生きる理由
「帝国までは馬車で三日かかるし、明日には移動しよっか。あんまりのんびりしてると追っ手が来るかも知れない」
サラが出した結論に、他の四人が頷いた。
最短距離を行けば明日には国境に着けるが、大体の国境には騎士団の駐留場がある。あまり事を荒立てて、早い段階でガリバーやリガレアに気付かれては高飛びのメリットが半減しかねない。
だから、リン達はガリバー帝国とリガレア王国の国境上にある『レストピア山脈』を目指すことにした。
ここには危険な害獣が数多く存在し、リガレア王国の『指定危険区域』にもされている。物理的にその全てを監視することは出来ず、常駐も不可能だ。
ガリバー帝国に入国するのなら、ここから入るのが一番見つかりにくい。シーナを除く四人で話し合い、そう結論付けた。
「そんなら、俺先に寝ちゃってもいい?」
「いいですよ。初めは私が見張っていますから」
「そんじゃ、うちも寝よっかな。リンは?」
「俺は……もう少し起きてるよ。シーナはどうする?」
「私も、まだあんまり眠くないの。一緒に起きててもいい?」
「ん。了解」
そうして、サラとライルは荷台に入り、その場に残ったリン、シオン、シーナの三人で焚き火を囲む。
何となく、誰も口を開かずに黙り込み、無言の時が続いた。
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静寂の中に火が燃える音だけが混ざり、数時間前までの喧騒が嘘のように遠い。
(――いや、本当に嘘だったんじゃないかな)
ゆっくりと進む時間の中、今更ながらに実感してきた非現実的な現実に、リンは一人そう思う。
まさか、自分が国を追われる身になるなどと、今朝までは思っていなかった。
それが、今日だけでリンの人生は大幅に変わり、今は犯罪者として他国に不法入国までしようとする始末。全部夢だったと言われれば信じてしまうような、波瀾万丈を詰め込んだ一日だ。
今までの人生を思い返してみても、これほどに色濃い一日は――
(………結構ある)
人が普通に生活していれば、まず経験することがないような体験が、リンは一瞬のうちにいくつも脳内を駆け巡った。
冒険者と騎士、危険と隣り合わせの職業であることを加味しても、ここまで落ち着かない人生はトップクラスの冒険者と遜色ないだろうと思えるほどだ。
そんな自身の誇っていいのか判断に困る記憶の中で、色々な出会いがあったことを思い出し、自然と眉が下がる。
もしかしたら、その人達とはもう会えないかもしれない。そんな一抹の不安と寂寥が胸中に渦巻き、今後のことに視野を広げようとした、そんな時――
「ねえ、リン」
隣から聞こえたのは、シーナがリンに問いかける声だ。俯いているため表情は見えないが、それでも、その声があまり明るくなかったことは分かる。
「うん? どうした?」
「…………その……」
思考を切り替えたリンが、自身の声が暗くならないよう気にしながら返事をした。だが、シーナは地面を見ながら一度口を閉じ、その先を話そうか迷う素振りを見せる。
「……言いにくいなら、ゆっくりでいいよ」
シーナの覚悟が決まるまで、リンは向かいに座るシオンに目配せをし、静かに待つことを選択。それに了承の意を示し、シオンは成り行きを見守る構え。
迷った末に、シーナは一度目の前の火に目を向ける。朧げにゆらめく、形の定まらない火に照らされているからか、シーナの顔が消えそうなほどに儚く見えた。
「………私は、生きてていいのかな?」
「――――――」
シーナの問いに、一瞬、リンの中から言葉が消える。
ただそれは、子供にこんなことを言わせる世界が許せないだとか、生きてていいに決まっているだとか、そんなことを考えたわけじゃなかった。
咄嗟に励ましの言葉を言えなかった自分が正しいのかは不明だが、リンが少しの沈黙の間に考えたことは――いや、考えるより先に、懐かしさすら覚えて思い出したことは、
『何で俺なんかが生きてんだよ!?』
自分が放った、忘れ難い言葉の一つだった。
(………やっぱり、似てるなぁ)
シーナの目からは、自身の生への疑問がありありと伝わってきた。普通の人なら、優しく励ます場面であることはリンも分かってる。
ただ、リンはそれが正解だとはどうしても思えない。
『当たり前だろ』と、言って欲しいわけじゃない。
そう、自身の経験が言っている。
リン一人が肯定したところで、他の全ての人が否定するのなら、それは間違っていることと同じだ。ルジャではあれだけの人が、シーナを否定した。
生きていることを望まれてないと、考えてしまうのは自然のことだろう。
だから、
「俺は、シーナが死んだら悲しいよ」
確かにここに、シーナに生きていて欲しいと、そう思っている者がいることを伝えた。
シーナの瞳が、リンを捉える。本来なら綺麗な空を思わせる瞳が、今は酷く濁って見えた。
この小さな少女に与えられる試練は、あまりにも残酷なものだ。それに押し潰されそうになるのも、理解できる。
ただ、誰が何と言おうと、シーナを否定するもの全てを、リンは否定する。シーナが、謂れのない罪を被っていることを、リンは知っているから。
「それに、生きるのが良いか悪いかなんて、人に言われて決めるものじゃない。大事なのはその生き方と、生きる理由、かな」
「………理由?」
「うん。これがしたいだとか、あれがしたいだとか。それは、将来の夢であったり、目標であったり、希望であったり。何でもいいよ。シーナがしたいことなら何でも」
人が生きるうえで大切にすることは、それぞれ異なる。できる限り家族との時間を過ごす人もいれば、人生を懸けて強さを求めるような人もいる。
時に、その道に囚われすぎてしまう人もいるが、子供達がそうならないように注意するのは大人の仕事だ。
だが、それを伝えても、シーナの表情は晴れない。
「………でもっ、私には、そんなの一つも――」
「シーナ」
尚も自罰的な話をしようとするシーナに、リンが待ったをかけた。
自己を見つめるのはいいことだが、時と場合によってはしない方がいい時もある。今のシーナの状態では、どう転んでも悪い方向に話が進んでしまう。
話を遮ったリンは、言葉の代わりに視線を上に向ける。怪訝な顔をしたシーナも、それにならって空を見上げた。
「――――わぁ」
そこに広がっていたのは、無数の光が散りばめられた星空だ。
アリスと見た空にも負けない満天の星。その光景は見るものを優しく圧倒し、一度気付けば何度でも見てしまう不思議な引力を持っている。
「こーゆう場所で見る空は、星がよく見えるんだよ。知らなかった?」
「うん。………空を見上げることって、あんまりなかったから」
新しい知識に、シーナの瞳が輝きを取り戻す。無邪気に綺麗な空を眺めるその横顔は、どう見ても年頃の女の子でしかない。
「こんなに綺麗な空を見たの、初めて」
感嘆の声を漏らし、夢中で空を眺めるシーナ。その様子に、リンはにっと笑い、
「そっか。じゃあこれを、シーナの生きる理由にしようよ」
「………え?」
思ってもみなかったと、見開かれた瞳が語っている。それに視線を真っ直ぐ返して、リンが問いかけた。
「今、綺麗だって言ったろ? こんな景色をたくさん見ること。それが、シーナが生きる理由にしない?」
自身の存在を否定するようなことは、きっと誰にでもある。ただ、その気持ちが大きくなりすぎた時、縋れる何かを持つことで、その人の助けになってくれることもあるだろう。
「………そんなことで、いいの?」
「いいんだよ、今は難しく考えなくても。綺麗な景色が見たいとか、誰かと一緒にいたいとか、そんな小さな理由でいい。生きる理由を探すことも、ちゃんと生きる理由だよ」
生きる理由だなんて大層な言葉の枠に、そんな小さな願望を当てはめて笑うリンは、シーナの頭を一度撫でる。
そこで、気を緩めていたリンに、シーナが投げかけた問いは、
「………リンにも、生きる理由があるの?」
「――――」
シーナの疑問に、一度押し黙ったリンの葛藤は、恐らく瞬間的に顔を歪めたシオンですら計り知れない。
色々な出来事、感情が胸の中で駆け巡り、最終的に行き着いた記憶を、シーナと出会った時の出来事で上書きした。
「もちろん。とりあえず今は、シーナを一人にしないことが、俺の生きる理由かな」
同情はある。共感もある。だが、何より、リンには約束がある。
だから、シーナに関係のないことは頭の片隅に追いやり、言うべきことだけを選んでいく。地平線のど真ん中、地獄のような戦場を尻目に、シーナと交わした言葉は今も忘れていない。
だから、世界が敵に回ろうと、リンだけは、それに唾を吐いてでも何度だって言ってやるのだ。
リン・アルテミスは、何があってもシーナの味方だと。
「………そ、そっか……………うへへっ」
リンの返答を聞き、シーナは固くなっていた頬を緩めた。少なくとも、その顔には無理をしている様子はない。屈託のないと言えるほどではないが、それでも、心から笑えている。それに安堵したリンはシオンと目を合わせ、こちらも笑みを浮かべた。
「じ、じゃあさ………」
そこで、シーナはリンから視線を外し、火に向き直る。だが、言葉の行先は当然リンであり、シーナはチラチラとリンの様子を伺いながら、頬を少し朱色に染めて両手の指を絡める。
恥ずかしそうにしながら、なかなか言葉が出てこないシーナに、リンとシオンは首を傾げる。何事かと思いながら待っていると、意を決したシーナが、膝の上で拳を握り締めながら、
「………今日、隣で寝てもいい?」
「えっ!?」
「ああ、そのくらい全然いいよ」
「んえっ!?」
シーナの提案に、拍子抜けしたリンが肯定で応える。すると、正面でそれを聞いていたシオンから驚愕の声が響いた。
「に、兄さん………その、それはっ…………あまり、よろしくないのでは?」
「え? 何が?」
歯切れの悪いシオンに、リンは訝しむような目を向ける。当の本人は、シーナと同じように赤面しながら、
「異性との同衾など、褒められたことではないでしょうし……」
「同衾て、シーナはまだ子供だぞ? それに、シオンとも一緒に寝たことあるよな」
「私は妹だからいいんです」
オドオドしながら話していたシオンが、そこだけはキッパリと言い放ち、途端に誇りすら感じさせる佇まいへと変わる。
その変わりようにリンは驚きながらも、シーナのお願いを無下にするわけにもいかず、結局その日は、シオンとシーナに挟まれる形を妥協点としたのだった。




