対等
《九鬼》襲来。その情報は、瞬く間にルジャの人々を震撼させた。
《月華の銀輪》が来た時の熱狂を上回る悲壮と恐怖が渦巻き、避難の準備を始める者、泣き出す者、死を覚悟する者まで現れ、疲弊していた騎士団が総動員で対応しても収集がつかない事態だ。
だが、辛うじて都市としての体裁を保てているのは、この都市には希望となる冒険者パーティーが常駐していることと、その内の一人が《九鬼》の構成員二人を捕えたという事実が人々の心を繋ぎ止めたからだ。《月華の銀輪》がいなければ、とっくにこの都市は機能不全に陥っていたことだろう。
希望と絶望が入り混じるルジャの喧騒は、暫く止みそうにない。
そんな混沌とした都市の空気を他所に、リンはある病室の前で立ち尽くしていた。手には見舞いの品として果物の盛り合わせを持ち、何処か落胆を隠せないような面持ちで拳を握る。
「……………よし」
一呼吸置いて、入り口の扉をノック――しようとして、その手が扉に届く前に下ろされる。これを何度も繰り返すうちに、気付けば数分が経っていた。
覚悟の決まらないリンの右手は意味のない往復を続けるだけで、その先に進む勇気をどうしても持てない。
埒が開かないと、今までで一番の深呼吸をして、今度こそと覚悟を決めてノック――
「どうぞー」
「〜〜〜〜っ!?」
しようとしたところで、中から聞こえた声に驚き、あれだけ叩けなかった扉を必要以上に強く殴りつけた反動で拳に激痛が走った。
そこでようやく、中にいる人物が人の気配を感じ取れることに気がつき、観念したリンが重々しく扉を開く。
「………サ、サラ」
「何やってんの、あんたは」
そこには、心底呆れたような顔をした幼馴染が、ベッドで横になっている姿があった。
********
ここの病院は、ルジャの壁外で負傷した騎士団の面々を受け入れた場所だ。初めこそ病室もベッドも足りないと言われていたが、その時に比べればだいぶ落ち着いてきた。広々とした病室には他の患者は居らず、落ち着ける反面、一人では持て余して寂寥を感じるような空間だ。
「あの子はどうなったの?」
「あれから、まだ目を覚ましてない。医者が言うには、無理に魔法を発動した結果だって言ってた。………怪我の具合はどう?」
「順調そのものって感じ。あんな奴らにここまでやられたのは屈辱だけど」
「………そっか」
何でもないことのようにそう話すサラは、一見すればその通りにも見える様子なのだが、言葉をそのまま鵜呑みにはできない。
実際には骨が折れ、内臓を損傷するほどの大怪我だったと聞く。まして、その状態でどれだけ無茶な動きをしたのか、現場で見ていたリン以外に話しても信じてはもらえないだろう。
そして同時に、そんなサラに戦わせることしかできなかった自分自身を、リンは許せていない。
「…………サラ。何も言わないの?」
「ん? 何が?」
「俺が、戦わなかったこと」
口に出してから、後悔する。ここでその話をしたところで何になる。意味がないことなど分かった上で、どうしても自分の中に押し留めておけなかった。自分が楽になりたいがためにそう話してしまう、己の醜悪さに反吐が出る思いだ。
「バカ。それはうちが止めたんじゃん。言ったでしょ? 適材適所だって」
「……けどそれは、俺が弱いからだろ? はっきり言ってくれた方が、助かる」
何もできなかった。何一つ、戦場でリンは役に立つことができなかった。
敵の分析をしていただとか、次に繋げるためだとか、そんな言い訳すらもできない。重傷を負ったサラが懸命に戦っている中で、リンはそれを眺めていることしかできなかったのだから。
それでもサラは、絶対にリンを貶めない。それは優しさ故なのだろうが、時にはそれがリンの心に影を落とすこともある。
優しくされるだけの価値が、自身にあるとはとても思えない。
「……………」
リンからの言葉を聞いて、サラが一度沈黙する。だが、顔を伏せるリンから、サラの表情は伺えない。
今まで聞けなかった場所まで踏み込んでいる自覚はある。次のサラの反応次第では、リンとの関係も変わってしまうかもしれない。それが恐ろしくもあるが、足手纏いの自分を庇い続け、そのうち取り返しのつかない状況になるよりずっとマシだ。
いっそ、ここで切り捨ててくれとすら――
「リンさぁ、覚えてる? ジール山でのこと」
「………え?」
「そこに二人で、迷い込んだことあったじゃん」
だが、覚悟していた台詞の代わりに、サラは昔話を始めた。
ジール山。それは、リン達が故郷にいた時、絶対に入ってはいけない場所として、親に言われていた場所だった。
「いや、覚えてるけど、何の話?」
「さっき、戦わなかったことを何で話さないか聞いたよね。あんたのその無力感は、うちのが早く経験してるって話」
よく覚えている。幼かったリンにとって、サラを探しにその山に入ったことは、人生で最初の大冒険だったのだから。
「あの時は、うちが足手纏いだった。それでも、リンはうちのこと見捨てなかったでしょ? その時、リンはうちのこと邪魔だと思ってた?」
「いや、そんなわけないだろ」
「じゃあ、分かってよ。その時言ったあんたの言葉と、今の状況矛盾してるよ?」
懐かしむように笑うサラが、大切なものを入れた宝箱を開くように、感慨を込めて告げた言葉。
重なる。過去の自分と。
「リンがどれだけ頼んでも、うちはリンを見捨てない。あんたは、うちの大切な人だから」
『サラがどれだけ頼んでも、俺はサラを見捨てない。お前は、俺の大切な人だから』
「――――」
覚えてる。まだ、リンが英雄という幻想を抱いていた頃、サラを守ろうと必死で、自棄になりそうだった彼女を繋ぎ止めようとした言葉だ。
その時の方が、今の自分より勇敢だったかもしれない。
何にでもなれると信じて、何かになろうとしていた『リン・アルテミス』が、今のリンには眩しくすら思える。
その自分に助けられたと、そう話すサラは、少し誇らしげな表情でリンを見た。
「うちは、あんたを弱いだなんて思ったことないよ。むしろ、ようやく対等になれた気がする」
「………買い被りすぎだよ」
全くもって、買い被りだ。勿体無い言葉なんてことを本気で思った。
サラ・ローレンと対等だなんて、三等騎士にしかなれなかった自分とはむしろ対極の表現だろう。
(………ああ、嫌だな)
自身への卑下が止まらない。自信のなさが負の感情を招き、周りの光が強すぎて自分の影が余計に際立つようだ。
思えば今までの人生で、胸を張って人のためになれたと言えることが何度あっただろう。
そんな自分に失望して、大言を吐くことをしなくなったのはいつからだろう。
"あの時"だって――
「リン」
「――――え?」
沈んだ思考がその根底に達した時、サラの右腕が伸びたかと思えば、次の瞬間、リンの頬を持ち上げ、自身に目線を合わせた。
「………サラ?」
「そのことはもう、思い出さないで」
泣きそうなほど切実に、サラはリンにそう告げる。
考えを見透かされたことより、サラのその様子に驚いた。普段の傲岸不遜な態度は見る影もなく、何かを恐れるように、リンを見つめる瞳と、頬に触れる手が震えていた。
いや、"何か"じゃない。その恐怖の理由を、リンは知っている。
「――ごめん」
「リンのせいじゃない。――リンがいなかったら、うちらはとっくに………」
共有する悪夢が、二人の心を蝕む。決壊しないように、サラは手に込める力を少し強めた。その姿は、まるでリンの存在を確かめるようにしているようにも感じられる。
一度無くしたものがここにあるのだと、確かめているように。
「……………悪い、暗い話にしちゃったな。退院したら、何かしたいことあるか?」
そんな空気を変えるために、リンはできるだけ明るい話題を振る。
幸か不幸か、今回の一件で九鬼の関与は決定的になった。今頃、リガレア王国の上層部は泡を食って対処に追われているはずだ。
この先、まだどんな判断が下されるかは不明だが、一つ確かなのは、これからこのルジャという都市にリガレア王国の強力な魔導士達が集結するであろうこと。
騎士団、冒険者問わず、集結できる戦力は集められるだけ集まり、それぞれが警戒にあたる。サラ達の負担も軽減されるだろう。少なくとも、退院直後に動員されるようなことはないはずだ。
「……………そ、それって、二人で行くの?」
途端に、戸惑うような声でそう問われたリンは、サラの真意を測りかねる。
今まで交わっていた視線は外され、今度は逆に、下を向くサラの表情が伺えない。声は少し震えているものの、今までの悲壮感とはまた別のものだとは思う。
「ん? まあ、その日次第って感じだけど。……ああ、じゃあシオン達も呼んで――」
「ふ、二人でいい! ………二人が、いい」
気遣うリンの言葉に被せるように、顔を真っ赤にしたサラが叫ぶように話す。
驚くリンの目の前で、伏し目がちだった瞳が持ち上げられ、淡く濡れた宝石がリンに輝きを向ける。
明らかに上がった熱に射抜かれた心臓から、全身が熱くなるのを感じたリンもつられるように頬が赤くなっていくのを感じた。
「あ……っと………そ、それじゃあ、行きたいところとか……」
「………うん。その…………オシャレなレストランとか、連れてってよ」
「ん。調べとくよ」
「…………」
「…………」
何を言っていいか分からず、沈黙がその場に落ちる。よく知るはずの少女の、知らない一面に戸惑いが隠せない。体中を巡る血が音を立てているようにすら感じる。
静かなことを気まずく思うのは、サラが相手だと随分久しぶりな気分だ。
そんな中、外から聞こえる足音が病室の前で止まったかと思えば、ノックの後である女性が入ってきた。
「失礼します。リン・アルテミスさん。少しよろしいですか?」
「あれ? アイランさん」
アイランは、この病院でリンが最もやり取りをしている人物だ。新緑の髪を伸ばし、眼鏡の奥に見えるパッチリとした瞳の中に赤い雫を閉じ込めた美人。
そして何より、リンとの接点といえば――
「あの子が目を覚ましたので、それを伝えに来ました」
アイランは、倒れたシーナを見てくれている医師でもある。白衣を纏い、丁寧な物腰でそう伝えたアイランの言葉に少し驚き、頷く。
あの戦いの後、シーナは気を失ったままだった。もしかしたらしばらく起きないかもしれないと不安はあったが、思っていたより早く話せることは間違いなくリンにとって朗報だ。
「………じゃあ、シーナの様子見てくる。また来るよ」
会話のない時間を打ち切り、リンは椅子から立ち上がってサラにそう告げる。
アイランがリンを訪ねてきた時点である程度察していたが、実際にシーナが起きたと聞いて一安心。だが、あの時に無理をした後遺症がないとは言い切れない。
アイランの様子から見れば大丈夫だとは思うが、シーナが使ったのは『幻界魔導』だ。まだ解明されていないこともあるし、一番見てきたリンにしか分からない違和感もあるかも知れない。
少し逸る気持ちを抑え、病室を後にしようとするリン。その背中に、
「――リン」
「ん?」
足を止めて、呼ばれたリンが振り返ると、サラは一度落ち着いたはずの紅潮を再度繰り返し、
「――た、楽しみにしてるね」
「――――っ!」
そう、はにかんだ笑みを浮かべながら伝えた。
「――――ぁ………う、うん」
何かを返そうとして、それでも何も浮かばなかったリンの、小さな返答が最後の会話になった。
早鐘を訴える心臓を押さえ込んで、情けない顔をしているであろう今を見られまいと病室を出る。だが、そこで気力を使い果たしたリンは一度立ち止まり、色々なものを整える時間を作る。まずは呼吸、次いで動悸、そして紅潮と、少しずつ正常に戻していった。
「――――」
「な、何ですか?」
そんなリンを、ここにいるもう一人の人物が笑みを隠しきれない様子で見つめる。
「いいえぇ。青春だなぁと思いまして?」
「んなっ!?」
せっかく落ち着かせていた顔を余計に真っ赤にしたリンに、アイランは笑みを深めるのだった。
********
「ぶはあっ!」
リンが病室を出たのを確認して、サラは大きく口と肺を動かす。息を止めていたわけでもないのに、身体が呼吸を求めて仕方がない。
「だ、大丈夫だよね? 変じゃなかったよね?」
自己暗示のようにも聞こえることを言いながら部屋を見渡すが、鏡がないので満足に確認もできない。
極力平静を装ったつもりではあっても、装えていたとは思えない。自身の顔が人を惹きつけるものだとある程度自覚のあるサラだが、そのポテンシャルを最大限に発揮したい相手へと向けるのが一番難しいというのは流石に文句を言いたくなる。
ただ、
「………ひひっ」
それでも、少女の顔は年相応の歪みを見せる。それは、勇気を出した自身への称賛も確かに含んだ、無邪気で小さな喝采だった。




