矜持
普段の静けさが嘘の様に、その地にはあらゆる轟音が響き渡った。
個々の能力が優れている獣達は、ただ行軍するだけで大地を揺らし、並の人間なら立っていることすら困難な状況を作り出す。
鍛えられているとは言え、それは騎士団にとっても無視できない弊害となる。ただでさえ戦力に歴然とした差があるのに、さらに追い打ちをかける事態だ。
体幹を駆使してバランスをとりながら、騎士団は格上の相手に果敢に攻撃を繰り返すも、そこまでダメージを与えている印象はない。
魔力を練り体や武器に纏わせ、足を踏ん張って当てても貫通しない硬い皮膚や鱗の防御力は、そのまま攻撃力にも比例する。
ただ腕を振るうだけで、繊細な魔力コントロールをしている人間よりも硬く、速く、重い一撃になる。効率という面で見れば天と地の差だ。挙げていけばキリがない不利の要素を、知恵と精神力でカバーするにも限度がある。
――それでも害獣達は、今だに騎士団の防衛線を突破出来ていない。
烈火の如く進軍する害獣の大群勢は、通常であれば一個師団並の戦力。およそ四千人を編成し、周到な作戦を練ってようやく張り合えるような脅威だ。その四分の一しかいないこの状況で、この場に抑えられているだけでも賞賛に値する働きである。
善戦の最大の理由は、ゾルの存在だった。
「『風魔法 断空!』」
風を纏う脚が下から上へ振り抜かれ、魔力と共に放たれた高密度に圧縮された風の刃。それは一直線に空飛ぶ竜へと向かい、その右目へと命中した。
「グギャオオオオオオ!!」
見た目が異なるとはいえ、耐え難い痛みに声をあげるのは人間と同じ習性だろう。確かに通ったダメージを確認して、竜が怯んだ隙に戦局を確認。
「ま、まずい! 囲まれるぞ!」
乱戦の後ろの方にいる団員数名が、四足歩行の害獣十数匹に包囲されるのが見えた。一斉に襲われたら手が足りず、ひとたまりもないのは明らかだ。
ゾルは一旦竜との戦闘を放棄し、その団員達の元へ駆ける。
――いや、駆けるという言葉は正しくない。何せ、ゾルが地面を蹴ったのは一度だけだ。
たった一度、たったの一歩で、ゾルは決して狭い範囲ではない乱戦の端から端までを一瞬で"跳んだ"。
低空で、最短距離での飛行とも呼べない跳躍をもってその場に到達すると、その勢いのまま、団員達を囲んでいた害獣を風脚による蹴りで一気に八体転倒させる。
その隙に、囲まれていた団員達が一斉に飛び掛かり、急所を的確に狙ってトドメを刺した。
「リチャード大隊長!」
「気を抜くな! 後は任せる!」
その後、直ぐに右目を潰した個体とは別の、空から一直線にルジャを目指していた竜に突っ込み、その頭に空中で回し蹴りを繰り出して押し返す。
硬い鱗に阻まれた衝撃がその裏まで通っているようには見えないが、それでも間違いなく怯み、一撃をお見舞いした敵を警戒せざるを得なくなる。その一つ一つが、ルジャへの行軍を確実に遅らせていた。
獅子奮迅の活躍を見せるゾルだが、これは今の状況と、ゾルの魔力適性が合っているところも大きい。
風属性魔法の最大の強みは、その速度にある。
炎魔法が破壊力特化なように、他の魔法とは比べようもないほど、風魔法は速さに特化していた。
そしてゾルはその魔力を脚に、――つまり、移動速度に極振りしている。
一撃で強敵を倒しきる強さは無い代わりに、ヒット&アウェイでは無類の強さを誇るのが《風脚》だ。今のこの戦場に必要なのは、まさにそういった力であった。
乱戦の中を縦横無尽に飛び回り、敵の殲滅よりも防衛線の維持を優先する。危ないところを瞬時に援護できるゾルの存在無くして、この防衛線は成り立たない。
そして周りの騎士達も、害獣を倒すより足止めする為の戦い方を徹底していた。
一人一人の意識の高さに加え、共通する意思が団結という力を生み、その全てを、迫り来る強敵に対して、貫く矛ではなく、受け止める盾に変えて時間を稼ぐ。
ただ、この戦い方には当然、致命的な欠点がある。
「ッックソ! キリがない!」
騎士団員が叫んだその言葉が、その欠点の全てだ。どれだけ戦っても、一向に相手の数が減らせない。
殺す事を躊躇している訳ではないため、全く減らせないわけではないが、所詮殺せるのはC級未満の小物ばかり。街の外壁を破れる大型の害獣達に関しては、傷を負わせる事もまともに出来ていない。
終わりの見えない今の戦況は、精神的な負担を増加させ、疲労の蓄積を早めた。
「怯むなぁ!!」
それでも引くなと、レメクは叫ぶ。この中で唯一、大型の害獣を狩っているのは、他ならぬこの男だった。
帯電するその剣を水平に構え、魔力を練る。纏う雷が黄色から紫に変わり、そこから上がるバチバチと高い音が魔力の密度と共に上昇した。
目の前にいるのは、『人型害獣』と呼ばれる、二足歩行に一つ目の巨漢。大地を割る怪力を持つその害獣は、最低でもB級の戦闘力を想定して討伐依頼が出される危険度だ。しかし、レメクは臆する事なく魔力の循環をやめない。
隙だらけの騎士に警告するかのように、人型害獣の咆哮が一帯に響く。空気が震え、凄まじい戦意を携えてレメクとの距離を縮めようと走り出す。
レメクに何の動きもないまま、手の届く範囲に来た人型害獣は、丸太のような腕を大きく振りかぶって拳を握った。助走もついたその一撃は、喰らえば竜ですら無事では済まない破壊力を持つ。人間が生身で受けられるわけがない。
目と鼻の先に破滅が迫り、彼の部下が声を上げようとしたその時、レメクの体が瞬きの間にその場から消えた。
「!?」
目の前にいた人型害獣はもちろん、遠目に見ていた騎士団員でさえ、レメクの存在を見失ったが、それは一瞬のこと。
「『雷魔法 紫電幽閃』」
その声が聞こえたのは、相対していた巨漢の背後だった。いつの間にと、戦闘を見守っていた隊員がそう思考を巡らせた時には、人型害獣は腹の部分から胴体を真っ二つにされていた。
レメクが使用する雷の魔力、それも風の魔力と同様に、ほとんどが速さが売りの魔法に変わる。
違いとしては、雷魔法は風魔法より威力が高い代わりに、速度が落ちる。
もちろん、使用者によって速さは異なるし、格下が使う風魔法より、格上が使う雷魔法の方が速い場合もいるが、それがこの世界の常識としてあるのは間違いない。
それでも、彼の魔法は目で追えない。ともすれば、同格のゾルが操る風魔法よりも速い。そこには、魔力の運用の違いが如実に出ていた。
レメクの魔法はゾルと違い、その速さを刹那に凝縮することで瞬間的な神速を生む。
ゾルのように長距離を移動して味方の援護はできないが、至近距離でその速度に対応するのは困難を極める。
そして開けた場所では、開戦当初のような広範囲の敵を一網打尽にする攻撃も使える。その器用な戦い方は、ゾルほどではなくとも、この戦場における重要な役割を担っていた。
二人の部隊長の健闘に、しかし害獣の数が減っている印象はやはり無い。無限に続くとすら思える闘争だが、騎士達の集中力は有限だ。このまま続ければ確実に何名かは犠牲になる。
「だが、ここで引くわけにはいかない」
「ええ。何としてでも食い止めねばいけません」
ジリ貧など承知の上でこの戦い方を選んだ。真っ向勝負をして敵の数を減らすより、時間を稼いで、後から来る者達に望みを託す。改めて気を引き締めた大隊長の二人は、ほぼ同時に一つの影を視界に捉えた。
害獣達の最後方、その更に後ろに広がる地平線の彼方から飛来する巨大なそれは、徐々にその輪郭が視認出来る距離まで近付いてくる。
黒い鱗に覆われた、他の龍より一回り小さく見える個体だった。まだ距離があるとはいえ、あと数分でその黒い龍もこの戦場に参戦するだろう。
「このタイミングで飛竜が来ますか……つくづく、心が折れそうだ」
「……ああ、だが、泣き言を言ってる場合じゃない。それこそ、あの竜が来る前に少しでも――」
その先の言葉が、レメクの耳に届くことはなかった。声が途切れ、一拍置く間もなく強烈な暴風がレメクを吹っ飛ばしたからだ。
「――――は?」
あまりにも唐突な状況の変化に、レメクは頭がついてこない。様々な状況に柔軟に対応できるよう日々訓練し、その実績は訓練の成果を肯定するものばかりだったと自負するレメクが、その事態に一瞬思考に空白を生む。
「――っっ!? ゾルさん!」
先程まで自分たちがいた場所を視認し、レメクはまたしても唖然とする。丁度ゾルが立っていたあたりを中心に地面が陥没し、巨大なクレーターを形成していた。
相当強い衝撃を受けたのは間違いない。肝心のゾルは、遥か後方で頭から血を流して倒れている。レメクがいる場所からではどれだけの怪我かは判断できかねるが、それを見て疑惑を確信に変えたレメクが、もう一度視線を遠方の龍に投げた。
レメク程の魔導士ならば、攻撃に使われた魔力の残穢を捉え、その軌道を辿る事ができる。そしてだからこそ、その発生源である竜が放つ、異常なまでの魔力の膨らみに戦慄した。
「気をつけて下さい! 奴は風属性の魔獣だ! また攻撃が来ます!」
震える胸の内を言葉にして、周りの騎士にそう叫べば、限界だった警戒心は極限まで引き上げられる。明らかに人間を、しかも戦闘能力の高い者を狙った風の魔法は、物言わぬ獣に知性を感じさせた。それを理解してるからこそ、どの騎士も目の前の害獣と相対しつつ、遠方の龍へ意識を向ける。
しかし、大隊長が一撃で吹き飛ばされた不可視の攻撃に、対応できる団員はいなかった。
巨大な魔力の塊が放つ風の雨は、その一つ一つが必殺の威力を持ってその戦場に降り注ぐ。人もモンスターも関係なく吹き飛ばす暴力は、そこにいる人間の常識を悉く打ち砕き、敵や味方という概念すら通じないかのように全ての存在を平等に破壊した。
時間にしてほんの数秒だが、その間に起こったことは一方的な蹂躙でしかない。後に残ったのは、その攻撃にも耐え切った竜種と、その災害を偶然免れた百に及ぶ害獣。
ルジャを守ろうと奮起した魔導士たちは、その心身共に完全に打ち砕かれていた。
(こっ、これがS級か!)
数刻前まで、自分達は強いのだと誰もが確信していた。常識の範囲を超えた脅威だと思っていた化け物の大群を相手に、数で劣っていようと果敢に、勇敢に挑み、その足を止め続けた自分達の在り方を誇り、日々の厳しい訓練は無駄ではなかったと大きな手応えを感じ、それらが合わさって、命をかけた実戦の中で高揚感を感じていた。
その自信も、確信も、信念も、誇りも、全て残らず粉々に打ち砕かれた。自分達がそう思えていたのは、ただ本当の化け物と戦った事がなかったが故の傲慢な驕りであったのだと。
事実、たった一匹の魔獣に、二千に及ぶ害獣と渡り合っていた騎士団が壊滅させられた光景がその場に広がっている。
「〜〜!! まずい! 害獣が街に!」
破壊された防衛線を踏み荒らし、当初の目的通りに。害獣達はルジャを目指して進撃する。この集団がどこを目指しているのかは結局人間には分からないが、このまま行けば街の住民に被害が出ることは誰もが理解していた。
それでも、家族が、恋人が、友人が、隣人が、その災禍に見舞われることを承知で、その光景を力無く眺める事しか出来ず、無力感に苛まれる騎士達はまだ幸運だ。この場には、もう二度と眺めるという行為すら出来ない者たちもいるのだから。
「っっ! まだ……だ!」
そして、まだ動ける者が幸運とは限らない。
異形の集団の先頭より前。皮肉なことに、魔法が直撃した事で、それよりも前に吹き飛ばされたゾルが立っていた。
大隊長としての責任感と、その立場に裏打ちされた実力は確かなのだろう。そこまで飛ばされた団員に、まだ立てる者は彼以外いなかった。しかし、決意の声とは裏腹に、満身創痍のその姿からは覇気が感じられない。
骨が折れたと一目で分かる両腕をダランと下げたまま、血塗れの額を拭くことも出来ずに左眼を赤く染める。代わりに見開かれた右眼からは戦意が微塵も衰えていないことが伺えたが、残酷なことに、それと戦えるかは話が変わる。
「……だめだ……ゾル……さん……」
絞り出すように、レメクが上げた声がゾルに届く。それはレメクにとって、まだ新米と呼べる頃からずっと背中を追いかけてきた男の名前だ。走馬灯のように、レメクは昔の記憶が蘇る。
********
――初めて騎士団に入ったのは、もう二十年近く前。その頃のレメクは、自分の能力に絶対的な自信を持っていた。
周りを見下し、階級が上の人間にも平気で逆らい、敬意という言葉を冒涜し続けた過去の自分。
騎士団に入る前は、何をしても一番だった。
だがそれ故に、何もかもに熱を持てなかった。
そんな時、
『貴様、私の隊に来い』
そう言ってレメクを隊に引き入れたのは、他でもないゾルだった。当然、上からものを言われたレメクは反発し、ゾルに自身の存在を思い知らせようとした。
そこでレメクは、人生で初めて挫折を経験する。
『どうした? もう終わりか?』
ゾルに模擬戦を挑んだレメクは、そこで完膚なきまでに叩きのめされた。周りから持て囃され、才能に溺れるほどの魔法が一切通じなかった。その時のゾルは、まだ小隊長に上がったばかりだと聞き、これ以上に強い者がいる事に最早諦めに近い感情を抱いたものだ。
以来、レメクはずっとゾルを追いかけ続けてきた。最初はその強さ。後に、仲間を守る人間性や、リーダーシップ。そして何より、不器用な優しさを。
『そうか。ついに貴様も中隊長か。これから忙しくなるが……まぁ、なんだ………貴様なら大丈夫だろう』
初め敵視していたそれは、いつしか憧れに変わった。未熟な自分を何度も助け、レメクが手柄を上げる度、昇格する度に、分かりにくい祝福をしてくれた事も嬉しかった。
そう、嬉しかったのだ。今まで、その力への賛辞などいくらでも受けてきたレメクにとって、ゾルからの不器用な言葉の方がずっと嬉しかった。これから先も、自分はずっとこの男を追っていくと信じて疑わなかった。
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――その男が目の前で、今際の際にいる。
ルジャに向かって前進する害獣達。その一番先頭には、万全の状態でも苦戦する飛龍がいた。このまま行けば、きっと瞬く間にルジャの壁を越える。
しかし、その間に立つゾルに、それを止められるとは思えない。ボロボロの身体を引きずり、立っているのもやっとの状態なのは一目でわかる。そして、ここで立ち塞がっても、何かが大きく変わるわけではない事を、歴戦の猛者であるゾルが分からないわけがない。
それでも、騎士としての誇りが、部隊長としての責任が、ゾル・リチャードの矜持が、その場に倒れ伏しているのを許さなかった。
絶対的な、避けられない死が目の前に迫る中、その視線が、レメクのそれと交差する。
終わる自分への諦めと、残る男への希望を写し、ゾルはレメクに笑った。
「………レメク、後は………頼むぞ」
「っっ!! ゾルさん!!」
恩人の死を確信し、レメクの悲痛な声が戦場に響き渡る。それに鼓舞されるように、ゾルは残りの全魔力を脚に集中。そのまま、集団の一番前を飛ぶ飛竜目掛けて跳躍し――
「お待たせしました」
女の声が聞こえた瞬間、目の前で閃光が走ったかと思った時には、先頭を飛ぶ竜の首が落ちていた。




