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ジョゼがお魚を食べると言う千載一隅の機会を逃したそのころ、地上ではアラムが相変わらず不機嫌絶頂だった。
昨日の夜の出来事が引き金となって魔法学校の内部に、いや、世間に、もとい、アラム曰く『お貴族様』のサロンなどに吹き荒れた嵐は、まだ始まったばかり。
アラムは卒業研究の指導教官から一週間で読破しろと渡された分厚い資料をめくりながら廊下を歩いていた。
いくつもいくつも研究室が並ぶ研究棟を一巡すると、研究の合間に世間話に花を咲かせる学生の声が嫌でも耳に入ってくる。
「ブリュイエールの長姫が王太子妃になるらしい」
「まさか。魔道師協会がそんな事を許すものか。かの姫を退学させるのと同義語だぞ」
「魔と王が交われば魔王が生まれる。王宮魔導師は魔王を生み出さぬために王家との縁組は禁止されている。子の学校を卒業すれば自動的に王宮魔導師となるというのに」
「開闢以来の不世出の天賦の才を、王宮の奥に閉じ込めてしまうなど、宝の持ち腐れどころの話では無い!」
「とはいえ、貴族筆頭のブリュイエール家本家長姫、王子との年の差は一つ、家柄も年回りも文句のつけようが、どころかこれ以上の良縁など在り得る筈も無い」
「加えて、マルグリッド殿下を放り出してジョゼフィーヌ姫の相手をするほどの殿下の御執心」
「王家の意向を妨げうるものなど……」
「ところで、マルグリッド殿下の降嫁先だが……」
「噂は本当か?セバルカンティ伯爵家、ブリュイエール一族とは言え名ばかりの末席の成金が」
「だがジョゼフィーヌ姫とも親しく、王子にも覚えめでたく……」
「変わり者との噂が……」
「そこはほら、腐ってもブリュイエールということだ。所詮、ブリュイエールと他の貴族とでは、格が違うというもの」
「ま、詳しい話は金魚の糞のアラム・ベリエルが知っているだろうさ」
くすくすと嘲るような笑い声が耳に届き、アラムはわざと大きな音を立てて歩き出した。
途端、途切れる内緒話の声。
聞かれて困る話なら誰が居るのか判らないような場所で話すな!と心底怒りを覚えながら、アラムは落ち着かない研究棟を出て、いつものように学校の象徴のような大聖堂へと向かった。
そこなら、不特定多数の雑音が雑音を打ち消すから、ピンポイントで今のような下らない噂話を聞かされるよりマシだろうと判断してのことだったのに。
目指す回廊が近づくにつれ研究棟など比較にならないほどの賑わいがアラムの耳に届いた。
「おお、君とまたここで会うことが出来るとは!」
「どうじゃね、十数年振りに戻ってきた学院は?」
回廊の一角に普段の数倍増しの人垣が出来ていた。しかもその構成員の殆どが、床までつきそうなほどの白いひげを蓄えた教授だったり、顔の半分以上を眼鏡が占拠する王宮魔導師だったり、凡そ日頃研究室の外で見たことがないといわれる層々たる面々が誰かを取り囲んでいる。
その誰か。アラムよりも十近く上だろう、黒い髪の男。どこかのお屋敷で雇われているかのような、お仕着せを来ている人間が何故骨の髄から実力主義に染まりきっている学院のお偉方の中心に座せるのか、理解が出来なかったのだが。
男を取り囲む教授の一人がアラムに気付き、手招きして呼び寄せたのを機に、アラムもその一角にまぎれ込む。
「おや、アラム、アラム・ベリエル!丁度良いところに来た、紹介しよう、こちらは学院の卒業生の……」
「レイ、と申します。君がアラム君ですね。お噂は何時もお嬢様より窺っております」
仄かな親愛の情をおり込んだ笑顔での挨拶。差し出された手を握り返しながらそれでもアラムは状況が掴めず首をかしげた。
「お嬢、サマ?失礼ですが、俺のことを誰から……?」
「ジョゼフィーヌじゃ。レイは彼女の家庭教師なんじゃよ」
「学院に属しておったときは我輩の城の研究の手伝いもしておったんじゃ」
「レイはわしが教鞭をとった生徒の中では抜群に優秀でのう、今のアラムにもひけを取らんぞい」
「お恥ずかしい限りです。私などとても……」
手放しで誉める教授の言葉にレイがはにかんで見せると、アラムの隣にいた教授が鼻息荒くその言葉を遮った。
「いいや、この間のジョゼフィーヌの答案を見たが、魔法構築理論の随所にそなたの理論構築手腕が見えた。おまけにそのお蔭で研究もぐんぐん捗ってのう、ワシは余りの嬉しさにジョゼフィーヌの解答に追加点をつけてしもうたわい」
……つまりは、あの学年末試験でアラムが主席を奪取できなかった最大要因が、これか。
アラムの中で彼の評価が急落していく。
「私を褒めても学院に戻ったりはしませんよ、先生方。申し訳ありませんが、今の私はブリュイエール家に仕える者ですから」
「なんじゃい、年寄りに微かな希望を持たせる優しさも持ち合わせておらんのか」
「学院に戻ってくるつもりがないというのなら、今日はいったい何しに来た?」
「うちの困った不良お嬢様をお迎えに参りました。城に上がる者は上がったゲートと同じゲートから退出する決まりになってますからね。昨日夜会に行ったまままだ戻らないんです」
は?まだ戻ってないのか?とアラムが疑問をはさみかけた時、学院の奥の庭のほうから白いコットンドレスに身を包んだ少女と、黒い制服に身を包んだ男が連れ立ってやってきた。
「ああ、姫、今朝一番にお会いすることの叶わなかったこのクリスをどうかお赦しを!」
「あら、私のこと、まだ姫と呼んでも構わないの?聞いたわよ、マルグリッド殿下とのお話」
昨日いきなり勃発した二大ゴシップのそれぞれの主役が登場し、回廊中の衆目を集める。
そんな中ジョゼがつんと澄まして話題沸騰中の話を振ると、居合わせたギャラリーが今一番の旬の話題を聞き逃すまいと一様に緊張に包まれた。
だが、そこは大貴族に生まれついた性質か、観衆を背負っているということに全く頓着せず、クリスはいつものようににへらっと笑ってほっぺたを掻いた。
「流石、姫は早耳でいらっしゃる。何処のお喋り雀がそのようなことを姫の耳に入れたのか」
「昨日の夜は陛下や殿下の御厚意で私が後宮に逗留したことを知っててそんな事言うのね?」
ジョゼが腰に手をあててむくれて見せると、周囲に電撃の如く動揺が走る。
これは王太子妃内定か!?と憶測が飛び交う中、クリスはぽん、と手を打ち鳴らした。
「ああ、そう言えば王太子殿下とこっそり夜会を脱け出した後お倒れになったんでしたっけ」
王子と夜会を脱け出してデート!?と周囲に意図的に誤解を与えつつ、クリスは大きく両手を広げて悲劇を吟じる詩人モードに突入した。
「おお、姫、王子の腕の中で儚くも気を失われたと聞いてこの私は驚きと自分への不甲斐無さに胸が張り裂けんばかり。姫と最後に言葉を交わしてより月が昇り、そして沈み行くこの永遠にも似た暗闇の中で、このクリス、本を読んでは姫を想い、ピアノを弾いては姫を案じ、定めしこの世から太陽が消え去ったかのようでした」
「そりゃ夜に太陽が出てたら大騒ぎだわね。たった一晩で何を大げさな。王女殿下の事で頭いっぱいで私のこと、忘れてたくせに」
「気のせいですよ、そんなに疑わないで下さい、姫。でなければ僕のこの胸の炎は悲しみの余り涙で消えてしまいます」
――大観衆の只中で軽口を叩きつづける二人を、アラムは複雑な気持ちで見ていた。
いつものように、ジョゼに怒りながら普通に話しかければ良いのに、まるで石像のように足が竦んで動けない。
まさに字のまま雲上人である王族との艶聞が取り沙汰される貴族の人間と、城に上がる資格すら有さないスラム出の自分。今までは真に魔法の実力のみの評価軸しか無かった三人の間に、新たな軸が突き刺さった心地がして、アラムは心臓が鷲掴みにされたような痛みを感じた。
(何なんだ、俺は、どうして――!?)
「大丈夫ですよ、アラム君。君もいずれはあちら側になる素質が在ります。……僕と違って」
突然ぽん、と肩を叩かれて、アラムはきょとんと傍らの男を見つめた。
一体何を言ったのか、理解が出来ない。
と、アラムを呼んだレイの声が耳に届いて、ジョゼとクリスが観客の中のアラムに気付いた。
「アラム!そんなところに居たのかい!」
「お久しぶりね、アラム!昨日も会ったけど!……て、あら?なんでレイがそこに居るの?」
口々に自分の思った事を口にしながら金髪の二人が近づいてくるに連れて回廊中の注意の焦点がアラムの回りに戻って来る。
「……よぉ。久しぶり」
笑顔で近づいてくるジョゼに精一杯努力して緩めたつもりの仏頂面でアラムは挨拶した。
その努力を踏みにじらぬよう込みあがる笑いの波をこらえつつ、レイも口を開く。
「やっと捕まえましたよ、お嬢様。まったく、どこをふらふらしてたんですか」
「だからどうしてレイが私を探すの?そもそもどうしてレイがここに居るのよ?今まで一度だってレイはうちの屋敷から出たこと無いじゃない?」
「もちろん、いきなりの社交界でいきなり朝帰りをやらかす不良お嬢様をお迎えにあがりました。お屋敷ではお嬢様の『大好きな』小父様方が手薬煉ひいてお待ちでしてね、使用人一同仕事になりませんのでとっとと戻っておもちゃにされて、使用人に平穏な労働環境返して下さい」
「うげっ」
ジョゼは苦虫を噛み潰したかのような表情になって、咄嗟に隣に居たクリスに縋りついた。
「な、何しに来てるのよ、昨日の今日で」
「昨日の今日だからこそ、でしょうね。色々伺いたい話があるのでしょう」
何処か投げやりな口調でレイが答えると、クリスも天使の羽を撒き散らしつつそれに続いた。
「きっと小父様たちも麗しの我が姫に会わずにはいられない心境なのでしょう。私の姫を崇める者どもが増えるのは喜ばしいこと、なれど私は考えてはいけないことを考えてしまいます、何故姫は私だけのものとなってくださらないのか。ああ、姫、私に少し手も情けをかけるお気持ちがあるならばこのクリスを奴隷第一の座に据え置いたままにしてください」
いつものように一頻り喋り終えたクリスがジョゼの手にキスをしようとして、ふとその手に光る赤い石に気がついた。
その途端、レイの表情が凍りつく。
――心なしか、声まで震えて。
「……お嬢様、この指輪は?」
「え、ああ、エルネスト殿下が下さったの。それがなにか?」
ジョゼの言葉にギャラリーは固まり、クリスは雷にでも撃たれたかのごとく後ろによろめき、そして。
「会って一晩で婚約ですか。お嬢様が色事にこんなに電光石火であらせられるとはついぞ知りませんでしたよ」
溜息混じりのレイの呟きは、静まり返った回廊に波紋が広がるように広がっていく。
「こ、こここここ婚約!?」
「おお、姫、私という者がありながらかくも冷たい仕打ちをなさるとは!ああ、でも、姫に与えられた愛の試練というのであればこのクリス、姫をさらって地の果てまでをも逃げて行く覚悟がございますが何分親もそろそろ耄碌してきておりましてそんなことをしては心の臓を止めてしまうのは間違い無くそのようなことは不憫で何とも成し得難く……」
「ああ、もう、クリスは黙ってて!!」
ジョゼは縋りついてくるクリスを振り払うとレイの胸ぐらを掴んだ。
「一体どういうことよ!説明して!!」
「どうもこうも、男が女に指輪を贈るだなんて理由は古来より一つしかないでしょう。それにお嬢様がお持ちのそれ、どう見ても古式ゆかしい王家伝来製法の結婚指輪ですし」
ジョゼは唖然として指にはまる宝玉をみた。
そんな大層なものだとは思わなかった。だって、王子は「これさえあれば城の中で不自由しませんから」というだけで……。
――そりゃ、王子の婚約者ともなれば不自由する筈がない。
「騙された!」
ジョゼは痛烈に舌打ちすると憤然としてレイを放り出してくるりと踵を返すと、憐れな観衆を薙ぎ倒しながら一目散に奥の庭を目指して駆け出した。
「私の説明が足りませんでした。あの指輪は正確には婚約指輪ではありません」
そう、レイが溜息と共に釈明した。
城に上がるゲートに再度突撃しようとしていたジョゼを何とか引きとめることに成功したレイは、ブリュイエール邸への道すがら、こんこんと解説を付け加える。
「城には数々の防御魔法が張り巡らされています。それは城を守るものもあれば王族を守るものもある。それらの魔法に全く阻まれることがないのは唯一王族のみです。その指輪の石は王族の血を材料に作られる魔道具で、持ち主に王族と同じ資格を与えるものなのですよ。そういう効果を持つからこそ王家の血を持たない婚姻相手を王族に列するため婚約指輪として利用されてきた代物なのですが、――王子の解説は簡単すぎるとはいえ的確ですし、誤りではありませんね」
「成程」
ジョゼはひっきりなしに痛む頭を押さえつけた。これで後宮逗留中の侍女たちの態度が納得できるというものだ。
「でもなんで王子は私にそんな大変なものを……」
「お嬢様が城の研究をなさるからですよ。心当たりはございませんか?王族のみが立ち入りを赦されるところに……」
「まさか、玄室!?」
ジョゼがひっくり返った声を上げると、レイも静かに頷いてそれを肯定する。
「城の研究をゆるされたものには特別に玄室への立ち入りを許可するため、指輪の貸与が認められます。ですがその審議は慎重に慎重を期すため長引きますし、殿下は恐らくお嬢様がまた玄室に入りたがるだろうとお心を砕いてくださったのでしょうに……お嬢様、後宮に居た半日、いったい何をしてらしたんですか?」
「う……」
額に冷や汗を浮かせて更に足早になったジョゼを、後ろから深い深い溜息が襲いかかった。
「やはり、予想通り後宮で浮かれ遊んでいたんですね?」
「だって、朝ごはんに見たこともないものが出たのよ!ぶよぶよで透き通ってて、なんだろう、もしかしてお魚かしらって気になって気になって、そうしたらマルグリッド殿下が私にいきなり襲い掛かってくるんだもの!それから、それから!……って、あれ?」
レイにどれだけ自分を大変なことが襲ったかということを主張しかけて、ジョゼの脳裏をふと疑問が通り過ぎた。
そういえば、あの時。
「……ねえ、レイ。この指輪って、王族じゃない人に王族同等の資格を与えるものなのよね?」
「……ええ、まあ」
王女はこの指輪と同じ物を持っていた。すなわち、王女は『王女』じゃないということ……?
ということは、王女は王の娘ではなく、ということは、王妃は不倫……?
「~~~~~~~~~!!」
いやいやいやいやいやいやいや。
ちょっと待て、とジョゼは自分の暴走しかけた思考回路を押しとどめた。
幾らなんでも高貴な人にいきなり不埒な罪状を疑うなんてこと、赦されない。
ていうか、ジョゼの身には余る問題だ。そういう大きいゴタゴタは小父様たちが面白おかしくやってくれてればいい。出来ればジョゼの関係のないところで収束すると尚良し。
――果てしなく現実逃避な結論を纏めあげたとき、レイはさっくりと話を切り替えた。
「何が気になるのかは知りませんがとりあえずは今の話に戻しますよ。お嬢様、今日はとっととお屋敷に押しかけてきてる公爵様たちをあしらって追っ払ってくださいね。それからとっとと支度して、暫く王宮に上がっていただきます。あの部屋に残る魔術構成を全部ノートにコピーしていただきますから。とりあえずお嬢様の卒業研究はまずそこからです」
レイがさらっと出した課題に、ジョゼは愕然として本気で目の前が真っ暗になったと思った。
「あ、あの膨大な魔術構成を全部書き写すの!?無理よ!」
「大丈夫です。私の場合一ヶ月ほどで出来ましたから」
「レイは異常なのよ!!貸してくれたっていいじゃない!」
ヒステリックに叫びを上げたジョゼを、レイは冷ややかに見据え、そして厳かに託宣を授けるかのごとく宣言した。
「……お嬢様、筆写が終わるまでお食事デザート抜きです」
がーん、とジョゼを大きな衝撃が襲った。だが、それにめげるようではレイの教え子は勤まらない。ジョゼは出来る限りありったけの悪口を並べ始めた。
「レイの意地悪!極悪非道の冷徹魔人!!それから、それから……!!」
「お嬢様」
不自然ににこやかな声に釣られて恐る恐るジョゼが視線を上に上げると、滅多に見られないレイの極上の笑顔がそこにはあった。
「王宮で良いもの食べ過ぎて少し太られたのではありませんか?私がお育てするからには完璧なレディになっていただかなくては困りますからね。そうですね、明日からと言わず今日からダイエットしましょうか。そうですね、断食などは如何ですか?」
「――!!」
ジョゼの表情が瞬時に凍りついたのを見てレイは勝ち誇った笑みを浮かべ満足げに頷いた。
「ようやく年上の人間の言葉に素直に従う心が出てきたようで、大変嬉しゅうございます。これも長年にわたる私の教育の賜物ですね」
「……レイのは脅迫って言うのよ」
「当然の要求ですよ。私が監督を務める私の生徒が私の専攻であった城の研究をすると言うのに、公爵様たちの茶々が入ってもう一月以上も学業が滞ってますからね。今の状況判ってますか?お嬢様はまだ研究のスタートラインにすら立ててない状況なんですよ?城の研究の根幹をなすのは城の魔術構成。どんなに高名な魔導師でも、いいや、後世に名を残すほどの力の在る魔導師だからこそ写本作りから研究を始められました。なのにそれを人のものを借りて楽をしようだなどと、なんと嘆かわしい……」
「ああもう、判りました!判ったから!自分の力で写本作ります!!」
根を上げたジョゼが叫び声をあげると、レイは冷ややかにその決断に切りつけた。
「当然です。偉そうに言わないでください。ま、ご褒美として暫く公爵様たちの邪魔は防いで差し上げます。これ以上研究を滞らせるわけには参りませんからね。とっとと写本作って研究始めましょうね。私の生徒が生半可な論文書くだなんて許しませんから、昼夜関係無くバシバシ気合入れていきますよ」
天使のように穏やかな微笑を浮かべながらごり押ししてくる人間が最も怖いと言うことを、ジョゼは改めて思い知った。