第五.五幕:幕間「私如きが君が幸せになれる国を作りたいと思うのは強欲だろうか」
第五.五幕:幕間「私如きが君が幸せになれる国を作りたいと思うのは強欲だろうか」
真夜中、もぞもぞとベッドを抜け出したリムナリアは手探りでゆっくりと進むと、目的のテーブルを見つける事に成功した。
確かそこに手持ちの燭台が置いてあったはずで、ぶつけて落としてしまったりしないようにそっと表面をなぞりそれを探す。
首尾よく音を立てずに探し当てると、横に一緒に置いてあった火打ち石をポケットにしまい今度は廊下へ出るための扉を目指す事にした。
「緊張し過ぎて眠れない…ルドガーさんが羨ましいわ」
明日は大切で大変な日になるだろうからと早めにベッドに潜り込んだはずなのに全然寝付けず、纏った毛布の向こうから聞こえてくるルドガーと使用人たちの宴会の声を何となく聞いていたのだ。
途中、モニカの程々にしておきなさいという声が聞こえ、彼女もベッドに入ったようだったがその後も陽気な宴会は続いた。
やがて一人二人と少なくなり、最後にはルドガーのいびきと風邪をひかないかを心配する“生き残り”の声が聞こえ、足音が遠ざかると灯りも消えた。
そんな宴会場の跡を移動していると足に何か固い物が当たりコンコンコロンと硬質な音がしてしまって焦る、が誰も起きた様子は無く止めていた息を吐くと思った以上の安堵の声が漏れてしまいまたも慌ててしまった。
自分で思っている以上に自分が緊張している事に驚くと同時に、少しだけ可笑しくて笑いそうになり慌てて口元を抑える。
腰をかがめて目を凝らせば犯人は空のボトルで、先ほどまでの宴会の名残だろう。
「もー、危ないですわ。はー、それにしてもドキドキして、でも眠れそうにありませんし、少しだけ、少しだけお散歩をして…」
ぐっすり眠っているであろうモニカと、確認せずともぐっすりなルドガーを起こさぬ様に気を付けながら扉まで辿り着くと、音がしないよう慎重に扉を開けて廊下へ出る。
そこで灯りを点けようと思っていたが流石にここは王城だった、ベルメナムの館とは違って夜とは言え廊下には点々と燭台に火が灯されており、少なくとも壁にぶつからない程度には明るい。
すぐ隣には使用人たちが眠っているはずの部屋の扉も見えたが、起こしたり気を使わせたくないと思ったリムナリアはそれとは逆の方向へと歩き始めた。
途中で備え付けの燭台から灯を分けてもらい光源を確保すると、まだ構造を把握しているとは言えない王城の廊下を、方角だけを頼りに進む。
「確か、こっちから入って来たはずよね。えーえー、ここを曲がれば城門に向かう通路で、あっ…」
どこか城下町が見下ろせる場所で王都の景色を眺めたいと思ったのだが、流石に城下町へと続く城門の前には松明を持った門番が立っていた、他にも何人か椅子に座って談笑しているようで、焚き火に照らされ壁に映し出された影が笑い声に合わせて揺れている。
別にやましい事をしている訳では無いのだが、彼らに見つかるのは何となく躊躇われて別の場所を探す事にした。
ロトナム家やケンラシア家が使用している部屋へと続く廊下は避け、城の使用人たちが使っているという区画を避け、灯りの灯っていた調理場の方向も避け…
消去法で進んだ結果辿り着いたのは城下町とは反対側、城の裏手に当たる場所で他にもまして何も無い、普段からあまり使われていなさそうなこじんまりとして殺風景な庭であった。
「ここなら誰も来ないかしら。城下町は見えないけれど、空は綺麗、ずっと広がる平原も…」
リムナリアは小さな花壇の縁に燭台を置くと、その横にひょいと腰かけ足をぶらぶらとさせる。
少しお行儀は悪いがそれを叱る父も小言を言う執事も今は居ない、小さい頃はそうしていても周囲は笑顔を向けるばかりだったのに、成長すると苦い顔をされるのは何故なのだろうか。
そんな他愛のない事を考えぼんやりと景色を眺めていると、良い感じに気が抜けて自然と笑いがこぼれた。
明日は決戦の調停会議だとか、誰にも見つからないようにここまで移動してきた緊張感だとか(実際には暗がりを灯りを持って移動していたので遠目には気付かれていたのだが)、そういった心に伸し掛かっていた重荷が取れた気分だ。
生まれてこの方他国へ行った事は無いが、物語で読んだ国々では日夜様々な出来事が起こり、その舞台として多種多様な建物が登場する、お城は当然のこと劇場や闘技場、博物館や美術館、暗い牢獄に怪しい霊廟…そんな心躍る舞台はしかしこの国には無い、この景色には存在しない。
見渡す限りの空と平原は静かで平和で、何も無い。
だからほんの数枚の挿絵を隅から隅までじっくりと見て、その実際の様子を想像して楽しむのだ、もしもここにこんな建物があったならと。
「あそこの少し高くなっている場所に劇場があって、それを囲むように露店が沢山並んでいて、そうするとこの辺には噴水と広場があって、その向かいには商館が建ち並んでいて…」
目の前に想像の町並みが再現されて行き、そこに大勢の人々が行きかう活気が加わる、参考にした記憶の中の挿絵と同じでアルタニアの旗が掲げられているが、建物はむしろゼルゴニアの様式だろうか。
想像の町は膨らみ続け、遠方には巨大な城と高い塔が、右を向けば石造りの広い町並みが、左を向けば堅牢な砦があり騎士や兵士たちが訓練を行っている。
いずれもサンカニアには無いリムナリアの想像上の立派な町、だが何故かその町並みを歩くモニカとルドガーの姿があった、そんな光景が似合いそうだと無意識に想像出来たのだ。
「まー、お姉様たちは何処へ行くのかしら?ルドガーさんなら訓練場?モニカお姉様ならあちらの商館かしら?それとも…2人であの王城へ?」
勝手な想像だが、何故だか何処へ行くにしても何かが起こりそうな気がして、2人がそれに巻き込まれていく物語があったら読みたいなと思った。
もっといっぱい物語が読みたい、もっといっぱい歴史を学びたい、もっといっぱい知識を得たい。
だが、サンカニア王国においてベルメナム家に生まれた自分はこれでも恵まれている事を知っている、知識を好む一族がこれまでに買い集めた本の数は間違いなく国内随一なのだから。
だから求め過ぎてはいけない、無理を言ってはいけない、今の王国でこれ以上を求めるのはあまりにも強欲だ、そう自分に言い聞かせる。
「求め過ぎず、ありのままを受け入れる。でも、もしも、もしも王国がもっと豊かになったら、もっと本を買えるかしら?」
「良い言葉だな、求め過ぎずありのままを受け入れる、か」
声に振り返ったリムナリアは慌てて花壇から飛び降りその場で膝を折ろうとする、が柔らかい声に止められた。
景色をぼんやりと眺め想像の世界に浸っていた自分はどんな態度を取っていただろうか、どこからどこまで声に出して言っていただろうかと不安になる。
少なくとも一国の王に、自分が仕える主に見せて良い姿だったとは思えない、それこそ父や執事が居たら怒られる程度では済まされないだろう。
「申し訳ありません王様、無礼な恰好をお見せしまして、その、勝手にお城も歩き回ってしまい…」
「良い良い、北方9王国で一番権威の無い王と盗賊が入っても何も盗む物の無い城だ」
「そのような事はありません!」
つい本気で抗議をしてしまったが、それもまた無礼だったかと数瞬前の自分に文句を言う。
だが突然後ろから王が現れて混乱しない臣下がいるだろうか、いや、いや、リリアお姉様やリンダお姉様ならきっと流れる様に対応して見せるだろう、そもそもこんなヘマをする事も無いだろうか。
冷や汗をダラダラと流しながら必死に落ち着けと自分に言い聞かせ、何とか体裁を取り繕い改めて挨拶をしようとしてリムナリアはキャッと顔を背けた、だって。
「お、お、お、王様?そのお召し物が…」
手持ちの燭台に灯る蝋燭1本の灯りではぼんやりとしか見えないが、サンカニア王の恰好はいかにも軽装で腕も膝下も素肌が見えている。
その程度は民たちの着る服と面積的に大差無く、別にその服装がおかしいという訳では無い、が相手が王となるとこれはまた別の問題があった。
普段貴族の着る服とは頭以外は手くらいしか見えないような物であり、素肌を見せるのは家族かそれに類する者、専属の使用人、そして婚約者などに限られるのだ。
恐らくこの考えが浸透していないのは唯一北のキストニア王国くらいだろう、かの国は貴族だろうと民だろうと関係なく戦士であり、求められるのは防寒と頑丈さと動きやすさなのだと読んだ事がある。
「ん?ああすまぬな、この庭に向かう光が見えたのでな、果たして何者かと興味が湧いてそのまま寝台を飛び出してしまった。公式の場では無い故…堅苦しいルールは無しにしよう」
リムナリアとしては色々とそう言う訳にもいかないのだが、かと言って目の前の王にこれ以上異議を唱えるのもはばかられて、無言で頷く事で返事とした。
言うやいなや先ほどまでリムナリアが腰かけていた花壇の縁にポスンと腰を落とすと、その横を手でペシペシと叩いて見せる王。
心の中で記憶の中の騎士が「王よ、我が王よ、何故そのような、私が何をしたと言うのです!」という台詞を叫ぶが、その後その本の騎士は王に処刑された事を思い出して慌てて妄想をかき消した。
再びペシペシと叩き、ほれほれとその場所を示されてしまっては最早リムナリアにはどうする事も出来ず、王の誘導のままにその隣に腰を下ろした、叩かれていた場所より少しだけ距離を空けて。
「さてと、ふむ?ふぅむ?流石にこの場とその恰好で我が臣下では無いという事はあり得まい。だがすまぬな、その顔に覚えが…誰かに似ておる気がするが、ケンラシアのところの、いやあの者は元はベルメナムか、すると…ん?」
コロコロと変わるサンカニア王の表情は見ていて楽しかったが、最終的に導き出したと思われる答えで固まるのはどういう事か。
今この王城に滞在中で、貴族として振る舞っていて、なおかつ王が顔を見ても分からぬ者など消去法で限られよう、きっと答えは合っているはずなのだ。
それなのに何か気まずそうにしているのは何故なのか、先ほどまでしげしげと顔を見ていたのに今は目を合わせて下さらないのは何故なのか、背筋を伸ばして私以上に緊張しているように見えるのは何故なのか!
リムナリアには聞きたい事が山ほどあったが、“初顔合わせ”の王にこちらからアレコレと質問をするのは流石に失礼かと思って王の対応を待つ。
が、どれだけ待てども自分を隣に座らせた王からの言葉には続きが無く、互いに緊張を抱えたまま静かで穏やかな時間だけが流れた。
何も語らぬまま、どれだけの時間が経っただろうか、少しだけお尻が痛くなってきた頃だ。
「先ほどまでこの景色を見ておった。あー、ここに来る前、この庭の上に見える、ほれあそこの窓からだ」
見上げれば薄っすらと明かりの漏れる窓があった、あそこが王の居室なのだろう。
城下町から続く道と門から見て反対側、城の裏側や奥側と表現すべき場所でなるほど王の居る場所として納得である。
そうすると自分は城の隅から隅まで歩いて回って来たのだなと思うと同時に、王の居室の真下にあるこの小さな庭は何か特別な場所の様な気がして、入ってしまって大丈夫だったかと焦る。
きっとあの窓からならば燭台の灯りが移動してくるのがよく見えた事だろう、それもゆっくりと周囲を確認しながら慣れぬ足取りで、それではまるで不審者ではないか。
だが横目に見る王の顔は最初に声を掛けられ振り返った時の様なとても穏やかなものに戻っていて、安堵と共に痛くなったお尻を誤魔化すように少しだけもぞもぞと動かして姿勢を変える事に成功した。
「何も、無いであろう」
「星空が綺麗です」
「そうかもしれぬが見飽きたな、変化の無いこの景色もだ」
その声は本当に退屈そうで、でもそれは今のこの時間、リムナリアと話している時間を退屈だと感じているのでは無く、変わらぬ日常に対して言っているのだと理解した。
確かにこの景色は綺麗だがどれだけ見ていても変化は無いだろう、せめて城下町の見える方向を向いていたならば街の灯や人々の動きといった変化があるのだろうが。
そう思って先ほどまで自分が勝手に楽しんでいた妄想の町の事を思い出した、モニカとルドガーが大活躍するかもしれないあの町だ。
基礎こそ石造りだが建物のほとんどが木造のこの王都ではあり得ない、石造りの立派な町並みや巨大で堅牢な城や砦、見上げるばかりの高い塔に大規模な施設、ぶつかってしまいそうな程の密度で行きかう人々。
「その、王様。失礼かもしれませんが少々…私と遊びませんか」
リムナリアは真剣であった。
が、後日この娘は一体何を言っているんだと思われていた事を知って顔を真っ赤にしてたっぷりと恥ずかしがったのに、その更に後日にはその意味が“遊びなどと子供じみた事を言った”と思われたのでは無く、“夜中に人気のない場所で若い娘が男を相手に遊びに誘うと言う意味”だと知ってもう一度顔を真っ赤にしてその場から逃げ出すという事件があった事はサンカニア王家の秘密である。
王が目を見開きたっぷりと時間をかけて絶句している事になど気付かず、既にまた妄想の世界へと足を踏み入れていたリムナリアは“遊び方”の説明を始めた。
「この遊びは少しだけ想像力が必要になるのですが、例えばあの丘、少しだけ高くなっているあの場所には何があったらいいと思われますか?私はあそこに劇場を想像しました、その周囲には様々な露店を!」
「お?ん、ふむ。ああ、なるほどな…ふぅむ、私ならば…いや確かに劇場という案は素晴らしいな、そうするとその近くには民が多く集まる憩いの場が欲しいか、そう例えば…」
「「噴水広場」」
顔を見合わせ驚く2人の想像は翼を広げ、無いはずの風に乗って高く舞い上がり眼下に壮大な町を描き出す。
それこそ物語の中でしか登場しない様な都合良く誇張された町だったが、サンカニアで生まれ育った2人には他国の町の様子も物語の真贋も分かりはしない。
完成したその町を訪れる旅人に姿を変えた2人がバロアーゾサンカニアの王城門よりも立派なその町の外門をくぐると、人々の会話や露天商の呼び声、鍛冶場や工房から響く工具の音、遠くに響く兵の雄叫びや馬の嘶き、そういったものが押し寄せて来た。
戸惑う男の手を引いて少女が走り出すとその様子を町の人々に笑われた気がして男は苦笑し、でも自分にはそんな立ち位置がお似合いかともう一度苦笑する。
様々な施設・区画を駆け抜け活気と熱気を感じ、最後にやって来たのは天をも貫く塔を備えた王城、その固く閉ざされた巨大な門と跳ね橋の前。
だがそれも少女が合図を出せば橋は下り門は開かれ衛兵たちは敬礼をする、そうして招き入れられた王城の奥、長く続く広い廊下や吹き抜けのホールを抜けた先には王座があり…
「女王陛下にご挨拶申し上げます…まー、でもどうしてモニカお姉様が女王陛下役を?」
「親愛なる盟友に挨拶を、ご無沙汰しております陛下…陛下、もう一度生きてお会いし政を学びたかった…」
それぞれに思い描いた相手は異なったが、共に想像国の王に挨拶を済ませた2人はサンカニア王国へと帰って来ていた。
帰っては来てはいたが未だ心ここにあらずといった様相で、再び平和で何も無い景色に戻ったその場所を見つめたまま、しばし無言の時間が続く。
しかし現実は悲しいものでやがてやっぱりお尻が痛くなって来て、もぞもぞと姿勢を変えようとすると隣の王も同じ様にもぞもぞとしていて、顔を見合わせ笑うと2人で立ち上がった。
その時うっかり腰布を引っ掛けてしまい、置いていた燭台が転げ落ちると火も消えてしまった。
「あ、火が。申し訳ありませんすぐに点け直します」
「いや、暗がりに目も慣れた事だし、今はこのままで良かろう」
さりげなくお尻をさすりながら数歩歩いて振り返った王は、再び庭の外縁の壁をぺしぺしと叩いてそこに来いと示す。
花壇を離れ王の隣に移動したリムナリアは王と同じ方向、先ほどまで座っていた花壇の方に向き直るとそこに小さな石柱があった事に気が付いた。
今は花が植えられておらず寂しい風景だが、花壇が花で埋まっていたならばその花たちに囲まれていたであろうその石柱は、表面こそ磨かれて綺麗だがこれといった装飾も無く、ふと街道沿いに道標として立っていても不思議では無い。
「花に囲まれて生活したいと言っていたほど花が好きだったのでな、毎年この時期には多種多様な花を買い求め植えていたのだが、自分で蒔いた種だな…今年は雪解けから間もなくして王都の門を閉じ今に至る故、花を売りに来る者たちもおらぬ」
「あれはその、墓標、なのでしょうか」
「…母が、先代王妃がこの王城の地下、あの標の真下に眠っておる」
なぜそれを早く言ってくれないのか、自分は何という失態を犯してしまったのかと、リムナリアはその場で崩れ落ちそうになるのを壁に寄り掛かる事で何とか誤魔化した。
だが冷や汗は止まらないし、手と足の震えも止まらない、お父様ごめんなさい足をばたばたさせてごめんなさいリーナは悪い子でしたと謝罪の言葉を頭の中で繰り返す。
そんな場所で先ほどまで何をしていたか、遊んでいたのだ!王を巻き込んで!
これはもしや、王の優しい言葉や態度は先の短い囚人に向けられた最後の情けだったのだろうか、いやきっとそうに違いない。
本の中の騎士は「私が何をしたと言うのです!」と王に抗議していたが、自分は明らかにやらかしているので抗議などしようも無い。
だがせめて、せめてこの責は自分だけで収めようと、ベルメナム家の当主である父や一族、館や領地の人々、同行してくれているモニカやルドガーたちには罰が及ばぬよう、それだけは王に慈悲を乞おう、そう悲壮な決意を胸にキッと王を見て。
「だから母の眠るこの庭に、普段は誰も立ち入らぬこの場所に、一体誰がと驚いたのだ」
ごめんなさい、リーナはもうだめかもしれません、お父様、お姉様、皆さん、本当にごめんなさい。
何かが砕ける様な感覚と共に、リムナリアの視界は揺れそのままグラリと天地が反転する。
ああ、やっぱり星空が綺麗だな…などと思うが、意識を手放し倒れたはずなのに体や頭に痛みはやって来ない、いやこうして考えているという事は意識はあるらしい、でも痛みすら感じる事が出来ない程にダメージを受けているのか。
…そうでは無い、自分は浮いているのだ、もう既に魂は体を離れあの星空に向かって、
「引き留めてすまぬ、眠かったのだな、考えてみれば当たり前か。ありがとうベルメナムのリムナリアよ、花と、そして話好きだった母に久しぶりに明るい話題を届けられたと思う。いつも私の鬱屈とした話ばかりで母も退屈だった事だろうしな」
星空に向かって消え行く途中、だと思っていた浮遊感は王の腕の中であった、ベルメナムのリムナリア、絶賛更なる罪を積み重ね中。
そしてこの後どうするべきかも全く考えつかない、とりあえず目を閉じて王に抱き上げられている状況から、どうやったら一番無難に開放されるかだが、残念ながら物語の中でもそんなシチュエーションは無かった。
ジタバタと暴れる訳にも行かず、突然目を開け実は起きてますと切り出すのも反応が怖い。
「ランシア・エルシャメリア・サンカニア・クアルティ…サンカニアの素敵なエルシャメリア王妃、そう呼ばれた母は私の自慢であり、私の後悔だ。ふふ、私の人生は後悔ばかりだな」
しかも何やら語り始めてしまった王に、今更どう対応すれば良いというのか。
さりげなく靴を脱ぎ落してその動きに乗じて目を覚ました事にしようか、いやしかし散歩のつもりで出て来たから靴は編み紐でしっかりと固定するタイプの物を選んでしまっている、これでは簡単に脱げないではないか私のバカ。
「父はずっと難しい顔をしていて、部屋中を花で飾る余裕など無くなって、話相手だった使用人たちも居なくなって、萎れていく母を見るのが怖くて逃げ出してしまったがあの時もっと側に居て私こそが話相手になるべきだったのだ」
それではポケットに入っている火打ち石を落として音を立ててきっかけとしてみようか、いやしかしポケットの奥までしっかりと仕舞い込んだ石はギュッと抱えられたこの体勢では簡単には落ちそうにないではないか私のアホ。
「後悔ばかりで、今回もそうだ。何故あのような事を言ってしまったのか、王都の民と重臣たちを巻き込む騒動となってしまって申し訳が立たぬ、物語の中の王たちはあんなにも立派だと言うのに私は…」
それならばいっその事このまま…いやそれはマズイ、これ以上罪を増やせないしこのままではいずれ使用人たちを呼ばれて、モニカお姉様たちにも迷惑が掛かってしまうじゃないの私のマヌケ。
「物語は物語、現実とは違うと思いたいが、まるで物語の中から出て来た様なかの王の様に、あの優しき王の様に、私もなりたかったのかもしれぬ。全てを諦めていたはずなのに、心のどこかで」
こうなったら覚悟を決めて、そう、どうせもう先は長く無いのかもしれないのだから、か、覚悟を決めて…覚悟を…やっぱりまだ死にたくありません、助けてお姉様ー!
「ふふ、本当に其方の言った事は正しいな、求め過ぎずありのままを受け入れる。愚王は愚王らしく愚策の責任を取って…」
「王様は愚王などではありません!こんなにもお優しい心をお持ちでは無いですか!こうして私を助けて下さっています!こんなにもお母様を想っておられます!こんなにも臣や民の事を考えておられます!」
「其方、起きていたのだな…」
………死にたいっ!!!
勢い込んで上体を起こした結果、戸惑う王の顔が間近にあって恥ずかしさで何度でも死にたい、死にたくない、死にたい。
もしまだ先ほどの想像の町に居たならば、きっとリムナリアの顔は赤と青を繰り返し、物語の魔法使いもかくやという変化を見せた事だろう。
泣きながら笑うような、私は冷静ですと逆立ちをしながら言うような、そんな訳の分からない心情に追い打ちをかけるように、その頭が撫でられた。
「よい、もうよい、私などに気を使わずともな。それに自慢では無いが大抵の事では驚かぬ、そんな感情はどこかへ置いて来てしまった」
「…その割に、私が誰かについて把握された時に驚いていたようですが」
「あー、あれは、だな」
とても気まずい展開で何をどうしたら良いのか方針は定まらないが、良くも悪くもリムナリアの口は勝手に良く回る、言葉を扱うのはお手の物なのだがこの場合果たして良いのか悪いのか。
それでも先ほどの私は我ながら良い事を言ったと思う、そう、サンカニアの王は優しいのだ、愚王でなど決してありはしない。
もし本当に愚王であったならば、その治世で自分はこの歳までこんな風に成長する事は出来なかっただろうし、国民の中から銀の乙女の様な人物が起ちその王位を否定していた事だろう。
「そなたがベルメナムと分かってな、恐れると同時に自分の情けなさを思い出してな、ははは」
「まー、えー、と、なぜ私の様な若輩者を恐れる必要があるのです?何をそんな…」
サンカニアの王は齢40と少し、在位ももうすぐ20年に達するのでは無かっただろうか。
サンカニア史はそもそもその記述が少なく、語られるような出来事も稀なため関連する本や詩などもほとんど存在しない、サンカニアに住みながらサンカニアの歴史よりも隣国の歴史の方が詳しく知れる機会があるほどに。
何年か前に王国史書を借りて来て欲しいと頼んだ時、そんなに簡単に持ち出せる物では無いと父には言われたがその後あっさりとそれは目の前に現れた。
薄く密度も低い史書を管理していた王都の書記官は、内容は全て写してあり問題無いと簡単に貸し出してくれたそうだ、もし仮に紛失や破損する様な事があったらむしろ自分の仕事が増えるので嬉しいと冗談交じりに。
そういった形で書記官の仕事が増えるのは良い事とは言えないが、書記官として雇われていて書き記すべき出来事が無いのが苦痛であろう事は理解出来た、むしろ知識を増やし多くを求め好むベルメナムとしては共感しかない。
「ベルメナム家は今更改めて言わずとも王の助言者の家系だ、其方の父にも世話に、世話を、いや世話に、か…あーとにかく色々と助言を受け大変貴重な意見として参考にさせてもらった」
「まー、いつかお父様との思い出話もお聞きしたいです」
「い、う、うむ。まあベルメナムの実力とどういった存在であるかは良く知っておる、からして、その娘たちもだな、あーロトナムとケンラシアに嫁いだ其方の姉たちとも面識がある、実にベルメナムであった…」
「まー!いつかお姉様たちとの思い出話もお聞きしたいです!」
と、勢いに任せて言ってしまったが王は忙しい身のはずで、自分の様な小娘相手にじっくりと思い出話に浸る時間を取る事など果たして出来るのだろうか。
見れば王は少し引きつった笑みを浮かべていて、きっと時間の確保と私の夢を壊さないようにという考えを天秤にかけて悩んでくれているのだろう、無理を言ってしまって申し訳ない気持ちが溢れるがここでやっぱりいいですと言うのも失礼な気がした。
「その末の娘がな、まだ社交界へも出て来ていないような歳の娘が王国の史書などという私も読んだ事の無い本を求めていると聞いた時、流石はベルメナムの血脈だと末恐ろしさを感じたものだ、その末娘が今回あやつの代行として来ると聞いて随分と身構えていたものだと我ながら情けなくもあったのだぞ、はは」
「そんな私なんて本当にまだまだで、この非才の身はお姉様たちには遠く及びません」
「そういうところが恐ろしいのだ…いや何でもない」
どうやらサンカニア王がリムナリアを恐れ緊張していた理由は、偉大な父や姉たちの優秀さに対するベルメナムという家系そのものへの評価だったと知り納得するリムナリア。
どうして恐れる必要があるのだろうかとも思うが、それだけの影響を残した親姉妹や先祖の名声が誇らしくもあった。
ふと、もしかしたらこの様な感情を強く素直に表に出し大事にしているのがキストニア王国の人たちなのかもしれないと思った、詩に多く残る彼らの歴史にはそういった表現が多く登場するからだ。
キストニア人とは酒と肉を愛し、詩を好み、先祖の名と後世に残す自らの名声に大きな誇りを持っているのだと。
「それにな、聞いて驚くがよい。事は切迫しているというのに其方たちが到着してすぐにも調停会議が開かれなかった事を不思議には思わなかったか?」
「それは、そういえば王様が体調不良とお伺いしておりました、それで初めましてのご挨拶もこうしてここでになってしまいましたが、もうお加減はよろしいのでしょうか」
「何も問題は無い。何故なら私の体調不良とはただの気鬱だったからだ、ベルメナムに尻ぬぐいをして貰わねばならぬ自分の情けなさに対するな、ははは」
臣下が王を助けるのは当たり前で、その様な事で気に病む必要など無いのにと思うと同時に、王の体調は既に復調していると知れて安心した。
調停会議の場が整っているのであれば、後は明日全力を出し切って調停を良い形で収め、王の助言者たるベルメナムとしての使命を全うするのみだ。
リリアお姉様は敵に回る事は無いだろうと言われている、リンダお姉様もしっかりとした道筋を示せれば協力してくれるだろうと、切り札の無かった自分たちはパルデニアの人たちと出会いサンカニアの山札には無かった隠し札を手に入れた、ならば後は言葉をもって戦うのみである。
「王様は復調され、私もこの通りのまだベルメナムを名乗るには色々と足りぬ恐れるべき何ものも無い小娘と分かった、えーえー、本当に何も問題ございませんね」
其方に足りぬのは自己を正しく評価する力であろう、とは思っても言わなかった。
言って調子の乗られても困るし、どうしてかと説明を求められても困る、考えてもみよ、18歳の、それも友の娘相手に如何にその能力が素晴らしいか自分よりも有能であるかを一生懸命に説く残念な中年の王の姿を!とは思っても言わなかった。
王は、何も言わなかった。
「えーと、それではその、そろそろお暇を。こうしてお話出来て光栄でした、そして勝手にこの庭に入ってしまいました事を改めて…謝罪…で済まされるのでしょうか」
「何を言う、先ほど申した通り母が喜んだ事だろう、それだけだ」
どうやらリムナリアは王の恩情により、いや恐らく父や姉など過去のベルメナムの功績によって赦されたようだ。
そうでなければ王に無礼を働いた臣下が無罪放免という事はあるまい、少なくとも過去にリムナリアが読んだ様々な物語での例に照らし合わせれば、だが。
何とか一命を取り留めたリムナリアは深くお辞儀をすると、一度転がってしまった燭台を軽くはたいてからポケットの火打ち石を取り出し、カチカチと石を打ち合わせ火花を散らせる。
「何をしておる、それでは火は、まあ点くかもしれぬが簡単には点かぬぞ。そうだな、丁度良いこのポケットの底に溜まっていた糸くずをまとめて…ほれこうして燃えやすい物に火花を散らせて息を吹きかけるのだ、うむこれでよし、どうだ凄かろう」
無事に灯った手持ちの燭台を差し出され、リムナリアはそれを驚きながら受け取る。
物語の中では火打ち石で火を点けるという表現が良く出て来た為、火打ち石とは打ち合わせればそれで火が点くものとばかり思っていたのだ。
たったそれだけの事だが、読んだ知識だけで現実を知らぬ自分とそれを知る王の言葉では、その重みが全く違うのだなと思った、自分に足りないのはやはり実際の経験とその時間の長さなのだと。
だがそう思って尊敬の眼差しを向けるリムナリアに、王はこう言ったのだ。
「まあ、以前私も同じ事をやってな、それを見ていた城の倉庫番にこっそりと教えてもらったのだ、こっそりとな」
まるで少年の様な行動と物言いに先ほどとは別の形で膝から力が抜けそうになる。
まだ見ぬ我らがサンカニアの王は如何なる人物かとリムナリアの方も構えていた訳だが、史書や噂の中に見えていた王はもっと威厳と神秘性があり、王国の過去と今に心を痛める深窓の貴人、愁いを帯びた…と思っていた時期が彼女にもあったのだ、つい先ほどまで。
だが現実は引き篭もりで悲観的で、でも優しさと遊び心を持つ少年の様な面も持ち合わせている。
尊敬は少しだけ薄れたがそれ以上に安心感を覚える、何と言うかこう…とても現実的な存在になった、物語の中から飛び出して来て魔法が使えなくなってしまったと嘆く魔法使いのような。
「なんだか王様とお話していると、私まで子供の頃に戻ってしまいそうです」
「それではまるで私が子供のようと、いや待て其方の子供時代などつい先日の事だろう、私ばかりがむむむ」
燭台の火に照らされ少しだけ大袈裟に唸って見せる王は無邪気で、この庭に彼の母である先代王妃と共に在った頃から変わっていないのだろうと思えた。
そう、きっと王の心は王位の継承とその後の両親の死から止まってしまっているのだろう、変わらぬように変えぬように現状を維持する事にのみ腐心してきたその治世のあり様は、その心も同じだったのかもしれない。
だが自己を卑下する様な事を言う王よりも、諦めた様な表情を見せる王よりも、少しだけ威厳は無くとも少年の様に無邪気な王の方が私は好きだなと、リムナリアは思った。
「あの、王様?もしよければまた私と遊んで下さいませんか、また今夜のように想像をして。あ、政務でお忙しいと思いますので無理にとは言いません、でも例えばまたこうして夜中にここで」
どうしてこの話の流れで今後も定期的に夜に逢引しましょうという話になるのかサンカニア王には全く理解出来なかったが、きっとリムナリアなりに自分を元気付けようとしてくれているのだと思い、この小さな臣下の申し出を受ける事にした。
どのみち政務など全く忙しくは無く、今回の正規軍騒動の様な事態でも起きない限り常に暇を持て余しており、この庭を訪れる者も自分以外には居なかったのだから丁度良い親孝行にもなるだろうと思ったのだ。
それにどうせもう色々と内情や心情を話してしまったのだから、今更どうなろうと知るものかという諦めもあった。
「まあそれは良い、あの想像上の町を組み上げ見て回るのは存外楽しかった、だがそもそも其方は王都におらぬではないか」
「まーまー、確かにそうでした。あ、でも王様、ベルメナムは王の助言者、ですからいつかは私もお父様の様に常に王様の側にあってその政務に貢献出来ればと思っております」
確かにベルメナム家の当主は他家と違い、自領を治めるだけではなく多くの時間を王都の王の側で過ごす事が多い。
リムナリアが幼い頃にも父親が長期に渡って館を留守にし、姉や執事たちが領地の運営を行っている時期があった、そういえば彼女たちが忙しくするその度に話し相手が居なくなった自分は黙々と本を読んでいたなと思う。
そういった幼少からの環境も、リムナリアが本の虫になり、物語の中や想像の世界の住人になる事を助長していたのかもしれない。
「しかし其方もじきに成人であろう、ベルメナム家の娘に縁談が来ないとは思えぬ、出来ぬ約束はせぬことだ」
「まー、ですがお姉様たちが家を離れておりますので、私は家に残ってお父様不在の間の政務を担わなければなりませんし、きっと未婚のままいずれベルメナム家の当主になるのだと思います、そうしてロトナムかケンラシアからお姉様の子を養子としてベルメナムに…」
王としてはどうしてそうなるのだとも思うし、18の娘がそんな夢の無い事を言うものじゃないとも思ったが、こんな夢の無い国を治めている自分が言えた事かと声に出すのが躊躇われた。
王であるならば民のみならず臣下たちの幸せも守り育むものだ、とは記憶の中のパルデニア王の言葉である、自分とは違い名君と呼ばれたかの優しき王は理想であり憧れであったが、今やその背中を追いかける事すら出来ていない。
改めて情けない限りだが、だからといってどうにか出来るとも思えない、国を良くする知恵は無く、無い知恵を絞った結果がこの有様では。
そう考えてなるほどと思う、だからこそサンカニアにはベルメナムが必要なのだと、それは劇薬で猛毒だが、それでも大が小を兼ねる事はあってもその逆は無いのだ。
それにベルメナムの現当主で共に学び育った友たる者は長く病床にふせったままでここ数年声を聞けていない、ずっと現状維持を貫いて来た自分が正規軍の募集などという身の丈に合わぬ大それた事をやってしまったのもきっと薬が足りていなかったからなのだ。
「待て待て、あれも私と大して歳は変わらぬのだからまだ引退を考える様な歳では無かろう、あれの側にはあの執事もいるのであろう?それにベルメナム領には我らの師であるソラム殿もおるはずだ。ならばいずれ其方の姉の子を直接あれの養子とすれば良いではないか、其方が未婚で領地に残る必要などあるまい」
「まー、でも、私みたいな者にも縁談はあるでしょうか、お姉様たちに比べて余りにも無力な私に…」
其方が無力なら私はそれ以下の何なのだ、と言いそうになったが飲み込んだ王、せっかく自分を元気づける為に遊び(夜遊びだが)の提案してくれている相手にこれ以上愚痴をこぼして困らせたくは無い、それも年端も行かぬ友の娘に。
だからせめてここは王らしい威厳を示すべく、その無自覚の才を最大限に褒め明るい未来の可能性を提示して見せた、はずだったのだが。
「ある、あるに決まっておろう、其方には才も縁談もある。王である私が保証しよう、其方の様な者が側にあって助言をしてくれたならと思わずにはいられない、其方の伴侶となる者が羨ましいぞ、私は其方の幸せを最大限に願い支えようではないか」
「まー、そんな…。あ、でも、まー!そうだわ、王様!もし私にやはり縁談が無かった時には、その、そう言っていただけるのなら、その、実権など無い形だけの第三、いえ第四夫人くらいで構いませんのでお側に置いて下さいませんか、そうすればずっと王様にご助言出来る立場に…」
だからこの話の流れでどうしてそうなるのか、と再び思わずにはいられない。
実権だとか形や体裁だとか、そんなものはどうでもいい、百歩譲ってきっと縁談はあるのだからその後の発言は無視してもいい、いい、が、いややっぱりよくない。
王には色々と言いたい事があったがその全てが形にはならずに頭の中で暴れ狂う。
何を馬鹿なと一蹴するには王の心は少年すぎたのだ、この歳まで未婚の王にとってそれは王妃に当たる第一夫人と変わりなく、そもそも婚姻話をされる事が人生で初めてであった。
いや、先ほどのリムナリアのあの発言を婚姻話と言っていいかは微妙だが…恐らく本人はその様なつもりで言ったのでは無いのだから。
「よ、よい、分かったもうよい。其方の好きにすれば良かろう、とにかく其方は、いや其方なら、そのつまりそそ其方であればだな」
「王様?その“其方”っていうの言いづらくありませんか?どうぞお気軽にリムナリア、もしくはリーナとお呼び下さい」
「リーィイ!?そのリーナと言うのは其方の愛称であろう、気軽がどうのという問題では無いぞ!」
「ではリムナリアと」
考えてみれば王妃は母上であった、使用人たちは其方や其の方らであった、数少ない社交の場でもケンラシア夫人や使者殿、君や貴方の様な呼び方をしていた。
つまり、例外で呼ぶ事はあっても恒常的に人を名で呼んだ事など無かったのだ。
王は深呼吸をしたっぷりと覚悟を決める間を取って一度視線を外した後にゴクリと喉を鳴らしてから再び目を合わせて何度か口をパクパクさせてから。
「よかろうリムナリアそなたがそういうのであればおうとしてそのねがいもききとどけようではないかついでにわたしのことはエジムとよぶがよい」
「まー!嬉しいですエジム様!」
突然上を向き「今夜は星空が綺麗だな」などと見飽きたはずの夜空を褒める王と並んで、「本当に」と返したリムナリアはしばしその本当に綺麗だと思っている夜空を堪能する。
王にとって無限の夜空も、その下に広がる大地も、何年何十年経っても変わらぬその景色は退屈でしかなかったが、ふと横を見ればその景色に見入るまだあどけない顔と、星々よりも余程綺麗な瞳があった。
この宝石を曇らせたりなどしたら立派な王とは言えぬだろうと、目指すべきかの優しき王に叱られるだろうと思うし、単純にそんな事があっていいはずが無いとも思った。
「次の機会にはどんな町を作りましょうか、今度は煙が幾筋も立ち上る工業都市?それとも動物や虫の音が聞こえる大農村も面白いかもしれません」
「そうだな、いずれにせよ今のサンカニアよりは良い町が出来ることだろう」
「もう、エジム様!」
王は思う、本当にそんな町が作れたなら、サンカニアの地に実現出来たなら、君はもっと喜んでくれるだろうかと。
しかし祖先が願い実行し、実現出来なかった夢の町、想像の中でしか存在し得ない幻の町である。
夢は夢の中にしか存在しない、それを現実にしようなどという欲を出した王は失意の底に沈んだのだ。
自分もまた底なしの沼の上に立っているようなもので、いや正規軍騒動の事を思えば既に腰くらいまで沼に沈んでしまっている状態かもしれない。
であればこれ以上沈まないように動かず何もせず静かにしているか、もしくは諦めて緩やかな沈下を受け入れるか。
「作りましょう、エジム様。一緒に作りましょう夢の町を。いつの日にか、このサンカニアの地にも、それが私の夢でもあります」
そんな王を引き上げようと一生懸命に手を伸ばす者がいる。
まだ成人もしていない友の娘、小さな臣下、大切な国民、王たる者がその幸せを守るべき存在。
かの優しき王ならば、絶対にその幸せを諦める事は無いだろう。
「初代の王が名付けたバロアーゾ(陽の当たる)、真のバロアーゾサンカニア、か」
失意の底に沈んだ歴代の王たちは愚王だったのか。
能力は足りなかったかもしれない、決断を誤ったかもしれない、国を更に疲弊させた愚者だったかもしれない。
だが少なくとも国の未来と国民の幸せを願い、行動を起こした王たちであった。
その愚かさと共に、その勇気もサンカニアの血には流れているはずである。
ならばその勇気を奮い起こしその愚かさは誰かに補って貰えばいい、歴代の王たちがそうしてきたように助言者に頼ればいいのだ。
幸いにして王の助言者たる当代のベルメナムには信頼する友の他に稀代の才媛とも評される娘たちもいる、それもよりにもよって重鎮3家それぞれにだ。
頭が痛くなりそうだがこんな事は過去に無かった、ならば、何かとてつもない事が起こるかもしれない、それが良い事であれ悪い事であれだ。
後は自分が勇気と共にその一歩を踏み出すか否かである。
「リムナリア」
「はい」
勇気を、ゆ、ゆ、勇気、を…
「私如きが君が幸せになれる国を作りたいと思うのは強欲だろうか」
「エジム様と共に国を作れたならリーナは幸せです」
その笑顔は彼の母が好きだった美しい花たち、今年はまだそこに植える事が出来ていない、陽の当たる大輪の花たちにも勝る素敵な笑顔だった。
王はその後のやりとりをよく覚えていない、一生分の勇気をそこで使い果たし抜け殻の様になってしまっていたのかもしれない。
だがその抜け殻を叩いて砕こうとする様な悪夢の到来は覚えていた、人生における大事件が起きたはずなのに、その直後にそれに勝るとも劣らないもう一つの大事件が起きたのである。
「一人で部屋まで帰れるか」
「えー、大丈夫ですエジム様、ほら丁度部屋の方へ向かう廊下の灯りだけ燃え尽きずに残っています。ではおやすみなさいませ」
「おやすみリムナリア」
壁に備え付けられた燭台の光に導かれて迷うことなく廊下を行くリムナリアを見送り、王はため息をついた。
かなり長い時間リムナリアと共に居た、その記憶を思い出せば自然と心臓の鼓動が早くなる、だがそれとは別に心臓に負担を掛ける状況が目の前にあった。
まだ夜明けには早いがそれでも夜から朝に傾きかけている時間である、経済的に苦しい城は節約の為に燭台の灯を燃え尽きるまで灯さず、夜半に最後の見回りを行った者が消して回るのだ。
「誰かおるのか」
そう何処へともなく問いかければ、灯りの陰になっている柱の裏から2つの人影が現れた。
それはとても以外で、そしてたった今リムナリアと別れた王にとってとてもマズイ相手であった。
「まー、その、こんばんは我が王」
「えー、ご挨拶申し上げます王よ」
姿を現したのはこんな時間にこんな場所でこの様な形で会って良いはずの無い人物。
リリスティアニア・ケンラシアと、リンデルシア・ロトナム。
そして何よりもリムナリアの姉であるという事実が非常にマズイ。
「いつから、いや何処におったのだ…」
「えーえー…、夜番をしていた使用人からリムナリアが部屋を出てそのまま戻る様子が無いと」
「えーえー…、部屋を出るだけならわざわざ起こされる事も無かったのですけど、戻らないとなるとその、報告が必要と判断したみたいでして」
やり手の2人の事だ、きっと何か異変は無いか、誰かが誰かと密会(この場合は逢引では無く密談)をしていないか、などと警戒して寝ずの番を置いていたのだろう。
そんな中でベルメナム家の代表たるリムナリアが夜半に部屋を抜け出しそのまま戻らぬとなれば、確かに何か怪しいと感じても致し方あるまい。
「リムナリアか城の者かは定かでは無いものの、最後に動く燭台の灯を見たのがこちらの方だった、と聞きまして」
「えーえー、この区画は王の寝所でございましょう?もしリムナリアであればその、色々と知る者は少ない方が良いかと判断し」
「それで使用人では無く其方たちが直々にここまで確認に来たという訳か、道中の燭台を灯しながら」
威厳と冷静さを保ちながら、きっと保てていると信じながら状況を確認する王の心臓はバクバクと脈打っている。
一体何処まで見られていた、何処まで聞かれていたのかと。
あんなものは誰がどう見ても男女の逢引である、それも会っていたのが侍女などであれば王の戯れ程度で済む、済むといいな、といったところだが相手はリムナリアで臣下で友の娘で会議の一角で、未成年である。
いや、別に20歳の成人を迎えずとも結婚をする例はいくらでもある、政略結婚ともなれば15歳で社交界デビューを果たすと同時に婚約といった事も普通にある、そう普通にあるのだ。
だがそれでも、それを見ていたのがその姉であるというのはいかにもバツが悪く、気まずい。
「…それで」
「まー…、この庭の入り口からでは遠く、ええ、会話は聞こえておりませんのでご安心を」
「…うむ、何を見た」
「えー…、と、丁度灯りに照らされた姿で王とリムナリアだと分かり…」
「まー…、すぐにリムナリアが灯りを消して…」
「えー…、2人の姿が近づきリムナリアを抱き上げて…」
「まー…、2人の影が重なって…キャッ」
終わった、私の治世は今日この日をもって終わりを告げた、と絶望の表情を浮かべる王の前で、キャッキャ言いながら顔を赤らめ恥ずかしそうにする国を滅ぼす悪魔が2人。
言い訳をしたいが、状況だけ聞けば言い逃れは出来なさそうに思える、誰がこの話を聞いてなるほど国の将来の話をしていたのかと信じる者がいるだろうか。
サンカニア王国は明日からベルメナム王国になっているかもしれないし、もしくは傀儡の王としてベルメナムが実権を握るのかもしれない。
やはりサンカニアの王は勇気など出してはいけないのだ、そうすれば必ず想定外の事態に陥るのだ。
「…く、それで」
「えーえー、勿論何も見ておりませんわ!」
「えーえー、野暮な事を言ってリーナに嫌われたくないものね!」
「しばらくは知らぬふりをし泳がそうと、そういう事か、なんとベルメナムらしい…」
そうなのだ、昔からベルメナムとはこういったからめ手を得意としていて、この2人の父親であるあいつも陰湿な…
思い出しても腹立たしい、小難しい事を言って私が理解していないのを良い事に後日「こないだ言っておいたではないか…」などと言いおる!
はっ、まさかあのリムナリアも先ほどはああ言っていたがその実…いやそんなはずは、いや待て何処から何処までが…
しゃがみこんで頭を抱える王を、恥ずかしさのあまり悶絶していると判断した2人は、置き土産をしてその場を辞する事にした。
「まーまー、王様?もしよろしければなのですが」
「えーえー、出過ぎた真似をと思われましたなら申し訳ございません」
「なんだ、まだ何かあるのか…」
「リムナリアの興味の最たるは歴史にありますわ」
「リムナリアは常に話し相手を求めていますのよ」
ベルメナムの贈り物は愛でも物でも無い、受け取った方がそれをどう扱うかは相手次第、そんな、ちょっとだけ意地悪な贈り物。
そしてベルメナムとは常に、王の助言者なのである。
第五.五幕:幕間「私如きが君が幸せになれる国を作りたいと思うのは強欲だろうか」 了
幕間としては少し長くなりました、リムナリアが頑張ってしまったので…
さてこれにて第一次サンカニア王国編とも言うべき内容はおしまいです。
お次は東のゼルゴニア王国へ!北方諸国連合で1番の軍事力と2番の経済力を持つ大国で果たして何が巻き起こるのか…乞うご期待っ!
そういえばよく漫画や小説などを描いて(書いて)いる人がこんな事を言っていますね。
キャラが勝手に動き始める、独りでに喋り出す、etc...
これ本当です、特に今回はリムナリアがそれでした(汗
私の中でこの「最後の騎士」はその終わり方も、その道中のおおよその出来事も、それぞれの場面に登場するキャラたちも最初からだいたい決まっています。
散々頭の中で妄想を繰り広げた末に完成した物語を文章化しているからです。
ですが実際に書いていると、新たな案が出てきたりボリュームのバランス等の観点で増減したりするエピソードもあります。
そんな時によくあるのが、特定のキャラがもっと喋らせろと主張してきたり、私だったらそう(本来の予定)じゃなくてこう(書き替えられた内容)すると思うんだけどなぁ、とクレームを付けてきたり。
文字にして実際に書く事でキャラたちがより個性や具体性を帯びて現れ、結果作者に反旗を翻すのです。
で、大抵の場合そうなった時には大人しくキャラの主張に屈して書き直した方が結果的にしっくりくるという。
今回のサンカニア王国編だと、最も暴れたのがリムナリアであり、最もそのあおりをくって出番が減ったのがソラム老ですw
本当はサンカニア王とベルメナム家当主とその執事の3人の師たるソラムさんはもっと早くに王都に召喚されて色々言う予定だったんですが、全カットされました(ごめんよソラムのじっちゃん)
同様に調停会議に呼ばれる予定だったパンザニット村の村長も出番が一瞬に。
ですがまぁ、丸く収まったのではないかと思います。
書きたかったベルメナムらしさも書けたのでヨシ
ではまた次回お会いしましょう。
…次は新たな章っぽい感じになるので少し時間がかかるかもしれませんが。