第2章 昭和テニスマン、壁で妖精と再会す。ツンデレでビックリ!
第2章 第1話 再会 令和6年4月5日(金)
1 今日は春休み最後の日だ。
僕は、朝5時に起きて、丼にご飯山盛りにして、卵3個かけて、お醤油を回しかけ、スプーンでグリグリ混ぜて、「あーウメーっ」て、かきこんだ。これは完全に飲み物だね。ゲフー、食ったー。
ジャーに残ったご飯で、塩だけの大きなおにぎりを握って、R22とボール2個を一緒にリュックに詰め、自転車で家を出た。テニスシューズとジャージ、まだ少し寒いのでウィンドアップを羽織る。
旧甲州街道を西に向かい、分倍河原から南に折れて、府中市総合体育館へ。自転車置き場のすぐ前が、テニスの壁打ち用の壁だ。昼間来ると混んでてやりにくいから、早朝に来ることが多い。
お、やった、誰も来てない。今日は貸し切りだ。
2 壁は長さ30mくらい。ネットの高さに白いラインが入っている。僕は、一番奥に陣取ってリュックを置き、ラケットとボールを取り出し、壁に近づいて、軽くアップを始める。
薄いグリップでラケットを持ち、フォアハンドをポンと壁に当て、返ってきた球を体重移動しながら打ち返す。何度か繰り返した後、壁から少し離れてハードヒットする。だいぶ強い球が打てるようになったけど、コンチネンタル(一番薄い握り)ではスピンかかんないから、ネット超えてから遠くまで飛んじゃうんだよな。だからショートクロスが打てないのが弱点だ。
ひとしきりフォアをやって今度はバック。スライスをかけて、ライン上に当てる。返ってきた球をまたライン上へ。おー、続くな。一球もミスらない。一歩も動かない。まるでマシーンだ。ずいぶん上手くなった。やっぱり継続は力なんだな。
向こうからもう一人、誰か壁打ちに来たけど、バックに集中する。
あれ? なんか近づいてくる? せっかくガラガラなんだからあっちでやってくれよ。って思ったら、
「もしかして、奈良君‥‥‥かな?」って、声が掛かった。
優し気で落ち着いた声音だった。
3 僕が顔を上げると、立っていたのは、ちょっと滅多にお目にかかれないくらい、すっごく綺麗な女の子だった。
テニスシューズにレモンイエローの短いキュロットスコート。上はアイボリーのTシャツに白いヨットパーカー。すごい色白で小顔。栗色の髪を白いキャップの穴から出してる。リボンはスコートに合わせてレモンイエロー。とっても可憐だ。
だけど、うう、どこで会ったっけ? 思い出せ。向こうは僕のこと知ってるんだ。そしたら、その子が、
「奈良君。バックのスライス、ずいぶん上手くなったのね。見違えちゃった」って、さも前から知ってたように言ってくるので、
「あのー、すみません。ホントに申し訳ないんですが、どちらかでお会いしましたでしょうか?」って丁寧に返したら、
「なっ! まさかあんた私のこと覚えてないの?」って、ぱっちりした二重のアーモンドアイを吊り上げて、プンプン怒り出しちゃったよ。やばいやばい、ツンデレなのか?
「いや、必死に思い出してるんだけどさ。えー? どこで会った?」
「ほら、去年のインハイ予選よ! あんたが真司君に負けて男子部員に慰められてたっていうか、逆に慰めてた時に、私手振ってあげたでしょ!」
「‥‥‥あー、思い出した。W実業の美人選手! あんときの?」
「やっと思い出したのね。ずいぶんつれないじゃないのよ」
「いや、そりゃ覚えてないだろ。一年近く前の話なんだし。全然変わってるし」
「え? そんなに変わってる?」
「うん、去年は日焼けしてて黒かったし、手足も鍛えられてて太かった。今は選手って感じじゃないな」
「そうなの。去年のインハイで16に残ったんだけど、それで一区切りにしたの。私身長150㎝しかないのね。上背のない、脚が速いだけのストローカーって、ほんとに掃いて捨てるほどいるのよ。特に女子ではね。テニスは好きだからこれからも続けるけど、現役選手はもう終わり」
150? そんなに小さい? 僕が思わず、上から下までジーって見てたら、
「あーっ! 今『ほんとにチビだな』って思ったでしょー?」って睨んでくるから、
「いや、そんなこと思ってない。全然別の事」
「じゃ、何なのよ」
「えー、言わなきゃいけない?」
「いいから言いなさいよ」
「まあ、それじゃ言うけどさ‥‥‥去年も綺麗だなって思ったけど、今はもっとずっと綺麗だなって。白くて長い脚がとっても素敵だなって。小さいって言うけど、手足が長くて小顔だから全然そう見えなくって、すごくスタイルがいいんだなって。こんな美人ホントにいるんだなって。できたらパーカー脱いだ胸も見てみたいなって、思った」って、正直に伝えた。
そしたら、その子は、
「な!」って言って、小ぶりなピンクの唇を真っ白な両手で覆って、真っ赤になっちゃった。内股になってフルフルしてる。なんと攻め専門なんだ。守りに回ると全然受け身取れないんだ。なんか可愛いじゃないか。
だから、(よしここは追撃だ)って思って、
「さらに言うと、こんな娘と友達になれたらいいなって、だけどなんか性格キツそうだし、美人は三日で飽きるっていうから、もうちょっと知ってからじゃないと危険かなって、思った」って言ったら、その子は、「そ、そんな余計なことまで言わないでいいわよ! もう、バカ!」って言って、左手で口塞いだまま、僕の腕をペチって叩いてきた。はは、なんかこういうの嬉しいな。
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「ああ、自己紹介まだだった。知ってるみたいだけど、俺は奈良裕。K高の3年。府中駅のそばに住んでる。名前教えてくれよ」
「私は、吉崎杏佳っていうの。アンズの『杏』に風味絶佳の『佳』」
「えーっ? あの吉崎杏佳? 吉崎って言ったら、去年の東京女王じゃないか。あれ、お前のことだったのか?」
「お、お前って、一応、私、あんたの一年先輩なのよ。今、W大の1年。法学部」
「あれ、そうだったのか。ごめん。知らなかった」
「まあ、いいわよ。私もこないだ18になったばっかりだしね。すごい早生まれなの。3月29日生まれ」
「なんだ。俺は来週の12日が誕生日だから、2週間しか違わないんじゃないか。そんなんで学年分かれるんだな。それじゃお前のことは『杏佳』でいいか? 俺も『裕』でいいよ」
「うん、それでいい。そうしよう。裕、よろしくね」って言って、杏佳はちょっと小首傾げて眼を細め、綺麗な微笑みを浮かべて、右手を差し出してきた。
これ絶対自分が美人だって分かってる人の仕草。
って分かってても、やられちゃう。
僕はシャツでゴシゴシ手を拭いてから、
「こちらこそ、よろしくな。杏佳」って言いながら、そっとその手を取った。
指が細くて、しっとりとした、小さな手だった。