紡ぐ
「な、何をしているんだ!?」
レメクが上げた声が、その戦場に浸透する。正気を疑う響きを持ったその言葉は、今の状況を見たらほとんどの人間が思うことだろう。
騎士服を着た少年が、あの少女は任せろと、そう言った時には、何か策があるのだと思っていた。だが、目の前で彼がとった行動は、悪い意味で予想を裏切るものだ。
速さで撹乱するわけでも、防御魔法で身を守るわけでもなく、無防備な状態で、ゆっくり歩き出したリンが、真っ直ぐ少女に向かう。誰の目にも、それは無謀に映った。
「〜〜〜っ!」
「姉ちゃん!」
「分かってるよ!」
それを見て、前を走るサラが不安そうに後ろを振り返るが、それは野暮だと、言外に言われたライルからの叱責で前を向く。
その目に映る竜の大群は、もう目の前まで迫っていた。
「『水魔法 蒼斂魔皇殿』」
開戦に伴い、始めにサラが仕掛けたのは、ルジャに着く前の戦闘で、その防御性を遺憾無く発揮した『水壁』の、上位互換である『水護の堅牢』。
その、更に上の魔法だ。
瞬時に出現した膨大な水が、瞬く間に《月華の銀輪》と、五十を超える竜をほとんど覆い隠し、その形を形成していく。
水で作られたその外観は、透き通る青に太陽の光を反射し、天然の宝石が散りばめられたかのような輝きを放つ。しかし、その美しさをより引き立たせるのが、芸術的なまでの荘厳さを感じさせる監獄のような景観。破ろうとする意思すら砕きかねないほどに、堅固な力強さを感じる鉄壁の要塞だ。
現に、薄く透けて見える中の様子から、竜がその壁に勢いをつけて突進しても動じないだけの頑強さを見せつけている。防御魔法としては珍しく、内側からの衝撃にも強いことで知られるこの魔法は、外からの攻撃から身を守ることに加えて、その内側に閉じ込めることも出来るため使い所は多い。
ただ、これを使用できるものは、この国にたった"二人"しかいない。
水魔法における最上位防御魔法と言われる"蒼斂魔皇殿"が、その肩書きに恥じぬ性能を発揮する中には、術者のサラとライルが入り、外ではシオンが、『蒼斂魔皇殿』を免れた十五匹の竜と開戦する。
《怪炎》の炎が骨も残さず焼き尽くしたかと思えば、《万能》の水がその硬い皮膚を貫き、必要最小限の攻撃で討ち倒す。逃げようとする竜は、《剣聖》がその首を一刀のもとに斬り伏せた。
凡夫とは隔絶した実力を持つ三人の魔導士は、一匹で天災級の破滅をもたらす竜の大群に対し、危なげない戦いを繰り広げる。
そして、そこから少し離れた場所での二人の対峙は、そのあまりにも目を引く戦闘とは全く違う様相を呈していた。
魔法が弾ける音もなく、ぶつかり合う衝撃音もない。唯一聴こえるのはリンが歩く足音だけだが、それすらも遠方で響く戦闘音に掻き消される。これが街中なら、誰も気にかけることがないような、なんて事のない二人の接近の様子だ。
しかし、そこに漂う緊張感だけは、劣っているとは言えなかった。
純白の髪に、透き通った空の色をした瞳。恐ろしいほど整った容姿の少女は、その透明感のある見た目とは真逆の、心の内を読ませない無表情を顔に貼り付けている。
リンが一歩踏み出すたびに、後ろで見守っているレメクは心臓が強く鼓動を刻むのを感じた。少女の目的が分からず、リンの狙いも不明。困惑と疑問が渦巻く戦場の渦中にいる者の中で、二人から目が離す選択は誰一人として出来なかった。
一歩、一歩と、もどかしい程に、しかし確実に二人の間の距離は縮まっていく。見ているだけのレメクですら、無意識に時間を拒絶しているのかというくらい一秒が長い。
「〜〜〜っ! まずい!」
事態が動いたのは、その距離が最初の半分程度になった時だ。
少女が徐に手をあげ、リンに向かって掌を向ける。その手の先に空間の歪みを確認し、魔力を放つつもりだと瞬時に理解したレメクは血の気が引いた。
未だにリンには何の動きもなく、ただ前に足を進める以外の行動はしていない。敵の攻撃に対し、完全な無防備を晒した彼の末路を想像する事は容易く、数多の戦闘を経験したレメクにとって、それは怒りすら覚えるほどの失態に見えた。
「大丈夫」
しかし、悲鳴を上げそうになるレメクの口を、その声が告げた言葉が塞ぐ。
それが、少女と向き合っている男、リンの言葉だと、すぐに気が付いた者はいない。それは何故か。
その声が、今のこの戦場ではあまりにも場違いな、どこまでも優しく、慈しむような声だったからだ。
一番危険な場所から聞こえたなどと、誰が信じられようか。後ろ姿で顔は見えないが、声の調子からして、リンが微笑んでいることすら想像できる。
一度歩みを止めて話すリンに焦りは見えないが、走れば直ぐに埋まるような距離で、敵が攻撃してこようとしている状況の何に対する言葉なのかすら分からない。混乱の極みにいるレメクの前で、更にそれを深める言葉が、リンから語られた。
「俺は、敵じゃないよ」
********
確信があったわけじゃない。
目の前の少女が、何故、害獣を操る水晶をここで起動したのか。それでどうして、ルジャを襲わせようとしたのか。
その理由は見当もつかないし、そもそもどうして突然ここに現れたのかも知らない。
敵対以外に考えられない。そう結論付ける心境は分かるし、切羽詰まった状況で、判断に時間をかけることがどれだけ命取りになることかも理解しているつもりだ。
だが、どうしても、リンには納得できない事がある。
こちらを攻撃するつもりなら、敵意を向けられているのなら、その彼女を見ているとどうして――
昔の自分を思い出すのだろう。
もう一度、少女の目を見据える。最初より大分近付いて見やすくなったその無表情の中に、何故か昔、鏡で見た自分の顔が重なった。
孤独だった、"あの頃"の記憶が蘇る。
涙が枯れるまで泣いた。
声が掠れるまで叫んだ。
血が出るほど掻きむしった。
骨が砕けるほど暴れた。
それでも、絶望は欠片も消えてはくれなくて、一人になった事を再確認するだけのどうしようもなく苦しいだけの時間を過ごした。鏡に写ったその時の自分からは、生きる希望など微塵も見えない。
ただただ、心臓が動いているから呼吸をしている、命ある屍。
その時の自分は、何と声をかけられたかったかを思い出していた。今の彼女が、その答えを望んでいるような気がして――
「怖がらせるつもりはないんだ。少し、君と話がしたくって」
出来るだけ、寄り添うように話されたかったのだと、口にしながら思い出す。忘れてしまいたかった自分の亡霊が、どうすれば救われるかと考えれば、自然と口から言葉が漏れた。
腰に付けてある剣を鞘ごと外し、重力に預けて地面に落とす。突然のリンの行動に、少女の眼が少し見開かれた。
警戒するように武器からリンに視線を戻した少女は、この距離で武器を手放すことの意味を考えているのかもしれない。
そこまで考えて、少し笑ってしまう。リンにとって今の行動は、剣が邪魔だったから以上の理由はない。
少女の気持ちの揺らぎを感じ取り、もう一度足を進め始める。先ほどより、更にゆっくりと進む事を心掛け、相手に対する圧迫感を出来るだけ低くして近付く。
進むごとに、心臓が高鳴るのが分かった。もしかしたら全部見当違いで、今にも頭を吹き飛ばされるんじゃないかと最悪の想像もしてしまうが、それを表に出さず、敵対の意思がない事だけを表情で語りながら進み続ける。
少女は、上げた手を下ろさなかった。その先の空間が歪んでいることから、サラが言っていたように攻撃に魔力を使う事ができるのだろう。警戒心を極限まで上げた少女の眼が、リンに『来るな』と叫んでるようにも感じる。
それでも、リンは止まらない。
威圧感が全身を刺すような感覚に襲われ、気力が削られる。止まらない。
少女の手に集まる魔力が徐々に大きくなっていき、それを中心にしたエネルギーに押し出される形で起こった暴風がリンを襲う。止まらない。
実際に、少女から放たれた衝撃波のような魔法が、リンの足元に突き刺さって地面が抉れる。止まらない。
少女が後退り、その顔が僅かに歪む。止まらない。
一歩一歩、確実に進むリンに、次第に焦りを見せ始める少女。だが、その手から放たれる攻撃が、リンに当たることはなかった。
何発も放たれた衝撃波のような魔法は、例外なくリンから軌道を逸らす。躱してるわけでもなく、一直線に歩くそれは恰好の的であるはずなのに、一向に当たる気配がない。
それを見て、最初の疑惑が確信に変わっていく。逸る気持ちを落ち着かせながら、少しずつ距離を詰めていき、そして、その距離があと少しで手の届く範囲にたどり着いた時、次の一歩を踏み出す前に、リンは足を止めた。
少女は怯えたように、手をリンに掲げたまま見つめる。周りの空間はその乱れを増し、リンを存在自体が不安定な場所に足を踏み入れたような気にさせた。
「………ごめんね。ここから先の距離は、俺が詰めても意味がないんだ」
しかし、心底申し訳なさそうに、ただ、強い意志を込めてそう言ったリンの、その後の行動に、またしても少女の警戒心を困惑が上回った。
「よっと」
「っっ!?」
リンがした行動は、走って近付く事でも、魔法を展開する事でも、背を見せて逃げる事でもない。
その場で膝を折り、胡座をかいて座り込んだことで、余計に無防備を晒した事だけだ。
魔力を帯びた腕をリンに向け、行動の意味を問いかけるように視線を合わせる少女が、――いや、その光景を見ていた全員が、あまりの奇行に目を疑った。これではもう逃げることもできない。少女がその気になれば、リンが立ちあがろうとするその一瞬で首を吹き飛ばせる。
しかし、だからこそ、"絶対に逃げない"という意思を、この上なく示していた。
後ろから悲鳴に似た声が上がるのを意図的に無視し、リンは目の前の少女だけを見据える。
「………ねえ、一つ聞いてもいい?」
あくまでも対話を続けるリンは、問いかけの是非を相手に問う。
困惑に揺れる少女の瞳は、それでも未だに、警戒を忘れてはいない。片手はリンに向けられたまま、いつでも魔力を放てるように歪みの顕現は継続してる。もう片腕に抱える水晶も離そうとはせず、害獣を呼び寄せる光も弱まる気配はない。
そんな状況でも、リンの表情は変わらない。初めのうちはあった緊張感すら今はなく、穏やかなその声同様、少し困ったような、だが、確かに微笑みを浮かべながら聞いたことは――
「名前、教えてもらえないかな?」
「―――」
その言葉を最後に、二人の間に静寂が訪れた。
何を聞かれたのか理解できないといった様子で、少女の目が再度見開かれる。この場で聞くような事ではないと、言葉にはせずともそう語っていた。
リンの真意を掴みきれない少女が、その顔の中で表情を変化させるのを見て、リンは笑みを深めながら、語る。
「俺、リン・アルテミスって言うんだ。一応、騎士をやってるんだけど、一人じゃ何にも出来ないくらい弱くてね。……いつも、仲間に助けられてて、迷惑かけてばっかりでさ」
「―――」
「けど、何にも出来ない俺だけど、君と一緒にいることなら出来るよ。ここに来たのだって、誰かに助けてもらいたかったからなんでしょ?」
「――っ」
核心をついたその言葉に、ほんの少し、少女が反応を示した。顔を少し上げるだけの些細な反応で、それが良いことなのか悪いことなのかすら判断がつかないほど小さな変化。
だが、少なくとも声が届いていることを確信し、伝えたいことをそのまま続ける。
「もし、君が今一人で、誰も頼れる人がいなくて、それで『寂しい』って感じてるなら、俺と一緒に来てほしい。このままだときっと、その状態から変わらないよ。………それが、どれだけ辛いことかは、君より知ってると思う」
それは、やはり戦場で聞くにはあまりに場違いで、馴染みのない声だった。話してる間にも、言葉に乗る感情は優しさを増していく。
今、自身の命を握ってる少女に対し、どこか信頼しているような顔で、安心させるための声で、言い聞かせるように話し続ける。
「君のこと、少しずつでも知っていきたいんだ。話したいことがいっぱいあるんだけど、だからこそ、まずは名前から教えてほしい。君の名前は、なんていうの?」
そう聞いて、会話の主導権を放棄したリンは、少女の次の言葉を待つ。またしても、二人の間の音が途切れた。
悠長にしている場合じゃないのかもしれない。戦場の空気が刻一刻と変わっていくのに、この場の時間だけがゆっくり進む。
遠方では《月華の銀輪》が戦い、後ろでは騎士団員たちが最大限の集中力を発揮しながら事の成り行きを見守っている。
疲労に倒れ込みそうになる身体を無理矢理起こして、いつでも加勢に行ける準備を怠っていない。時間をかければかけるだけ、彼等の疲労も蓄積されていくだろう。それに対して、何も思うところがないわけじゃなかった。
それでも、リンは動かない。
次の言葉を、少女が示す意思を待ち続ける。自身が問いかけた質問に、少女が答えてくれると信じて、ただ待つ。
「っっ―。…………」
その目の前で狼狽えた様子の少女は、最初に見た時とは明らかに印象が違っていた。
張り詰めたような威圧感は見る影もなく、視線は右往左往して定まる様子はない。何かに怯えているようなその仕草は、どうしたらいいか分からないという、迷子の子供のような弱々しい姿だ。
口を引き結び、解いて開いてを繰り返し、戸惑いを見せながら、それでも、伝える意思だけは受け取ることが出来る。
「……………シ……」
長い沈黙の先、意を決したように、少女の口から音が漏れた。
初めて聞いたその声は、か細く、風にすら掻き消されてしまうほど小さいもの。これまで声の反応がなかったことを思えば大きな前進とも言えるが、その瞳はまだ疑心に揺れている。
戸惑いながらも、次の音を出そうと口を開く少女が、そこで初めて、リンとまともに目を合わせた。
空色の瞳に不安が宿るのを感じ、リンがそれに笑いかけると、少女は徐々に掲げていた腕を下ろし、魔力による歪みが消える。
困惑、当惑、疑心、不安、そして、ほんの少しの希望を加えた声が伝えたのは、少年が問うた、その"答え"だ。
「…………シーナ」
透き通るような、透明感のある声が鼓膜を震わせたことに、リンの胸から言いようのない感動が溢れ出す。
少しずつ少女の、『シーナ』の、凍った心が溶けていくのを感じ、穏やかだった心音が再び速度を上げる。逸る気持ちを強引に抑え込んで、ゆっくり話すことを意識。小さく息を吐いて、これまで同様、相手に刺激を与えない、いや、『子供を怖がらせない』話し方に徹する。
「………シーナか。可愛い名前だね」
そう言って、笑ったリンが目を細める。
まだ名前を聞けただけ。シーナの周りの空間は所々歪んでいて、その不安定さがシーナの胸の内を表しているようにも思える。ただ、リンが一番聞きたかったことは聞けた。
ここからだと、そう意識を締め直す。
目の前で手を震わせるシーナが、何に怯えているのか。それが分かるのはきっと自分だけだと、何処か確信めいたものを感じながら、彼女を見つめる。
「……シーナ。助けてって言うのは、勇気がいるよね。分かるよ。……けど、今ここだけでいい。全部、俺に任せてくれ」
強く、しかし、どこまでも優しい眼差しに射抜かれたシーナの腕の震えが、ほんの少し弱くなり、懐疑心しかなかった眼差しが徐々に別の感情を生む。
「一人でも生きていけるって、大丈夫だって、そう思える人もいると思う。……けど、自分がそうじゃないからって、抱えなくていい。――助けてって、辛いって、寂しいって、そうやって人に頼る事は、逃げてるわけでも、間違ってるわけでもないよ」
それが出来る人間ばかりじゃないと、そう前置きした上で、それをしてほしいと話す。
「だから、シーナ」
その苦悩を、少しでも減らして欲しいと願いを込めて。
あの時、リンが誰にもかけられなかった言葉を。
誰かに、かけて欲しかった言葉を。
「頼って」
精一杯の誠意を、その一言で伝えた。
戦場で、座り込んだ青年が少女に手を差し伸べる。なんとも奇怪なその場所には、どこか神秘的なまでの、不可侵の聖域が存在しているような錯覚を周りに与えた。
現に、誰もがその場所に注意を払っているのに、誰もそこに介入しようとはしない。
そんな場所で、完全に会話の主導権を渡された少女は、弱々しく目を伏せる。
それでも、最初から最後まで、態度の変わらないリンに対し、重々しくその口を開き、閉じてを何度か繰り返した後の言葉を、音にしようと喉を震わせる。
「………わ、わたっ……し、……ずっと…………お、大人の…………ひ……人が……」
「うん」
「……出るなって………………そ、それっ………で……………その……」
「うん」
「…………へ、部屋の………中でずっと………一人で……わたっ………しが………」
「うん」
「……ずっと……怖くて…………だから……」
繋げた言葉のどれもが、シーナの本心を言い表すには足りていない。まだ少ない語彙の中ですら伝えたいことが纏まらず、それでも何度も言い直そうとするシーナが、少しずつ、自身の胸の内にある、一番伝えたい言葉を探していた。
挙動が、シーナの不安と希望。そのどちらも反映させるなか、ほんの僅かに希望が上回ったことで行動が起こる。
震える声が、その恐怖を伝える。
震える手が、その葛藤を物語る。
震える瞳が、その希望を映す。
震える脚が、その一歩を踏み出す。
そして
少女が、少年に紡ぐ。
「…………一緒に………いて、くれる?」
縋るように、懇願するように、弱々しくそう口にした。
それに対し、自然と少年の口も動く。
縋ってくれた強さと、願ってくれた勇気と、そして、伝えてくれた信頼に応えるために――
「いるよ。約束する」
自身の右腕をシーナに向ける。その手を取って欲しいと訴える姿勢を作り、不安そうに揺れる瞳に笑みを返したリンが、決意を滲ませた声でそう返した。
背景は何もわからなくても、少女が孤独感に苛まれていることはもう疑う余地がない。だからこそ、少女が勇気を出して踏み出したその一歩に対し、最大限の敬意と感謝を示し、そう頷いて覚悟を示す。ここでの言葉は、決して違えないと心に誓う。
「――――」
ゆっくりと、今度はシーナから、リンとの距離を詰める。一歩、二歩と歩み寄ってくる少女は、自分の意思でその足を進めてくれている。
それでも、まだ不安の残るその表情が、リンとの距離を測りかねている事を伝えていた。
「シーナ」
だからリンは、その名を呼ぶ。
名前を呼び、手を伸ばし、視線を交わす。その全てで、シーナが安心できるように、声を柔らかくして笑う。
この場に来るまでに、この子は何を思っていたのか、それは想像を絶するものだ。
齢十やそこらの子供が、一人きりで、こんな大勢の敵意に晒され、警戒される事が、どれだけ恐ろしいのか、自分に置き換えて考えることすら出来ない。
だから、シーナの選択に任せる。
きっと、この子は強い。それは魔導士としての話ではなくて、人として、心の話だ。
弱さに向き合い、恐怖に抗い、それでも前を向いて歩き出そうとしている。きっと、そんな強さを秘めているからこそ、この少女は、今ここにいる。
だからこそ、シーナが自分で選んだ答えならきっと大丈夫と信じて、リンはただ待つ。
「――――っ」
そんな信頼に応えるように、シーナが一歩ずつ、リンに向かって足を進める。しかし、足取りは重く、一歩を踏み出すごとに恐怖から顔が歪んだ。
歩くたびに震える、覚束ない足取りに神経を集中していなければ、今にも崩れ落ちそうなシーナの様子。
力の抜けた腕から手に持っていた水晶はこぼれ落ちるが、リンにも、今はそんなものに構っている余裕はなかった。目の前で、涙ながらに戦っている少女からどうして目を離すことが出来る。
それでも、少しずつ近付いていき、やがて二人の距離がゼロになった時、リンの腕が、シーナを優しく包み込んだ。
「よく頑張った。もう大丈夫」
抱きしめて、少女の勇気を讃えたリンが、その場で決断する。
少女が手を伸ばすなら、それを離さない。震える体に鞭打ち、恐怖に打ち勝とうとした勇敢な女の子から差し出された、その手を取ると、そう決めた自身を裏切らないと、
もう、寂しい思いはさせないと、示す。
「俺は絶対に、君を一人にしないから」
「っっ、…………う……うぁっ……」
溢れる感情を涙に変えたシーナの、震える泣き声が響き渡った。
幼子が、その内に秘めた感情を爆発させるように、脇目も振らずに泣き続けるその姿は、そのままリンの心に響く。
過去の自分は、この涙を流せなかった。
"あの時"のリンが流した涙は、その全てが、怒りと不安、そして、悲しみに満ちたものだったから。
だからこそ、分かる。この涙は、それとは別のものだ。
不安はある。悲しみもある。だが、何より希望と安堵を感じさせる涙。
こうなった経緯については、未だに手掛かりすら無い。聞かなければ判断できない事がいくらでもある。
ただ、この何一つわからない状況の中で、一つだけ、その場で決める。肩に掛かるシーナの涙を感じながら、抱きしめる力をより強くして、心の中で誓う。
この子を泣かせるのは、もう、この一度きりにしようと。
********
竜の猛攻全てを一切外に漏らすことのなかった水の監獄が、嘘のように呆気なくその姿を崩壊させたその場には、見るものに戦慄以外の感情を抱かせない激戦の爪痕が残されていた。
鮮血の飛び散った赤く染まる地面。その上に転がるのは、死屍累々の山と化した、最強の生物と称される竜の大群だ。
首が切断された死体、身体の中心に穴が空いた死体、関節という概念が無くなるほどに滅茶苦茶になった死体もあれば、死因が何なのか一目では分からないくらい綺麗な状態のものもあった。一様に共通しているのは、その全てが既に息絶えているという一点のみ。
だが、それらとの戦闘は、最強の魔導士と呼ばれる三人にとっても楽なものではなかったのだと、その疲労が滲む表情から察する事ができる。
現に、その三人が揃って肩で息をする様子など、《月華の銀輪》が結成されてから両手で数えられる程度しかないし、その殆どが常人では立ち入る事すら許されない魔境での戦闘によるものだ。
《天名会》の戦闘。竜の死体の山。そのどちらも人の関心を引く要素としては十分過ぎるものだが、この場にいる人間には、そちらに目を向けていた者は一人もいなかった。
「………ど、どういうこと?」
「いえ、私にも………」
その"原因"に目を向けたサラは、同じく理解の追いついていないシオンと共に言葉を失った。
今の今まで敵として認識していた少女が、最愛の相手と距離をなくして抱き合っている光景には一瞬血の気が引いたが、その泣き声に込められた感情には、明らかに敵対の意はない。
いや、感じたままを言うのであれば、それは明らかに、意味なんてない声だった。人の営みの中で、どこにでもありふれているただの声。
子供が泣き叫ぶ声に、意味も何もないだろう。
「いや〜、何が何だかわっかんねえな。――けど」
その後ろから、同じく無理解を示す言葉が飛ぶ。しかし、そう言葉にしているにも関わらず、ライルのその声は一切の戸惑いを見せていなかった。
まるで、こうなる事を分かっていたかのような反応をするライルに、サラとシオンが目を向ける。その視線の先で、この上なく愉快そうに笑いながら続けられた言葉が、ライルの心情の全てだ。
「やっぱり、兄ちゃんはスゲェや!」
********
暗く、鬱蒼とした森の中にひっそりと佇む、石造りの建物がある。
所々に苔が生え、蔦が絡んだ明らかに年季の入っているそれは、過去にこの森に人がいた証ではあるが、数多のモンスターが跋扈する今の森の状況を見るに、今も使われていると考えるには些か無理があった。
しかし、そんな場所であるにもかかわらず、この場には数人の人の影が集まっている。建物のある一室にて、九つの人影が、部屋の隅に鎖で繋いである手錠に目を向けていた。
鉄製のそれは、人を拘束する以外の意味を持ち得ない。つまり、この部屋は最初から監禁を目的として作られたということだ。
だが、今その手錠には誰の腕も通されてはいない。もぬけの殻という表現が正しく機能するその部屋の光景に、自身の紫髪に手を当てた青年が淡々とした様子で口を開く。
「……まさか逃げられるとは、油断したな」
一見冷静なように見えるが、その端正な顔立ちの中で、分かりやすく眉間に寄った皺からは強い苛立ちが見える。そしてそれは、この場においてその青年だけの感情ではなかった。
「油断したじゃねえだろ! 何やってんだ!? これじゃあ"あの人"になんて言われるか……」
同じ感情を共有した、冷静であろうとする青年の声とは別のそれは、逆に怒りを全面に押し出す形で胸の内を訴える。
その男――ガイラは、仲間への糾弾を声高に叫んだ後、一気に声のトーンを落としてある人物への恐れを説いた。
それは、先日の山でホーマックが告げた《天名会》の名前以上に、その場の九人の感情を揺らす。だが、その時には僅かにでもあった興奮や高揚感は、今の彼らに欠けらも無かった。
あるのは、最高純度の恐怖のみ。
「それに、呪獣玉まで持っていかれるとはな。わしら全員、あの娘を見くびりすぎていたのは否定できん」
畳み掛けるように、悪い情報がホーマックの口から語られると、レグは動揺を隠さずにジラクに目を向けた。
「……な、なぁ? これって、"あの人"怒るのかなぁ? お、俺っちのせいじゃないぜ!? ジラクがちゃんと見てないから!」
「今回に限っては、レグ殿の意見は正しい。だが、起こってしまったことを掘り返してる場合でもないでしょう。幸い、あの娘がルジャにいることは分かってる。計画とは違いますが、あの都市を我々で襲撃して――」
「――いや」
焦燥感に駆られるカライだが、言葉を続ける前に提案を否定される。
その声の主は、先程失態の責を負わされていたジラクのものだが、その顔に張り付いていた表情は自責や後悔などではなく、むしろ楽しくて仕方がないとでも言うように歪んだ笑みを刻んでいた。
「認めよう。確かにこれは私の失態だ。そして予想外の事態でもあるが、……これはこれで悪くない」
完全に理解の外にある反応をされ、気味の悪さから一歩引いたカライの前で、ジラクはポケットから手のひらに乗る程度の小さな黒い球を取り出し、それを見つめながら言った。
「計画に支障はないさ」




