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新学期早々、全く姿を見せなくなったジョゼに対して、アラムは心底いらついていた。
あの小娘は、八年生の教室をキンキラキンに飾り立てたまま、雨だなんて壮大なテーマを研究目標に選んでおいて、これほどまでにさぼり倒すとは!全く正気の沙汰とは思えない。
ジョゼが新学年になって登校したのはたったの三日。本気で救いようの無い阿呆だと思う。
その怒りをいつもぶつけていたクリスも今日は欠席だった。
何故なら今日はあのクソガキが社交界デビューで、ジョゼは勿論何週間もの間準備に忙殺され、エスコート役を買って出たクリスも今日だけは一日がかりで支度を余儀なくされている。
全く、貴族ってやつはどこまでも無駄なことばっかりだ。
憤然としながらアラムはお気に入りの中庭の回廊の一角で午後ずっと読書に没頭しようとしていたのに、消化しきれない怒りがアラムの頭に靄をかけ、読んだ字面の大半が意味をなさずにアラムの中を通りすぎていく。
と、ふいに。
「あれ、アラム?今日はずっと読書してたのかい?」
聞き慣れた、ここにあるはずのない声を聞いて、アラムははっとして顔をあげた。
「ク、クリス!?」
目の前にこれ以上飾る場所はないと言うほど煌びやかな格好をしたクリスが立っていて、アラムは思わず目を疑った。
「どうしたんだよ、今日はジョゼの相手で休みなんじゃ……?」
「だからここで待ち合わせなんだ。約束したじゃないか、姫が社交界デビュー用に着飾った格好アラムに見せるっ……て……、」
不意にクリスの声が途絶えた。
そのことをいぶかしんでアラムが首を傾げると同時に、軽やかな足音が聞こえてきた。
「クリス!」
あるはずのない声その二の持ち主ことジョゼの声に反応して振り返ったアラムもまた、クリスと同様に固まった。
いつもは野暮ったい黒のローブ姿なのに、今日は体の曲線を強調するような艶やかに光る極上の絹の礼服を身に纏い、レースのように細かい銀細工の簪を挿したジョゼが立っていた。
「待たせてごめんなさい、クリス!着つけるのに時間がかかっちゃって!」
薄紅色に彩られた愛らしい唇から紡ぎ出される音すらもいつもとは違った色を持っている気がして。
アラムは急に動悸が早くなるのを感じて自分で自分に心底驚いた。
――子供だとばかり思っていたのに。
自分は一体今まで何を見ていたのだろう?何も見えていなかったのか。
いつもと違って黙り込んでしまった二人にジョゼが小さく首を傾げると、しゃらん、と銀細工の装飾品が涼やかな音を立てた。
「何か変かしら?どこかおかしい?レイは綺麗に出来たって誉めてくれたんだけど……」
不自然に黙りこんでいる友人二人にジョゼはだんだんと不安を隠せなくなってくる。
やっぱり、アラムが言ってたようにゴテゴテしすぎて道化のようになっているのだろうか。
が、先に復活したのはクリスだった。
「あぁ、姫!不安にさせて申し訳ございません!無躾ながらこのクリス、薔薇の花束すらも霞んでしまいそうな姫の美しさに我を忘れておりました!君もそうだろ、アラム?」
急にクリスに話を振られて、おっかなびっくり、アラムも曖昧に頷いた。
途端、曇っていたジョゼの顔が晴れて、ぱぁぁっと輝く。
「良かった、アラムにそう言って貰えると嬉しいわ!クリスはいつもお世辞ばっかりだけど、アラムは絶対に嘘は言わないもの。これで私自信持って夜会に行けるわ!」
無邪気に向けられる純粋な信頼が、アラムの心を一層ざわつかせる。
ふっと視線をはずしたアラムとは対照的に、クリスはさっと手をさしのべた。
「では、参りましょうか、姫?」
「そうね、もうそろそろ時間だもの。じゃ、またね、アラム」
一対の人形のような二人が立ち去った後、一人取り残されたアラムはふと自分の黒一色の飾りけのまったくないローブ姿を見回した。
「貴族と庶民、か」
アラムは溜息をついて本を閉じると、夕暮れ迫る廊下をジョゼたちが去った方向とは反対方向に歩き出した。
闇の衣が降り始めた虚空に浮かぶ、荘厳と華麗が淡い色彩を伴い具現化したかの如き空の城。
そこに行く為の手段は数えるほどしかない。
例えば、魔法学校の奥の奥。もっとも静謐な裏庭の片隅には六本の円柱に囲まれた小さな石の円舞台がある。
この小さな台が空に浮かぶ城の正式な入り口だった。
この転移ゲートを介して以外の城への侵入は堅く魔法障壁で鎖されている。
そのゲートも滅多なところには作られず、魔法学校などの主要な公的機関及びジョゼの家のような大貴族の屋敷内にのみ限定されていた。
そのような台座のひとつにクリスとジョゼが手に手を取り合って立つと、床が光を放ち、虚空に紋様を描き出し、そして。
一拍のち、突然二人の周りの風景が紙芝居の場面転換のように入れ替わって、二人は一瞬で空の城に到着した。その姿を確認し、転移ゲートのそばで控えていた侍従が声を張り上げる。
「ラ・ブリュイエール公爵家ジョゼフィーヌ様、並びにセバルカンティ伯爵家クリスティ様、ご到着!」
侍従の紹介が終わるか終わらないかのうちから居遭わせた男女が漏れ無くジョゼを振り返る。
「あれがブリュイエールの長姫?」
「まぁ、なんとお可愛らしい……」
並々ならぬ好奇心に満ちた視線と溜め息の波が連鎖的に伝わっていくのを尻目に、クリスはジョゼに手をさしのべた。
「では、準備はよろしいですか?」
「当然」
女王の貫禄すら漂わせながら、ジョゼはクリスの手に自分の手を重ねた。
ここ暫く入念に復習させられていた淑女教育の成果を存分に発揮して完璧に振る舞わねばならない。何か一つでも隙を見せればきっと一族の石頭たちに屋敷に幽閉されてしまう。
ジョゼは優雅に笑いながら、必死で頭を回転させていた。
「レディ・ジョゼフィーヌ・アナ・マリア・ラ・ブリュイエール様!並びに、ロード・クリスティ・セドリック・セバルカンティ様!」
大広間のど真ん中を突っ切るふかふかの赤い絨緞。その中ほどまで来て長々と自分の名を読み上げられると同時に、ジョゼは自分の膝を折り、王に頭をたれた。
そして、ゆっくり数えること三拍。
取って置きの笑顔を作り上げると、できるだけ淑やかに、かつ優雅に面を上げた。
「……ご尊顔を拝する栄誉に与り、恐悦至極にございます」
「噂は聞いておる。国開きの魔道師に匹敵するほどの力を持った才媛がかように可憐な姫であったとはな」
「勿体無いお言葉でございます」
ジョゼが謙遜してみせると、王は鷹揚に頷いた。
「良い良い。それより、ジョゼはこのような席は初めてとな?我が娘マルグリッドも夜会は初めてでな、年も近いし、姉として、良き友として仲良うしてやってくれ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ジョゼは微笑んだ表情を崩すことなく王妃の椅子の一歩後ろに控える黒髪の少女に目を向けて会釈した。
王はそれを見届けると、すっくと立ち上がった。
「挨拶などの堅苦しい事はここまでだ。皆のもの、存分に楽しむが良い」
ばさっと袖を翻して王が手をあげると、その合図を待っていたかのように軽やかな音楽が流れ始め、王は隣に座していた王妃の手をとると、大広間の真ん中へと降りて音楽にあわせて踊り始め、――夜会は完全にくだけた空気にとり包まれた。
「ふぅ」
「お疲れ様でした、姫。万事つつがなく終わって、良かったですね」
「ホント、もうくたくた」
ジョゼはちょっと疲れ気味の笑顔を浮かべた。
本当に、ここ数週間、先程のたった数分のためにどれほどの労力を費やしたのか。アラムが馬鹿らしいと言って毛嫌いするのも無理は無い。
と。
「クリス」
凛とした声がジョゼたちの後ろから呼び止めた。
振り返った先に居たのは、銀髪の少年と、黒髪の少女――この国の王子と王女だった。
それが誰だか判った途端慌ててジョゼは膝を折って王族に対する礼をとり、クリスもそれに続いて隣で跪いた。
「お久しゅうございます、殿下」
「そんな堅苦しい事はやめてくれないか、さぁ、立って、二人とも」
苦笑したような声に誘われて、二人はゆっくりと立って一礼した。
「ご紹介します、我が一族の長姫、ジョゼフィーヌです」
「初めまして、エルネスト殿下、マルグリッド殿下。ジョゼフィーヌと申します」
にっこりよそ行きの笑顔を浮かべたジョゼに王子は嬉しそうに手を差し出した。
「初めまして、ジョゼフィーヌ姫。お噂はかねがね聞いております。魔法学校で雨の研究をなさってらっしゃるとか」
「まだ本格的に始めているわけではありませんが、何らかの実のあるものにできればと思っております」
にこやかに握手を交わした王子の肩越しに、ジョゼをこの場に引っ張り出す原因となった王女がむっつりと眉をひそめて俯くのが見えてジョゼは内心首をかしげた。
(どうかされたのかしら?王女ともあろう方があからさまに不機嫌になるだなんて……)
淑女らしくも無い。と胸のうちで疑問に思っているところに、王子は更に声をかけた。
「雨の研究というと、研究対象はこの城になるのでしょう?折角いらしたのですし、私が城の中を案内いたしましょうか?」
「え!?」
王子の不意打ちのような突然の提案。それに対してジョゼはぎょっと目を丸くし、王女はさらに眉をひそめた。
――いや、ていうか、ありえない。
幾ら相手が王子とはいえ、いや、王子だからこそ、男と二人で人々の目の前から消えるだなんて事は赦されない。そんなことをすればふしだらだのなんだの後ろ指さされまくる。
「勿体無いお言葉、身に余る光栄ではありますが、その……」
「行ってこられてはいかがですか、姫?城を見てまわるだなんて機会は中々ありませんよ。しかも、エルネスト殿下直々のご案内ですし」
真っ青になって慌てて膝を折って頭を下げたジョゼの隣で、クリスがいつに無くまともな言葉遣いで珍しくもジョゼの意思とは真逆の方向に口を挟んだ。
「ですが……」
予想外のクリスの横槍にもめげず、ジョゼは視線で王子とクリスに王女の様子を示唆した。
そんな問題ではないし、ついでに王女の機嫌が最低なのは誰の目にも明白だと言うのに。
――ジョゼの視線の先に気づいた王子は、あぁ、と納得した。
「マルグリッドの事はお気になさらず、ジョゼフィーヌ姫」
「お兄様!」
あっさりと妹を捨てた兄に、王女はばっと顔を上げて反論した。
「お兄様は今日はマルグリッドの相手をしてくださると……!」
「大丈夫、お前の事はクリスがちゃんとエスコートしてくれるよ。僕が彼女を連れて行ったらクリスがあぶれてしまうしね。頼んだよ、クリス」
「畏まりました」
有無を言わさない調子でトントン拍子に段取りが決まり。
会場中の視線を集めていた若い男女が当初予定されていた組み合わせとは異なるペアで別れた時、密やかな動揺が大広間を駆け巡ったことを、ジョゼはまだ知らずにいた。