プロローグ
地獄絵図とは目の前の光景のためにある言葉なのだと、"彼"は十歳で知った。
夜の帳が下りた世界で、家々から上がる火の手だけがその惨状を照らす。
逃げ惑う人々、飛び散る鮮血、阿鼻叫喚の声、その一つ一つが、地獄と呼ぶにふさわしいものだ。
「……ハッ……ハッ……ハッ……」
そんな中を、1人の少年が全力で駆けている。
(――早く、早く!)
血を流し、吐瀉物を撒き散らし、おぼつかない足取りながらも懸命に足を進める。
(はやく、行かないと! あいつらが!!)
その顔には年相応の無邪気さなどかけらもなく、あるのは狂気じみているほどの焦燥感に駆られた姿だけ。
走る 走る 走る 走る
目を血走らせ、顔を血と涙でぐちゃぐちゃにしながらも、フラフラと覚束ない足取りで、残りの力全てを振り絞って走る。
通り慣れた道が、何倍も引き延ばされたのかと思うほど長く感じる。いつもより早く走っているはずの足が、目的地に着くのを拒んでるんじゃないかと本気で思う程に。
それでも、胸の内の焦燥感は時間と共に大きくなっていく。早く、一秒でも早く着きたい気持ちとは裏腹に、ずっと走っていたい、この時間の中に居れた方が楽なんじゃないかと、雑念が常に付き纏う。
相反する二つの感情に胸を支配され、それでも、少年は走り続ける。これが正しいかどうか分からない中、無我夢中で足を進める。
走って 走って 走って 走って
そうして、ようやく目的地が見えるところまで走りきった先では、二組の親が、それぞれ我が子を守るように胸に抱いている姿があった。
ある家族の、母は娘を、父は息子を。そして、もう一つの家族が、父母の二人で一人の娘を抱きしめているのを視界に収め、足を止める。
(まだ……生きてる)
何よりも、この光景が見たかった筈だった。
自分が最も信頼している大人達が、自分にとって最も大切な人達を抱きかかえている。
この小さな村の、何もかもが失われつつある状況の中、自分にとってかけがえのないものが、まだ何一つ失われていないことを確認した、その少年の胸に真っ先に浮かんだ感情は――
安堵ではなかった。




