価が底辺となった貴族の未来は暗い。

 貴族という生き物は、信用と面子を何より重視すると知っている。

 


 何もかも、狙い通り。今度はメリッサが、利用する側に回ったのだ。


 もちろん、メリッサはこの程度では満足しない。今夜のことはまだ序の口。徹底的にイーストン家を追い込んで、没落させてやりたい。そしてジェラルドを味方につけておけば、それは可能だろう。

 

 

 メリッサはジェラルドの腕の中に庇われながら、ひっそりと口元を緩ませた。 



  


 ◇


  


 メリッサとジェラルドは、その後すぐに会場を後にした。


 王太子殿下にその旨を伝え謝罪したところ、

「短慮で自分本位な行いの詫びだ」

と返事が返ってきた。


 どうやら今夜のことはジェラルドから話が通っていたらしい。あのやり取りも、予定調和。

 ……が、そんなに仲が良かったなんて、先に言っておいて欲しかったし、勝手に悪口を本人に伝えないで欲しかった。肝が冷えたどころの騒ぎではない。



 ────そして。

 いつかの夜と同じように、メリッサとジェラルドは侯爵家の馬車内で向かい合っていた。

  


「ありがとうございます、ジェラルド様」


 キャリーにぶたれた頬に手を添え、しおらしく礼を言ったメリッサに、ジェラルドは呆れたようにため息をついた。


「いつまで猫を被っているつもりだ? 君はそんなに慎ましい女性ではないだろう。僕は君の思い通りに動き、期待に応えるだけの働きはしたか?」



 メリッサは手を下ろし、肩をすくめた。キャリーの張り手は大した威力でもなかったし、予測できていたから軽くかわしていた。

 

 ジェラルドを騙したつもりでいたが、見透かされていたなんて不本意極まりない。

 


「もしかして、利用されているとわかっていて、私の復讐に手を貸してくださったんですか?」


「素直に助けてくれと言えば動いてやるのに、君は回りくどいことをする」


「あなたに頭を下げるのは、二度とごめんですから。それで? あなたに何の得があって、こんなことを?」


「このまま君と結婚してもいいと思っている。君はなかなか、悪くない。悪評は早めに払拭しておいた方が侯爵家のためになる」


「あなたを都合良く使おうとした私と? 悪趣味としか言い様がありませんが、あれだけ騒ぎになったので、その方がこちらとしても助かります。では契約書に、新たに白い結婚についての条件を記載してくださいませ」


「…………白い? その文言を盛り込むつもりはない」


 さすがにメリッサも目を瞬いた。白くない結婚とは何だというのか。

 


「それは、ただ普通の結婚ですよ?」


「そのつもりだ。報酬は、侯爵夫人としての安定した人生だ。悪くないだろう」


 相変わらず尊大で偉そうに、ジェラルドはそう言い切る。メリッサが断るはずがない、自分が求婚すれば誰もが喜ぶとでも思っているのか。

 冗談じゃない。



「ジェラルド様。私に心惹かれたというのなら、愛を囁いて結婚してと懇願してくださいな」


「……僕が? 君に? 心惹かれたと?」

 

「だって、そうでしょう? 正式に夫婦になりたいとおっしゃるんですから」


 そう笑ってみせると、ジェラルドは苦悩するように考え込んでしまった。

 

 長い沈黙の後、ようやく絞り出すように口にする。


「……君のその気の強いところ、芯の強さや逞しさは好ましいと思っている」

「口説き文句としてはいまいちですね。その程度の言葉で簡単に靡くと思われているなら心外です」

 


「………………。君を、愛してしまったようだ。結婚してくれ」


 


 羞恥と屈辱に耐えるように、ジェラルドの顔が歪んでいる。眉間に深い皺が刻まれ、目元が薄らと赤く染まる。


 その表情を目に映し、メリッサの心臓が高鳴った。

 太鼓のように激しい動悸と、頬に集まる熱。歓喜と興奮、そんな感情の洪水に飲まれそうになる。


 

 なんと気分のいいことか。権力を笠に、常に偉そうにしていたあのジェラルドが、メリッサに懇願している。

 守ってやるなんて上から目線のセリフを、優しさのつもりで口にしてきたあの時は、屈辱で思わず震えた。

 その彼に、今メリッサは同じ思いを抱かせている。


 あんなにも憎らしかったこの男が、メリッサの手のひらで転がされていると思ったら、いっそ愛らしくて仕方がない。

 ここで安易に頷いてやるなど到底できないが、ジェラルドのことは手放し難い。まだまだ利用する価値はあるし、この顔を何度だって見たい。


 

 ジェラルドの表情を堪能するようにたっぷりと間をあけて、ようやくメリッサは口を開いた。 


 

「まずは約束通り、私が王宮事務官になれるように尽くしてくださいませんと。合格した暁には、改めて考えて差し上げます」



 返事を聞いて、ジェラルドは途方に暮れたように押し黙った。迷子の幼子のように頼りないその顔が、どうしようもなくぞくぞくする。


 

 ────この感情を何と呼ぶのか、メリッサは知らない。


 溢れる高揚感のままに、メリッサはうっそりと笑みを零した。

 

 


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