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35.ひめい

 






 グレースパーム大灯台の天辺。

 ガラス張りの巨大な照射灯が設置されているその場所には小さなベンチがあり、アマネアレイユはそこに座り込んでリンゴを頬張っていた。

 口をいっぱいに膨らませる彼女。シャクシャクと小気味のいい音がしている。

 ゆったりとしたいい気分である。


 こんな日は歌でも歌いたいくらいの良い気分であった。

 事実、そうなっていたはずなのだ。あの少女と出会っていなければ。


 アマネの脳内はいま、あの抱き上げてしまった少女のことでいっぱいになっていた。

 視線は遥か遠くの水平線上を望んでいる。手元には大好物のりんごがあって、リスのような頬で食べている。

 にも関わらず、脳はその情報の一切を受け付けていなかった。

 半ば放心状態である。


 ───関わるべきだっただろうか?

 アマネは考えにふける。

 少女を抱き上げた時にこの目で見た。

 容姿は……あれとはまるで違う。しかし気配は間違いなくあれと同一と言って良いようなもの。


 いや無駄な思考だとアマネはかむりを振る。

 助けた以上は、それ以外のことを考えても仕方がないのだ。

 アイツも言っていた。「後悔ほど無意味なものはない。いま以上の最善などありはしないのだから」と。


 とりあえず病院にでも連れて行こうか、なんて。リンゴをゴクリと飲み込んで、彼女はため息交じりにそう思案する。


 そう自分の心をリセットした矢先。どこか奇妙な感覚が彼女の背筋をなでる。

 下のほうから、なにか強烈に嫌なものがせり上がってくる───そんな感覚。

 思い当たる節は一つしかない。あの少女が目を覚ましたのだろうかと、アマネはすこし憂鬱になった。


 そうして。

 よいしょと立ち上がった彼女。

 ふと目を向けた下に降りるためのハッチ。

 ほとんど無意識にそこをじっと見ていた彼女は、思いがけず「その瞬間」を目の当たりにしてしまった。


 ───ハッチからおぞましいエーテルが染み出してくる瞬間を。


「ぃぃいいいいいいいっ!?」


 ズザーッっと勢いよく後ずさりしたアマネは後ろにあった鉄柵にガンと背中をぶつける。

 かなり痛みのありそうなぶつかり方だったがそれを気にする様子はない。いま彼女は、じわじわと足元まで近づいてくるそのエーテルに意識が釘付けである。


 魔法や魔術に類しない素のエーテルは普通人に見えることはないが。

 奇しくも魔力視の魔眼を有する彼女には、それがはっきりと確認できてしまっていた。


「はあっ、はあっ、はあっ……!!!」


 ───だめだ、息が上がってしまう!

 動悸が激しくなり、それにともなって呼吸が荒くなる。うまく息ができない。

 落ち着いて深呼吸をしようとする。落ち着いて、落ち着け、冷静になれ。


 じっと見つめていたエーテルが靴の先に触れる。

 彼女はその瞬間、驚愕に目を見開きながら口元をきゅっと結んで息を止めていた。

 まるで「息を止めれば見つからない」とでもいうかのようである。

 やがて水のように広がったそのエーテルは足元を通り過ぎ、流れ落ちるように灯台の外壁のほうへと伝っていく。

 さいわいにも、彼女に何かをするような意図はなかったらしい。


 それらはほんの10秒くらいの出来事ではあるが、彼女にとっては恐ろしく長い時間のように感じられた。

 いまだ緊張の糸は解けていない。

 彼女の足元にはまだ、あの・・おぞましさを放つエーテルが広がっている。もっとも、「おぞましい」というのはあくまで彼女の主観でしかないけれど。


 そんな状態がしばらく続いただろうか。

 なんとか肺に息を落とし込むことができるようになってきたアマネは、痙攣し始めた両足を支えるために柵にしがみついて寄りかかっている。


 額から流れる汗を拭い、少しばかり冷静さを取り戻せるようになった頃合いである。

 ───エーテルが励起する。


「…………ァっ」


 紫色に光るもやが出現し、一瞬にして彼女を含む大灯台をいとも容易く包み込んだ。

 ひゅっと気道が狭くなるような、心臓を鷲掴みにされるような感覚が彼女を襲う。

 張り詰めていた糸がさらに限界まで引っ張られる。


 いや限界であった。


 腰が抜け、彼女は地面にへたり込む。

 それと同時に「じょわぁ」と生温かい液体が彼女のいる場所から広がっていく。

 過去のトラウマがありありと脳裏によみがえる。いや、それはもはや鮮明な幻覚となって彼女の前に現れていた。

 おもちゃを見つけたと言わんばかりのあの目が。こちらを何とも思っていないあの目が。

 あの双眸が。


 無意識に叫び声を上げようとするが、ヒューと乾いた音が空気とともに漏れるばかり。


 大粒の涙をこぼすことしかできない状況で、だが不意に、パッと呆気なくもやが晴れる。

 彼女を取り囲んでいた幻覚も、何事もなかったようにきれいさっぱり消えてなくなってしまった。

 怒涛の恐怖からの解放。

 その瞬間、彼女はせきを切ったように、甲高い綺麗な悲鳴を青空に向かって上げたのだった。





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