少女の証言
「………害獣を操る水晶に、《幻界魔導》を使う少女…………ですか」
ギルド支部にある一室にて、リン達から説明を受けたソクロムの様子からは、信じられないといった感情が窺い知れる。
都市の外で起こった、害獣達との戦闘。それが終わり、現場の警戒をサラに任せたリン達は、今回の報告をするためにギルド支部へと戻り、ソクロムに経緯を説明していた。
「はい。ただ、先ほど少し検証した結果、あの水晶は持ってるだけで、人の魔力に反応して効果を発動することが分かりました。制御は難しく、多少は慣れないと自分の意思の通りに害獣を操る事は出来ません」
「……なるほど。つまり、少なくとも襲撃の有無によって、この少女の敵意を判断するのは尚早という訳ですな」
腕を前で組み、まだ年端もいかぬ少女を見下ろすソクロムが噛み締めるようにそう呟くと、視線を受けた少女――シーナは、それから逃れるようにリンの後ろに隠れた。
見上げるその瞳には怯えと疑心が渦巻き、リンの服を掴む手に力が入る。明らかに、ソクロムを警戒している証拠だ。
当然、ソクロムはそんな反応をさせたかった訳ではないのだろうが、尋常ではない怯え方に何かを感じ取ったのか、困った顔をしながらも、それ以上威圧感を与えないよう少し離れた。
「シーナ、この人は大丈夫。怖い人じゃない」
見かねたリンがシーナの頭を撫でながら、ソクロムの前に誘導する。強引な形ではなかったが、シーナはそれに大人しく従い、リンとソクロムの間にその身をもってくる。
「ほら、自己紹介しよっか」
「………シ、シーナ……です。…………よろしく」
「おや、これは申し遅れました。私はソクロム・ルーリエイです。よろしくお願い致します」
緊張した面持ちのシーナに対し、微笑みながらそう返したソクロム。だが、挨拶を済ませたシーナは、またすぐにリンの後ろに隠れてしまった。
それでも、先程とは違い、今度のそれは怯えてというよりは、羞恥による居た堪れなさが原因の様子だ。
顔を赤くしたシーナは、分かりやすく視線を下げ、リンの騎士服を握ってそれを紛らわせていた。
「はっは! どうやら、リン殿には随分と心を開かれている様子ですな」
一方のソクロムは、その様子に不機嫌を一切見せる事なく、心底愉快だと笑い飛ばす。年長の余裕が態度に現れるソクロムに、リンも話を進めるために本題に入った。
「ソクロムさん。水晶の件もですが、まだシーナからはまともに話を聞いていないので、分からない事も多いです。………けど、一つだけ、初めに話さなければならない事があります」
「……話さなければならない事、ですか」
空気が変わった事を感じ取ったソクロムも、その話の続きに耳を傾ける。
この場にいるのは、リン、シーナ、ソクロムの三人に、シオンとライルを含めた五人。初めは他にも職員がいたが、リンの判断で退室してもらった。これからする話をここにいるメンバー以外に共有するのは、リンの一存では決められないと判断したからだ。
戦闘の後の話し合いや、警戒に出ていたシオンとライルも、今からする話はまだ聞いていない。
リンは一度息を吸って、頭の中で情報を整理する。自分一人で抱えるには重すぎると感じていた情報を、ようやく誰かに話せる安堵と、本当にこれを話していいのかという葛藤を抱いた。
「……本当は騎士団の誰かにも聞いてもらいたかったんですけど、ここのトップは揃って怪我が酷かったので………」
「ええ。彼らには話の内容を聞いた後で、私の方から伝えさせていただきます」
覚悟が決まらず、二の足を踏むリンが告げたのは、覚悟を決めるまでの時間稼ぎの話題。それに対し、それに気付いているだろうに、その上で指摘する事なく付き合ってくれたソクロムに感謝しながら、リンはその重い口を開いた。
「……シーナの話では、この件には《九鬼》が関わっているかもしれません」
「――っ!?」
「なっ!? 兄さん! それは本当ですか!?」
ようやく話された内容に、ソクロムと、後ろで聞いていたシオンがほぼ同時に反応を示した。
それが、他の騎士がいる場や、街中で気軽にその話ができなかった理由だ。
荒くれ者も多い、数多いる冒険者達を長年率いてきたであろうソクロムと、齢十六でありながら、数々の偉業を達成してきた、この国屈指の実力者であるシオンが戦慄を覚える内容である。街の住人に聞かれたら、パニックになることは疑いようがない。
ただ――
「なぁなぁ、"きゅうき"って何?」
「……ウソでしょう」
「ライ……お前………」
この場でただ一人、緊張感に欠ける言葉を発したのが、事の重大さを理解してるシオンと同い年であるはずのライルだ。
その内容に、覚悟を持って伝えたリンは頭を抱え、シオンは今までリンですら見た事がないような軽蔑の眼差しを向ける。
「………《九鬼》とは、この国のみならず、世界中から危険組織として指名手配されている、九人の犯罪者集団の事です」
唖然とするリン達に変わり、ライルに対してそう答えたソクロムは、その鬼気迫った表情を崩さぬまま、話を続けた。
「その構成員は、様々な国から特一級の犯罪者が集められています。『組織的危険指数』は"SS級"。冒険者で例えるなら、全員が《S級》の実力を有していると考えればよろしいでしょう」
「…………え? マ、マジ?」
それを聞いて、流石にライルの顔からも余裕が消える。
《S級冒険者》
その称号は、与えられた者が人外の力を持っている事を示している。その実力を示す有名な話があった。
――数十年前、リガレア王国と、隣国《ガリバー帝国》との間で緊張が高まり、戦争の危機に陥った事がある。
発端は、国境に関する意見の食い違いだった。二つの国の国境沿いにある、当時リガレアの領土とされてきた《アザーリアラ》という土地を巡り、ガリバーが自国の領土だと主張したのだ。
話し合いは常に平行線。次第に強行姿勢を見せ始めたガリバーが、軍を起こしてリガレアに攻め込もうとした際、ガリバー軍はリガレアとの国境に十万人の軍人を派遣し、進軍した。
当初、リガレアはこの戦いでアザーリアラを奪われるという見解が一般的だった。ガリバー軍は精強な軍隊として有名で、侵略戦争も初めてではない。対して、リガレア王国を統治していた王国騎士団に、人間との殺し合いを経験した事のある者はそう多くなかった。
実戦経験豊富な軍隊というのは、平和な国の軍とは全く別のものだ。誰もが、突然始まった戦争に、今後の世界的な混乱を予想し、備えようとした。
だがその翌日、ガリバー全土に、――いや、世界中に駆け巡った情報は、当初誰もが誤報を疑うものだった。
国からの『指名依頼』を受けたS級冒険者"四人"を前に、ガリバー軍がその半数の死傷者を出して撤退したという、信じられない結果だったからだ。
甚大な被害を受けたガリバーはその後、アザーリアラへの不干渉等を条件に、リガレアとの間に不戦条約を結んだ。
以来、リガレア王国では、その人物達への敬意を込めて、S級冒険者の格は落としていない。
つまり、現在のS級冒険者は、その時の四人と同等以上の戦闘能力を有するという事だ。
十万の大軍をたった四人で蹂躙するような、自我を持った天災を"S級"と呼ぶ。
「…………事実なら、今すぐにでも動かなくてはなりません。シーナ殿、本当に、九鬼がこの都市の近くにいるのですか?」
「――――ッ!」
ソクロムの声から、それまであった気遣いが消える。その真意を見逃すまいとする眼光は、それだけで圧力すら感じる厳しいものだった。
問われたシーナは、初めてソクロムと対面した時のように一度身体を震わせ、再度怯えたように目を見開く。それを見たリンが、ソクロムとシーナの間に身体を割り込ませ、ソクロムの目からシーナを隠すように立った。
「ソクロムさん。気持ちは分かりますけど、あまり威圧的なのは………」
「………そう、ですな。申し訳ありません。シーナ殿。私の未熟をお許し下さい」
諭すような指摘を受けたソクロムは、すぐに態度を改め、シーナに向けて頭を下げる。だが、リンにはソクロムの気持ちも理解できた。
話が本当なら悠長にはしていられないが、もしそれが嘘であるなら子供の悪戯では済まない。"九鬼"が関わっているとなると、何の誇張もなしに国が総力を上げて動くことになるからだ。
騎士を動員して厳戒態勢を敷き、腕利きの冒険者を数十人から数百人単位で雇ってルジャの街に集結させる。
莫大なコストと膨大な人員。その二つが、ただ一つの組織、一つの都市に注がれるのだ。"九鬼"の名には、それだけの力がある。
だが、そんな事をすれば当然、他の場所が手薄になる。その隙を狙う犯罪者だって出てくるだろう。
故に、軽々しく口に出来る内容ではないが、本当であれば国に報告しないという選択はありえない。
「………兄さん。そもそも、九鬼の狙いは何なんでしょうか?」
今まで静観していたシオンが、リンの後ろからそう問いかけるが、リンは頭を振って自身の無理解を伝える。
「いや、俺もまだ詳しくは聞いてないんだ。最初に少しだけ、シーナが今までの事を話してくれたんだけど、内容が内容だから、他の人がいるところでは会話も控えてた」
ここでその話をするまで、細心の注意を払ってきた。早く吐き出したくて仕方なかったが、それでも、周りに人がいる時には話せなかった。
そして、この場で自身が知る全てを共有しても、思ったほど心は軽くならず、むしろ今から始まる話次第では、その心痛はさらに深くなるだろう事も理解していた。
だが、いつまでも目を背けるわけにはいかない。何より、この問題を先延ばしにして一番危険なのは、この場において一番守られるべき存在なのだから。
膝を折り、シーナと目線を合わせたリンが、未だに怯えた目をしていたシーナに情報の先を問う。
「シーナ。怖がらなくていいよ。落ち着いたら、今までにあった事話せる?」
「っっ――」
言葉にしてみると、酷な事を聞いているという実感が強くなる。シーナの正確な年齢は分からないが、精々十歳を少し超えた程度だろう。
そんな子供が、ここまで怯えている理由は何なのか。仕方がないとはいえ、それを本人の口から言わせるのには抵抗があった。
案の定、シーナは瞳に宿る恐怖を一層強め、自身が着ているボロボロの服を力の限り手で握り締める。
地面を見つめる瞳から堪えきれなくなった涙が溢れ、純白の髪に隠れる青白い顔は、今思い出しているであろう記憶が深い傷として残っている事を示唆していた。
「―――っぁ………リン……」
儚い声と共に、リンの右手に弱々しくその小さな手を添える。不器用に甘えるように、だが、酷く恐れるように差し出されたそれは、あくまでリンの手の甲に触れるに留まった。
握ってこないのは、拒絶される可能性を捨てきれないからか。あるいは、大人への頼り方が分からないのだろうか。
迷いながら、怯えながら、手を伸ばす少女の痛々しい姿に、リンの胸が締め付けられるような痛みを覚える。
――この子は、今までどんな経験をしてきたのだろう。
沸々と、リンの胸で怒りの熱が上がる。
非情なまでに怯える子供に対し、それを強要してきた環境にも、この場で自分が、まだシーナにとって完全に信用できる人間になれていない無力さにも。
どれだけ救いたいと願っても、救う術が分からない。そんな情けない自分に、一番の熱を感じた。
昔、物語の中で見た英雄達であれば、どんな時でも少女を安心させてあげられたのだろう。
少女に降りかかる災いを全て撥ね退け、その背中に全てを背負って、頼もしい言葉を並べて、あらゆる困難の中でも人々の希望であり続けるような、そんな強くて正しい存在を、人は英雄と呼ぶ。
幼い頃、強烈に憧れたその幻想を、とうの昔に諦めた自分には、目の前の少女一人救える自信もない。
けど、
「大丈夫だ。シーナ」
添えられていた手を握り返し、そう笑う。
英雄でないからといって、そんな事は言い訳にもならない。他でもないリン自身が、今シーナを救うという選択をしているのだから。
何も出来なくても、寄り添う事はできると言ったのはリン自身だ。少なくともその言葉には嘘をつきたくないし、嘘にするつもりもない。
そして、
「何があっても、俺はシーナを見捨てない。それに、俺自身は何も出来ないけど、俺の仲間は何でも出来るからな」
ここには、本物の英雄がいる。
誇らしげに、仲間への全幅の信頼を語ったリンは、後ろに控えている二人へと振り返る。シオンとライル。そして、ここにはいないサラを指したその言葉に、この場にいる二人は得意げな表情を作った。
「もちろんです。私たちは、頼りになりますよ?」
「そーそー。九鬼だか空気だか知らねーけど、俺が全部燃やせば丸く収まんだろ?」
「………ライ、空気を全部燃やしちゃったらダメだろ」
「あ、そっか」
「………ふはっ!」
素っ頓狂なライルの声に、リンは堪えきれずに笑い出し、シオンは頭を抱えて呆れ返る。
場の空気が緩和したのを感じたのか、シーナの顔からも少し険が取れた。
「シーナ。話せる?」
「………っぁ、あの……ね、リン。………わ、私は……」
再度のリンの問いかけに、シーナの口が動く。辿々しい言葉ながら、少女の話に全員が意識を傾けた。
「……暗い、ほんとに暗い部屋にいたの。どんな場所なのかは分からないけど、暗くて冷たいところ。………そこで、私を攫った人たちが話してて、自分たちを"九鬼"って呼んでた」
「その人たちって、どんな見た目だった?」
「……九人は見てないんだけど、私が見たのは、灰色の髪をした目つきの悪い人と、顔におっきな傷のある大きい人。……あと、赤髪の、赤いドレスを着た女の人と、紫の髪で、綺麗な格好をしてた人の四人だよ」
「……全て、九鬼の構成員の特徴と一致します」
ソクロムからの肯定に、いよいよ九鬼の存在が現実味を帯びた。シーナの話を疑っていたソクロムや、黙って聞いていたシオンとライルも、ここにきて表情に緊張が宿る。
そして、一番に確かめなくてはならない情報に確信を得れば、その次に続くのは少女自身への質問だ。
「お父さんとお母さんは?」
「…………私には……いないよ。覚えてもない。ずっと、一人だったから………」
「……そっか。じゃあ、何でシーナはそこに連れて行かれたの?」
「………分からない。ただ、私がいれば"計画"が進むって言ってた」
「計画?」
唐突に出てきた不穏な言葉に、思わずといったふうにリンの口から同じ音が漏れる。だが、詳しく聞く前に、シーナが懺悔するように小さな声で呟いた。
「あっ、……あの…………それも、詳しくは……知らっ………ない………。ごめん…………なさい………」
「っっ! 十分だって。ありがとう」
痛々しいまでの様子を見て、リンは無理矢理に明るい声を出して少女の言葉を称賛する。その顔には笑顔を貼り付けるも、迂闊な自身への失望と怒りが滲み出ているのに、シーナ以外の三人は気付いていた。
だが、リンが口にしたその内容は、慰める為だけの嘘というわけではない。シーナが語ったことは、事実としてあまりにも大きな情報だ。
世界屈指の犯罪集団が企てる"計画"。碌なものであるはずがないその存在を、事前に知れただけでも価値がある。
もちろん、内容が分かれば一番良かったが、そうでなくとも、何の備えもしていない中で、ある日急に災禍に見舞われるよりかはマシだろう。
何より、その計画にシーナが必要ならば、この子を匿えばそれを阻止することも出来るということだ。
問題なのは、シーナの何が必要なのかという事なのだが、それに関してはほとんど答えは出ている。
ほぼ間違いなく、その魔力を狙ったのだろう。
ただでさえ珍しい《幻界魔導》であり、この歳で《天名会》が手を焼く空間そのものを操る魔法。使い道などいくらでも考えられる。
思えば、最初にシーナが急に現れた時、卓越した空間把握能力を持つサラ達が、あの距離まで接近に気付かなかった説明もつく。遠くから空間を超えるなり、空間と空間を繋ぎ合わせるなどして、瞬間移動のような使い方をしたのだとしたら――
――そこまで考えて、リンは辿り着いた思考に寒気を覚えた。
「………シーナ。最初に俺たちと会った時、あれってシーナの魔法で近付いたんだよね? どんな魔法なの?」
「……ど、どんなって………行こうと思った場所に行けるだけだよ? あの時は慌ててたから、出来るだけ人の多いところってくらいしか考えてなかったけど………」
「どこにでも行けるの? 例えば、今から俺を連れて、隣の建物に行くことも出来る?」
「? うん。けど、隣の建物のどこ? 七個も部屋があるよ?」
「………………は?」
シーナの話に、ライルは乾いた声を響かせ、シオンは驚きに目を見開き、ソクロムは顔を青ざめさせ、リンは自身の考えに確信を持った。
今いるギルド支部の建物は、片側が大通りに面していて、隣接する建物はギルドの部署があるものが一つだけ。
そして、そこにはまだシーナを連れて行っていない。
理解が及んだ者から、全身の血の気が引いた。周りの反応に困惑するシーナに、リンは更に質問を重ねる。
「まだ隣の建物は見てないよね。何で部屋の数まで分かったの?」
「……? だって、何となくわかるでしょ?」
「…………つまりシーナは、目の届く範囲でなくても、その場所の構造が分かって、ピンポイントで人を連れて行けるってこと?」
「……うん。…………えっと、リン?」
いまいち噛み合わない会話の成り行きを、リン以外の三人が呆然とした様子で静観する。いや、一見平静を保っている様子のリンも、想定していた以上の事態に鼓動が速まるのを自覚していた。
"どこにでも、好きな場所に、瞬時に移動できる"
口で言うのは容易いが、これの意味する危険性は、使い方次第で《九鬼》を超える。
その力があれば、どれだけ統率された厳重な警備も、どんなに堅固な金庫も関係ない。人も壁も飛び越えて、対象の目の前に瞬時に移動することができる。特に、"暗殺"という分野において、これ以上に強力なものはない。どこで守られていようと、所在さえ分かればそこに"飛べる"のだから。
「………い、いや、けど! そんなんありえねーだろ!? だって、姉ちゃんですら……」
そこで、ライルの動揺した声が響く。途中で言葉に詰まってはいたが、聞かなくても分かる。その先の事は、全員が同じ懸念として共有しているところだからだ。
一見穴がないように見える空間魔法だが、それは空間を渡る魔法が、"目に見える範囲"にしか移動できないのであれば防ぎようもあるのだ。というより、それが魔法であるのならば、その範囲を逸脱する方がおかしな話だった。
どれだけ特異な魔力でも、魔法が"イメージの具現化"であることは変わらない。炎の塊も、水の渦も、魔法として使用する以上、魔導士は明確なイメージをもって魔力を練る。何処に、どんな形で出すのかを脳内で描いてから、魔纒を通して魔法を使う。
つまり、そもそも正確にイメージ出来ない、目に見えない場所に魔法を出す事など出来るはずもなかった。
ただそれは、ある一例に限り矛盾する。
幸か不幸か、シーナには魔導士として類を見ない『空間把握能力』があった。そのせいで、シーナには目に見えない場所が正確に"イメージ出来てしまう"。
卓越した空間把握能力を用いて、目に見えない場所に魔法を出す事は理論的に実証されていた。事実、サラ・ローレンが魔導士として最も優れている能力は、不可視の場所へ魔法を発現できる事だとする者も多い。
隣の建物といった情報だけで、正確な部屋数まで瞬時に把握したシーナのそれは、そのサラと空間把握能力という一点で並ぶほどの精度と言える。
それは、実際に目にしても信じられない事だった。天才と呼ばれるサラ・ローレンが、そう呼ばれる所以の一つがその能力だ。この歳でそれと同等の力を持っている時点で、才能と呼べる範囲を超えている。
いや、或いは、『空間ノ魔纒』という幻界魔導自体に、あらゆる空間を把握する能力まで備わっているのだろうか。
(ありえない話じゃない……)
様々な種類のある幻界魔導だが、使用者が少ない事もあり、未だ不明な事も多い。だが、過去の使い手たちの中には、その魔力に付随する、魔法とは別の能力を持った者もいたという。
相手の心を操る《心ノ魔纒》を持つ者は、魔法を発動しなくても常時人の思考を読み取ることができ、時間を操る《時ノ魔纒》の使用者の中には、人と異なる時間の中を生きた者もいた。
幻界魔導の使い手全員がそのような力を持っているわけではないが、偶然《空間ノ魔纒》と《空間把握能力》を生まれ持ったことに比べれば、可能性としてはそちらの方が高いくらいだ。
何にせよ、シーナの能力を使えば、この国にとって最悪の未来は、もう想像では済まなくなってしまう。
下手をすれば、それを口にするだけで首を刎ねられるような、王国最大の禁忌。
"王族の暗殺"すら、現実の脅威となり得るのだ。
「………リン殿。これは最早、我々だけで対処できる問題ではありません。私は至急、冒険者協会総本部と王国騎士団に、このことを報告します。もしこの子を九鬼に奪われれば、この国は終わりだ」
事の重大性に気付いたソクロムが、鬼気迫った様子で今後の話を始める。その意見に、異論がある者はこの場にいなかった。
シオンとライルは、九鬼の話に面食らった直後に更に重い話をされた影響から未だに戻れておらず、ずっと前から覚悟を固めていたリンでさえ、想定していた以上の危険な可能性に思考を支配されていた。
「シーナ殿のことは、上からの判断を仰ぎましょう。それまでは、我々冒険者協会がその身をお守り致します」
そんな中でも、ソクロムの判断は進む。動揺がないわけではないだろうに、それを感じさせないほど澱みのない指示と決定は、どこまでも基本に忠実で正確な、組織のトップに相応しい在り方を体現していた。
その姿に頼もしさを覚えながら、リンはソクロムの話に頷く事で肯定を示す。
今しなければいけないのは、何よりシーナの安全を確保する事だ。騎士団が壊滅的な打撃を受けた以上、ここに匿ってもらうのが最適解だろう。
これからの方針に一区切りついたところで、姿勢を下げたリンがシーナと目線を合わせる。
「そうゆう事だから。シーナ。ここで匿ってもらえれば安心して――」
「や、やだ!」
「………え?」
しかし、安心したリンとは対照的に、シーナの反応は想像と真逆のものだった。
首を横に振り、視線を下に向けるその様子からは、先程まで自身の境遇を話していた時よりも強い拒絶を感じる。だが、それまでとは違い、その理由に見当がつかない。
「………えっと、シーナ? ここにいれば、怖い人たちから守ってくれるよ? だから――」
「だって……」
リンの言葉を遮り、震える声で話すシーナが、戸惑ったような視線をリンに送る。
怒られることを怖がるかのようなその仕草は、自身の言っている事が我儘の部類に入ると自覚している子供そのものだ。
目一杯迷いを見せたシーナが、決心したように少しずつ、リンと、その後ろにいるソクロムを見ながら話し始めた。
「リンが…………いっ、一緒に………いてくれるって言った…………私は、リンと一緒がいい」
「……っっ」
リンも分かってる。それは確かにただの我儘で、状況を理解していない子供が、自分の希望を口にしているだけだ。現状を鑑みれば、考慮するべきことですらない。
そして曲がりなりにも、今のリンは指名依頼を受けている身だ。身勝手など出来る立場ではない事は重々分かっている。
分かった上で、迷った。
シーナの今までの境遇と、自身の過去を思い出させる瞳の奥の哀愁を見て、その懇願を跳ね除けることはリンには出来なかった。
健気なほどにリンを頼る少女を前に、葛藤が胸を締める。自然と、事態の成り行きを見守っていた二人に視線が向いた。
自分を指名依頼に誘ってくれて、必要としてくれて感謝してる。その気持ちに嘘はない。
ただそれでも、
「………ソクロムさん。俺のことも、ここに置いてもらえませんか?」
分かってもらえるなどとは思わない。これも自分の我儘だと、あまりに自己中心的な、開き直りとも取れる言い訳を胸の内でしたリンが、ソクロムに向き直り、自身の答えを出した。
申し訳なさからシオン達の顔は見れないが、怒りを露わにしてもおかしくない場面にもかかわらず、二人は何も言ってこない。代わりに、言いづらそうにソクロムが口を開く。
「……出来ればそうしたいのですが、一つ懸念点がございまして」
「懸念点?」
「はい。そもそも、この支部の責任者は私ではなく、支部長のナルク殿です。お言葉ですが、彼の騎士団への態度は、身近で見ていた身からしましても、あまり気分のいいものではありませんでした」
それを聞いて、リンはようやくソクロムの肩書を思い出した。
あまりにも頼りになることから失念していたが、ソクロムの肩書きはあくまで副支部長。つまり、ナルクの部下にあたる。
ナルクがいない今でこそこの支部を率いているが、ナルクが戻ってくれば決定権がナルクに移るのは道理だ。
初めて支部に来た時のナルクの反応を思い出し、一瞬嫌な未来を想像するが、目の前の少女を見て気持ちを固める。
「それでも、お願いします」
「リン殿、では」
「いいえ」
その時、凛とした声と共に話に入ってきたのは、今まで静観を貫いてきたシオンだった。考えていなかった家族の否定に、リンは動揺を隠せない。裏切ってしまった形になった自分に怒りを覚えているのだろうかと、彼女達に甘えすぎていたことを自戒する直前、
「そうゆう事でしたら、我々《月華の銀輪》が、この子を護衛します」
シオンが、全く別の角度からの提案を示した。
それに驚いたのは、ソクロムよりもリンの方だ。
「シ、シオン? お前は指名依頼受けてるだろ?」
「それを言ったら、兄さんだって一緒に受けてるじゃないですか」
「俺とシオンじゃ勝手が違うだろ!?」
それこそ、指名依頼の内容的に、リンが抜ける事など大した問題ではない。元々《月華の銀輪》の三人に向けられた依頼だったのだ。そこに強引にリンの存在を足しただけであって、罪悪感はあれど、リンは自分が抜ける事をそこまで深く考えていなかった。
だが、
「前提が違います。私たちは冒険者です。好きな依頼を受けて、好きなように生きます。今回の討伐依頼も、ルジャを守る指名依頼も、兄さんがいるから受けたんです。報酬がどれだけ低くても構いませんが、そこは譲れません。――一緒に冒険しようって、言ってたじゃないですか」
そう宣言するシオンは、依頼の受諾に対して、リンという存在の重要性を説いた。
思わぬ言葉にリンが目を丸くすると、シオンは拗ねたように視線をリンから外す。ただ、その耳は赤く染まっており、羞恥を覚えている事は明白だ。
あえてその事を指摘しようとも思えず、素直にその言葉を受け取ったリンは、むず痒い気持ちを抑えて言葉を続ける。
「……けど、具体的にはどうする? 依頼をこなしつつ護衛もなんて………」
「元々、害獣の警戒は二組で行う予定でした。この都市くらいの規模であればサラは一人で十分なので、私とライで組んだ一組とサラで交互に休みを取ろうとしていたんです。ですから、休んでる方に兄さんとシーナの二人が着いていただければ、両立も出来るかと」
「………それじゃあ休めなくない?」
「問題ありません。普通に生活していても、ある程度の奇襲なら対応できますから」
「なんならされる前に潰せるし」
さも当然のようにそう宣言するシオンの隣で、ライルも異論を唱える事はなかった。
頼もしすぎる発言に、リンは苦笑いで返すのがやっとだ。実際、どんな状況であっても、リンではシオン達に攻撃を当てられる想像がつかないのも確かだった。
「それでは不満ですか?」
視線を移したシオンが、そうソクロムに問いかける。対するソクロムは、リンに懸念を伝えた時と同じ表情のまま、成り行きを見守っていた。
考え込むように目を瞑ったソクロムの次の言葉次第で、リンとシーナのこれからが決まる。緊張に冷や汗をかくリンを尻目にソクロムは――
「…………まさか。天名会に任せられるなら、それに越したことはありません」
心底安心したというように、そう笑った。




