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それから暫く、王子はジョゼの前に姿を見せなかった。
お蔭でジョゼの気を散らす要因がなくなって書き取りは思いのほか捗るかと思いきや、昼間は良くても夜が酷くなってきている感じがする。
毎日のように見る、王子の夢。微妙に現実との食い違いがあって、空想世界の中での恋愛シミュレーションでもしてるような感じがする。例えば、ジョゼも王子も何故か命を狙われてたりだとか、余り裕福では無かったりだとか、他色々。
それに、何時も城の降雨システムのことばかり考えているせいだろう、夢の中では水は捨てるほど潤沢で、むしろどう乾くかという方法が問題だった。渇きを知らぬ空気は病を呼ぶ、とは夢の中で聞いた言葉だが、喉が乾かないなら良いじゃないかと思わず突っ込んでしまって。
そんな、自分でも突っ込み所のある夢を自分の頭の中で無意識のうちに想像して構築するなんて、そんなに余裕があっただろうか、いやない。
目が覚めているときはずっと筆写に手一杯。ついでに書き写しながら少しでも城の構成魔法の概形を理解しようとしているから、他のことを考えている暇は無い……筈。
なのにまるで既に出来あがっているお話を強制的に見せられているかのごとく毎日毎晩、王子相手の恋愛三文小説のような内容の夢が繰り広げられる。
例えば、森の中で王子と二人、手と手を取り合って逃げ惑い、襲いかかる敵をばったばったと王子が切り捨てたかと思えば、何処で摘んできたのか、見たことも無い可愛らしい花を手に一輪だけ持ってそっと髪の毛に挿してくれたり。
ちょっと頬を赤らめて目をそらした姿や、無防備な寝顔、真剣な眼差し、満面の笑み。
その全てにジョゼの心臓が悉く反応する。――いや、させられているのか。
「あーーー!!もうやだやだやだやだ絶対やだ!!忘れろ私!忘れ去れ!!」
ばん!と勢い良くノートを閉じると、ジョゼは空中に浮かぶ魔法構成の光文字を消去した。
丁度切りの良いところまで写したし、丁度お昼頃だし、今日は外で御飯にしよう、玄室みたいに何も無いところに居るから変なことを考えるのよ!と食料の詰まったバスケットを片手に玄室を出るため束の間の水中散歩に飛び出した。
なのに。
船を下りたところで出くわしたのは、今一番会いたくない人間、――王子だった。
「お久しぶりです、ジョゼフィーヌ姫。昼日中に上に上がっていらっしゃるとは、もう写本の作成は終わられたのですか?」
「いえ、それはまだ、……道半ばでして。丁度一区切りついたのでたまにはお日様の下でお食事を戴こうと思いたったので……」
「それは丁度良かった。僕も今から食事の時間なのです。一緒に如何ですか?」
あくまでにこやかに礼を失さず。終始紳士的な態度を貫こうとする王子に、どう逆らえと?
王子に無神経に接したのは自分だと言うのに、更に失礼は働けない。
結局大した抵抗もしないまま、気付けば近くの木陰でバスケットを広げているジョゼが居た。
「それで、どうでしょう、研究の方は?写本の作成は順調ですか?」
「ええ、まあ」
生返事を返しながらジョゼはBLTサンドを頬張った。シャキシャキと歯ごたえのあるレタスを噛みながらすぐ横に座る王子の横顔を窺うと、王子もまた「そうですか」と意味のあるのか無いのかよく判らない呟きを唱えながらクロックムッシュを口にしていた。
薄桃色の唇をねっとり絡むつく、黄身の液。それを指で掬い取れば追いかけるように伸びてきた赤い舌が艶かしいほどにゆっくりとそれを舐めあげる。
――いやいやいやいやいや、私一体何処を見ているの?寧ろ、何でもないことに『何』を連想しているの!
真横で繰り広げられる光景の余りの煽情さ一気にジョゼの心臓が跳ね上がった。
「……?ジョゼフィーヌ姫?」
名前を呼ばれるだけで胸の奥がきゅうっと締め上げられる感覚にとらわれて、一瞬、ジョゼの反応が鈍った。そうしている間も、視界の中をゆっくりと白い指がジョゼの方に伸びてきて。
指先が頬にそっと触れた瞬間。
「――!!」
電撃が背筋を伝い落ち、目の前の光景が一瞬違うものに摩り替わる。
薄闇の中、優しく頬を包む温かな手。そっと近づく気配。
ジョゼの顔にさす影が一段と暗さを増し、そして。
「……はい、とれましたよ、マヨネーズ」
王子の声と共に一気に現実がジョゼに追いついた。
真正面で、悪戯っぽくジョゼの頬から拭い取ったマヨネーズをぺろっと一舐めする王子の姿。
――そう、夢じゃない。夢じゃないから!
どうしてこんな日に限ってキスシーンのある夢なんて見るのよ!?
「あ、あああ、あああああののののあぁの!殿下!?」
「なんでしょう?」
「いえ、その、なんと言うか、ええっとな、舐めちゃだめです、舐めちゃ!」
「ああなるほど、指で拭うのはお気に召しませんでしたか?」
――一瞬、ジョゼの体から本気で気が抜けた。
は?へ?いや、気にかけていただいたのは嬉しいけど、わざわざ拭わなくても教えてくれれば自分で拭けるのに、と口にするより早く、王子が晴れ晴れとした表情をジョゼに向けてきて。
「こういうときはキスするほうがお好みだったんですね?」
一点も曇りなく清らかな笑みに全くそぐわない王子の言葉。キラッキラ度全開の高貴な微笑のまま、王子の言葉は更に続く。
「こういう時はどうするのか、侍女たちの間では評価が二分してまして、とりあえず僅差で優勢だった方を実践してみたのですが、残念ながら外してしまったみたいですね」
すみません、やり直しますか?とあくまで悪意無く下心も抜きで提案され、ジョゼの混乱は頂点に達した。ああもう、とっととこの話題から離れたい!!そもそも何の話だったっけ!?
「そ、そうだ、写本!城の魔法の事でしたよね!!殿下!私実は今とっても悩んでるんです!」
強引に、否、物凄く強引にジョゼが全力で話題を方針転換すると、王子ものほほんとその話題転換に付き合ってくれた。
「やはり国開きの魔導師の最高傑作となると読み解くだけでも難解なのでしょうね」
物憂げな表情になって気遣ってくれる王子の表情が、ジョゼの頭を少し落ちつかせる。
良かった、やっと変な雰囲気から離れられる!
「いえ、難しいと言うよりは、理解が出来ない、でしょうか。無駄な反復が多かったりとか、無駄な構文が多かったりとか。まあ、古典と現代語ぐらいに言葉だって変わってしまうんですもの。そのくらいは耐え抜かねばならないかもしれませんが……」
そこでいったん言葉を打ち切って、ジョゼは大きく溜息をついた。
「出来ることなら、この城の魔法が使われた瞬間に行きたいですね。そうすれば城の魔法は一瞬で理解することが出来ますもの」
「そういう、ものなのですか?」
もう一ヶ月近く城の魔法が理解できないと悩み続けているジョゼの意見とは思えない言葉を聞いて、王子は首をかしげた。
一瞬で理解できるものが、どうしてこんなにも時間がかかるのだろうか。
「そういうものなんです。例えば一流の料理人が作ったお料理、素人が食べても同じ物は作れないですよね?でもコックとか、見る人が見ると朧げには理解できます。ましてや目の前で作ってもらえば同じ物を作るのは簡単なことです。隠し味とか調理過程とか全部見せてもらえるんですから。同じことが魔法にも言えます。国開きの魔女は超一流の料理人、空の城は最も手の込んだ御馳走。だから、目の前で作ってさえ貰えれば簡単に理解できると思って……」
そこでいったん言葉を切ると、ジョゼは大きなため息をついた。
「……本っ当に、嫌になるぐらい王の在居確認が入るんです。私もうあの構式見飽きました」
眉間にしわを寄せてむっすーっと頬を膨らませたジョゼの横で、王子もまた、ジョゼの悩みと言うよりも愚痴を何とかしようとしてくれているのだろう、何事か考え込む素振りをして。
「そうですか……。ならば、歴史を紐解いてみてはいかがでしょう?意外と、城建造に至るまでの歴史を知れば、難なく解けることかもしれません」
「……そうですね!魔法を知るには魔法の背景を知れ、というのは基礎の基礎ですもの」
「何分創世記の頃ですし、語られぬ歴史を調べるのも良いかもしれませんね」
王族の持って生まれた気品とでもいうのか、何処か人を落ちつかせる不思議な穏やかさに満ちた笑顔を浮かべた王子につられて、ジョゼの頬も自然に緩んだ。
そういえば、ジョゼの傍に立って応援してくれるようなタイプの人間は初めてではないだろうか?小父様方は足を引っ張るばかりだし、レイは指導者、アラムは気の抜けないライバルで、クリスは盲従者。――王子はジョゼと対等の立場に立ってくれる、初めての人か知れない。
「……ありがとうございます、殿下」
たった一言言っただけで、ジョゼは頬が真っ赤になっていくのが自分でも判った。その様子を王子の静かな瞳が見つめていて、ますますジョゼの動悸が激しくなる。どうしたんだろう、今までこんなことなかったのに、これもあの変な夢のせいなのかしら?それより何より、なんか言わなくちゃ!
「いえ、あの、いつも私に助言を下さって、本当に感謝してもし足りないくらいで……」
「いいえ、貴方の力になることは僕の望みです。研究が順調そうで、安心しました。僕もその指輪を差し上げた甲斐があるというものです」
一段と王子の目が優しく蕩けた。その瞳に映るジョゼの姿もいびつに歪んで見えて。
かつてない程真っ赤に染まったジョゼの頬を、からりと澄みきった風が冷ますように撫でる。
そうだ指輪!思い返すに今日までちゃんとお礼を言ってない気がして、慌てて口を開いた。
「その節は、本当にありがとうございました。でも、あの……本当に宜しかったのですか?」
「?何がでしょう?」
「この指輪、王族の婚約の証に使われることもあると伺いました。なのに私が殿下から頂いたとなれば色々とご迷惑なのではありませんか?」
ジョゼの問う意味が判らず怪訝そうな表情をしていた王子は、次の瞬間、王族モード全開の笑顔をジョゼに向けた。
「そうですね、特に婚約指輪には一番最初に作ったものをと言う慣例もありますし。父上も二、三個指輪を作ったと聞きますが、確か一番最初の指輪は母上が受け取った筈です」
なんだか話の流れが不穏な方向じゃない?とジョゼの脳裏にいやな予感がビシバシ走る。
「……あの、一応お尋ねいたしますがこの指輪、どなたがおつくりになられたのですか?」
「僕です」
即答。しかも、不穏な状況継続中。妙に胃がキリキリしながら更にジョゼは質問を重ねた。
「……ちなみに、これは、殿下の幾つ目の指輪なのですか?」
「初めて作ったものですよ。ジョゼフィーヌ姫、貴方に僕の初めてを貰っていただきました」
(――意味が違いすぎる!!)
更に輝きを増した王子の笑顔の目の前で、ジョゼの全身から力という力が全て抜けていった。
危うく魂まで抜けかかっているジョゼの手を王子はそっと両手で包んで、赤い石に口付ける。
「どういう意図であれ、この指輪を差し上げたのは僕なのですから、もし姫を狙うものがいるなら、その不届き者から僕の力の及ぶ限り精一杯姫をお守りいたしますよ」
そう言った王子の瞳は、今までとは違う不思議な強さを内に秘めていた。