第7話 神さま方
なにやらあの夫婦が、なんたらディナーとかいうのを『はるぶすと』に依頼したらしい。
なんたらディナーと言うのは、もちろん〈変則シチュエーションディナー〉の事だ。
それだったら、俺ん家でやりゃあいいんじゃねえか。
《すさのおのみこと》が、事もなげに言う。
いいえ、わたくしの所が最適だと思いますよ。
《あまてらすおおみのかみ》が、遮るように言う。
ええ~と、僕の所はまだ来たことがないから、ぜひうちで。
《つくよみのみこと》も、まけじと言う。
なんなんだ?
「おい、いつからあの夫婦は神さまの家を御用達にしたんだ?」
「なんたらディナーと言うからには、何か特別な事をするのですよね」
「だったら、色々出来る神さまん家がいいんじゃないか」
「それはもう、どこになったとしても、ね」
「おいおい」
「「「?」」」
首を傾げる三姉弟。
「今回は『はるぶすと』でのディナーってのが、どうしても外せない条件だとよ」
「そうなのですか……」
「だったら」
「仕方ないねえ」
三姉弟は、なぜか俺に宣言する。
ならば、『はるぶすと』へ、参ろうぞ。
「え? 神さま方が一緒にディナーしたい?」
「なんでまた」
俺があいつらの意向を口にすると、2人は驚いたように聞いてくる。
そりゃそうだろう、自分たちの記念だかなんだかで予約したディナーに、よりにもよって神さまが3人も、いやきっと3人ではすまないだろうなあ、ああ、言わなきゃ良かった。
けどどのみち俺たちに隠し事は出来ないんだけどな。
「ええと、私たちは良いとしても、大変なのは鞍馬くんたちよね」
「ディナーの用意が……、けど、夏樹は喜ぶかもしれないな」
「ホントね」
案の定、夏樹は大喜びだ。
さて、ここで今回の変則シチュエーションディナーに至る経過を少し。
最初、由利香は普通にデイナーの予約をするつもりで、いつものごとく連絡も入れずに実家に押しかけた。
「おお! 由利香さん、相変わらず神出鬼没ですね」
「失礼ね、人をお化けみたいに」
「いや、考えようによってはお化けより恐ろしい、……おっと、残念でした~」
最近は逃げ方も上手くなった夏樹をはたくのは、なかなか容易ではない。
すかっと空を切った手を、悔しそうに握った由利香だが、気持ちの切り替えも早くなっていた。
「もう! 仕方ないわね。いいわ、今度隙を狙うことにするから。で、今日来たのはね……」
「由利香さん、紅茶でよろしいですか?」
「あ、えーっと今日は、あったかいカフェオレが飲みたいなあ」
「かしこまりました」
シュウの気遣いによりなかなか話が前へ進まないが、それもまた慣れたこと。
ま、いいか。美味しいカフェオレを飲みながら、話を進めよう。
「ディナーの予約っすか?」
「そう」
「ふうん。じゃあ、どんなシチュエーションにしようか」
「あ、そうか! 変則シチュエーションディナー! 由利香さん、なんか変わった感じにしたいとか変わったリクエストがあるんすよね。なんでも言ってくださいよお。大抵のことなら応じます」
冬里と夏樹は、由利香の事だからまたあれこれ注文をつけるのだと思っているらしい。
「え? ちょっと待って。予約したいのは、本当にただの普通のディナーよ」
「ええ? おかしいっす……」
「ほんと、由利香がわざわざやってきて、普通のディナーを予約するなんて」
「あなたたち、私をなんだと思ってるの」
「由利香」
「由利香さんっす」
当たり前の答えにガックリ肩を落とす由利香だったが、くじけてはいられない。
「もう。あのね、予約が土曜日で、時間も早めにしてもらいたいから、電話より確実かなって思っただけよ」
「早い時間?」
早めのディナー、と言うところに冬里の好奇心が刺さったようだ。
「へえ、なんで早い時間なの?」
ニッコリ微笑んで聞いてくる冬里に、しまった! と由利香は思ったが、後の祭り。
「えっとね、その日、椿とお泊まりに行く事になってるの。だから夕飯を早めにして、チェックインした後にゆっくりしようと思ったのよ」
「ふうん」
なんと冬里はそれ以上追求はしてこなかった。ホッと胸をなで下ろしたのもつかの間。
「えーとそれってもしかして……、この間、椿が嬉しそうに、今度〈エンタープライズホテル〉に泊まりに行くんだって言ってたんすよね、しかもスイート! 由利香さんがものすごく頑張ってくれたって、またまた嬉しそうでしたよ」
しまった! 別に隠し立てすることじゃないんだけど、そうよね、夏樹には言っちゃうわよね。
冬里がおとなしかったのはこれがわかってたから?
「へえ、エンタープライズの、今度はスイート?」
確認するように聞いてくる冬里。
あーもう!
「そうよ、悪い? 結婚前に椿が頑張って取ってくれたジュニアスイート無駄にしちゃったから、その埋め合わせをしたかったの! すごく遅くなっちゃったけど!」
そう、マリッジブルーだったのか、あの頃、気持ちの浮き沈みが激しくて、疑心暗鬼ぶっちぎりの態度と言葉で椿を大荒れさせちゃったのよね。
「俺が代わりに行ったんで、無駄にはなってませんよお」
そう、それで夏樹が慰めに行ってくれたのよね。
「そうだったわ、あのときはありがとう、夏樹」
「へ? 由利香さんが素直にありがとうを言うなんて……」
「なによ! 素直で悪かったわね! まったく……、ええっと、コホン、だから早めの時間にディナーをお願いしたいの。それと、仲直り記念って言うことで、椿の好物をたくさん取り入れてもらいたかったの」
これを言うのはちょっと恥ずかしかった由利香だけど、椿のためだ。
そんな由利香をほけっとした顔で見ていた夏樹が、徐々に満面の笑みになっていく。
「そういうことなら、やっぱ、変則シチュエーションディナーっすよね! そういえば椿の好物ってなんだっけ、あれ? 知らないや。よーし、頑張って聞き出すぞお」
椿は基本的に好き嫌いがない。食べられない食材もほとんどないので、献立に迷うこともない。ただ、そんな椿の好物と言われると、これは由利香でさえ知らないのだ。なので夏樹が知るわけがない、なんてね。
「そんなあ。なんで椿の好物を取り入れただけで、変則シチュエーションなのよ」
「いいじゃないっすか」
「良くなーい」
「いいんです」
「それは、いつの土曜日ですか?」
やいのやいのとうるさい2人の間に入る救世主がいた。それはやはりシュウ。
「あ、鞍馬くん。えっとね、……」
日にちを確認してシュウに告げると、彼は少し考えるようにしてから言った。
「その日はまだひとつも予約が入っていませんね。ですので、変則シチュエーションディナーも可能です、良かったですね、由利香さん」
と、なぜだか極上の笑顔で言うシュウに、由利香の決め台詞がこだました。
「鞍馬くん、あなたまで!」
その日、腕時計を修理に出すために駅前へ行っていた椿が遅れてやってきた。
勢い込んで裏玄関へと降りて行った夏樹と一緒にリビングへ入ってくる。
「なんだよ、挨拶もそこそこに好物を教えろって」
「まあまあ、由利香さんのたっての希望なんだぜ」
由利香の名前を出されると、さすがに椿もそれ以上きついことは言えなくなってしまう。
「好物って言ってもなあ」
なんと! 椿は自分でも自分の好物を知らなかった?!
「うーん、なんだろうな」
悩んで考え込む椿に助け船を出したのは、なんと冬里だった。
「うちで食べた料理のなかで、美味しかったメニューとかでもいいんじゃない?」
「え? ああ、そうか……」
「冬里やるじゃない。けどありすぎて迷うかもね」
由利香が可笑しそうに言うと、椿もまた頷いて笑う。
「そうだな」
と言いつつ考え始める椿。
その隣では、なぜかハラハラドキドキの様子で夏樹が固唾をのんで答えを待っている。
「あ」
「なにかあったか?」
「え? ああ。鞍馬さんが」
そこまで言ったあたりで、ガックリと肩を落とすイケメン。
「鞍馬さんが前に、レトロの日に作ってくれましたよね。〈アレンのまかない〉だったっけ。200年も昔の料理ですって言ったら皆大笑いしてましたけど、あれって本当に鞍馬さんの師匠が作ったんですよね」
するとシュウは、可笑しそうに微笑みつつ言った。
「当時はまかないはありませんでしたので、つまみ食いしろ、と言われて、頂いたものをアレンジしてお出ししました」
「そうだったんですか」
話をする2人の横で、今度は瞳を涙でキラキラさせた夏樹がシュウに迫る。
「レトロの日だと、俺はいないじゃないですかあ~、シュウさんまた俺のいない間に椿に新レシピを教えたんすかあ~」
「いや教えてもらってないって」
「あの料理、夏樹も知ってると思うよ」
シュウがレシピを詳細に説明し始めると、夏樹の目から涙が引っ込んだ。
「あ! あれ!」
そう言うと、ようやく夏樹も機嫌を直してうんうんと頷く。
「本当に美味かったっすよね。アレンが作ると特に」
「そうだね」
「おっし! 今度俺も作ってやるよ」
「じゃあ、ディナーに入れてくれよ」
「その手があったか、任せとけ」
嬉しそうに言い合うイケメンと好青年。
けれどそのあとにも、
「鞍馬さんの」
「鞍馬さんが」
「あのとき鞍馬さんが作った」
美味しかった料理を思い出して話す椿の鞍馬さんオンパレードに、夏樹はまた涙を流したんだとさ。
その日の夜、秋渡夫妻も帰っていったリビングで、今度の変則シチュエーションディナーについて3人が、いや、主に夏樹が話ししていると。
ズガガーン!
といつものごとく、ヤオヨロズが登場し、神さま方の意向を伝えたのだ。
秋渡夫妻の了解は得ていること。
会場は『はるぶすと』になった事。
人数は?
「そうだなあ、たくさん、としか言いようがないなあ」
と言ったところで、
「いっぱい料理を作れるんすね、がんばります!」
案の定、夏樹が大喜びで張り切りだしたこととか。
「主役はあくまで秋渡夫妻なんだからね」
と冬里に釘を刺されたこととか。
「また彼らをお借りしてもよろしいですか?」
シュウが遠慮がちにアニメネズミをリクエストしたこととか。
色々ありましたが、その夜もおだやかに更けていった。
ヤオヨロズが帰ったリビングで、そろそろ眠そうな夏樹が立ち上がって、ウーンと伸びをする。
「なんか楽しみっすね、今度の変則シチュエーションディナーも。……けど」
少し真顔になって言う夏樹に冬里が問いかける。
「けど、なにかな~?」
「アレンが作ったあの料理、アレン自身が作ったのをもう一回食べたくなってしまいました」
「夏樹、それは……」
シュウが言いよどんだように、アレンはもういない。食べたくても、もう2度とその味は再現できないのだ。
「はい、わかってます。……すんませんでした!」
勢いよく最敬礼した夏樹は、顔を上げると、ニッと心持ち引きつった笑いを浮かべて「おやすみなさい」を言うと、部屋へ引き上げていった。
「そんなに美味しかったんだ」
「ああ、私も何度か再現したけれど、アレンの味にはなかなか追いつけないね」
「ふうん、シュウですらそうなんだね」
「買いかぶりすぎだよ、冬里」
少し寂しそうに言ったシュウは、「今日はもう休むよ」と、珍しく冬里より先に部屋に入ってしまった。
彼を見送ったあと、そのままソファで天井を見上げる冬里。
たくさん、がこちらを見ているような感じがする。
「ふうん。じゃあ、あとはよろしくね」
そう言い残すと、冬里もまた自分の部屋へと入って行くのだった。
宇宙のあちらでこちらで、神さま方がなにやら相談事をしているようだった。
さて、今日はくだんの土曜日。
秋渡夫妻が『はるぶすと』のドアを開けると、そこには神さまがわんさと、……いなかった。
「いらっしゃいませ! ようこそ『はるぶすと』へ!」
聞こえてきたのは夏樹の元気な挨拶だけだ。
「お、おう、今日はよろしくな」
「えーっと、神さま方は全員キャンセルしちゃったの?」
戸惑う2人に、夏樹は首を傾げたが、あ、と思い当たって2人を本日のメイン会場に案内する。
「本日のディナーはこちらにご用意しております。どうぞ」
そして何やら嬉しそうに個室のドアを開けると。
「ええっ!」
「うわ、すごいな」
なんと、『はるぶすと』の個室が、10倍ほどの広さになっていた!
そこにはお待ちかねの神さまが、わんさといらっしゃった。
「おお~主役の到着じゃ~」
「あなうれしや~」
「ささ、どうぞこちらへ」
「ほれ、道を開けんか」
「やんややんや~」
口々に言い出すので、そのかしましいこと。
「はいはーい、ちょっと通りますねー」
夏樹が先導して夫妻を会場の奥にしつらえたひな壇へと案内する。
「え? あそこに座るの?」
「出雲大社の時みたいだね」
「ほんと、なんか恐縮しちゃう」
と言いつつも、断るわけにはいかないので、2人はちょこんとひな壇に収まった。
「ほんにお似合いよ」
「ひな祭りのようじゃ」
「はーっははは」
神さまは、相変わらず楽しいことが大好きだ。
こうして始まった、変則シチュエーションディナー。
主賓の2人には食前酒から始まる料理が順に運ばれてくるのだが、神さま方は参加者が多すぎてそういうわけにはいかない。なので、いつぞやと同じようなビュッフェスタイルだ。
ただし、そこはそれ神さまのこと、座席は豪華なテーブルと椅子だったり、ちゃぶ台だったり、どこまで続くのかと言うような長テーブルだったり、それがころころと様変わりしたり、もうお気の向くまま嗜好のままにされている。
「次の品は〈アレンのまかない〉です」
そして、2人に料理を運んでくれるのは、シフォだ。
「ありがとうシフォ、でも、あなたまで動員しちゃって、ごめんなさいね」
由利香が申し訳なさそうに言うと、シフォはいつものようにキュッと微笑んで言う。
「いいえ、私はヤオヨロズさまのお手伝いをしているだけですし。なによりヤオヨロズさまがとても楽しそうなのが、私には喜ばしいことですので」
「ありがとう、そんな風に言ってくれるとちょっと肩の荷が軽くなるかな」
おどけたように言う椿が、「それにしても」と、感心したように料理を見る。
「レトロの日の料理がディナーになると、こんなに綺麗な盛り付けになるんだな」
「そりゃあ、ディナーですもん」
「なにその理由。まあいいか、頂こう」
「はーい」
料理を口に運んだ2人が、「美味い!」「んー美味しい」と顔をほころばせると、それを見ていた神さま方も、また嬉しそうにするのだった。
そうこうするうち、宴も終盤。
食後の飲み物を楽しんでいると、ドアが開いて『はるぶすと』のシェフたちが顔を見せる。
すると。
「おお~もう一組の主役じゃよ~」
「今日はほんにありがとうな」
「どれもこれも、美味かったぞえ~」
「やんややんや~」
またやんやの大騒ぎだ。
部屋の一番奥にしつらえられたテーブルから、椿と由利香が苦笑いで手を振っている。
夏樹が嬉しそうに、冬里がニッコリ微笑んで彼らに手を振り返す。
「お、来たか。……シフォ」
彼らを認めたヤオヨロズが、シフォを呼ぶと、シフォは「こちらへ」と、3人を誘導する。すると向かう先に一段上がった舞台のようなスペースが現れた。
見ると、神さま方がいたテーブルは片付けられ、椅子に座っていたりあぐらを掻いて宙に浮かんでいたり。中には寝転んで宙に浮いている方もおられる。
「本当に神さまって、自由奔放なんだな」
椿が感心したように言うと、由利香も笑っている。
3人が舞台に立ったところで、《あまてらす》が音もなく降りてきた。
「さて、今宵はそなたたちにずいぶん手間をかけさせた。その恩に報いて、特別ゲストを呼んである」
そう言って手のひらを向けた先に、人の姿が浮かび上がってきた。
「お、もう着いたのか?」
聞き覚えのある懐かしい声。
そこにいたのは、
初代、アレン・エインズワース。
シュウと夏樹の師匠その人だった。
目を見開いて信じられないような顔をしていた夏樹が、はっと我に返る。
そして。
「predecessor!」
夏樹は走り寄って行き、思わず彼に抱きついた。
「おっととと」
それをがっしりと受け止めたアレンは、大笑いだ。
「ハハハ、相変わらずだなあ、夏樹は」
夏樹の頭を撫でつつ目を向けた先に、こちらも珍しく大きく目を見開いたシュウがいた。
「アレン……」
そのまま声にならないシュウを見て、アレンは大いに苦笑いだ。
「なーんだよ、その辛気くさい顔! ほれ!」
アレンは夏樹に捕まったままそちらに歩み寄ると、いきなり自分より背の高いシュウの頭に手をやりガシガシとなで始めたのだ。
けれど頭をガシガシされたシュウを見てびっくり。
あのシュウが、楽しそうに笑っているのだ。いやいや、いつもの止まらない大笑いではなくて。
子どものように無邪気な笑顔で、本当に嬉しそうに。
「お、ようやく笑いやがった。どうだ、修行ははかどってるか?」
「はい! もちろんっす、けど、アレン、アレン……、うぇーん」
シュウの代わりに答えた夏樹が、今頃になって大泣きをはじめる。
「なんだよお、お前まで。困ったもんだ」
そう言って夏樹を受け止めたまま困ったようにしていたアレンが、何かを思いつく。
「お、そう言えば、何か料理をリクエストしてくれたんだって? 今ここで作ってやるから泣きやみな」
その言葉で、夏樹の涙がピタリと止まる。
「お?」
「はい! お願いします。で、出来ればコツとか伝授しといてください!」
「ああ、なるほどな。よーしわかった、こい!」
「はい!」
「シュウもだぞ」
「……はい」
かすれたような声で返事をしたシュウは、人知れず目尻を拭うと2人の後から歩き始めた。
言わずもがな、舞台の上にはいつの間にかキッチンが現れている。
「ふうん、ここはそうするんすね」
「ああ、これをするのとしないのとでは、出来上がりに雲泥の差がある」
「なるほど」
料理のコツは夏樹に任せておけば間違いないだろう。シュウは少し離れたところから、2人の様子を、とくにアレンをその目に焼き付けるように見つめ続けるのだった。
「どうした?」
その3人を眺める冬里に、ヤオヨロズか歩み寄って聞いた。
「師弟愛は、美しきかな、って思ってたんだよ」
「はは、お前も師匠に会いたくなったか?」
「うーん、会いたいけどうるさいだろうなあ、あのじいさん」
「そうか?」
「では、もう一組の特別ゲストを呼ぶことに致そう」
ニヤニヤ笑うヤオヨロズの向こうで声がした。
《あまてらす》がひらりと袖を振ると、その向こうにうるさいじいさんの姿が現れた。
「おお! 九代目!」
それは〈料亭紫水〉七代目、紫水院 伊織その人だ。冬里の姿を認めて、なんと! じいさんに似つかわしくないスピードで走り寄ってくる。
「あれ、ホントに呼んじゃったの?」
「なんや、わしに会えたのに、ちっとも嬉しそうやないなお前」
「ううん、嬉しいよ~」
ニッコリ笑う冬里のその頭に、ふいに誰かの手が乗せられた。
「相変わらずだね、冬里は」
はっとした表情で、手の主を見つめる冬里。
「八代目……」
そう、そこにはなんと、若くしてこの世を去った八代目の姿があった。
あの頃と変わりない様子で、優しく微笑んでいる。
「なんか……、元気になった?」
「? ああ、皆がとても良くしてくれるからね。冬里は変わらないね」
「ふふ、消えるまでこのままだよ」
このやり取りの間、八代目と呼ばれたその人は、冬里の頭をなでたり肩に手をやったりしている。お世話されるのが嫌いな冬里なのに、彼に対してはちっとも嫌そうではないのだ。
「そうか、良かった」
「わしにも頭、なでさせてくれんか」
すると、羨ましかったのか、七代目が冬里の頭に手をやろうとして、見事にすり抜けられた。
「やだよ、七代目しつこいんだもん」
「なんやとー」
そのあとは3人で楽しそうに笑っている。
その情景に、目を丸くする夫婦がいる。
「なんて言うか、ちょっとびっくり」
「ああ」
「あんな子どもみたいな鞍馬くん、はじめて見た。冬里だっておとなしく頭をなでられてるし」
「そうだね。彼らが俺たちに見せてる顔って、きっと現代に合わせた顔なんだろうな。その時代時代で、巡り会う人も、社会も変わるだろうし」
「ただ」
「ん?」
「夏樹だけは、あんまり変わってなさそうね」
その由利香の言葉に、椿も大いに納得するのだった。
大賑わいだったディナーもそろそろお開きの時間だ。
それぞれの師匠と存分に時を過ごした彼らが、それぞれに別れを告げて通常業務に戻る。
アレンも七代目も八代目も、きびきびと無駄なく動く彼らを安心したように見やると、それぞれの居場所へと戻っていった。
「私たちも片付け手伝いましょうよ」
由利香が言うのに、椿も当然という顔で頷いている。
けれど。
「そなたらは、今日の主賓。無事に今宵の宿へ送り届けるまでが、私たちの仕事ぞ」
なんと、神さまの1人がそう宣言すると、2人は絢爛豪華な御所車に乗せられていた。
しかもそれは、しずしずと空を飛んでいる!
「え? なんなのこれ」
「えーと、たぶんだけど、神さまの手配してくれたタクシーってとこかな」
椿が自信なさげに言うと、「なにそれ」と、由利香が楽しそうに笑う。
「あ! 椿! 由利香さん! エンタープライズホテル、楽しんで下さいね!」
笑い声でこちらに気が付いた夏樹が、大きく手を振って言ってくれた。
「もちろんだぜ」
「ありがとう」
手を振り返す先には、冬里とシュウもいる。
アニメネズミも、可愛く手を振っている。
そしてそして、
「やんやあ」
と、これまた大賑わいの神さま方が、扇子を振ったり舞を舞ったりしながらお見送りをしてくれたのだった。
エンタープライズホテルの車寄せ。
まさかあのまま、御所車のままで空から降りてくるんじゃないかと心配していた由利香たちだが、そこはそれ、御所車はきちんと高級ハイヤーの姿に変わっていた。
「いらっしゃいませ」
走り寄ってきたドアボーイがドアに手を当てて、2人を下ろしてくれる。
「ありがとう、……え?」
当然ながらシフォが運転しているものと思って、お礼を言うために振り向いた由利香が驚く。
運転席にいたのは、パリッとしたスーツなんか着こなした、ヤオヨロズだったのだ。
「お疲れ様でした。……どうだ驚いただろ。いっぺんやってみたかったんだよなあ、こういう運転手」
ニイッと笑って手を振ると、ヤオヨロズの運転する高級ハイヤーはあっという間にそこから走り去ってしまう。
ぽかんとしてそれを見送っていると、後ろで声がした。
「いらっしゃいませ、エンタープライズホテルへようこそ」
大きく開かれた扉と、挨拶するホテルの執事と。
我に返った由利香に微笑みかける椿。
「行こうか」
椿に手を取られて、由利香は夢心地でホテルの中へと吸い込まれて行くのだった。
空にはまあるいお月様が、いつもより美しく輝いていた。
色んな事がありますが、『はるぶすと』、明日は定休日です。