10
明けない夜はないように、終わらない作業もない。
毎日毎日真っ暗な水底の玄室に篭り始めてはや一ヶ月。
「今日はこの小花柄のドレスにいたしましょう!」
どんなに毎朝メイドたちに着せ替え人形にされようとも。
「こうやっておもちゃにされるのも今日でおしまいね」
ジョゼの写本作成作業はほぼ完成に近づいていた。
最初にレイから出された期限に何とか間に合いそうで、心底ほっとした。もし一日でも期限に遅れていたら、レイがペナルティに何をしようとしていたか、出来れば一生知りたくない。
「もう書き取りは殆どお済みになられたのですか?」
「まあね。多分今日の昼ぐらいには終わる予定。……本当に長かったわ」
ジョゼが深い溜息と共に正直な感想を呟くと、ジョゼに傅いていたメイドたちは気色ばんだ。
「私どもはそう長くは思いませんでしたわ。むしろ毎日楽しくお世話をさせていただきました」
「本当に。こんなに飾りがいのある方はいらっしゃいませんもの。寂しくなりますわ」
「また王宮にいらしてくださいませ」
「今回退出されましても、またそのうちすぐにお戻りになりますわよね?」
「そうそう!私ども下々の者には軽々しく口になされないかもしれませんが、エルネスト殿下とのご婚約のお披露目の日取りはいつになったのでしょうか?」
「もう内々にお決まりになっているのでしょう?」
「ジョゼフィーヌ様と私達の秘密にいたしますから、本当のところを教えてくださいな」
「だから誤解よ!私殿下に一言もそんな事言われてないんだから!」
どんどん加速していくメイドたちの興奮を同じぐらい大きな声で遮っても、なおもメイドたちは食い下がった。
「ですがジョゼフィーヌ様、そうは仰られましても、その指輪は皇太子殿下の初めての……」
「初めてのとか言わないで!!」
思わず振り返ろうとして不意にジョゼが動いたせいで、二人掛りで締めにかかっていたコルセットの紐が強引に引っ張られてジョゼの息が詰まりかける。盛大に咳き込む少女の背中を優しくさすりながら、女官長はメイドたちを宥めるかに見せかけて更に追撃をかけた。
「まあまあ、皆様、落ち着かれて。確かにジョゼフィーヌ様は残念ながら『まだ』今のところはその気が無いご様子。ですが殿下のお気持ちは疑いようもございませんもの。いつの日かジョゼフィーヌ様の凍りついたお心を優しく溶かしだしてくださいますことでしょう」
「気持ち悪い表現使わないで!ついでに、殿下もその気は無いとはっきりと……」
「あら、これほどはっきりとしたお心使いもありませんわ。そうでしょう、皆様?」
声を荒げたジョゼの言葉を遮りメイドの一人が回りの仲間に問い掛けると、皆大きく頷いた。
「だって現にジョゼフィーヌ様に要らぬ虫が近づかぬよう厳重に人払いが、ねえ?」
「この離宮のある辺りはいくら王宮でも外れとはいえ、誰でも来ることの出来る場所ですのよ」
「なのに、殿下は内々に警護を固められて猫の子一匹通さない構えで……」
「私、ジョゼフィーヌ様に不埒な思いを抱く貴公子が何人も挫けて帰るのを見ましたわ」
「ジョゼフィーヌ様、逗留中に私どもと殿下以外にお会いになられたことがありまして?」
メイドに指摘されて、ジョゼはふと本気で考え込んだ。
――良く考えたら一度もない。他の貴公子云々は兎も角、あのジョゼに付きまとうのを人生の目的に据えてるようなクリスも、ジョゼを目の仇にしてるっぽい王女も、一度も見ていない。
「……なるほど、王宮に居るのにマルグリッド殿下に会わないわけね」
「マルグリッド殿下!?」
ぽつりとこぼしたジョゼの呟きに、真っ先に反応したのは女官長だった。
「ジョゼフィーヌ様、何かされませんでしたか!?」
日頃素の表情を出さないように躾られた使用人たちの、その頂点に立つ人間が顔面蒼白になる椿事を目の当たりにして、ジョゼはおっかなびっくり頷いた。
「……まあ、この指輪を奪おうと殴りかかられたぐらい?」
咄嗟に言い訳も思いつかなかったジョゼの一言はメイドたちの間に絶大な嵐を招きよせた。
「なんてこと!」
「やはり血は争えませんのね」
「所詮獣の娘は獣ですわ!」
口々にメイドたちの間から不満が嵐の如く吹き荒れる。というより、この拒否反応の酷さ。
「……もしかして、貴方たち、マルグリッド殿下のお生まれのこと……?」
遠まわしに、回りくどく、空気にそれとなく意図を織り込んで聞いてみた。だが先程まであれほど悪し様に罵っていたのに、メイドたちははじめは顔を見合わせて戸惑うばかり。しかし。
「奥向きに仕える者たちは皆存じております。恐れ多くも皇太子殿下御誕生の折には城中に埋め込まれた魔法陣が一斉に光り輝いて、まるで城が殿下を祝福していらっしゃるようでしたのに、マルグリッド殿下のときは何一つ変化なく、その上国王陛下はすぐさまマルグリッド殿下に指輪をお渡しになりました。それだけでもう十分でしょう」
女官長が溜息混じりに説明すると、話はここまで!とばかりにいそいそとメイド達をまとめてジョゼごと部屋の外へと放り出した。
+ + +
真っ黒な壁一面に囲われた玄室の只中で、少女が一人大量のふわふわクッションの上に寝転がっていた。
その周りを取り囲むように浮かぶ魔術構成の光跡は、ゆっくりとジョゼの周りを流れながら一行づつ途切れることなくジョゼの前を順番に通りすぎていく。
その光跡と、自ら書き取ったノートとの間に差異がない事を確認しつづけること早半日。
何冊にも及ぶノートの最後のページを捲り、魔術構成の尻尾がジョゼの前を通りすぎ。
「終わったぁぁぁぁああああ!」
ぼふっと音を立ててジョゼは思いっきり体の下に敷いていたクッションに突っ伏した。そのまま体中をめいいっぱい伸ばすと、ずっと同じ体勢を取りつづけていたせいだろう、あちこちで骨や筋肉のきしむ感じがする。
一頻り体を解して一息つくと、そこら中に散らばったペンやら本等の勉強道具、勉強しながらつまんだサンドイッチの残骸などを一気に魔法で浮かせて片付けた。――写本作りが終わったところで何が終わったわけではない。むしろやっと研究がはじめられるのだ。とっとと家に帰ってレイに終わったことを報告しないと何因縁つけられるか分かったもんじゃない。
小奇麗に纏まった荷物を小脇に抱えて船に乗りこみ、一直線に水上を目指す。湖にさし込む光は、少し日が傾きかけていることを教えてくれた。薄紫のフィルターがかかった世界を抜け、湖面の上に姿を現すと、太陽はその姿を南から西へと移しにかかっていた。
「ヤバイ!早くしないと日暮れちゃう……!」
ジョゼは手早く魔法陣を組み上げると、抱えている荷物を羽織っていたローブで一纏めにして魔法をかけた。ふよん、と荷物から羽が生えてジョゼの居室の方へと勝手に飛び立っていく。
とっとと王子を探し出して今まで世話になった礼と退出の挨拶をしないと、帰るのが一日延びかねないし、日も暮れて夜になってから王子と面談なんてことになるとどんな噂が立てられるかもわからない。
足元に生えていた花を一輪摘み取り、それにも同じように魔法をかけると、花は一瞬のうちに蝶になった。
「お願い、私を殿下の元に案内してちょうだい」
うっすらと白い光を放つ蝶は判ったとでも言う風にクルンと宙返りをすると、ジョゼの目の前を横切ってひらひら飛び始めた。その光跡を追ってジョゼも歩き出す。しかしすぐに案内役を蝶にしたことを後悔した。
花畑を突っ切り、藪の中を通りぬけ、それでも真っ直ぐ飛んでいく蝶が湖の上を進んでいくのを見て、陸上を歩く動物にするんだったと歯軋りしながらジョゼは人二人分ぐらいの幅の水面を凍りつかせて蝶を追いかけた。
夕闇が迫る庭園を抜け、蝶は薄暗い森の中へと入っていく。その後を追って煉瓦で舗装された小道を歩き進めて、ふとその歩みを止めた。――誰かが、言い争う声が、した。
「……嫌!婚約なんて嫌!!お兄様、私を何処かにやってしまわないで!私をお兄様の傍においてください!私は誰よりもお兄様のことを愛しております!」
熱烈な告白をするのは、王女。その先にいたのは、王子。
泣きつくように追い縋る王女の姿を目にして、体が凍りつく。拙い時に来合せた、と思ったときには既に遅かった。
「……蝶?」
王子が鼻先をちらちら舞う蝶を手で捕まえようとしたとき、役目を終えた蝶はぽとりと元の花の姿になって柔らかな芝の上に落ちた。
明らかな魔法の痕跡。その変幻魔法を揮った術者を振り返った王女の強張った瞳が映し出す。
「ジョゼフィーヌ……」
「こんにちは、ジョゼフィーヌ姫。この花は貴方が蝶に変えておられたのですか?」
王子は一瞬のうちに社交用の表情を取り繕って王女を振り払うと、流れるような仕草で落ちた花を拾い上げた。
軽く埃をふるい落とし、今だ魔法の余韻でぼんやりと光る花をジョゼの髪に挿して。
「……やはり良くお似合いになりますね」
にっこり微笑みかける王子のその向こうに、射殺さんばかりの視線で睨みつける王女が見えて、ジョゼの表情が更に固まる。
「ありがとう、ございます」
舌先まで石になりかけるのを何とか動かして言葉を紡ぐ。いつもよりもぎこちなさ満載のジョゼの態度の理由に気がついて、王子はジョゼには絶対に見せない表情で王女を一瞥した。
「マルグリッド、邪魔だ、下がれ」
その声音は、まさに異論を赦さぬ絶対の王者。しかし。
「ここは私の庭です、私がいて何が悪いのです?」
それでも王女が弱気ながらも反抗の兆しを見せると、王子は鼻で笑って見せた。
「『私』の?お前がそれを言うのか?」
「……し、失礼いたしますわ、お兄様」
きゅっと唇を噛んで涙を堪えた王女がスカートを翻して走り去っていくのを、ジョゼはぼんやりとただ見送った。王子も同じく王女の後姿が木々の向こうに消え去るのを待って隣に立つジョゼを振り返った。
「すみません、マルグリッドが失礼な態度を……」
「いえ、私の方こそ突然お邪魔して申し訳ありません。写本の作成が終わりましたので城から退出する前に一言御挨拶を申し上げたかっただけなので……」
「そうですか、それはおめでとうございます。でも、これでもう下界に戻られるのですね」
祝福する音色に溢れていた王子の言葉は、語尾に向ってどんどん寂しさの色合いを強めていった。それに気付いたジョゼが口を開こうとするよりも早く、王子はジョゼに腕を差し出した。
「――少し、歩きませんか?」
誘いを断ることなく、ジョゼは王子の腕に自分の腕を絡めて寄り添った。
完全に日が暮れて、二人の歩く暗い森にも明かりが燈される。膝より低いぐらいに置かれた光は二人の足元を明るく照らし出し、地面に反射した光で森全体が下から仄かに浮かび上がる。
御伽噺にでも出てきそうな幻想的な風景のその中で、他愛もないことを話ながら歩いていると、森の端に出て、眼下に美しい町並みが広がっているのが見えた。
「あ、あそこ、私の家が見えます!」
ジョゼが突然声をあげた。指差す先に、こんもりとした木立に囲まれた館があった。
「空から見るとあんな風に見えるんですか。城がここにあるなら明日の我が家は雨の日ですね」
「……雨は、どんなものですか?」
不意に問いかけられて、ジョゼは大きな目をまん丸にして王子を見た。
雨って雨以外の何者でもない、と言いかけて、ふとあることに気がついた。
「ああ、城が雨を降らすんですものね。城の上では雨は降る筈ありませんでしたね」
そうか、と勝手に納得して一頻りくすくすと笑うと、ジョゼはちょっと眉間に皺をよせた。
「実を言うと、雨は、子供の頃は嫌いでした。外で遊べないし、服は濡れるし、皆に叱られるし。でも、雨の降りはじめに立ち上る匂いは好きでした」
「匂い?」
「ええ。湿った土の匂いや、石の匂い、いろいろなものの濡れた香りがそこら中に蒸せ返って息苦しいほどになるんです」
そっと目を閉じて、雨の光景を思い出す。たった一度垣間見た、庶民の暮らし。
「庶民の家々では本当にお祭り騒ぎなんですよ。お城が見え始めると、皆真剣に城と陛下に感謝の祈りをささげるんです。生きていく糧を齎す城は、何よりも大切なもので。その後は屋上一面に敷き詰めた器に水が一杯になると大きな瓶に流し込んで、また屋上に並べて。雨が降っている間は一滴も無駄にしないように雨が降る中ずぶ濡れになって走り回るんです。子供たちは大騒ぎしながら屋上を走りながらお手伝いをして、大人たちは仕方がないなあと半ば飽きれてるんですけど、それでも雨が嬉しい気持ちが同じだから微笑ましく見守って――城は、城下の者にとって命と幸せの象徴なんです」
あの時感じた優しい温かさ。王子に話すことで同じものがまた胸に芽生えて頬が緩む。
だがしかし、その温もりも王子の表情を目にして全てが凍りついた。
――何かに耐えるように、歯を食いしばる少年の姿がそこにはあった。
「……殿下?」
ジョゼが声をかけてもその表情が緩むことはなく。
ならば、とジョゼは今更ながら思いきって気付かない振りをしてみせた。
「そうだ、明日はうちにいらっしゃいませんか?私女官長と仲良くなったんです。あの方に味方になっていただければ、雨の降りはじめぐらいの間は王宮を脱け出しても大丈夫かと……」
「やめろ!」
王子はジョゼの肩を掴むと力任せに木の幹に叩きつけた。衝撃で一瞬ジョゼの息が止まる。
「僕は、君が憎くて堪らない。君は僕の希望で、だけれど絶望そのもので……」
ジョゼの両肩を強く押しつける手はぶるぶる震え、目の前にある菫青色の瞳がじわりと滲む。
「――僕に不幸を気付かせないでくれ!」
王子が感情に任せた叫びを上げた瞬間。
「……!」
強烈に甘い香りがして、ジョゼの周りから重力が消え去る。――否。ジョゼの真下の地面が消えて、彼女を支えるべき物が何もなくなって。
一瞬の時をおいて、ジョゼの周囲の光景が一気に上へと吸い上げられた。
「姫!」
真っ青に表情を変えた王子の顔がどんどん小さくなり、伸ばされた手は空を切り、たなびく金の髪が視界を埋め尽くし。
そのままジョゼの意識は暗転した。