第1章 令和5年6月 有明テニスの森公園 昭和テニスマン、妖精の記憶に強く残る
本作は、高校テニス競技を題材としたラブコメです。
テニスをされない方も読まれるので、実際のレギュレーションと少し異なり、試合は8ゲームマッチ(1ゲーム4ポイント先取)、東京都ベスト8でインターハイ進出の設定になっています。これは物語の複雑化を避けて読みやすくするための工夫ですので、どうかご容赦下さい。
第1章 第1話 有明テニスの森公園 インターハイ予選6回戦
ああ、よく拾ったわね。
だけど、やっと追いついて上げただけ。甘いボールがバックに返ってくる。
私は素早くボールに近づき、一瞬の間を取って視線をストレートに送り、だけどダブルハンドでクロスに叩き込む。相手の子はフェイントにつられて重心移動してたから、一歩も動けない。クロスに突き抜けていくボールを見て、「ああ‥‥‥」って空を仰ぐだけ。
「ゲームセット&マッチバイ吉崎。W実業高校の吉崎杏佳さんが8ー1で勝ちました」と、アンパイヤが試合終了を告げた。
私はネットに近づいて、相手の選手と握手を交わす。ああ、手で眼を擦ってる。3年生なのか、インターハイ逃したんだもんね。でも、泣くのはどうなの? だいぶ差があったわよ。
これで東京都ベスト8。今年もインハイ切符を手にした。去年は3回戦負け(ベスト32)だったけど、今年はどこまで行けるかしら?
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すぐに有明テニスの森1番コートに移動する。エントランスくぐったとこにある観客席のあるコート。真司君の試合まだやってるかしらね。急がないと。
手塚真司君は私の1年後輩の2年生。去年は1年生だけどインハイに出て、1回戦を突破した。
身長170㎝ないくらいの小柄な選手なんだけど、抜群のスピードとスタミナ、そして類まれなセンス。本人は嫌がってるけど、顧問の先生から「牛若丸」って、時代錯誤なあだ名で呼ばれてる。今年のW高期待の選手だ。
コート見えてきた。ああ、まだやってるな。間に合ってよかった。
って、あれ? 6オール? なんで? 真司君なにやってんのよ。もし次ブレークされたら負けが濃厚じゃないの。ええと、相手は、え? 都立K高? 都立の選手が都のベスト16まで上がって来てんの? って、デカっ! デカい! 何あれ? 190㎝は余裕で超えてるんじゃ‥‥‥。あんな選手がいたのか。
パンフを見ると、都立K高校の2年生、奈良裕。全然無名の選手だ。
6-6から真司君のサービスゲーム。小さいからフラットサーブは打てない。
スライスをかけてクロスへ、奈良君をコートから追い出し、前に詰める。奈良君は長身だから追いついて、真司君のバックサイドにロブ気味の球を上げる。小柄な選手の泣き所だ。だけど真司君も予想してて、サービスライン付近でボールに追いつき、奈良君のバックにボレーしてネットに詰める。あれ? バックじゃない? 奈良君サウスポーなんだ。
ああ、だけど真司君、それ緩い、浅い、これは逆襲される。一発で抜かれるよ。って覚悟したら、奈良君はボレーみたいな薄いグリップのままストレートに弱々しいパッシングを放った。薄いグリップじゃクロス打てないものね。真司君はそれを読んでで、もうストレートに寄ってる。そしてネット際にドロップボレー。上手い。奈良君は一歩も動けない。15ー0
真司君が次々とポイントを重ねる。驚いたことに、奈良君は、ワングリップだ。コンチネンタル(注 典型的な薄いグリップ。スピンをかけにくい)のまま、フォアもバックも、ボレーも全部こなしている。いまどきそんな選手、ただの一人もいないわよ。それじゃ、スピンかからないから、クロスに打てないじゃない。バックなんかスライスしか打てないから、パスが遅くて、全部真司君に追いつかれてる。
もしかして初心者? のワケないわよね。都の6回戦だもんね。
ゲーム手塚。これで7ー6。王手だ。インハイまであと4ポイント。
サーブ交代。奈良君は、ボールをポンポンと2回つき、スッとトスを上げる。
左足を右足に添えて、胸を開き、ラケットを直立させる。無理のない、綺麗なフォームだ。身体が弓なりに反りかえって、でもそれが少し前にあげたボールに向かって戻りながら、肘が先行してラケットヘッドが遅れて出てくる。身体全体を鞭のように使った、ゆったりとしたフォーム。
だけど、そこで、「パンッ!」という炸裂音と共に、ええっ! ボールが消えた‥‥‥。
センターのライン上が一瞬光ったような気がしたら、ボールはコート後ろの壁に「コポーン!」って音たてて激突してた。私には見えなかった。真司君もピクリとも動けなかった。
こ、これはすごい。本物だ。私、何度もコートサイドでプロの試合見たけど、こんなの見たことない。まさか都立にこんな選手がいたとは。
‥‥‥そうか。これは競るはずだ。
このサーブはそうそう破れない。真司君、大丈夫かな‥‥‥?