幼馴染
「シーナ!? おいどうした! シーナ!!」
「嫌っ! やだっっ!! 許しっ、許して!! やだあ!!!」
突然響いた悲鳴。それは、朝の緩慢とした空気を切り裂き、冷たい緊張がその場に走る。
出会ってから一度も、ここまで乱れたシーナを見たことはなかった。髪を掻き乱し、眼からは大粒の涙を流しながら苦しそうに叫ぶ姿は、見ているだけで痛々しい。
問題なのは、その原因にリンの理解が届かないことだ。
今の時点で、シーナが取り乱した原因の情報は、
『突如として乱れた魔法』その一点のみ。
これだけでは何が問題なのか、どうしても想像の範囲でしか考えられない。確かめようにも、今のシーナは見るからに冷静な会話が出来るとは思えない。
――いや、
そうじゃないだろう。
「っっ! シーナ!!」
余計な雑念の一切、目の前で苦しむ少女以外の思考を放棄して、改めて向き合う。肩を掴み、少し強引に顔を上げさせると、涙で塗れた瞳と一瞬目が合った。
昨日、服を選んでいた時の楽しそうな表情とは対照的なそれは、初めて会った時の、生気を感じられない時のシーナを思い出させた。
そんな顔は二度とさせないと、あの時の誓いを破った自身への怒りが湧いてくるのを飲み込んで、
「シーナ、落ち着いて。――大丈夫。大丈夫だから」
「ひっ、……ううぅっ、やだぁ! リン、だっ、助けてっ!」
「ああ。大丈夫。絶対助けるから、だから心配しないで」
シーナの手を握り、なるべく落ち着いた語り口調を心掛けて話した。だが、無理矢理笑みを作る顔は明らかに不完全だ。口が引き攣るのを自覚しながら、それを誤魔化すように、自分の表情を相手に見せないようにシーナを抱きしめた。
(………こんな時ですら、英雄の真似事も出来ないのか)
自身の、あまりにも脆い心に絶望すら覚える。完全無欠の英雄とはいかなくても、少女一人まともに安心させられない自分はどれだけ救いようがないことか。どん底まで沈んだ気持ちは更に暗く濁り、自身が救えない少女への罪悪感は余計に深まっていく。
「……ううぅぅっ」
しばらくそのままでいると、シーナは少し落ち着きを取り戻したのか、暴れることはなくなった。
しかし、体全体の震えは継続しており、少女の胸の内が、未だに暗い感情と闘っていることを示していた。
「サラ。さっきのってどうゆうこと?」
そこで、リンは自分や周りとは唯一違う反応を見せたサラに対し、そう問いかける。
本来なら怯えるシーナのケアを優先したいところだが、皮肉にもそのシーナの様子が、リンがシーナ以外のことに意識を向ける理由になる。
だが、問いかけられたサラは、少し言いづらそうに顔を顰めた。
「………いや、うちにもよく分かんない。ただ、魔法が弾けた時、霧散した魔力が変な流れ方してた」
「流れ方?」
「うん。普通魔法が弾けたら、魔力は四方に飛び散るはずでしょ? けど、さっきのは何かに引き寄せられるように、全部あっちに流れていったんだよね。そんで今も、少しずつこの子から魔力が奪われ続けてる」
そう言って、都市の中心部の方向を見るサラに倣ってリンもそちらに視線を向ける。案の定、リンの目には建物しか入らなかったが、サラの鋭い視線は、その先に確かな何かを見据えてるようだ。
「今まで感じた事ない、変な気配がする。戦闘とかがあるわけじゃなさそうだけど、得体の知れない魔導具みたいな感じ」
「………もしかして」
「可能性はある」
シーナと群衆に配慮してあえて名前は出さなかったが、リンとサラが共通して頭を過ったのは、シーナを狙う組織の存在だ。最悪の想像に身を固くし、周囲を警戒する。
目に見える範囲では、騒ぎになったりしている様子はなかった。見渡す限りの場所で、ごく普通の生活が営まれている。
だが、だからこそリンは戦慄した。
この世界の普通とは、生活の随所で魔法を使っているという意味でもある。
遠くでは子供達が普通に魔法を使って遊んでいるし、並ぶ露店でも炎の魔法を使って料理をする様子も伺えた。
つまり、"シーナだけを狙った"可能性が高い。
(この都市に、九鬼がいるかもしれない)
だが、仮にそうならば、どうやって都市に入ったのかという疑問は残る。
入り口から入るにしても、既にソクロムが厳戒態勢を敷いているだろう。そんな中で、検問所を最も警戒されている九鬼が通れるだろうか。
何かしらの違う方法で入るにしても、今はシオンとライルが都市の外を見てくれている。それは害獣に対する措置ではあるものの、怪しい人物を見逃すとは思えない。
昨日のうちに既に都市に入っていたか、それとも――
「何にしても、一度ギルドに行った方がいいよな」
「そうなんだけど、変な気配あった場所が、ほぼギルドまでの道中なんだよね。確認しておこっか」
無難なリンの提案を聞いたサラが、もう一度都市の中心方向に目を向ける。
何でもない決定のように話されているために認識しづらいが、それは九鬼がいるかもしれない場所に、この三人だけで向かうということだ。
周りにまだ目立った混乱は見られないが、それは危険度を軽視していい理由にはならない。
「………危なくないか?」
「いや、もし本当に奴らなら尚更。今ですら後手に回ってるわけだし、何があんのか早めに知っといた方がいいでしょ」
だが、不安など微塵も感じさせない、自信に満ちた瞳は揺らがない。そして、その言葉も間違いではなかった。
リンの提案は、今この場においては安全なのだろう。だが、長い目で見た時、ここで何が起こったのか知るのを後回しにして、相手にこれ以上の時間を与える選択は、後々の危険を確実に大きくする。
確かに、サラの言う通りだ。ただ――
「……そうだな。じゃあ、まずはそこに行こう。――けど、一つ約束して」
「約束?」
サラの意見は間違いじゃない。だが、リンにはどうしても譲れないことが一つだけある。
それを言った先の展望を、リンは想像することが出来た。だが、分かった上で、リンはその譲れないことを言葉にしてサラに伝える。
「もし、サラ一人じゃ勝てないような相手がいたら、――俺が足止めしてる間に、サラはこの子を連れて逃げてくれ」
「…………あ?」
瞬間、とてつもない威圧感を込めた一言が、リンに向けられた。それは、ルジャに着いてから度々あった、《月華の銀輪》が放つ本気の怒気だ。
だが、今までリンが向かい合う相手に対して向けられていたそれは、今回、紛れもなくリン本人に向けられている。当たり前だが、受ける圧力は今までの比ではない。
そんな怒りを真正面から受けて視線を交錯させるリンも、一歩も引かない姿勢で受け止める。
「………ふざけてんの?」
「ふざけてないよ」
「じゃあ何? あんた、うちが勝てない相手に、自分一人で戦うって言ってんの?」
そのやりとりに、先程まであった気を許した相手への気遣いはない。
あるのは、相手の主張を真っ向から潰そうとする圧と怒りだ。
「サラの実力を疑ってるわけじゃない。けど、相手が相手だろ。最悪の場合は――」
「そんな事を言ってんじゃねえよ!!」
サラが地面を踏み抜き、瞬間的に周りに大きな揺れを起こした。地面は軋み、踏み抜かれた場所を中心に亀裂が入る。魔力無しで起こしたその芸当だけで、目の前の美しい少女が、一種の災害に匹敵する力を持っていることが伺えた。
苛立ちを隠そうともしないサラを見て、周りを囲んでいた人々は全員が恐怖に慄く。一人二人とその場を離れれば、後はそれに続くようにほとんどがそれぞれ元の目的地に足を動かし始めた。
だが、リンは動かない。それどころか、一番近くで一番大きな威圧を受けるリンは、一切の恐れを見せずにサラと向かい合う。
「サラ。あんまり大きい声出さないで。シーナが怯える」
「っっ!! あんったが、変な事言うからでしょ」
「だから、今は真面目に話してるって。第一に護る対象はこの子だろ」
「いい加減にして。それなら、うちを置いてあんたが逃げればいいじゃん」
「それじゃあきっと捕まる。それに、俺の戦い方は知ってるだろ? 時間稼ぎくらいなら出来るはずだ」
「知ってるよ! そんなの知ってるっ、……けどっ、あんたの魔法は………」
「今は、そんな事話してる場合じゃないだろ!」
「じゃあリンは! 立場が逆でも同じこと言えんのかよ!?」
「――っ」
一瞬、リンは言葉に詰まった。
だが、それがリンの答えなのだと、サラが分からない訳がない。その事実に、またしてもサラの感情は爆発する。
「もっと自分を大事にしてよ!!」
「――――」
悲痛に、痛烈に、痛みを伴う怒号が響く。堪えきれなくなった熱い雫は、普段滅多に濡らさない瞳の許容量を超え、サラの頬を伝った。
痛みは伝染し、涙を見た眼から、声を聞いた耳から入り込んで、リンの心を蝕んでいく。ズキズキと疼く罪悪感という傷が広がり、先程まで持っていた決意すら侵蝕して鈍らせた。
サラの言う通り、リンはサラの犠牲を絶対に受け入れない。だが、心の何処かで、リンはリンの犠牲を軽く捉えていたのも事実だ。
この国の武の象徴。《天名会》の一員であり、数々の偉業を成し遂げてきた天才魔導士のサラに比べて、騎士団に掃いて捨てるほどいる下級騎士で、いくらでも変えの効くリンの価値は低い。
そんな言い訳を免罪符にしていたが、リンがサラに死んで欲しくない理由は、もっと至極単純なこと。
リン・アルテミスにとって、サラ・ローレンの存在がそれだけ大切なものだからだ。
だから、逆の立場になったらと言われて言い淀んだ。
もし、リン・アルテミスが《天名会》に入れるほどの実力を持っていて、それでも勝てない相手を前にした時、サラを犠牲に逃げられるかと問われれば、断じて否だ。
現状を鑑みての事だと自分でも思い込んでいたが、結局は自分に都合のいい作戦でしかない。
それを踏まえて、これは最低限話さなければいけない。起こりうる事象に対し、事前に対処法を決めておくのと、無計画とでは行動に移す切り替えの早さが段違いだ。
「…………ごめん。無神経だった。けど、必要なことなんだよ。これは」
「〜〜〜っっ! もういい!」
交錯していた視線を外し、後ろを向いたサラが話を強引に終わらせる。
「サラ」
「要は、うちが負けなければいいんでしょ。あんたもその子も、両方うちが守るから、だから――もう下らない事言わないで」
有無を言わせず、サラはそう言い切ることで、これ以上話す気はないと伝える。その背を見つめるリンの胸中を占めたのは怒りなどではなく、消えない痛みだけだった。
サラがあそこまで怒ったのは、自分を心配してくれていたからだ。その気持ちを踏み躙り、自分に都合のいい計画を一方的に話した。
納得してもらうしかないと思った。シーナを本気で守るなら、サラの力は間違いなく必要なのだから。
――本当に、それ以外の方法はなかったのか?
他の方法で、仲違いしない形で終えられたんじゃないかと、そうも思ってしまう。
後悔と罪悪感。そして、選択の重さ。それらは、"あの夜"に一生分受けたと思っていたのに、当然ながらそんなことはなくて、未だに慣れる気配すらない。
「………リン。サラと喧嘩しちゃったの?」
不意に、リンの腕の中から声が漏れる。
だいぶ落ち着いた様子のシーナが、心配そうに自身の顔を見つめているのを見て、視野が狭くなっていたことを自覚したリンが安心させるようにその頭を撫でた。
「うん。ちょっと俺が間違えた。けど、きっとすぐ仲直りできるよ」
サラは目の前にいる。きっと、この言葉も聞こえているのだろう。意地になってるであろう彼女はリンを見ようともしないが、信頼していることは嘘じゃない。
出会って十二年。空白の時を除いて、七年前後の付き合いだ。喧嘩も仲直りも何度もした。時には、喧嘩をしていた事すら忘れて笑い合った。
同じ時を同じ場所で過ごし、共に育った、家族に最も近い関係性。
どこまでいっても、リン・アルテミスとサラ・ローレンは幼馴染だ。
その関係性に甘えていることは承知の上で、リンはサラとの関係が崩れないことを知っている。
だから、今はそれを後回しにして、
「シーナ、あっちに何があるか、分かる?」
「っっ!!」
サラが指した方向。シーナの魔力が流れていった場所には、きっとシーナの知る何かがある。ただ、それを本人から聞くことは酷なことなのかもしれない。
問われた瞬間、顔を恐怖に歪め、全身の震えも再開した少女の様子を見るに、やはり聞くべきではなかったかという思いが出てくる。
「答えられないなら、無理にとは言わないけど……」
「っっ、あの、私にも……よく分からないの。けどっ、捕まってた時、魔法を使おうとすると、さっきみたいに弾けて消えちゃったから……だから、きっと……」
青白い顔をしながら、辿々しい口調ながらもそう答えてくれたシーナだが、その先の言葉が出てこなかった。
だが、時に言葉より表情の方が、相手に雄弁に語りかけることもある。九鬼に捕まっていた時と、今起こった現象が重なるのならば、切り離して考えることはあまりに愚かだ。
危険だと承知の上で、敵の罠かもしれない場所に、シーナを連れて行かざるを得ない状況。緊張の糸をより一層引き締め、シーナの魔力を奪った見えない脅威を見据えた。




