序
今にも崩れ落ちそうな煉瓦の壁。歪んで窓枠に嵌らなくなった窓板。
似たようなボロい家が幾つも立ち並ぶ路地に、今日も降り注ぐ、冬日の柔らかな陽射し。
柔らかな陰影で描き出された優しい空間に、あんたたちとっとと働きな!もうすぐ時間だよ!と威勢の良い声が木霊する。
同時に、其処彼処からどたばたと賑やかな音が狭い壁と壁の間を反響する只中を、少年は一人全力で走って自分の家のある集合住宅に辿り着いた。
何度も何度も今日まで乱暴に扱われてきたのだろう、カーテンの方が余程役に立つとも思える扉を今日もまた走ってきた勢いそのままに力任せに蹴りを入れて行く道を開くと、これまたどんなに慎重に足を運んでもギイギイと盛大に悲鳴を上げる階段を、何のためらいも無く一足飛びに騒音を轟かせながら少年は駆け上がる。
二階、三階と螺旋階段を駆け登る少年に、下の方からカラカラと笑い声が追いかけて来た。
「お帰り。早く仕度おしよ?もうすぐ時間だしねえ」
「うん、わかってるよ、おばさん!」
少年は元気良く答えると、残りわずかな階段を駆け上がって自分の家に転がり込んだ。
そのまま家にあるありったけの器という器を引っ提げると、少年は今度はアパートの屋上を目指す。
広く開けた屋根の上。そこには同じアパートに住む数人の子供達と若い母親が並んで器を屋上に敷き詰めていた。
その隣に立って、少年も同じように器を並べていると、先ほど階段で少年に声をかけた人だろう、恰幅の良い女性が屋上に上がってきた。
「よし、準備は出来てるようだね。ほら、チビども、ぴしっとしてここに並びな!」
女性が号令をかけると、子供たちはきゃいきゃい騒ぎながら横一列に並んだ。
その横に少年も並んで遙か空を見上げた。
薄黒い雲の塊が、ゆったりとこちらに近づいてきている。
それを見ながら、少年はほう、と安堵の溜息をついた。
「この早さなら、長めに雨が降りそうだね」
「良かったわ、これからの季節、何かと水が入用だもの」
「大瓶一杯に水が溜まったら楽になるさ。さぁ皆、手を組んで、ちゃんと祈るんだよ!城と、王様にありがとうってね!!」
女性の掛け声に合わせて、子供たちはいっせいに跪いて熱心に祈り始めた。
少年も、若い母親も、子供たちの隣で深々と頭をたれた。
中年の女性は何やら感謝の言葉を呟きながらしっかりと空を見据えた。
彼らの頭上に、さぁあああ、と音がする。
町全体が白い薄煙に包まれる中、時折ぽつっぽつっ、とかき鳴らされる、命の音色。
その静かな音楽の中にあって、彼らは身動き一つせずただ穏やかに身の内に喜びを感じ取る。
――見渡す限りの屋根の上で、似たような光景が広がっていた。
+ + +
広大な砂漠の中に、宝石のように美しい国が存在した。
伝説は語る。かつて、荒れ果てた不毛の大地を前に、一人嘆く若者がいたことを。
若者は魔法使いに相談し、魔法使いは持てる力の全てをこめて空に浮かぶ城を作り上げた。
空の城は、乾燥しきったこの国の大地に雨を降らせ、潤いをもたらし、広がる荒野は瞬く間に豊かな実りを育む豊穣の地となった。
――空の城がある限り、この国は平和で豊かな国となろう。
魔法使いの言葉通り、国には幸せが満ち満ちた。
若者は王となって空の城に住まい、魔法使いはその左に坐して王と城を守った。
城の下には恵み豊かな大地と穏やかに暮らす民。
何百年、何千年経とうと変わらぬ、平和な風景。
そして。
巡回航路に沿って国中を巡り、命の水を人々に施す天空の城の姿は、そこに住む王の姿と相俟って、人々から尊敬と崇拝を享受していた。